MIND SEEKER

1989年4月18日発売/ナムコ/4点

 人は誰でも、自分に無いものを持つ人に憧れます。
 もっとも解りやすい例は、ブラウン管の向こう側にいる俳優やスポーツ選手への憧れでしょう。演技力や運動神経もそうですが、それ以上に、一般大衆に過ぎない自分達にはない、彼ら・彼女らの持つ独特の“華やかさ”に憧れるのです。
 しかし、彼らには、まだある程度の“身近さ”があります。彼らは宇宙人でも違う生命体でもなく、私達と同じ人間であり、一般大衆以上の、もしくは一般大衆とは異なるアプローチで努力し、研鑽を積んだ結果、ブラウン管の向こうで活躍しているからです。

 しかし、俳優やスポーツ選手という概念が生まれる遥か昔から、我々一般の人間と身近な存在であり、かつ一般の人間から畏怖と尊敬を持って遇される人たちがいます。

“超能力者”です。

 彼らは努力や修練によらず、そもそも普通の人が持つこともなく、操ることも出来ない、完全なる異能異種の能力を持つが故に、耳目の興味と畏怖と尊敬の対象にされてきました。

 現在で超能力と言うと、いわゆる「PK(念動力)」と「ESP(超感覚)」の二種類を指し、これらを扱う人を「超能力者」と呼びます。彼らは人にはない能力を持っている(あるいは、持っているように見せる術に長けている)故に、有名人となることが多く、一部はすっかりテレビでタレントとして持て囃されています。
 これは別に現代に限った話ではなく、古代においても、イエス・キリストやモーセ、ムハンマドなど、多くの歴史的人物が、生き神として、また神の使徒として、超能力としか思えない(それもド外れた天変地異レベルの)“奇跡”を多く起こし、人々に敬われ、そして畏れられていたというのは、聖書やコーランを読むまでも無く、(その奇跡が事実かどうかは兎も角)広く知られていることです。

 もちろん、一般人がアイデアと技術を武器に空想を生み落とすゲーム界でも、超能力者は欠かせぬファクターです。
 アドベンチャーでは「To Heart」の姫川琴音、シミュレーションでは「サクラ大戦」のアイリス、格闘ゲームでは「KOF」の麻宮アテナや「サイキック・フォース」の面々など、努力して探すまでもなく、それこそ山のように超能力者は存在します。
 彼らは“超能力”という壮絶な個性故にストーリーのアクセントにし易いため、ちょくちょく登場させられます。
 ぱっと思い浮かぶキャラが、みんな前世紀のゲームのキャラ、というのはちょっと私的に問題かもしれませんが。

 しかし、どこにでも(「性能的」にではなく「性格的」に)変わった人というのはいるもので、空想の産物として超能力者を登場させるだけでは我慢できない会社がありました。
 すなわち、超能力者として生まれることが出来なかったのなら、今からでも超能力者になっちゃえ!という、極めてチャレンジブル、かつ極めてアグレッシブな企画を通しちゃった、この超能力者養成ソフト、マインドシーカーです。

 本作はいわゆる「クソゲー」「バカゲー」の世界では、大抵どの資料にも載っている、基本中の基本、古典中の古典です。しかし、正しく言い表すのならば、本作は「クソゲー」でも「バカゲー」でもないと私は思っています。
 だって、普通の「テレビゲーム」というものは、どんなに酷い内容、どんなに酷い出来でも、少なくとも一般の購買者がクリアする事を前提に製作しているものですが、本作はその点から違います。
 なんたって、「超能力者養成」ですから、ゲーム内での行動の全てが超能力を使用。使用するのは殆どAボタンのみですが、一般の人間が普通の解法で解くことが殆ど不可能。
 つまりゲームじゃねーだろコレ

 ゲーム内でプレイヤーにアドバイスしてくれるのは、“本物”の超能力少年(自称)として1970〜80年代にテレビで大人気だった清田益章氏(ゲーム内では「エスパーキヨタ」)。彼の導きによって、我々は超能力者予備軍としてサイパワーを磨きます。

 ゲームの舞台は、超能力者達が住む「City」。我々予備軍は最初は街に出ることすら出来ず、「スクール」に監禁されています。街に出るには、数々の超能力訓練をこなさなければならないのですが、

「このカードの裏に描かれているマークを透視せよ」
「念力でドアを開けよ」
「念力でライトを点灯させよ」
「どのランプが点くか、予知してみせよ」

 わかるかー!
 しかもプレイヤーのとる行動は全て、念を込めてAボタンを押す、これだけ。
 完全に運、というか、ただのランダムーッ! ム―――ッッ!!

