☆URIEN's MANIFEST
この地球に巣食う凡俗どもよ、よくぞやってきた。ここは圧倒的神性、かつ剛健的思想を持ち、この世のありとあらゆる健全さを極めた余ことユリアンが、この世の問題にいかように対処し、どのように地球の支配を行っていくか、その方向性を示した書を、WEBサイトとして貴様ら凡俗どもにも理解できるよう公開するものである。 | ||
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☆余を理想とする世界を実現するためのマニフェストである。
さておいてわれわれを取り囲むもろもろの事実に比較と推論の光をあてようと思う。
ここに余が提案したいのは、二つの視点、われわれ自身の視点と逆徒(すなわち余に逆らう者ども)の視点から見たわれわれの体系である。
悪い本能をもった人間の数は、善い人間の数をはるかにしのぐ。
余は指摘しなければならない。
かれらを統治するには、学者ふぜいの論議によってではなく、暴力とテロリズムによって達成することが、最良の方法である、と。
どんな人間も権力をめざし、誰も彼もができることなら独裁者になりたがる。
わが身の利益を手中にすることを抑えて、万人の利益のためにわが身を犠牲にしようという者は、めったにいるものではない。
人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であったか。
今までかれらを牽引してきたものは何であったか。
社会の仕組みが始まった頃には、かれらは残忍で盲目的な力に服した。
後には、法律に服した。
法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。
余は、自然法則に従って、権利は力の中に横たわっていると結論する。
政治的自由は単なる思想であっていささかも事実ではない。
が、政権をもっている党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつける必要があれば、その撒き方や使い方を知っていなければならない。
その際、相手方が自由思想、いわゆるリベラリズムに感染していれば、そして、思想のためになら喜んで全力を投げうつつもりあるならば、仕事はさらにやりやすくなる。
この場合には、われわれの所説が勝利することは目に見えている。
支配の手づながゆるめられると、直ちに新しい手に手づなが執られるのは、自然法則のおもむくところである。
国家は盲目な力であって一日たりとも指導者なしにはすまされず、新しい権力者は単にすでにリベラリズムによって弱められた前任者の地位に座るだけだからである。
われわれの時代には、リベラルであった支配者の位置にとって代るのは資金力である。
かつては信仰が支配した時代があった。
自由思想は誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。
ゆえに、実現不可能である。
人民を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を与えるだけで十分である。
与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、かれらの権威は一山の灰燼に帰するであろう。
国家が内乱によって消耗するか、内部不一致のために外敵の手中に落ちるかでは、どのみち、その国は回復できず滅亡するほかはない。
その時こそ、われらの出番である。
完全にわれわれの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なくかれらはそれに縋りつかなければならない。
拒めば、底に沈むのである。
リベラルな考えをもっている人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、余は次の問いを投げ返したい。
どの国も両面の敵をもっているとする。
外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれなければならないのか?
愚にもつかぬものではあっても反対とか批判とかはありうるし、うわべのことにしか理性の力が働かない人民は、反対ということを喜ぶものである。
かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けをかりてうまく大衆を導く希望をもてるのだろうか?
もっぱらあさはかな情熱、つまらない信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われている間違いだらけの人々は党派根性にとらわれる。
そうなると、完全に理の通った議論を基にしたどんな合意をも妨げる。
群衆の解決というのはどれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中にアナーキーの種子を蒔くという奇妙な解決策を導き出す。
政治は、道徳とは全く関係がない。
道徳で統治する支配者は練達の政治家ではないから、彼の王座は動揺する。
支配したいと思う者は(われわれが所有するマスコミに感謝する)気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いなければならない。
率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳である。
それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。
そのような資質は、われわれ王国の属性でなければならないが、われわれは決してかれらの轍を踏んではならない。
われわれの権利は力の中に横たわる。
権利≠ネる言葉は抽象的な思考であって、なんら具体性はない。
その言葉は次のことを意味するに過ぎない。
「わが欲するものを我に与えよ。我が汝らよりも強きことを証せんがために」
権利はどこから始まるか?
どこで権利は終るか?
権威の仕組が薄弱で法律が空疎であり、リベラリズムの乱用により権利を乱発し支配者たちが脆弱となった国家ならどんな国でも、余は新たなる権利を行使できる……強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、リベラリズムの中で放棄されてわれわれに残されたかれらの権威ある権利を継ぐ王者となる。
すべての形態の権力が動揺している現在、われわれの権力は、他のいかなる権力にもまして目に見えないであろう。
いかなる狡猾な者もくつがえせない強さに到達する瞬間まで、われわれの権力は表面には現われないからである。
われわれが目下用いざるをえない一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現する。
この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組を平常の状態に修復するだろう。
結果は手段を正当化する。
しかしながら、われわれの計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかにはこだわらないことに留意しようではないか。
われわれの前には戦略的に敷かれた計画がある。
数世紀にわたるわれわれの辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されない。
満足すべき行動を練りあげるためには、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、かれらの理解力の欠如を考慮に入れ、かれら自身の生活状況、あるいはかれら自身の福利を顧慮する必要がある。
群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえないということを理解しなければならない。
盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは必然である。
群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然である。
幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせているABCを理解することができるのである。
人民が人民に任せれば、すなわち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。
人民群集がおだやかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心をごちゃまぜにしている国の諸問題を処理することが可能だろうか? 外敵に対して自分自身を守ることが可能だろうか? それは考えられない。
群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能となるからである。
全体を適切に国家のいくつかの部分に割り当てるといったふうに、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけである。
このことから、どんな国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られる。
絶対的な独裁なしには、その人が誰であろうとも、群集によってではなくかれらを指導することによって遂行される文明の存在はありえない。
群集は野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮さを発揮する。
群集は自由を手にしたとたんにいち早くアナーキーに転ずる。
アナーキーそれ自体は野蛮の最高の段階である。
飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった動物どもを見よ。
自由がかれらに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。
それはわれわれやわれわれ一族の歩む道ではない。
逆徒はアルコール飲料に酔いしれ、かれらの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長する。
その性的堕落は、われわれの特別な代理人……富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしば逆徒の娯楽場にいるわれらの女性たちによって手ほどきされた。
かれら代理人の最後に、余は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておく。
われわれの合い言葉は「力」と「偽善」である。
特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されているならば、力のみが政治的諸問題を克服する。
暴力は原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとしない政府に対しては欺瞞と偽善が鉄則でなければならない。
この悪は終局である善に達するための手段にすぎない。
それゆえに、われわれは、目的達成のために役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りをためらってはならない。
政治の上では、支配権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていなければならない。
平和的な征服の道を進んでいるわれわれの国家は、盲目的な服従を強いるために恐怖を維持する必要から、目につかないけれども効果のある死刑宣告をもって戦争の恐怖にとって代える権利をもっている。
仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力である。
単に利益を得るためのみならずわれわれの義務としても、また、勝利のためにも、われわれは暴力と偽善による計画を保持し続けなければならない。
報復主義は使われる手段と同じく、有無を言わさず強力である。
それは手段そのものであるというよりも、われわれが勝利し、すべての政府をわれらの超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。
われわれは容赦なく不服従というものを根絶することを、十二分に思い知らせる。
はるか以前の時代にさかのぼれば、われわれは人民群集の中にあって「自由、平等、友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であった。
以来、幾度となく愚かなオウムたちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由を、この餌をもって破砕し去った。
逆徒のうちの賢者になりたがり屋ども、知識人たちは、もともと中味のないこれらの言葉から何も作りだすことができなかった。
これらの言葉が意味するものと相互関係とを否定することには考え及びもしなかった。
どこをどう見ても平等はなく、自由などありえず、自然そのものはその掟に従わせるように作られているのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作られていることを見なかった。
群集が盲目であること、支配を頼むためにその中から選挙された成り上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人であること、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられない者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった……これらのことを、逆徒は一切顧みなかった。
しかも一貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからである。
王室以外の者や統治される者には誰にも知らされない政治統治の奥義は、父から子へ一子相伝で伝えられたのである。
時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われた。
これこそ、われわれの主義を成功に導く絶好の機会であった。
地球のいたる所で、われらの盲目の代理人たちのおかげで、「自由、平等、友愛」という言葉が、われらの旗を熱狂的にかざす大群を、われわれの隊列に引き入れてくれた。
これらの言葉はまた常に、逆徒の福利に穴をあけ、いたる所で平和、安寧、協同に終止符を打ち、逆徒の国家の基礎を破壊する生きたエダシャクトリ(果樹の害虫)であった。
後に述べるように、このことがわれわれの勝利を助けた。
とりわけ、われわれが切札を手中にする可能性をもたらした……特権の破壊、言い換えれば逆徒の貴族支配の存在そのものの破壊である。
唯一、人民と国とを守るこの階級は、われわれに敵対したのである。
逆徒の血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、われわれは、金力の貴族が主導する、われらの教育を受けた階級を貴族として樹立した。
われわれはこの貴族政治の特徴を、われわれ自身のものである富と、われらが学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立した。
われわれの勝利をいっそう容易ならしめた事実がある。
好ましい人物たちとの関係を保つことによって、われわれは常に人間の心の琴線に触れ、金銭欲に、貪欲に、人間のあくことをを知らない物質的欲望に働きかけた。
言うまでもなく、これら人間の弱点のひとつひとつには、独創性を麻痺させる効果がある。
この弱点のゆえに、かれらの行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのである。
自由という言葉の抽象性のゆえに、われわれはすべての国の群集に、かれらの政府は国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎないのだ、番人は破れた手袋のように取り替えていいものなのだと説きつけることができた。
人民の代表は取り替えられるものなのだ、ということは、われわれが自由に利用できるということであり、言うなれば、任命権をわれわれに預けたことになるのである。
われわれの目的には戦争は欠くべからざるものである。
が、できる限り、戦争が領土的な利益をもたらさないように仕向けるべきである。
そうすれば、戦争は経済に基盤を置くようになり、各国はわれわれの支配の強力さを思い知らされるであろう。
また、当事国は双方ともわれわれが国境を越えて放った代理人団の思うがままに操られるだろう。
余個人にはどんな制約があろうとも、かれらが百万の眼を持っていて監視するから、身動きがとれないなどというがそんなことはない。
世界にまたがるわれわれの権利は各国の権利を一掃するだろうが、国家の市民法が国民の関係を律するのと全く同じように、普通の権利という意味で、われわれの権利が正確に各国を律するであろう。
われわれが公衆の中から選んだ行政官たちは、奴隷のように従順な資質であるかどうかを厳しく監視され、支配技術に長けた人物にはさせないだろう。
それゆえに、かれらが、全世界の諸問題を律すべく幼年期より養育された助言者……専門家である学識者と天才の手の内にある将棋の歩となるのは容易である。
諸氏もご存知のように、これらわれらの専門家たちは、歴史の教訓や一瞬一瞬の現実の出来事の観察から、われらの政治計画に必要とする知識を体得しているのである。
逆徒は偏見なく歴史的観察を実際に適用することなく、一連の結果に厳しい批判を加えることなく空理空論に走る。
ゆえに、われわれはかれらに一顧も与える必要もない……時が一撃をくらわせるまで楽しませてやろうではないか。
過去の栄光に新しい形を与える希望に生きさせてやろうではないか。
古き良き思い出にひたらせてやろうではないか。
かれらには、われわれが科学が説くところでは=i学説)と吹きこんだことを後生大事にいつまでも守らせておこうではないか。
われわれが一貫して、マスコミを通じて、声を大にしてそれらの学説を盲信させているのは、そのことが目的である。
逆徒の知識人たちはかれらの知識にいい気になり、論理的検証を行なうことなく科学から得た知識すべてを信じこむだろう。
その知識たるや、われらの代理人団たる専門家が、逆徒の心魂を手なづけてわれわれが望む方向におもむかせんがために、巧みに断片を寄せ集めたものなのである。
ここに述べたことは根も葉もないことであるとは、瞬時たりとも考えないでいただきたい。
われわれが仕掛けたダーウィン主義、マルクス主義、ニーチエ主義が、いかに功を奏しているかに注目していただきたい。
われら逆徒にとっては、少なくとも、これらの指導者たちが逆徒の心魂に及ぼしたことどもを直視すれば、事は明白であるはずである。
政治上の、また、行政上の諸問題の方向において些細な誤りを避けるためには、各国民の思想、性格、傾向を顧慮することが絶対に必要である。
われわれの方式はわれわれが遭遇する人民の気質に応じてさまざまに仕組の組み合せが案配されるけれども、もしも現在の光に照らして過去の教訓を集約することを怠れば、この方式の勝利はおぼつかないだろう。
今日の国家は、人民の世論を創り出す強力な力をその手に持っている。
すなわち、マスコミである。
マスコミが果たす役割は、必要欠くべからざると考えられることを指摘し、人民の愚痴にはけ口を与え、不平不満を表明し作り出すことにある。
言論の自由の勝利が具体的になるのはマスコミにおいてである。
だが、逆徒の国家は、いかにこの力を効果的に使うかについては知っていたためしがなく、マスコミはわれらが手中に落ちた。
マスコミを通じて、われわれはその背後にあって、影響力を行使した。
ヴァイスマン博士が、われわれが血と汗の大洋を越えて集結してきたにもかかわらず、金力がわれらの手中にあることを知悉していることは他言を要しない。
われわれは、あまたの同胞を犠牲にしてきたけれども、十分に報いられている。
わが方の犠牲の一人一人は、神の見られるところでは、逆徒一千人に相当するのである。
今日、われわれはあと数歩で目標に到達せんとしていると言ってよい。
横切るべき空間はあとわずかを残すのみであり、われわれが歩んできた長い道のりは、今まさに象徴の蛇の輪を閉じようとしている。
その蛇は、わが民を象徴している。
この輪が閉じられるとき、ヨーロッパのすべての国家は強力な万力によって締め上げられるのである。
当今の国政機構の天秤はほとんど破壊しているも同然である。
なぜならば、われわれが、支点を軸として揺れ動き転回させるべく、正確な均衡を欠くように設定してあるからである。
逆徒はしっかり固定してあると思い込んでいて、天秤が釣り合いを取り戻すはずだと、ずっと期待し続けている。
だが支点……王座についている王たち……は、自分たちで押えが利かず無責任極まりない力に困惑する阿呆の役を演じる代議員たちに取り巻かれている。
この力は、宮殿内に吹き込まれてきたテロルに負うている。
王たちには人民に近付く手だてがない。
まさに取り巻き連中のド真中で王位に就いている王たちは、もはや人民を受け入れ、権力を追い求める者たちに対抗する強い力を与えてやることができない。
明敏な統治権力と人民の盲目の力との間に、双方ともがあらゆる意味を失うように、われわれは深い溝を設けた。
盲人と彼の杖のように、両者は離れ離れにされれば全くの無力となる。
権力を追い求める者たちを煽動して権力を誤用させるため、われわれは、すべての勢力を相対立させ、独立を得ようとする自由主義傾向を鼓吹するように仕向けてきた。
この目的に向って、われわれはどんな形の企てでも指嗾教唆し、あらゆる政党に戦闘準備させ、どんな野望の目的をも権威に対して向けるようにさせた。
国家というものを、われわれは混乱した問題の大群が争乱する競技場と化せしめたのである……ほどなく、混乱と破綻があまねく広がるであろう。
あとからあとから出てくるおしゃべり屋たちが、議場と行政会議の場を討論会場に変えてしまった。
向う見ずなジャーナリストと破廉恥なパンフレット屋が毎日のように政府当局を攻撃する。
権力に対する悪口雑言はすべての制度を転覆させる最後の一太刀となり、ことごとくが狂乱した群集のめった打ちに会って空中に吹き飛ばされるであろう。
すべての人民は、奴隷や農奴として縛り付けられていたかつての時代よりもきびしく、貧困なるがゆえに重い労働の鎖につながれている。
なんとかしてかれらはこの束縛から逃れようとするかも知れないが、この重荷を取り除くことはできず、決して貧困からは脱却できない。
われわれが憲法に書き込んだ大衆に関する権利というようなものは、虚構であって実際に使える権利などではない。
いわゆる「人民の権利」なるものは、単なる観念、実際生活では決して実現されるはずのない観念としてのみ存在することができる。
おしゃべり屋には無駄口をたたく権利があり、ジャーナリストには良いことも書くが阿呆なことを書きなぐる権利があるとして、生活の重荷に打ちひしがれ、重き犠牲に腰を二重に折り曲げているプロレタリア労働者には、何があるというのか。
かつてプロレタリアートは、われわれが説きつけたことに賛成し、われわれが権力の中に潜ませておいたわれらが代理人団の手下に賛成して投票した見返りに、われらが食卓からパン屑を恵んでもらっただけで、憲法からは何の利益も得られなかった……貧者についての共和国の権利とは、皮肉以外の何ものでもない。
なぜならば、ほとんど一日中働いている労働者に必要なものは、憲法を使うことによっては全く与えられないが、その一方で、彼は仲間たちが打つ同盟罷業や主人が行う工場閉鎖によって、確実な生活の資をすべて奪われるからである。
われわれの誘導によって人民は、貴族階級を全滅させてしまった。
人民の福利と密接に結びついた貴族自身の利益のために、貴族階級は人民の唯一の保護者であり養い親であった。
現今では、貴族階級の滅亡によって、人民は労働者の首に残酷無慈悲なくびきをつないだ守銭奴の手中に落ちた。
われわれは、労働者にわが戦列……社会主義者、無政府主義者、共産主義者……に加わるよう提案し、振りかかる圧迫からかれらを救出する救世主を買って出る。
われわれは、われらが組織構成員が言われなく唱えた(人類団結という)兄弟の定めどおりに、一貫して主義者たちを支援している。
貴族は、法律によって労働者が提供する労働の恩恵を受け、労働者たちがよく食べ、健康で、強壮であるかどうかに関心を払っていた。
われわれは全く反対のこと……劣化、逆徒から生命を奪うこと……に関心を寄せている。
われわれの権力は、労働者の慢性食料不足と肉体的虚弱を必要とする。
まさにそうしておいてこそ、彼はわれわれの意のままに従うようになり、われわれに敵対する強さも意志もなくなり、自分たちの権威を見つけ出そうとはしなくなる。
王たちが正当に貴族に与えた権力よりも、さらに確実に労働者を資本の権利に従わせるのが飢えである。
飢えが引き起こす貧困と嫉妬と憎悪によって、われわれは群集を動かし、かれらの手を使ってわれらが行く手を阻む者すべてを掃討するであろう。
全世界の王が王冠を戴く時が至れば、同じ方法を用いて障害となるものをことごとく一掃するであろう。
逆徒はわれらの専門家たちの助言なしには、考えるという習慣を失ってしまった。
ために、かれらは、われらの王国が実現したあかつきには、直ちに採択しなければならない必要欠くべからざることが見えない。
すなわち、公教育の場においては、唯一単純かつ真実の知識、全知識の基礎を教えることが肝要であるということである……それは、人間生活の構造に関する知識、社会存在のあり方に関する知識、労働には分業が必要であり、従って、人々は階級と身分に分かれなければならないということである。
人間活動の実際にはさまざまな差異があって、平等などというものはありえず、なんらかの行為で階級全体に累を及ぼす者と、自分自身の名誉を傷つけるだけの者とは、法律の前では平等の責任を負うはずがないということは、万人が心得ておくことが肝要である。
逆徒には知らされていない秘密であるが、社会構造の真の知識は、身分とかれ離れた仕事をさせないようにしなければならず、個々人に要求される仕事と受ける教育との落差が悩みの元にならないように、万人に実地をもって示そうと思う。
この知識を完璧に身に付けたあかつきには、人々は進んで権威に服従し国家に指示された仕事を受け入れるであろう。
現状の知識とわれわれが人民を育成してきた方向からいえば、印刷されたものを鵜呑みにし……われわれがかれらに誤りを吹き込んできたためと、かれら自身の無知のおかげとで……これまでに考察した身分という身分に対して、全面的に憎悪を燃えつのらせる。
それは階級と身分の意味を全く理解していないことから来ている。
この憎悪は、経済危機≠フ効果で数倍もの火の手を挙げるだろう。
経済危機たるや為替取引を中止させ、工業を停止させるだろう。
われわれは、自分たちが熟知している隠密な方法を総動員し、すべてわれわれの手中にある金力の助けを借りて、大規模な経済危機を作り出し、それによって全ヨーロッパ諸国の労働者群集をいっせいにまとめて路上に放り出すだろう。
これらの群集は、ただ単に無知であるがゆえに、揺籃時代から羨み妬んでいた連中を喜んで血祭りにあげ、連中の財産を略奪できるだろう。
かれらはわれわれのもの≠ノは手をつけない。
なぜなら、襲撃の時機を知っているのはわれわれであり、われわれは財産を守る手が打てるからである。
われわれは進歩こそがすべての逆徒に理性の支配をもたらすだろうと強調してきた。
われわれの専制は一分の隙もない独裁である。
それがいかに、炯眼厳格な方法によってあらゆる不満を鎮圧し、すべての制度慣習のリベラリズムを麻痺させるかを知るだろう。
一般大衆はあらゆる種類の利権特権は自由の名のもとに生み出されたと見ていて、君主がそれを握っていると思い込み、怒涛のように襲いかかったが、盲人のならいでおのずとあまたの石に蹴つまづく結果となり、案内人を求めて猛進したが、今さら昔の状態に戻ることはできず、われらの足下に全権をゆだねてしまったのである。
フランス革命を想起していただきたい。
それを「大革命」と名付けたのはわれわれであった。
その準備が秘密裡に行われたことを、われわれは熟知している。
あの革命は全面的にわれらの手で遂行した一大事業であったのである。
その時以来、われわれは人民を幻滅から幻滅へと導き、その帰結として最終的には、かれらは、われわれが世界のために準備している、結社の血を受けた専制君主に、われわれにも頼らずしても賛同するに至るはずである。
今日われわれは多国家にまたがる勢力として無敵である。
何ものかが攻撃しようとも、われわれは他の国家に支援されるからである。
逆徒人民の底無しの無気力さ、権力の前には腹這いになって這いつくばるが弱者には無慈悲、他人の過失には厳しく罪悪には寛容、自由社会制度の矛盾は認めようとしないが思い切った専制者の強圧に対しては殉教者のように耐える……われわれの今日をもたらしたのは、逆徒のそれらの特徴に助けられたところが多い。
現在の首相という専制者のもとで逆徒人民は呻吟しているけれども、かつてならその何分の一かの権力乱用でもあれば、王の二十人ぐらいは打ち首にしたであろう。
この現象、同じ性質の事象と見えることに対する人民大衆のこの矛盾撞着はどう説明したらよいのか?
ここには厳然たる事実がある。
現代の専制者たちはかれらの代理人を通じて、人民に向いこうささやくのである。
権力をこういうふうに使えば、国家には害を及ぼすけれども、崇高な目的にはかなっているのだ……人民の生活保護、国境を超えた人民どうしの友情、連帯、平等の権利という目的には。
言わずもがなのことではあるが、かれらは、これらすべてはわれらの統治支配のもとで初めて実現するものだとは言っていない。
かくて人民は正しいものを罰し、不正なるものを許し、前にもまして、望んだことは何でも実現できると信じ込まされるのである。
このような事態のおかげで、人民はあらゆる種類の安定をくつがえし一歩一歩混乱を生み出している。
「自由」なる言葉は、さまざまの人間集団に、あらゆる種類の権力、あらゆる種類の権威、さらには神や自然の掟に対してまで闘争することに入らせた。
このため、われわれがわれらの王国を実現したあかつきには、群集を血に飢えた獣に改造する暴力的概念であるこの言葉を、われわれは、目に触れる辞書からは抹殺するであろう。
獣たちは血をたらふく呑んで腹がふくれると眠り込むので、鎖につなぐのはいともたやすいというのは事実である。
だが、血を呑まさなければかれらは眠らず、引き続き闘争を続けるであろう。
どんな共和国もいくつかの段階を経る。
その最初は、かなたこなた、右に左に攪乱された盲目の群集の狂瀾が猛威を振るってやまないことから始まる。
次はデモゴギー、つまり民衆煽動である。
ここから無政府状態が生じ、無政府状態は必然的に専制に向う……合法的とも明白とも言えない専制、専制の総本山、目には見えず密かに姿を隠し、にもかかわらず目立ってそれと解る、あれこれの秘密組織の手による専制、その活動は幕の蔭であらゆる代理人の背後で働くだけに、手きびしいことでも平気でやる。
それら代理人たちは交代するので、不当に襲われないばかりか、秘密の勢力を効果的に助けている。
しばしば交代するおかげで、長期活動の報酬が節減できるのである。
見えない勢力というものを転覆する位置にあるのはいったい誰か?
ここにこそわれわれの特徴がある。
非逆徒を入れてある組織構成員は、われわれとわれわれの目標の前に立てられた屏風として隠密裡に活動するが、わが勢力の活動計画は、その所在すら人民には全く謎に包まれたままにされる。
しかし、自由が神に対する信仰や人類愛に支えられ、平等思想と結びつかないならば無害なものであり、人民の安寧幸福になんら害を与えず、国家経済の中に居場所があってもよろしいが、平等思想は自然法則にもとるものであって、平等思想が一段下の思想であることは動かないところなのである。
このような信仰をもって、人民が教区の保護のもとにあり、地球に対する神の支配に従う牧師の手に導かれ満足して敬虔に歩んでくれるならいい。
そうでないからこそ、われわれは信仰という信仰をむしばみ、逆徒の心から神の摂理と霊魂なるものを引き離し、代わりに損得勘定と物欲を入れることが絶対不可欠なのである。
逆徒に考えたり留意観察したりする暇を与えないためには、かれらの気持を工業や商業に向き放しにさせなければならない。
そうしてこそ、国民という国民が利益追求に没頭し、そのあげくにかれらの共同の敵に気をとめなくなるだろう。
重ねて述べるが、自由が逆徒社会をきっぱりと崩壊滅亡せんがためには、投機を産業の基礎にしなければならない。
その結果、産業が国土から引き出したものは、いくつかの手を通り抜けて投機に手渡される、すなわち、われらが階級に転り込むであろう。
他人よりも優位に立とうとする激烈な闘争と、経済生活に加えられた打撃とは、薄情冷酷きわまりないな社会を生み出すだろう、いや、すでに生み出している。
かように社会は、政治……宗教など高度のものに対する反発を強めるだろう。
かれらの生きがいは唯一、利益、すなわち金を集めることである。
かれらは金があれば手に入る物質的喜びを求めて、まぎれもなく拝金教徒と化すだろう。
次いで時至れば、高尚な目的のためでもなく、また、富を得んがためですらなく、ただただ特権逆徒憎しのために、逆徒の下層階級は権力をめぐるわれらの競争相手、逆徒の知識人たちに逆らってわれらの指導に従うであろう。
いたる所で腐敗が広まっている社会、富者だけが詐欺同然の悪賢い奇策に富んだ社会、たるみ切った社会、道徳が進んで守られるのではなく懲罰厳罰によって維持される社会、信仰心や愛国心が無国境主義的信念に一掃された社会に、どんな種類の統制支配なら適用できるか?
あとで述べるような専制支配以外に、どんな支配形態ならこのような社会にあてはめられるか?