 いや実際、キッツい仕様ですよコレ。本当に完全に運なもので、当てようと思って当てられるもんでもなく、最初は真面目に念を指先に込めてやってみるものの、テンパり始めて脳内で攻略法を無駄に捏造した挙句、最後は無言で連打。
 もう既に超能力でも何でもありません。

 それらの関門を突破し、ボロボロになりながらようやく街へ。
 しかし、街の人に話しかけても、サイパワーを証明しなければ会話もしてくれません。
 即ち、
「5つの噴水のうち、次に水が出る場所を予知してみせてください」
「箱の中身を透視してください」
「次に通る車の色を当てなさい」
「リンゴを念力で動かして見せてください」

 こ、これスクールとなにも変わらな……ゲフッ。

 つまり、超能力が無ければこの「City」ではサイランド(街に四つしかない施設の一つ。ゲーセン。もちろんゲームをするには超能力が必要)で遊ぶどころか買い物も出来ない、人間扱いすらしてもらえないというこの事実。
 ホームレスどころか犬以下の扱いで、人間扱いしてもらいたい一心で、必死にAボタンに念を込める様は、まるで福本伸行の「賭博破戒録カイジ」に出てくる地下労働施設そのまま。
 カイジがキンキンに冷えてやがるビールに感動したのと同じように、超能力に成功して市民が自分を相手に話をしてくれる、そのことに感動してしまう始末で、もう何のためにこのゲームやってるのかさっぱりわかりません。

 さて、そうやって超能力に成功するとサイパワーが溜まり、レベルアップしていくわけですが、我らがエスパーキヨタは、そのたびに意味深な言葉を残していきます(後述)。

“超能力”という人とは違う能力を持つこと、持ち続けることがこれほど辛いのならば PSYサイなどいらぬ! 普通の人間であることが本当に幸福なことなのだと、このゲームをプレイしてて思います。

 実際に、ゲームの世界でも、例として出した前述のキャラクターは皆、お世辞にも幸福とは思えない境遇にありました。姫川琴音はその特異な能力が原因でいじめの対象となり、アイリスは娘の能力が世間にバレるのを畏れた両親の手によって古城に監禁され、サイキック・フォースの面々はその殆どに悲劇的なストーリーやプロフィールがあります。
 このゲームのナビゲーターである(自称なりとも)“本物”の超能力者で「あった」清田益章氏も、マスコミで大々的に取り上げられて人気を得た結果、周囲の人間が清田益章という「個人」に寄ってくるのか、それともスプーン曲げという「行為」に寄ってくるのか解らなくなって精神を病み、ドラッグに走ったそうです。
 2003年に「脱・超能力者宣言」をして「超能力を辞めた」清田氏は、イベント会社を立ち上げたり、牧場や農場を備えた宿泊設備を作って自給自足の生活を目指す「楽園化計画」なるものに着手したりしていましたが、2006年10月、大麻取締法違反容疑で逮捕され、懲役一年、執行猶予三年の判決を受けています。

 現実・空想、いずれの世界に関係なく、「超能力」という絶大な力を「持ってしまった」人たちは、果たして幸福な夢を見続けることが可能なのか――。
 残念ながら我々一般人には、永久に反証不可能な命題です。

(なお、清田益章氏に関しては、日笠雅子「超能力野郎」(扶桑社)や森達也「職業欄はエスパー」(角川文庫)が詳しい)

(2007.04.10)


 ちなみに、エスパーキヨタの「予言」はこんな感じ。

 ……なんというか、まあ(笑)。
 でも、超能力の存在はともかく、この言い方は上手いなあ、と思いますね。
 氏が時間の粒を感じていようがゼネフとやらとコンタクトしてようが、私たちには直接関係ないことだし、1993年にエスパーが大量に出現したって、自分から名乗り出なきゃ一般の人にはわからないわけだし、科学と超能力が一つになったって、一般人には確認のしようがないし、人口が1億まで減少するのがいつなのかはわからない。

 要するに、「確認のしようのないこと」や「どうでもいいこと」を、それっぽく並べてるだけ。

 これって、時々「と学会」のトンデモ本レビューあたりで話題になる「偽預言者」のやり口と一緒です。
 ツッコミを入れられるかもしれない要素を慎重に取り除き、かつ、微妙に恐怖や凄さをあおる様なフレーズを入れる。類稀なこの話術も、一つの超能力といえるかもしれません。