われわれは社会の全勢力をこの手に掌握せんがため強力に集中化した政府を樹立しようと思う。
われわれは新たな法律によって、国民の政治生活すべてを手加減することなく律しようと思う。
それらの法律は、逆徒が許してきた寛大とか特典とかを一つづつ全部取り潰すだろう。
いかなる時にもいかなる場所でも、行動や言葉でわれらに盾突く逆徒を一人残らず一掃する立場で臨み、専制ということの強力さを遺憾なく発揮するのが、わが王国の特徴である。
余が述べているような専制は、時代の推移にはそぐわないという意見も聞くが、事実は正反対であることを証明しよう。
人民が王は神の意志を純粋に体現した者だと見ていた時代には、なんの不平不満も鳴らさずに王の専制権力に従った。
だが、人民には権利というものがあるという考えをわれわれがかれらの心に植えつけてからは、かれらは王座に座る者を単に普通の人間とみなし始めた。
神権による王≠フ聖油は人民が見ている前で王たちの額から消えうせてしまい、われわれが人民から信仰心を奪った時に、権力の強力な力は飛び散って公共の所有権となり、われわれがそれを押収したのである。
加えるに、巧妙に仕組まれた学説と詭弁により、社会生活の制約やその他ありとあらゆる方便により、あるいは、逆徒にはまるで解らない手段を動員して群集や個々人を支配する技術は、他の技術と相並んでわれらが支配の中枢である専門家がもともと手中にしていたものである。
分析、観察、精緻な計算に育てられ、この種の熟練技術に関してはわれわれには肩を並べる者がいないこと、練り上げられた政治行動と固い結束のどちらかではわれわれの競争相手がいないのと同じである。
いるといえば、イエズス会だけはわれわれと比べられるだろうが、われわれは無分別な群集の目には見える組織として存在するとは信じられないように工夫してきた。
その裏でわれわれは終始一貫秘密の組織を維持し続けてきた。
カトリックの首領であろうと結社の血を受けたわれわれの独裁者であろうと、専制君主は専制君主であることに変わりはない。
が、神の選民であるわれわれにとっては、このことは無関心ではいられないのである。
ほんの一時は、われわれが全世界の逆徒連合にうまくしてやられることもあったやも知れぬが、逆徒の間には今では決して取り返しのつかぬほど深く根を張った不一致があるので、われわれはついぞ危険にさらされずにいる。
われわれは、逆徒を宗教的・人種的憎悪によって個人も国民も対立反目応報を繰り返すように仕組んだ。
このことを過去二千年にわたって営々と積み重ねてきたので、手が付けられないほど劇しいものになっている。
これが、われらに腕を振り上げたとしても、支持してくれる国はどこにもただの一国もない理由である。
われわれに対抗する同盟を結べば自分 が不利になることを、どの国も肝に銘じているからである。
われわれはあまりにも強力である……われわれの力を逃れおおせるものはない。
国家はわれわれの蔭の関与なしには、ほんの些細な協定を結ぶことすらできないようになっている。
Per Me reges regnant.(王は我によりて支配する)。
預言者たちによれば、われわれは世界のすべてを支配すべく神自身に選ばれたのである。
神はわれわれがこの使命を遂行できるように、われわれに天与の才を授けられた。
仮に反対陣営に天与の才が授けられたとしたら、われわれに闘いを挑んでいたであろうが、駆出し者というものはしょせん古くから定着している者には太刀打ちできない。
われわれとかれらのと闘いは、この世が始まって以来見たこともないような熾烈を極めたものとなったであろう。
さよう! かれらの天才は現われるのが遅過ぎたのである。
すべての国家機構を動かす車輪はエンジンが駆動する。
エンジンはわれらの手中にある。
国家機構のエンジンとは……金である。
わが学識ある長老たちが創造した政治経済学は、長期にわたって資本に君主のような威信を与えてきた。
資本、それが束縛なく相携えて力を発揮するには、存分に工業と商業の独占がはかられねばならぬ。
そのことはすでに世界のあらゆる隅々で、見えざる手によって実践に移されていることであり、そのことは人民を圧迫する助けとなろう。
今日では、人民を武装解除させることは、戦争に赴かせることよりも重要である。
さらに重要なことは、われわれの都合からいえば、人民の焔を抑えることよりも燃え上らせることである。
さらに重要なことは、他人の考えを根絶するよりは、その考えをすばやく掴みとりわれわれに都合がよいように翻案することである。
われわれの役員会が採択している原理に次のことがある。
非難によって大衆を意気阻喪させること、抵抗心をかき立てるまじめな思考をさせないようにすること、心の力を空理空論の論争にそらさせること。
いつの時代でも世間の人民は、個人も同様であるが、言論と行動とを混同してきた。
競技場で見ることに満足しているが、約束されたことが実行されているかどうかを考えてみようとする者はめったにいなくて、もっぱらショーを見るだけで満足している。
そこでわれわれは、人民の利益が進歩に向っていると声高く証明するショー団体を作るだろう。
われわれは、あらゆる問題について、リベラルな顔つきを装おって全政党に入り込み、聞き手が嫌になるほど喋り立てて、弁論に対する嫌悪を植え付けるだろう。
世論をわが方に引き寄せるには、あらゆる角度から意見続出させ、相反する説をいくつも並べ立て、ある期間、十分逆徒の頭を迷路に迷い込ませて、一番いいのは政治上のことには何も意見をもたないことだと思い至らせなければならない。
政治のことは一般大衆には解らない。
なぜなら、大衆は自分たちを導く者を通じてしか理解できないからである。
これが第一の秘訣である。
統治に成功するのに必要な第二の秘訣は、次のことにかかっている。
すなわち、広い範囲にわたり国民の欠点、習慣、情欲、市民生活の状態を増殖させ混沌に陥れ、その中にあっては自分がどこにいるのか見当がとれない有様にさせると、その結果、人民相互の理解ができなくなる。
これこそ別の意味でわれらにとっては有利なこととなる。
すなわち、諸党派の中に軋轢の種子を蒔き、まだわれわれに従わおうとしない集団を撹乱し、どの程度のものであれわれわれの仕事を妨害するような個人の企てに対して片っ端から気勢をそぐことになるのである。
個人の企てほどまたとなく危険なものはない。
その裏に天才があろうものなら、このような企ては、われわれが軋轢の種子を蒔いた人民何百万人にも勝る力を持つのである。
われわれは逆徒社会の教育を指導する際には、かれらが何か創意を示す徴候があれば、いつでも気力を失って絶望してしまうように仕向けなければならない。
自由奔放な活動というものは、別の自由奔放さに出会うと無力になる傾向がある。
衝突すると、容易ならぬ精神的打撃、失望、意気消沈が起こる。
これらありとあらゆる手段を駆使して、われわれは逆徒を疲労困憊させたあげく、国境を越えた現実の力をわれわれに提供せざるをえなくなるだろう。
その現実の力は、いかなる暴力も用いることなく、世界中の国家支配力を次第に吸収して、超政府を形作るのである。
今日の支配者たちに代わって、われわれは超国家管理機関という怪物を設けるであろう。
その手は鉗子のようにあらゆる方向に伸び、その組織は巨大な規模に広がり、世界中の人間という人間を制圧せずにはおかないだろう。
われわれは近く巨大な独占を確立し始めるだろう。それは逆徒の巨万の富がすっぽり入るような、並外れた富の貯水池である。政治的破滅に続く時期には、政府の債権ともども逆徒の財産も枯渇するだろう。
御列席の経済人諸君は、この連携作用の趣旨を評価されるのにやぶさかでないと思われる。
あらゆる手だてをつくして、われわれに進んで従う者すべての保護者、恩人を代表するものとして、われらが超政府の重要性を強調しなければならない。
逆徒の貴族は政治的勢力としては死んだ……われわれはかれらに考慮を払う必要はない。
だが、土地の所有者としては、かれらが生活している土地の資源を使って自給自足しているという事実をもってする限り、無害な存在ではあるだろう。
従って本質的な問題は、原価がいくらかかろうとも、かれらから土地を奪うということにある。
この目的達成の最も良い方法は、土地を所有していることが、だんだん重荷になるようにすること……負債で土地を圧迫することである。このためには土地所有の状態を監視し、高慢にさせずに無条件に服従させ続けるだろう。
逆徒の貴族は、生れつき足りることを知らないので、急速に燃えつきたり初めはうまく行っても失敗に帰するだろう。
そうなったらすかさず、われわれは無条件に商業と工業の保護者にならなければならないが、真先になさねばならぬのは投機である。
それは産業に平衡力をつける役割がある。投機産業がないと個人の手中にある資本がふくれて、土地銀行からの負債をなくさせ農業の復活を助けることになるだろう。
われわれが欲するのは、産業に土地から労働と資本を吐き出させることであり、投機という手段で世界の金すべてをわれわれの手に移すことである。
そうしてこそ逆徒は、ほかに生きる理由がなくて生存する権利を得ようというなら、われわれの前にひざまづくほかはなくなるだろう。
逆徒の産業を完全に滅亡させるには、投機の助けを借りて、われわれが逆徒の間で盛んにしてきた奢侈、何もかもを呑み込んでしまう奢侈に対するあくなき欲望をつのらせるだろう。
しかしながら、われわれは労働者には好都合にならない程度に賃金の上昇をはかるだろう。
同時に、農業や家畜飼育が駄目になったから上がるのだという理由を付けて、生活必需品の価格をあげるだろう。
われわれはさらに進んで、労働者を混乱浸し酒漬けにし、それに加えるに、逆徒の頭の良い者たちをすべてこの世から根絶すべくあらゆる処置を講じ、生産の根源力を巧みに深く蝕むだろう。
時期尚早のうちに逆徒に真相をさとられないようにするために、われわれは仮面をつけて、われらの経済学説が精力的に宣伝する偉大な政治経済原理のもと、いかにも労働者階級に役立つかのように情熱を傾けて説き伏せるだろう。
軍事力増大と警察力強化……この二つを欠いては、前述の計画を完成させることは全くできない。
われわれの到達目標は、われわれを除いては、世界のすべての国家には、プロレタリアート群集とわれわれの利益に奉仕する少数の百万長者と、警察官と兵隊たちだけがいればよろしい。
ヨーロッパ全土、また、ヨーロッパとの関係を通じて他の大陸にも、われわれは騒乱と混乱と敵愾心を起こさなければならない。
そのことは、われわれにとっては二重の利益がある。
まず第一に、すべての国々を抑制できる。
われわれが意のままに混乱を作り出し秩序を回復する力を持っていることは、よく知られているからである。
これらすべての国々は、われわれには圧政に欠かせない力があることを見慣れている。
第二に、われわれは策謀を駆使して、政治的手段により、経済条約あるいは借款協定により、すべての国々の内閣の内部に伸ばしてあった糸という糸をもつれにもつれさせるであろう。
このことを成功に導くためには、われわれは交渉協定締結の際に狡猾さと洞察力とを発揮しなければならないが、いわゆる「表向きの言葉」を使うときには、心とは裏腹に正直従順を装おい続ける。
このようにして、逆徒の個人や政府は、われわれが見せてやることなら何でもうわべだけを見るように躾けられているので、われわれを恩人とか人類の救世主と思い続けるのである。
われわれに反抗する国がある場合は、その隣の国から戦争を仕掛けさせ、反逆行動をことごとく叩き潰す位置にいなければならない。
しかし、その隣国も束になって反抗するならば、その折にはわれわれは世界戦争という手段に訴えて対抗しなければならない。
政治上で成功を収める根本原則は、企図を秘匿するにある。
外交官は言行一致してはならないのである。
逆徒の政府は、すでに完成の域に達しつつある、われわれが練り上げた大規模な計画に沿うように行動させなければならない。
何によってかといえば、いわゆる「強国」と称する手段を使い、ひそかにわれわれが吹き込んだ世論というものによってである。
「強国」……それはマスコミである。
その中には、ごくわずか例外はあるが、すでに完全にわれらの手中にある。
ヨーロッパにおける逆徒政府を統制する政策を一言に要約すれば、一国をテロ攻撃してわれらの強力さをすべての国に見せつけることにあり、もしもわれわれに対して総決起することでもあれば、われわれはアメリカ、中国、日本の火砲を向けさせて応戦するだろう。
われわれは、敵対者がわれわれに向って使いそうな武器をすべて備えていなければならない。
われわれは、常軌を逸していると思われるほど大胆かつ不正な裁定を下さなければならない場合のために、言葉の微妙な綾を探し出し、複雑に絡んだ法律用語を駆使して事態を正当化しなけれはならない。
そして、この裁定が最も高潔で道徳にかなったことを法律用語で言っているのだと思わせるように、はっきり述べることが肝要である。
われわれの幹部団は、周囲に全分野の知的人士を従え、その中心にあって仕事をするようにしなければならない。
幹部団は、政界人、老練な法曹人、行政官、外交官、そして決定的に重要なことは、われわれの特別な教育機関で特別教育を受けた人士で構成されるだろう。
これらの人士は、社会構造のすべての機微を知っていて、政治の初歩から要諦までのすべての用語に通じている。
これらの人士は、人間の裏側すべてに通じ、かれらが操作しなければならない人間機微の体系を熟知している。
それらの体系とは逆徒の素質、欠陥、悪習、本質、階級、身分の特徴など、考え方……感じ方の類型を意味する。
言うまでもないことであるが、われわれの陣営の補佐役を逆徒から選んではならない。
かれらは何が目的かを考える苦労をせず、何が必要なことであるかを決して熟考せずに事を運ぶことに慣らされている。
逆徒の役人たちは、書類に目を通さずに署名をしている。
報酬目当てか野望のためかで仕事をしているのである。
われわれは全世界の経済人にわれらの政府を取り巻かせるであろう。
逆徒教育の主たる内容が経済学であるのは、この目的のためである。
さらに、われわれの周囲には、銀行家、産業人、資本家……大切なことは……百万長者といった人たちのきらびやかな群がいる。
実際のところ、万事は金で解決がつくからである。
しばしの間、もはや政府の要職に逆徒兄弟を据えても危険はないという時期まで、その椅子には別の人間を座らせよう。
とかく過去や世評に何かとあり、国民との間に溝がある人間を、である。
その人間がわれわれの意に従わない場合には処刑し放逐しなければならない……かれらが最後の息を引き取るまで、われわれの利益を守らせるために。
われわれの原理を実行に移すにあたっては、諸兄が現に居住し活動している国々の人民の性格を考慮していただきたい。
われわれが作った鋳型で人民を再教育し終らないうちは、一律に原則を当てはめようとしても成功はしない。
しかし、慎重に適用するならばものの十年とたたないうちに、最も頑固な人民でも変わり、すでにわれわれに従っている列伍に新しく加わってくるのが解るだろう。
リベラルな言葉、われらが組織の標語として効果の高い「自由、平等、友愛」は、われわれの王国が到来した暁には、もはや標語としては使わせず、「自由の権利、平等の義務、友愛の理想」というふうに単なる理想主義を表現したものに変える。
これがわれわれのやり方「牛は角を捕えよ」なのである。実際にはわれわれは、われわれ自身以外のものは、あらゆる種類の支配を一掃したけれども、法律上はまだ数多くのものが残っている。
今日では、どこかの国がわれらに対して反抗を示したとしても、われわれの裁量下、われわれの指導下にあって形式的に反抗してあるに過ぎない。
一例として反逆徒主義は、われわれが下層の兄弟たち逆徒を監視するには必要欠くべからざるものだからである。
この問題に関してはすでに討議が重ねられているので、これ以上立ち入らない。
われわれの行動範囲には限界を遮るものがない。
われらの超政府はすでに強力絶大な言葉で現わされている超法規的な状態で存続している……すなわち独裁である。
余は衷心からから申し上げるが、しかるべき時に、われわれは法律を作り、裁判と宣告を行う。
われわれは生殺与奪を実行する。
われわれは全軍の先頭にあって、指導者の軍馬にまたがる。
われわれは意志の力で支配する。
なぜならば、かつて権力を握っていた党派の残党も、今やわれわれに屈伏しわれわれの掌中にあるのである。
われらの手中にある武器は、貧欲、容赦なき復讐、憎悪と敵意に燃える、果てしなき野望である。
われわれから生れるもの、それはすべてを巻き込み行く恐怖である。
帝政復興主義者、煽動家、社会主義者、共産主義者、あらゆる種類のユートピア夢想家といったあらゆる意見、あらゆる主義の人物たちがわれわれの用を勤めている。
われわれはかれらを利用して、あらゆる労役を課している。
かれらの一人一人が、権威の最後の残党まで叩き潰さんがために、現在秩序を転覆させることに燃え上がっている。
これらの行動により、全世界の国々が拷問を受けている。
各国政府はもう止めてくれと手すり足すりし、平和のためならどんなことでも代償に出すからという気になっている。
だが、われわれは、かれらが心底からわれらに服従し、率直にわれらの国際的超政権を受け入れるまでは、平和を与えるわけには行かない。
人民は社会主義の問題を国際的協調という手段で解決する必要を感じて遠吠えを挙げている。
ばらばらに分れた党派はわれらの掌中に飛び込んでいる。
というのは、分立抗争すれば金が要るが、金はすべてのわれらの手中にあるからである。
われわれには逆徒の王たちのうちの「利口な」勢力が逆徒群集の「盲目的な」力と連合しはしないかという懸念があったが、そのような可能性に対する打つべき手はすべて打った。
両者の間でお互いに恐怖の念を抱かせるという防波堤を設けたのである。
このようにしておけば、人民の盲目勢力は相変らずわれわれを支持し続け、われわれのみがかれらに指導者を与え、もちろん、かれらをわれらが目指す目標へと引っ張って行くのである。
盲目的な群集の手がわれわれの指導の手から離れないようにするためには、時々かれらの中に入って直接交流を図らなければならない。
実際にわれわれが自身が行えなければ、とにかく最も信頼の置ける兄弟を通じて行う必要がある。
われわれだけが唯一の権威者となった時には、われわれはそれこそ市場のような所で親しく人民と話し合うだろう。
また、われわれが目指す方向にかれらを向けさせるように政治に関わる問題を指導してやるだろう。
田舎の学校で教えることを誰が点検するのか? 政府や王の特命全権公使が語ることは、直ちに全国に広まらずにはすまない。
それは人民の声によって広まるのである。
破壊すべき時期でない時に逆徒の諸制度を破壊しないようにするため、われわれは巧妙にそっと手をかけた。
そして、かれらの機械を動かしているバネの端をつまんだ。
これらのバネは精妙にしかも秩序正しく動いていた。
われわれはそのバネを混沌放従のリベラリズムに代えた。
われわれは法律の運営、選挙の管理、マスコミ、個人の自由を、原理的にはどうにでも加工できる生存物(人間)の土台である教育と訓練というバネを操った。
われわれは、われわれが教え込んだことではあるけれども、逆徒の若者たちに、われわれには嘘と解っている主義や学説を注入することによって、かれらを翻弄し困惑させ堕落させてきた。
現行の法律については、内容的には変えることなく、単にねじ曲げて反対の解釈をすることによって、結果としては大層な成果を挙げてきた。
その成果は、第一に解釈が法律を覆い隠すという事実に、次いで立法の錯綜した糸から何かを引き出すのは不可能なために、政府の目から法が完全に姿を隠すという点に明かに見てとれる。
法律を文字に拘泥せずに解釈するという学説は、ここに起源がある。
諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしも逆徒が真相を嗅ぎつけたら、かれらは武器を手にして蜂起すると言われる方もおられるようが、それに備えるに西欧においては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する……すなわち、決定的な瞬間が来る前にすべての首都に地下鉄道、大都市の地下通路が設けられ、事到ればそれらの首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばすのである。
本日は前の話と重複することから始めるが、記憶に留めていただきたいのは、各国政府と人民は政事のことはうわべだけしか見ないで満足しているということである。
実際のところ、どれほど逆徒は、かれらの代表者たちが全力を傾けて楽しませてくれる事の核心を把握しているのか? そのことを細部まで考慮に入れることが、われわれの方針にとっては最高に重要なことである。
権力の分立、言論の自由、マスコミ、宗教(信仰)、法の前の平等な結社の自由、財産の不可侵性、居住、徴税(脱税の考え方)、法の遡及力を熟慮するようにすれば、得る所が多いであろう。
これらの問題はすべて、直接手を出したり人民の前であからさまにすべきではないような事どもである。
どうしても直接触れなければならない際には、明確に言い切ってはならない。
現在の法についてのわれわれの原則的な考えを微に入り細に穿って語ることなく、単にさらりと言ってのけるだけに留めなくてはならない。
なぜ沈黙を守らなければならないかというと、原理を明かさなければ、われわれは行動の自由を確保しておいて、かれらの注意を惹くことなくあれこれとそらせるが、一部でも明言してしまうと、たった一言だけで何もかも与えてしまったことになるからである。
群集には一種特別な癖があり、政治力のある天才を尊敬し、そのような人物の悪徳行為に対しては賞賛をこめてこう言う、
「ずるい! ほんとにずるい。だが、頭がいい!」「ペテンだ。しかし、うまいことやったもんだ。えらいこと仕出かすもんだ、大胆極まりない!」
われわれは、すべての国々を新たな重要な機構、われわれが練り上げてきた計画に惹きつけることを期待する。
これが、何をさておいても、われわれが武装し、力を貯え、不退転の意志と絶対的な大胆さを身に付けなければならない理由であり、これがわが活動家たちの手でわれらの行手を遮るものすべてを粉砕することに役立つのである。
われわれのクーデターが成功した暁には、われわれはさまざまの階層の人々にこう言うだろう。
「何もかもが恐しく悪くなり、すべてが我慢できない状態に陥ったが、われわれは諸君がこうむっている苦痛の原因……民族心、国境、身分の違い……を根絶しつつある。もちろん、諸君がわれわれを断罪するのは自由である。だが、われわれが提供するものに挑戦もしないうちに断罪するとしたら、それはちょっと大胆過ぎるというものではないか」
……すると群集はわれわれを讃え、希望と期待にふくれ上がり全員こぞって手を差しのべ、われわれを激励し、われわれを讃える。
人類の一番小さなグループにも、グループごとに集会を催させ同意を取り付けてきた選挙という、われわれが揃えてきた道具立てを使って、われわれは世界の王の座に就く。
このような選挙が、われわれの目的に役立ち、最終的にはわれわれに有罪宣告を下す前に、全員一致でわれわれともっと親しくなりたいと望むようになる。
以上のことを確保するには、絶対的な多数を獲得すべく、階級や資格の別なく万人に投票させなければならない。
知識人や有産者階級だけでは絶対多数は獲得できない。
このように、自分個人が第一という考えを全員に植え込むことによって、逆徒の家族主義や家庭教育尊重心を粉砕し、癖のある考え方の人間は引き離して一掃してしまう。
われわれが操る群集は、かれらを第一線に立たせないし証言の機会すら与えてやらない。
群集は、従順に応待すれば見返りがあるわれわれの話を聞くことだけに慣らされる。
このようにして、群集の指導者としてわれわれがかれらの頭に据えてやった代理人の指導なくしては、どんな方向へも一歩も足が踏み出せないほど総員を一大盲目力に仕上げるのである。
人民は新しい指導者たちが自分たちの生計、報酬、あらゆる種類の利益になることを握っていることが判るから、この方式に服従する。
政府の計画というものは、一人の頭脳で万端出来上っているべきである。
なぜならば、多数の頭で部分部分をばらばらに作らせると、決して確固不動のものにはならない。
それゆえ、われわれは行動計画を知っているのは良いが、その巧妙さ、各部分の緊密な連関性、各要点の隠れた意味を破壊しないようにするには、討議してはならない。
度重なる投票という手段でこの種の労作を討論し修正を加えることは、邪推と誤解の烙印を押すことになり諸計画の進行と結びつきを妨げる。
われわれは計画が強力に適切に仕組まれることを欲する。
ゆえに、われわれはわれわれの指導の天才の労作を、群集やあるいは特別な団体にすら毒牙にかけさせてはならない。
これらの計画は現存する諸団体をまだ転覆はさせないだろう。
それらの経済を変化させるだけで、それによって進歩の動きを全体的に結び付け、われわれの計画に従った道に導くのである。
すべての国々には名前は似たり寄ったりだが、内実は同じものが存在する。
議会、内閣、立法府、評議会、司法府、行政府などである。
こういった機関の相互機能を説明する必要はない。
なぜなら諸兄はどれも御存知のものだからである。
が、一つだけ注意しておきたいのは、ここに名を挙げた機関は、国家の中ではある重要な役割を担っているという点である。
この重要な≠ニいう言葉に御留意願いたい。
これは機関のことを指しているのではなく、その機能のことを言っているのである。
これらの機関はいくつもの部分に分れていて、その全体で政府という機能……行政、立法、司法……を果たしている。
そこでは、分割された機関は人体の臓器に似た働きをするようになっている。
もしも国家機構の一部を損傷すれば、国家は病気にかかり、死ぬことになることは人体と同様である。
われわれが国家機関にリベラリズムの毒を注ぎ込んだら、その政治複合体全体がある変化を起こし、国家が不治の病い……敗血症……に犯され、あとは悶絶死という終焉を待つばかりである。
リベラリズムは立憲国家を作った。
それは逆徒にとっては唯一の安全装置である専制国家に代るものであった。
よく御存知のように、憲法は混乱、誤解、争論、見解の相違、各党派の実りなき煽動等の一切合切の学校……一言にして言えば、これら何もかもが国家の機能を破壊する学校以外の何ものでもない。
「おしゃべり屋」連中の手助けをする護民官は、ほかならぬマスコミである。
マスコミ屋は支配者に怠慢無能の烙印を押し、よって無益無用であると断罪した。
実にこのために多くの国々で支配者が退位させられたのである。
その時であった、共和国時代到来の可能性が見えたのは。
その時であった、われわれが支配者に代えて政府の似顔絵……群集、すなわちわれらが奴隷、われらの人形たちの中から拾い上げた大統領……を置き換えたのは。
これは逆徒の地下に仕掛けられた地雷であった。
敢えて申し上げるが、逆徒の地下に、である。
近い将来、われわれは大統領を責任のある役職にするであろう。
その時までに、われわれは表向きの役には就かず、われらの人格なき人形たちに責任を負わせ続けるだろう。
権力亡者がだんだん少なくなったとしても、われわれの知ったことではない。
大統領のなり手が少なくなり暗礁に乗り上げるとしても、暗礁があろうがあるまいが、国家は最後には崩壊に向って行くのである。
われわれの計画が然るべき成果を挙げるためには、パナマ汚職事件その他のような、過去に隠れた古傷を持っている候補を選んで選挙に臨む……すると、そういう連中は旧悪を暴露される怖さと権力を得た者の常で、すなわち、大統領の地位に付きものの特権と名譽を失うまいとして、われわれの計画達成の当てにしてよい代理人となるのである。
(フランス議会の)下院は、大統領を選出し、援護し、保護するであろうが、われわれは新法案を提案したり既成法案を修正したりする権限を奪ってしまう。
というのは、この権限は責任ある大統領、われらの手中にある傀儡に、われわれが与えるのである。
そうすれば事の成行きとして、大統領の権威は四方八方から攻撃の的となる。
だが、われわれは自己防衛の手段として、人民に呼びかける権限、代議員たちの頭越しに直接人民に呼びかけて決定させる、すなわち、大統領といえども一員である盲目の奴隷……群集の大多数……に呼びかける権限を彼に確保してやる。
そのこととは別に、われわれは大統領に宣戦布告の権限を与えてやる。
それには、国軍の長であり新共和国憲法の責任ある代表者たる大統領は、新共和国憲法防衛の際に備え、軍を自由に動かせなければならないと、説明しておく。
容易に理解されるように、この状況下にあって祭壇の鍵を手中にしているのはわれわれであり、われわれ以外の何者にも断じて立法権を行使させない。
その他に、新共和国憲法を成立させたら、政治的機密保持という名目で政府の処置に対する議会の質問を一切封じる。
その上、新憲法によって議員の数を最少限に抑え、それに比例させ政治的煽動と政治熱を減らす。
だが、めったに起こることではないとは思うが、もしも最少限に縮小された議会が反抗の火の手を挙げるならば、われわれは即刻全人民という絶対大多数に直接檄を発して議会を廃棄するであろう……大統領は上下両院の議長・副議長の任命が杖となる。
通常の議会の会期とは異なって、議員の任期を数ヵ月に縮める。
その上、行政の長である大統領には、議会召集解散の権限を持たせる。
特に、解散した場合は、新議員任命を延期できるものとする。
しかし、われわれの計画がまだ熟成しておらず、実際には非合法の状態でこれら一連のことを全部実行し、なおかつわれわれが立てた大統領に全責任を負わせないためには、大統領周辺の大臣や高官を教唆して、かれらが自分たちの裁量でやったことであり、かれらを身代りにして責任を取らせることで、大統領の責任を回避させる……この件に関しては、われわれは特別に上院、最高行政裁判所、閣僚会議に役割を与えるが、一個人には勧めない。
大統領は、幾通りにも解釈できる法律の意味を、われわれの意図する通りに解釈するであろう。
大統領はさらに進んで、われわれが廃止の必要を指示すれば、法律を廃止することもやるだろう。
その他に、大統領は臨時法を、また、国利国益のためにはこれが必要だと言いつくろって、憲法の枠から逸脱した新しい法案すら提案する権限を持つだろう。
かような手を打っておくと、少しづつまた少しづつ、一歩一歩と破壊する力が働いて、われわれが諸権利を手に入れた当初、ことごとくの憲法を気付かれないうちに無効にさせるために憲法の中に隠し据え、ねじ込んでおいたものすべてが、われらの独裁政権があらゆる政体の政府を束ねる日を到来させるのである。
憲法廃止以前にわれらの独裁者が認められるかも知れぬが、その秋が来ればそれまでの支配者たちの無能無策に……われわれが仕組んだことであるのだが……業を煮やした人民たちは、大声で叫ぶだろう。
「奴らを追放しろ、世界を治めるのは一人でいい。おれたちをまとめて争いの種をなくしてくれ……国境、民族、宗教、国債、そんなものは御免だ……平和と秩序をくれ、今までの支配者や議員が決してくれなかった平和と秩序を!」
だが、諸氏は完璧に理解されていると思う、すべての国々でこのような叫びを挙げさせるには、すべての国々で、紛争、憎悪、闘争、羨望、さらに拷問、さらに飢餓によって、人間性が疲労困憊の極に達するまで、人民と政府との関係を悪化させることが絶対不可欠であることを。
これら悪の予防接種を施すことによって、また欠乏によって、逆徒は金銭その他すべてのことにわたってわれわれの支配下に入る以外のことは考えなくなる。
ただし、もしも世界の国民にホッと一息でも入れさせるならば、われわれが渇望する時は九分九厘到来しないのである。
国家評議会(国政会議)は、いわば、支配者の権威につけた光背であり、立法府の見世物≠フ役割として、支配者が出す法令案を編集する委員会と言ってもよいであろう。
時に、余が用意している新憲法の要項は次の如きものである。
余は、法、権利、正義を確立する。
(一)立法府に示唆するかの如く、
(二)一般法令と見せかけた大統領令、上院の命令、ならびに内閣の命令であるかの如く装おった国家評議会の決議により、ならびに
(三)適切な時到らば……革命という形で。
われわれの行動計画の大綱は確立したから、国家機関をすでに述べた方針に従わせ、革命の完遂を促すべきあれこれの組合せの細目に入ろう。
これらの組合せとは、新憲法発布の翌日からは、マスコミ報道の自由、結社の権利、信教の自由、その他あまたの事柄は、人間の記憶からは永久に抹消されなければならないか、急激な変更が加えられなければならないということを意味する。
われわれが即刻全命令を公布できるのは、まさにその瞬間のみである。
それ以後では、顕著な改革案はことごとく危険である。
その理由は次の通り。
もしもその改革が峻厳さを増したものであり、幾分でも厳格かつ極限まで行ったのもならば、この先どこまで厳しい改革がなされるのかという恐怖で絶望感に囚われてしまうかも知れない。
その逆に、最初よりも緩和した改革案を出すと、われわれが悪いことをしたのに気付いたかのように取られるし、そうなると、われわれの権威不可謬性の威信が失墜するか、われわれが恐れを抱いて譲歩措置をとらざるをえなかったと言われるだろう。
強制的という印象はぬぐえないから、そのためにわれわれが感謝されることはない……以上二つとも新憲法の威信を傷つける。
われわれが人民に叩き込まなければならないのは次のことである。
憲法発布のその瞬間、世界の人民は革命が成し遂げた厳然たる事実に呆然とし、まだ恐怖心と半信半疑の気持に捕われている時から、われわれがすこぶる強力、難攻不落、かつ、十二分過ぎるくらい力に溢れていて、いかなる場合であっても、かれらに一顧も与えず、かれらの意見や意志には一瞥も加えず、いかなるささやかな反抗の表明も示威も、時と所を問わず、一つ残らず粉砕する用意があり可能であり、われわれは取るべきものはすべて取り、いかなる事情にせよ、われわれはかれらと権力を分け合うことはありえない……そうすれば、かれらは恐怖に身震いして何事にも目を閉じ、事の成行きを最後まで見守るほかはないであろう。
逆徒は羊の群であり、われわれは狼である。
狼が羊の群に入ったらどういうことが起こるか、御存知であろう。
われわれの羊が目を閉じるのは、別の理由もある。
われわれが平和の敵を打ち破り、あらゆる反対党派を黙らせたならば直ちにあらゆる自由を返してやると約束するからである……
かれらの手に自由が戻るまでどのくらいの時間を待ち続けなければならないか、お話しする必要はあるまいと思う。
では、何が故にわれわれはこのような政策そのものを立案し、事の真相を看破する時を与えず逆徒の心に吹きつけるのか? 実際のところ、回り道をしなかったとしたら、四散したわれらの種族が直接目的を達成する方法には何があったのか? 基本的には、われわれが作った秘密の結社、かの家畜逆徒が存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかった結社を作ったことが役立った。
逆徒御一同様の目を晦ませるべく、われわれが結社の見世物∴鼾タにかれらを惹きつけておいたのである。
神は与え給うた。
われら神の選民に、離散という贈り物をして下さった。
それは万人の目からはわれらの弱さと映るが、われらの強さは離散より生れ来たったのである。
それが今や全世界支配という戸口に到達している。
今やわれわれが据えた基礎の上に築くべきことは、余すこと僅かとなっている。
自由≠ニいう言葉には、いろいろの解釈があるが、余は次のように定義する……自由とは法律で許されたことをする権利である。
この定義は通常はわれわれだけに役立つ定義である。
なぜならば、法律というものが前に述べた計画に従って、われわれが思いのままに作ったり廃止したりできるものであるから、およそ自由と名の付くものはすべてわれわれの手中にある。
マスコミについては次のように扱う。
今日のマスコミの役割とは何か?
それはわれわれの目的には有利な激情を爆発させ燃え上らせることに役立つ。
さもなければ、諸党派の利己的な目的に役立つ。
マスコミは多くは浅薄、不当、虚偽であり、大多数の人々はマスコミが本来何の役に立つのか考えようともしない。
が、われわれはマスコミに鞍を置き馬勒を付け、しっかりと轡をはませる。
他の印刷物についても同様である。
われわれがマスコミの攻撃から免れても、小冊子や書籍の攻撃の的にされたままだったらどうなるか?
出版物の刊行は、今日ではそれを検閲するとなると大変金のかかることであるが、われわれはわれわれの国家にとって得な財源に変えてしまう。
マスコミ等の発行団体や印刷所に許可を出す前に、特別印紙税と(損害に備えての)保証金を納めさせるのである。
これをやっておくと、マスコミ等のいかなる攻撃からも政府を守ることができる。
われわれに対するマスコミ等の攻撃などがあろうものなら、われわれは仮借なく罰金を科する。
保証の形をとるこのような印紙税、保証金、罰金といった方法は、政府の大いなる財源となるであろう。
政党の機関紙は多額の罰金を取られても平気であろうが、以上の手を打てば、われわれに対して重ねて攻撃をした場合は断乎発行禁止処分に付する。
われらが政府の不可謬性の後光に指一本でも触れようものなら、何びとも無事ですむことはありえないのである。
発行を禁止するには、何ら理由も根拠もなく公衆を煽動したという申立て理由を使う。
一言御注意申し上げたいのは、われわれを攻撃するものの中には、われわれが設立した機関も含まれるということである。
だが、かれらは、われわれが予め改正しようと決めた部分のみを攻撃するのである。
一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない。
現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められそこから配付されるようになっている。
通信社は追って完全にわれわれの傘下に入り、われわれが許可したものだけが一般に供給されるようになるだろう。
今日すでにわれわれは逆徒社会の人心をうまく掌握しており、かれら全員は世界の出来事を、われわれが鼻にかけてやった色眼鏡で眺めているに等しいとしたら、また、われわれには、逆徒の阿呆どもが国家の機密≠ニ呼んでいることに立ち入るのに障碍のある国家なぞ一つも存在しないとしたら、全世界の王という最高の統治者として認められた暁には、われわれの立場はいかがになるのだろうか……
話をマスコミの将来に戻そう。
誰であれ、出版人、司書、印刷人たらんとする者は、その資格免許証を取得することを義務づける。
その免許証は何か過失があれば即刻取り消しとなる。
こうしておくと、思想を伝えることが、われらの政府の手中にある教育手段となるのである。
この教育手段を講じておけば、国民大衆にもはや脇道や、進歩の有難みなどといったたわけた夢の小道に迷い込ませはしない。
われわれの中には、ありもしないその手の有難みは、人民と政府との間に無政府状態を生じさせる妄想に直通する道であることを知らない者がいるだろうか。
如何となれば、進歩、いや、進歩思想は、あらゆる種類の解放運動を激励してきたが、限度ということを弁えなかったのである……いわゆる自由主義者は、実際はともかくとしても思想に関しては例外なく無政府主義者である。
自由主義者のどの一人も自由のお化けを追い求め、まっしぐらに放縦に、すなわち、反対のための反対という無政府主義に陥っている。
定期刊行物の問題に移ろう。
印刷物という印刷物に、一頁につきいくらという印紙税と保証金を課し、三十枚(六〇頁)以下の書籍はその額を二倍にする。
はやりのパンフレットはその部類に入れる。
一方で、雑誌の数は減らす。
雑誌というのは有害印刷物の中では最低である。
他方、著作人たちにあまりにも長大で値段もはるのでほとんど誰も読まないような本を書かざるをえないように仕向ける。
同時に、われわれの利益に適うように世論を導くわれわれ自身の刊行物は廉価で、むさぼるように読まれる。
課税で無味乾燥な作家の野心はしぼみ、処罰が恐くて文筆家はわれわれの軍門に降る。
かりにわれわれに文筆で抵抗する者が現われたとしても、著作物の印刷を引き受けてくれる人間がいない。
出版社が印刷してくれる前に、出版業者や印刷業者が官憲の許可を得なければならない。
これによって、われわれはわれわれに対して向けられた奸計をすべて事前に知ることができるので、それが世に現われないうちに抹殺することができる。
文学とジャーナリズムは、最も重要な教育手段のうちの双璧であり、それゆえに、わが政府は大多数の雑誌の所有主となる。
このことは、独立系マスコミの有害な影響を緩和し、公衆の精神に甚大な影響をもたらすだろう……仮に十のマスコミに発行許可を与えたとすると、われわれは三十に及ぶマスコミ社を設立する。
しかしながら、公衆はそんな事情はゆめ知らず考えてみようともしない。
われわれが発行するマスコミはすべて、見た目には反対の傾向や意見をもち、それゆえにわれわれに対する信頼を集め、われわれにとっては全き疑うことなき反対者を呼び寄せる。
このようにして、われらの敵対者は罠にはまり、牙を抜かれるのである。
最前列に位置するのは、政府機関紙の性格をもったマスコミであろう。
この種のマスコミは、常にわれわれの利益を擁護するが、それゆえに比較的影響は弱い。
第二列に位置するのは、半官半民の刊行物で、なまぬるい無関心層を惹き寄せるのが役割である。
第三列に位置するのは、見た目には全くわれわれの反対者として設立されたもので、少なくともその紙上では、まさにわれわれとは逆の立場に立つように見える論説を掲載するであろう。
そこでわれわれの本当の敵対者は、この疑似反対論を真説と思い込み、自分の手の内のカードを見せてしまう。
われわれのマスコミ全体では……もちろん、憲法が存続する間での話だが……およそ考えられるどんな傾向も……貴族的、共和国的、革命的、さらには無政府主義擁護的なものまでも……持っているだろう……インドのヴィシュヌ神の像のように、これらのマスコミは百本の手を持っていて、その一本一本の手が世論のどれか一つに指を触れる。
脈拍が早くなると、これらの手はわれわれの目的に向って世論を導く。
熱に浮かされた患者は理性の判断力を失い、暗示にかかり易くなるのである。
自分たちの陣營のマスコミの意見を述べていると思い込んでいる阿呆どもは、誰ぞ知らん、われわれの意見やわれわれが望んでいる見解をオウム返しに唱えているだけなのである。
自分の党派の意見に従っていると虚しくも信じつつ、実際にはわれわれがかれらに広げている旗に従っているだけのことなのである。
以上の意味で、われらがマスコミ軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織しなければならない。
中央マスコミ局という名称のもとに、われわれは文筆家の会合を設け、そこにわれわれの覆面の代理人を送り込み、指令と当日の標語を示す。
問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、ただ単に、当初の公式表明を補足する材料を提供する目的で、われわれの機関は、われわれの公式のマスコミに対して見せかけの一斉射撃を浴びせる。
われわれに対するこの集中砲火は、ほかの目的、すなわち、言論の自由はまだちゃんと存在していると納得させ、われらが代理人に、反対者たちはわれわれの指示に対して、実のある反対意見をこれっぱかりも示さなかったからには、われわれに反対する機関はみな空騒ぎしているだけではないかと断言する材料を提供する。
公衆の目には感知されないが絶対確実なこのような組織方法は、公衆の関心と信頼をわが政府に惹きつけておくのに最高の方法である。
この方法のおかげで、われわれは公衆がどう受け取るかによって、必要に応じて時折、政治問題に対する感情を刺激したり鎮静したり、説得したり混乱させたり、今日は真実明日は虚偽、事実に即して立論したと思えばその反論を掲げたりするが、常にわれわれが足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べるのである……われわれの敵対者は、前記の方法でマスコミを操作することができず、十分かつ決定的な意見を開陳するマスコミという最終的な手だてを欠いている以上、われわれの勝利は確実この上もない。
よほどのことでもなければ、反論の必要もないくらいである。
われわれがマスコミの第三列に放つ試射は、必要があれば半官半民の紙上を通じて精力的に駁論する。
フランスマスコミ界のみではあるが、今日でもすでに組織の連帯行動を物語る形態があり標語ももっている。
すべてのマスコミ機関は、結束して職業上の秘密を守っている。
古代の卜占官さながらに、その成員は、過去に解決ずみの問題でない限り、情報源を漏らしたりはしない。
ジャーナリストならただの一人もこの秘密を暴露するような愚挙を犯しはしない。
というのは、どの一人をとってみても、かねて過去に不行跡な事などをしない限りは、文筆仲間に入れて貰えないからである……秘密を漏らしたりしようものなら、直ちに過去の不行跡が暴露されるというものである。
秘密が少数の間でだけ知られている限りは、ジャーナリストの権威は大多数の人々に行きわたり……群集は熱狂的に彼に従う。
われわれの計画は特に地方に及ぶ。
いかなる瞬間にも首府に希望と欲求を浴びせられるよう地方の炎を燃え上らせることが必要不可欠である。
われわれは首府に向って、これが地方独自の希望であり欲求であると焚き付ける。
当然のことであるが、地方世論の情報源というのは、同一無二のもの……われわれが指示しているものなのである。
必要なことは、われわれが十二分に支配力を得るまでは、われわれの代理人団が組織した多数者、すなわち地方の意見で首府を窒息させておくべきである。
必要なことは、決定的瞬間には首府は既成事実をとやかく言える立場にはないということである。
それは単純な理由であって、各地方の大多数の世論が受け入れている事実だからである。
われわれが完全な主権を手中にするまでの過渡期の新体制の時期まで進んだら、もはやどの種類のマスコミにも社会腐敗を暴露する記事は載せさせない。
新体制下では万人が完全に満足しているから犯罪を犯す者はいないと信じさせることが必要である……犯行の真相解明は、被害者とたまたま目撃した者だけに留めておくべきであって、それ以外には必要ない。
日々のパンが必要なために、逆徒は余儀なく沈黙を続け、われわれの従順な召使になっている。
われわれのマスコミが逆徒の中から選んだ代理人に、公文書であからさまに触れるのは都合の悪い問題を議論するようにさせる。
その間、われわれは論議の渦の真中で静かに聞いていて、われわれに必要な部分を取り込み、それから公衆に既定事実として提示するのである。
いっそう改善したものを説明するのだから、何びとも一度定めたことを撤回せよとは言わない……そして間髪を入れずマスコミは世論を新しい問題の方に向けさせる(われわれは人民を何か新しいものを求めるようにずっと馴らして来たではないか)。
頭が足りない運命の小売屋≠スちは自分の議論する問題が髪の毛一筋も解っていないということさえも理解できずに、新問題に飛びついてしまう。
政事の諸問題は、これを考案した大先達、過去何年にもわたって先導してきた人々でなければ、誰も参入できないのである。
以上のことからお解りのように、群集の意見を先導するには、われわれの仕組の働きを良くするだけで事足りるのであり、われわれがかれらに賛同を求めるのは、あれこれの問題についてのわれわれの行動ではなく言説であることに気付かれるであろう。
われわれは常に、希望に導かれ確信に基いてすべての事業にあたり、公共の福利に奉仕しているのであると公言している。
厄介になるかも知れない連中に政事の諸問題に首を突っ込ませないようにするのに、われわれは政事に代わるものを熱心に勧めている。
すなわち商工業の問題である。
この分野でなら、どれほど騒いでもよろしい!
政事に代わって何か没頭できるものがあれば、群集は政治活動の類いから手を放して一服することに異存はない(政治活動は、逆徒政府と一戦交えさせるために、われわれがかれらに施した訓練であった)。
商工業問題においては、われわれは政治そっくりの事をやっているかのように思うように処方してある。
かれらがかかずらわっていることを解き当てさせないように、われわれは娯楽、競技、ゲーム、色事、遊び場をあてがって、更に政事から遠ざける……そのうち、われわれはマスコミを使って芸術、スポーツなどありとあらゆる種類の競争を始める。
こういうことに関心が向けられれば、われわれがかれらと争わなければならない問題から、かれらを完全に遠ざけるだろう。
ますますかれら自身の意見を反映したり形にしたりすることが難しくなるに従って、人民はわれわれと同じ口調で語るようになる。
なぜならば、われわれだけがかれらの考え方に新しい方向付けを示しているからである……もちろん、われわれとは表面的には無関係の人々を通じてであるが。
われわれの政府が承認されると、自由主義者、空想論者の役割は最終的に終る。
その時まで、かれらはたっぷりとわれわれに奉仕し続けてくれる。
そのために、われわれはかれらの頭をあらゆる種類の空疎な内容の空想的理論、今では進歩的と呼ばれる理論の方に引っ張り続けている。
が、われわれは逆徒の空っぽ頭を進歩転換させることに成功したことはなかった。
逆徒の中には、物質的発明の問題ではない所で進歩を追い求めたところで真理からは遠ざかるばかりだということが判る人間はいないのである。
なぜなら、真理は一つであり、そこには進歩が入り込む余地はないのである。
進歩、それは誤った推論に基く思想のようなものであり、神の選民であり、真理の保管人であるわれわれの外には何びとも知らない真理を覆い隠すのに役立つ。
われわれの王国が実現した暁には、われわれの弁士たちは、人類をすったもんださせてきたこの大問題を解義して、われわれの慈悲深い支配の下で結着を付けさせるだろう。
その時になって、これらの人々は一人残らず、幾世紀にもわたり何びとも推測もしなかった政治計画に従って、われわれに踊らされていたのだということを、いったい誰が疑うだろうか。
われわれが王国を築く時は、われらの唯一神宗教以外いかなる宗教の存在も許さない。
われわれの運命は選民としてのわれわれの地位によりその唯一神と結びつき、そのわれわれの運命は神を通じて世界の運命と結び付いているのである。
ゆえに、われわれ以外のあらゆる形態の宗教を一掃する。
その結果、今日見られるような意味での無神論者が誕生するとしても、過渡期に限る現象であって、われわれの目的には妨げない。
むしろわれわれが説く賢人の教えに耳を傾ける世代の前兆として有用であろう。
賢人の教えは牢固として完璧入念なる教義であり、それなるがゆえに世界の全人民をわれわれに従わせてきた。
そこに、賢人の教えの隠された神秘の力があることを力説しよう。
後にも述べるように、賢人の教えの感化力は、すべてその神秘の力に立脚しているのである……次いで、あらゆる機会をとらえて、われわれの慈悲深い支配と過去のそれとを比較する論説を公表する。
数世紀にもわたる震盪動揺の果てに訪れた安穏静謐が、われわれの与えた恩寵によって、さらなる安堵へと高まるのである。
われわれは最もはっきりとした口調で、逆徒政府が犯した過ちを描いてみせるであろう。
われわれがかれらに対する嫌悪の情をそそるので、人民は、かの自由を振り回す権利などよりも、農奴制のような状態でよいから安穏の方を好む。
自由の権利は、人間性に拷問をかけ、まさに人間存在の根源を疲弊させ、人民は自分が何をしているのか解っていない一群のこすからい山師たちの餌食となったのである……われわれが逆徒政権を覆すにあたっては、逆徒を煽動し幾たびか無益な政変を起こさせた。
人民は疲れ切ってしまい、またまた新たな騒動や苦難をかぶるよりも、少々の辛抱をしてもわれわれの言うことを聞いている方がましだと考えるだろう。
同時にわれわれは、逆徒政府の誤ちの歴史を看過容認はしないだろう。
逆徒政府は何世紀にもわたって、人類の真実の善性を構成する要素を何一つ理解せず、錯覚した社会改善を追い求め、その改善の結果さらに悪くなり、人間生活の基盤である一般関係が決して改善されないことに全く気付いたことがなかった。
われわれの原理と方法の総体は、われわれがかれらに提示し解義したように、死に絶え腐敗した古い秩序の社会生活とはまばゆい対照をなす事実の中に横たわっている。
われわれの哲学者たちは、逆徒の種々雑多な信仰の欠陥を洗いざらい論じるが、真実の視点からわれわれの信仰に口をはさむことは誰もやらないだろう。
われわれ以外の誰もこの宗教のことは知らないし、われわれはその秘密を明かすような裏切りはやらないからである。
いわゆる先進文明国の中に、われわれは愚劣極まる、卑猥不潔な、嫌悪感を催おす文学芸術を創らせた。
われわれが権力の入口に立ってしばらくの間は、われわれの演説、集会プログラムと対比させつつ、その種の文学を奨励するつもりである。
こうすると、われわれの高尚な一画とはあまりにも違うことが歴然とするだろう……逆徒の指導者になるべく訓練されたわれら賢人は、講演演説、事業研究計画、回想録、論説著作活動に携わるだろう。
われわれはそれらの作品を用いて、逆徒の人心を感化し、われわれが定めてやった知識を摂取する方向に導くのである。
世界各地に同時にクーデターを勃発させ遂に決定的にわれらが王国に突入し、現存する政府という政府が誰の目にも没落したことが明らかになった時(これが実際に起こるには少からぬ時間、恐らくまるまる一世紀はかかるだろう)、われわれに対する陰謀の類いは絶対に存在を許さないように監視する仕事がある。
このためには、われわれの王国到来に反対しいやしくも武器を執る(手にする)者は一人たりとも容赦なく殺戮する。
秘密結社に類するあらゆる種類の新団体結成もまた、死をもって処する。
われわれが認めている現存秘密結社は、役立つものも役立ったことのあるものも、一率に解散させ、欧州から遥か離れた地方へ追放する。
あまりにも事情をよく知り過ぎた逆徒の結社員にも同断の処置を執る。
なんらかの理由でこの処置を執らなかった者に対しても、追放の恐怖で脅迫しておく。
われわれの支配の中心地である欧州からは、秘密結社員全員を追放に処する法律を作成し公布する。
この決定は変更できず、これに対する控訴は許さない。
逆徒の社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはない。
苦しむ者に一顧だに与えてはならない。
未来の幸福のために苦しみを引き受けさせるのである。
いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、どんな政府でも自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行しなければならない義務である。
支配を揺ぎないものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの……神に選ばれた……から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮していることが要諦である。
人民は大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れないものなのである。
われわれの王国を実現するまでの期間は、われわれは正反対のことを行う。
結社支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れる。
それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからである。
結社の全支部は、われわれだけが承知していて他には絶対に誰も知らない中央管理機構の下に置く。
その機構を構成するのは、われらの学織ある長老たちである。
支部には代表者がいるが、かれらは上記の結社の真の管理機構を覆い隠すために置かれるものであり、標語や計画は蔭の管理機構から発せられるのである。
これらの支部に、革命的分子やリベラル分子をすべて集めてしっかり結び合わせる。
この中には社会の全階層が含まれるのである。
極秘の政治計画なるものもわれわれは熟知しているし、計画が立てられたその日のうちにわれらの指導部の手に入手される。
国際警察や各国警察の代理人はほとんどこれら支部に参加しているが、かれらは不法な者に対して特殊な措置を講じるのみならず、われわれの活動を隠蔽し、しかも不平不満を起こさせる口実を提供してくれるので、われわれにとってはかけがえのない存在である。
秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、かれらを御してわれわれが仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではない。
その世界で何かゴタゴタめいた事が起こったとすれば、あまりにも強固になった団結を破るべくわれわれが少々撹乱しなければならなかった場合である。
だが、計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいないというわれらの下僕が先頭に立っている。
われわれだけが結社の活動を指導し、他の誰にも当らせないのは、極めて当然のことである。
逆徒に至っては無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は何であるかを知っているのは、われわれだけだからである。
逆徒は、通常、かれらの考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らない。
しかも、その自説たるや、われわれがかれらに吹き込んだものであって、本当に自分が考え出したものではないことに気が付きもしない。
逆徒は、物好きからか、あるいは、大きなパイに一口あずかる手段として結社に入ってくる。
中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させるために、耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もいる。
かれらは成功と拍手喝采に飢えているが、その成功や拍手喝采こそは、われわれが気前よく振る舞ってやっているのである。
われわれがそういう大盤振舞いをするのは、かれらが持っている鼻持ちならぬ自惚れを利用するためである。
その自惚れというのは何が原因かというと、自身が口に出している思想は絶対的に自分のものてあり、借り物などということはありえないと自信満々で、われわれが示唆したことを丸呑みにする傾向に起因する……諸氏の想像を越えることであるが、逆徒の最も賢い者を無邪気に自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、いともたやすいことである。
同時に、拍手が止まったに違いないといった些細な不成功であってもかれらは簡単に落ち込みもするし、次の機会には成功させてやると言えば、すぐ奴隷のように卑屈になってくる……際立ってわれわれは計画を実行さえできれば成功不成功を問わないのに、際立って逆徒は成功さえすれば計画はどうなっても構わない。
このようなかれらの心理のおかげで、われわれは大いにやすやすと思うがままにかれらを操れる。
かれらは見た目には虎だが中味は羊であって、風が通り抜けて行く頭の持主なのである。
われわれはかれらに集産主義≠ニいう一種の思想のおもちゃをあてがって、個性の違いをそのおもちゃに吸収同化させてやった。
かれらは、このおもちゃが最も重要な自然の法則を真向うから冒涜するものであることを、一度も考えたことがなかったし、これから先も考えようともしないだろう。
天地創造の初めから、自然は明白な個性の違いを弁えさせるべく、あれとこれとを違うように作ったのである……
こんなにもわれわれがかれらを明き盲目にさせられるというのは、逆徒の頭がわれわれと比較してお粗末である証拠、それも確固たる証拠ではないだろうか。
われわれの成果が約束されているのは、主にこのためである。
それにつけても、なんとわれらの古代の賢者長老たちには先見の明があったことか。
長老がたは言われた、大事に達せんとせば手段を選ぶなかれ、犠牲を厭うなかれ、と……われわれは逆徒という家畜の群にいかほど犠牲が出ようともさらさら厭うものではない。
さりながら、わが民の犠牲も数多くに上ったが、今日われわれはこの地上で夢見ることのできなかったような位置を獲得した。
われわれ全体の数から言えば、われわれの犠牲者の数は比較的少ないが、かれらのおかげで民族の破滅は免れたのである。
何びとも避けられない終局は死である。
どうせ避けられないものならば、新秩序の建設者であるわれわれよりも、建設の邪魔をする人間に早く回してやった方がよろしい。
われわれは、同胞のほかには誰も気付かないように、本人自身でさえも死刑宣告されたことが判らないように巧みに結社を処刑する。
必要とあれば全員あたかも自然死のごとく息を引き取るのである……そのことが解っていても、同胞はあえて抗議はしない。
かような方法を用いて、われわれは結社の中から作戦計画に敵対する者を根こぎにしてきたのである。
われわれは逆徒にはリベラリズムを説くけれども、同時に一方では、わが民やわれらの代理人たちにはひたすら恭順に服させる。
われわれの力が及ぶところでは、逆徒の法律は最小限度にしか適用しないようにしてきた。
法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだリベラルな解釈を駆使して存分に失墜させてきた。
最重要かつ根本的な事項や問題は、われわれの口をはさんだとおりに裁判官が決定し、われわれが逆徒の政府機関に示したことに従って事を裁定する。
もちろん、われわれが直接かれらと接触するのではなく、われわれの道具である人士……マスコミその他の意見として……であるが……上院議員や内閣の中にもわれわれの助言を一も二もなく聞く者がいる。
逆徒の空っぽ頭には、分析したり考察したりする能力、ましてや事態がどういう結果になるかを予測する能力はさらさらない。
逆徒とわれわれの間のこの能力の差違こそが、逆徒の空っぽ頭と対比して、われわれが神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められているゆえんが明白に証明される。
逆徒の目は開いていても何も見ていないし、何も創造しない(恐らく物質的なもの以外は)。
このことをもってしても、自然はわれわれが世界を導き支配するように創造したことが明白である。
われわれが公然と世界に乗り出し、恩恵を施す折には、われわれの法律はすべて、いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるだろう。
そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であり、この原則によって荘重高潔なものとなる。
こうして最高権力者の権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の乱用は行われなくなる。
次席以下の権力乱用は、一人の例外もなくとうてい再犯ができないほど容赦なく峻厳に処罰を受けるであろう。
われわれは国家機構の円滑な運営をはかるために、官憲に対しても事細かに点検するであろう。
一部分の腐敗はあらゆる所での腐敗を惹起する。
一片の不法行為、一片の権力乱用といえども処罰の見せしめを免れさせはしない。
犯罪の隠蔽、行政の怠慢……この種の悪事はすべて、最初に峻厳な処罰を課すれば以後は影をひそめるであろう。
われわれの政権の後光は適切な罰則すなわち、至高の威信に対しての侵害は軽微なものであっても、とりわけ私利と結びついた場合は、厳罰を課することでなければならない。
厳罰を蒙る者は、たとい過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、どんな人間であろうとも許されないのである。
たとえば、裁判官たちは寛容なところを見せたくなるが、それは法の正義を破ることになるということを弁えなければならない。
法は逸脱堕落に罰を課して見せしめにするために作られたのであって、裁判官の徳性を見せびらかすためのものではない……そんなに徳性を見せびらかしたければ私生活でやればいいのであって、人間生活教育の公共の場を使うべきではない。
われわれの法曹人は五十五歳に達すれば現職を退くのである。
第一の理由は、老人は年をとるほど先入観に囚われ易くなり、新しい方向にはなかなか向かなくなること。
そして第二には、人事刷新によって弾力性を確保するのに役立つこと、それによってわれわれの強制力が更に容易に働くようになるからである。
自分の椅子に留まりたい者は、留まるに値するように盲目的に服従しなければならないだろう。
概して言えは、われわれは次のような人々の中からのみ裁判官を選ぶ。
すなわち、自分の役割は法を執行し違反する者を処罰することであって、当今の逆徒が空想するように、国家の教化的な仕組を犠牲にしてリベラリズムの夢のまにまにさまようことではないということを完全に理解している人間からである……この人事刷新の方法は、同じ業務に携わる人間の妙な結束心を噴き飛ばし、人民の運命がかかっている政府の全問題にかれらの関心を結び付ける。
若い世代の裁判官には、人民の間に確立したわれわれの秩序を乱す畏れのあることは、どんなものでも見逃さないように訓練する必要がある。
当今逆徒の裁判官は、自分の職責に対する正しい認識が欠如しているので、犯罪といえば情状酌量する。
今日の支配者が裁判官を任命する際に、義務の観念と裁判官に要求される職責に対する自覚を叩き込まないから、こういうことになるのである。
野獣が餌を探して子どもに出してやるようなもので、逆徒は職務の性質や目的を説明もせずに高い地位に就けてしまう。
それでかれらの政府は、自分の行政を通じて自分自身の力のせいで、滅亡の道を歩んでいるのである。
かれらがやっていることの結果を、われらの政府の教訓としようではないか。
われわれの国家体制のためには、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、リベラリズムを一掃する。
かかる位置にはもっぱら行政支配のためにわれわれが訓練してきた人間のみを据える。
古い官吏を解雇したら大蔵省の負担増加になるのではないかと案ずる向きがあろうかと思うが、その問題に対してはこうお答えしよう。
第一に、解雇した職員には職を失った代わりにいくつかの民間企業に回してやる。
第二に、世界中の金はわれわれの手中に集中したのであるから、経費が嵩む虞れはないのである。
われわれの絶対主義は万事にわたって論理が貫徹しているので、どの判決一つをとってみても、われわれの最高意志は尊重され一点の疑念もなく遂行される。
あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には制裁を加えて見せしめにする。
われわれは控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄する。
そういうことはもっぱらわれわれの一存……支配する者の判断に預けられる。
われわれが任命した裁判官が誤った判決を下すことがある、というような考えを人民に与えることは断じて許してはならない。
しかしながら、万一判決に変更を加える必要が生じた場合は、われわれ自身が決定を廃棄するが、直ちに裁判官に二度と同種の過誤を犯さない旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする……重ねて申し上げるが、われわれの行政においては一段階ごとに、一応はわれわれを満足させてくれている人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるということを銘記していただきたいのである。
われわれの政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するだろう。
われわれ民族とわれらの国民は、王という人物に、王との関係はもとより、国民が望むこと、国民がやっていること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使う父の姿を見るだろう。
安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は完全にこの考えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、われわれが任命した者たちが私利私欲のためにではなく、ひたすら誠実に命令を実行しているだけであることを知ったときには、われらが王を神と崇めて帰依献身し、その専制に従うであろう。
かれらは、わが子に義務と服従を植え付けるべく訓育した賢明な両親がなすように、われわれがかれらの生活万般を取り締まることに欣喜雀躍するであろう。
われわれの秘策という視点から眺めると、世界の人民たちはまだまだ成年にも達しない子供の類いであり、各国政府もまたまさにその段階である。
先刻御承知のように、余は権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げた。
義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務である。
人類を天然が定めた秩序すなわち服従に立脚させることは、強者の権利である。
この世の万物は、人間でないものでも環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしてももっとも強い者に服従させられている。
であるからこそ、善を実現するためには、われわれはさらに強い者になろうではないか。
われわれは確立した秩序に違反する者は何びとでも、躊躇なく犠牲にせざるをえない。
見せしめに悪に懲罰を加えることは、一大教育課題である。
われらが王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となるだろう。
そこに達するまでに王が供する犠牲は、逆徒政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。
われらの王は絶えず人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は全く同時間に全世界に報道されるだろう。
われわれ以外の結束力をすべて根絶するためには、集産主義の第一段階……大学……を、新しい方向で再教育して去勢するのである。
職員や教授連を精密な秘密教育計画に従って再訓練するが、断じてその一部分たりとも免除することはない。
かれらの任命には格段の注意を払い、一人の例外もなく政府が掌握して配置する。
われわれは全教育課程から政治と同様に法律も排除する。
政治法律に関しては、予め許された者の中からさらに卓越した人物を選び、数十人という少数の人物にのみ教える。
大学はもはや、喜劇や悲劇を書くようなつもりで法案や計画をこね上げたり、父親たちでさえも理解できなかった政策問題にかかずらわう青二才を世の中に送り出してはならない。
大多数の人間がもっている政治問題に関する頓珍漢な知識が、ユートピアを夢見る人間や不良市民を作るのである。
諸氏は実際の大学教育が逆徒をこの方向に導いてきた実例をよく御存知であろう。
われわれはかれらの教育の中に、完膚なきまでにかれらの秩序を破壊する原理を持ち込まなければならなかった。
しかしながら、われわれが権力を掌握した時には、秩序破壊の種になるようなものはことごとく教育課程から駆逐し、青年を権威に従順な子供にし、平和安寧の希望として統治者を頼みの柱とするように育成するのである。
どんな形の歴史研究も皆そうであるが、範を過去に求める古典主義で行くと良い例よりも悪い例の方が多いのであって、われわれはそれに代えるに未来研究をもってする。
われわれは、われわれにとって好ましくない過去何世紀かの人類の記憶を一切消去し、逆徒政府が犯した誤ちをことごとく叙述する。
実際生活、秩序に対する義務、人民相互間の関係、悪を伝染する利己的な実例、その他教育の本質に関わる類似の問題の研究、これらが教育計画の最前線に置かれるだろう。
その実施にあたっては職業ごと、あるいは生活状態によって別々にし、教育は決して画一的に行ってはならない。
この処置は、特に重要である。
社会各層の教育は、それぞれの階層の本質と実際の仕事に応じて厳格に制限を加えなければならない。
稀に天才的人物が出てうまくやって行くことがあったし、上の階層に滑り込むことが常であるが、このような極めて稀にしか出ない天才のために、生れや職業に特有であるべき階層に、その価値もない人間を入れてやるなどということは、愚行もはなはだしい。
こんな目に余ることを許した逆徒社会はどうなったか、諸氏はよく御存知のはずである。
われわれは私学という私学をことごく廃止する。
教育施設の中では、あたかもクラブのように、親たちとの集まりを持つことは許す。
休日には、そういう集まりに教師が参加して、人間関係、見せしめの罰則、神の選民ではない者のいろいろな制約等々の問題、とどめには、まだ世界で明らかにされていない新たな哲学原理について、課外講義で読んで聞かせるだろう。
その原理は、最終的にわれわれの信仰に従わせるための移行期の教理として、われわれが提起するのである。
現在ならびに将来の行動計画を説明し終えたら、余は諸氏にその学説の原理をお話しする。
一言にして言えば、何世紀にもわたる経験に鑑みて、人間は思想に生き思想に導かれるものであり、思想というのは人間成長の各段階にふさわしい教育を初め、さまざまな手段によって人間に浸透するものであるから、思想の支配を受けない最後の火花を、われわれが押収し呑込み、自分自身のものとして利用するであろう。
この、思考力を人間から切り離すということは、過去長い時間をかけて、われわれが導入してきた極めて有益な手段である。
思考力を抑制する手段はすでに、いわゆる実物教育[百貨店は万国博におけるデモンストレーションを指す]という方法で実行されている。
この方法により逆徒は、目に見えるものだけを頼りにして理解し、物を考えない従順な動物にさせられている……フランスでは、われわれの最良の代理人であるブルジョアジー諸氏が、すでに実物教育の新しい計画を実地に移している。
弁護士活動は人間を冷酷、非情、頑固、破廉恥にする。
弁護士はどんな場合にも、人間ではなくひたすら法律の観点からのみ問題を論じる。
かれらはどんなことを取り上げるにしても、弁護する価値があるかどうかと考えるのが習慣になっていて、弁護した結果、公共の福利がどうなるかは考えない。
なんでもかんでも弁護を引き受けて断わることをしないというのが普通であり、無罪を目ざして極力奮闘し、法律上の細かい所にこだわって片端から難癖をつけ、挙句のはてに正義を地に落とす。
であるから、われわれは他の行政公務員と同様にこの職業の範囲を狭く絞り込んでおこうと思う。
裁判官と同じく、弁護士が訴訟当事者と直接接触する権利は剥奪する。
かれらは法廷からのみ仕事を受け、訴訟書類や報告を調査し、法廷で被告が尋問を受け事実が明らかになった後に被告を弁護する。
どんな弁護をしたかという内容に関わりなく報酬を受け取る。
このことは、弁護人は告訴のための審理記録人である代訴人に対して平衡を保つための、正義のための法務の単なる記録人に過ぎなくさせる。
こうすれは、個人的な興味関心からではなく確信に基づいた、偽りのない公平な弁護活動が可能となるのである。
また、この方式にすれば、現今横行しているような、金をよけい出さなけれは裁判には勝てないという弁護士の腐敗堕落を除去することにもなる……
われわれは過去長い時間をかけて、逆徒僧侶の信用を落とし、それによって、放っておいたらわれわれの大きな脅威となったやも知れぬ地上におけるかれらの伝道を凋落させるようにして来た。
今や日一日と、世界の人民に対するかれらの影響力は低下しつつある。
信教の自由ということが至る所で喧伝されたので、今や最大の宗教が完全に破壊されるのはここ数年のうちに過ぎなくなった。
ほかの宗教に至っては、骨抜きにするのは更に容易であるが、今この問題を論ずるのは時期尚早であると思う。
われわれは聖職者重視の教権主義や聖職者たちの力を、以前かれらが華やかなりし頃に持っていたのとは比べものにならないほど狭い枠に押し込めるであろう。
決定的に法王庁を破壊する時が来れは、見えざる手の指が各国民に法王庁を指さすであろう。
しかしながら、国民がそれに襲いかかろうとしたら、あたかも過度の流血を防がんとするかのように、われわれは法王庁の擁護者を装って進み出る。
この転換によって、われわれはかれらの深奥にまで足を踏み入れ、間違いなくかの最強部を腐食し切るまでは二度と出て来ないであろう。
われわれの王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。
だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。
その場合、一般的には、われわれの現代のマスコミは逆徒の国家問題、宗教、逆徒の無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する……
われらが王国はインドのヴィシュヌ神になぞらえ擬人化すると……われらが百本の手の一本一本は、社会という機械のバネを握っている。
警察というのは、われわれが逆徒のために入念に作り上げ、しかも政府は覗けない望遠鏡であるが、その警察の力を借りずともわれわれは何もかもが解るのである。
われわれの計画では、われわれの臣民の三人に一人が、国家への無料奉仕義務として他の二人を監視する。
かつてのようにスパイは恥ずべきことではなく、評価すべきことなのである。
しかしながら、根拠のないことを密告した者は厳罰に処し、密告権の乱用を慎ませる。
このわれわれの代理人は、社会の上層からも下層からも、さらに暇な時間を娯楽に費す管理層、編集者、印刷業者や出版人、書店業、店員、販売業者、労働者、御者、従僕等々からも採用する。
この組織は職権を持たず、目撃したことについてなんらかの行動を起こすことは許されず、なんら権限のない警察であって、唯一観察し証言するのみである。
供述を確かめたり逮捕を決定したりするのは、警察の責任ある取締官の仕事であり、実際の逮捕には憲兵隊や都市警察があたる。
警察担当の事件で、見聞したことを報告しない者は、隠匿罪で告発されその責を負い、それが証明されれは有罪となる。
今日でもわれらの兄弟たちは、自分の責任において、自分の家族の背教者や結社に反対する行動をとった結社員を告発する義務をもっているが、それと同じことを全世界を支配するわれらの王国においても、わが臣民全員に国家に対する奉仕として義務づけるのである。
このような組織こそが、権威権力の乱用や贈収賄や、われわれの機密計画を使い、人間についての超人類的な理論を駆使し、われわれが逆徒に植え付けた悪習のすべてを根絶させるであろう……だが、かれらの政治の中に混乱を植え付け増大させるのに、果たして他に方法があっただろうか?
……あまたあるこれらの方策の中でも、最も重要なるものの一つは、かれらの悪の偏執性……どうしようもない自惚れ、権力の無責任な乱用、そして、何よりも賄賂……を拡張発達させ、かれらを破滅させるのに都合のいい位置にいる秩序回復の代理人である。
われわれが秘密の護衛措置の強化を講ずる必要が生じた際には、見せかけの秩序混乱すなわちうまい弁舌家に協力させて不平不満をぶつけさせる。
こういう弁舌家の回りにはその発言に共鳴する輩が皆集まってくる。
それがあまたの逆徒の中から選んだわれわれ側の人員によって、家宅捜査や監視をする口実となる。
大多数の陰謀家というのは勝負事好きでおしゃべり屋であるから、そこで、かれらが明白な行動を起こすまでは、われわれは指一本触れずに、ただかれらの中に監視員を入れるだけにとどめておく……銘記しておくべきことは、陰謀摘発が度重なると当局の威信が落ち、弱みがあるからやっているんだろうとか、もっと悪いことには不正不法であるとか、余計な憶測邪推を生じさせるということである。
御存知のように、われわれは代理人を通じて逆徒の王たちの生命を脅かして権威を失墜させたのであるが、この代理人たちはわれわれが飼っている群の中の盲目の羊であって、少々政治色をつけた自由主義的な言辞を弄して犯罪を攻撃すると、たやすく乗せられてしまう連中である。
われわれは秘密防衛措置を公然と暴いてやって、支配者たちにかれらの弱点を思い知らせてやってきた。
これによって、権力を打倒する保証を手中にしたのである。
われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる。
反政府暴動があるやも知れず、王にはそれを抑える力がなく逃げ隠れているという考えは断じて与えてはならない。
逆徒がやったように、また、現在もやっているように、そんな考えをはびこらせたら、われわれの王ではないにしても、とにかくその王朝に対して遠からず死刑宣告に署名しているようなものである。
われわれの王は威厳のある風貌の力を国民の福利増進のためにのみ用いるのであり、間違っても自分自身や一族の利益のために用いることはない。
それゆえに、この威信が保たれることで、王の権威が尊敬され国民そのものに守られ、市民全員の福利と固く結びついて神のように崇められるのである。
まさに王の威信によってこそ、多数の通常生活における秩序すべてが保たれるのである。
公然と護衛することは、強そうに見える王者の政治組織の弱さをさらすことになる。
われわれの王は人民の中に行くときは常に、見た目には全く偶然そこに居合せた物見高い男女の群集に取り囲まれたかのように見せる。
それらの男女は王に近い前の方の数列を占め、後の列を制止する。
他の者は尊敬の念からよく秩序が保たれているように見える。
これは他の場合でもそうすることに慣れるように種を蒔くことになるのである。
もし群集の中から請願人が現われて、王に請願書を手渡そうとし列を分けて進んできたら、最前列の者が請願書を受け取って請願人の目の前で王に取り次がなければならない。
そうすれば誰の目にも直接請願書が王の手に届き、王自身が国政を監督していることが知れ渡る。
人民が「王様がこの事を御存知だったらなあ」とか「王様が聞いて下さった!」と言えることが、権力の後光となるのである。
公然たる護衛警察は王者の神秘的権威を失わせる。
少々大胆さを持ち合わせていれば、誰でも自分は護衛を自由に操れると思い込み、暗殺者は自分の力に自信を抱き、時至れば官憲に一撃を加える瞬間をうかがう……逆徒には、われわれは正反対のことを教えてきたが、目立つ護衛策がどんな結果をもたらしたかを、事実そのものによってとくと見ることができた。
われわれは、犯罪者とあれば根拠が十分であろうと不十分であろうと、まず逮捕する。
万一間違えるといけないということで、政治的堕落や犯罪を犯した疑わしき者に逃亡の機会を与えるとは、とんでもないことである。
政治犯の場合は、文字通り峻厳でなければならない。
単純犯罪で動機の再審議を許可し、特別扱いをすることが可能な場合でも、職権を持った者の他には何びとといえども事件に介入する口実は存在しない……すべての政府が真実の政治を理解するものではないのである。
われわれは個人が政治に口出しすることは全く許さないけれども、政府が人民の状態を改善すべく仔細に検討するに値する提案、報告、請願は奨励する。
このような提案は、われわれの臣民が何を空想しているかをわれわれに明らさまに教えてくれるからであり、それらに対しては実現できるものはその旨を付し、そうでないものは起案者の誤りを指摘し反論して応える。
反政府活動屋は象に対してキャンキャン吠え立てる小犬以外の何ものでもない。
組織的に活動している政府にとっては、警察の見地からではなく公共の立場から見ても、小犬が象に吠え立てるのは、象の強さや力を全く知らないからであると見做す。
これには両者の力関係を一度だけ見せてやる以外は何もする必要はない。
そうすれば小犬は吠え立てるのを止め、次からは象を見ると尻尾を巻いて逃げ出すであろう。
政治犯罪者が主義に殉ずるものとして尊ばれることをなくすためには、裁判の際に、かれらを強盗、殺人犯、その他言語同断破廉恥極まる犯罪者と同じく扱うのである。
そうすると世間は、政治犯をその種の犯罪と同種の不道徳な犯罪と見做し、軽蔑の眼差しで見下げるようになる。
逆徒が反政府活動を圧殺するのに同じ手段を用いないよう、われわれは極力努力してきたし、今後もその努力は継続したいと思う。
マスコミや演説講演……間接的には巧みに編集した歴史教科書……を通じて、われわれは反政府屋を公共の福利のために殉じた殉難者として宣伝してきたのは、以上の理由からである。
この宣伝がふくれ上って、リベラルたちが増加し、何千という逆徒をわれわれの家畜群に引き込んだのである。
今日は財政計画の諸問題を取り上げる。
この問題は扱いが最も難しく、われわれの計画の中では最高かつ決定的に重要なので、余の報告の中では最後に述べることにしておいた。
本論に入る前に想起していただきたいのは、余がすでにヒントとして提示しておいたこと、われわれの活動の総括は数字の問題として現わせるということである。
われわれの王国が実現した時には、われらの専制政府は、自衛のために賢明にも、人民大衆には税の負担をかけないようにする。
これは、われわれの政府は父親や保護者の役割を果たすということを想起していただきたい。
さりながら、国家組織には莫大な金がかかるのであるから、必要な資金は確保する必要がある。
ゆえに、格別細心の注意を払って、この問題に関しては適切な課税方式を定めなければならない。
われらの王は、法的な形では国の資産はことごとく王が所有者であり(形だけでなく実際にも容易にそれが適用できる)、国内流通を規制するためにはあらゆる資産の総額から合法的に徴収することができるのである。
このことから、課税は累進課税方式で徴収するのが最もよろしいという結論になる。
そうすれば資産総額の何パーセントという形で支払うべきものが支払われ、何びとも困窮したり破産したりすることがない。
富める者は、税金を払えば残りの金は国家が財産不可侵権で保障してくれ、なおかつ正直な利益を保護してくれるのだから、余分な金の一部は国家に御自由にお使い下さいと差し出すのが義務であると考えなくてはならないのである。
余は今、「正直な」と言った。
これは財産をしっかり監督すれば、法律でいう泥棒を駆逐するということを意味している。
社会改革は上記のことから始めなければならない。
その時は熟している……それは安寧の印として不可欠なことである。
貧しい者に課税することは革命の種を蒔くことになって、小を追って大を逃し、国家の損害となる。
そんなこととは全く別に、資本家に課税するのは、個人の富の増加を防ぐことになる。
われわれが昨今資本家の手に富を集中させたのは、逆徒政府の力……国家財政……が強くならないように、平衡力をつけるためであった。
資本の高に対して累進課税を課すると、現行の個人課税や資産課税よりも遥かに大きな収入となるが、現在の課税方式は逆徒の間に不満と反抗を起こさせるという理由でのみ、われわれには必要なのである。
われわれの王は、均衡を保つことと安寧を保証することに強みがある。
それがためには、資本家たちは国家機関を正常に動かすために自分の所得の何分の一かを投げ出すことが絶対に必要なのである。
ゆとりのある人々は公共の必要を賄わなければならない。
そういうことが行われると、貧民は富豪を怨まなくなり、富める者は国家維持にはなくてはならない財政的支柱であり、国家に必要なものを支払っているからには、安寧福利の守り役であるということが解ってくるのである。
知識階級の納税者に新体制の納税方式にあまり不平を言わせないようにするには、公費の細かい支出を見せてやるが、王室費と行政費とは例外である。
すべてを支配する王には、国家のすべてが王の財産であるから、王個人のものと称する財産は何もない……と言うと矛盾があるが、実はある方法で、実際には普通の意味で国家のすべてを所有するということは出来ないようになっている。
国家資産で扶養する王の妻子は別として、統治者の親族は国家公務員になるか、資産を得るべく働かなければならない。
王の血族だからといって、国庫に属するものを私する権利があってはならない。
販売、所得、相続には、累進課税印紙を支払わなければならない。
所有権を移転するときには、動産であろうと不動産であろうと、姓名を記載した印紙による支払の証拠がなければ、最初の所有者は移転の宣告が発覚した日からの利息を支払うのである。
売買物件登録は、新旧の所有者の住所……氏名を付して、毎週大蔵省地方支所に届出しなければならない。
この姓名付き登記は所定の金額を超える場合から始め、通常の日常品売買には一定単位ごとの所定パーセンテイジの印紙税を支払えばよろしい。
このような方法だと逆徒政府の収入の何倍になるか計算してみていただきたい。
大蔵省は一定額の予備金を確保し、それを超える徴収額は全額流通に還元しなければならない。
その還元額は、公共事業に当てる。
国庫から資金が出るこの種の事業は、国家が企画実施するのであって、これにより労働者階級の利益とかれらを支配する国家の利益とが固く結び付くのである。
この資金の一部は、事業の発案者や施行者に与える報償金にも当てる。
国庫には、たっぷりと確保した所定の予備金のほかには、たとえ少額であっても決してよけいな金を置いておいてはならない。
金というのは流通させるべきものであって、およそ流通を妨げることはすべて国家機構の運営には支障を来たす。
それは潤滑油のようなものであり、潤滑油が滞った日にはよどみなく活動すべき国家機構が齟齬を来たす。
貨幣の代用に紙幣を使うことが、確実に流通を阻害した。
この状況が続いてどういうことになっているかは、すでに明らかでる。
われわれは王が直轄する会計検査院を設ける。
そこでは王がいかなる時でも、まだ決算されていない当月分とまだ発生していない翌月分は別として、前月までの国庫の収入支出状態を親しく検査できる。
国庫から盗んでも何の利益にもならない唯一の人間は、その所有者であり、王である。
これによって紛失や浪費の可能性を封じることができる。
支配者の代表的な行為に、儀礼のための宴会というのがあるが、これは貴重な時間を浪費するものであるから、王に統括と熟慮の時間を確保するために、宴会は一切廃止する。
王の力は、きらびやかな王位を取り囲み、自分のことしか考えず国家の問題なぞ念頭にない取り巻き連中にかしづかれ、取るに足らないことに時間を割かれるべきではない。
われわれが逆徒の間に作り出した経済危機では、流通貨幣の引上げほど効果のあるものはなかった。
国内から貨幣を引き上げると巨大資本は停滞し、不足した資本は借金に頼らざるをえなくなる。
この借金というのが利息が嵩むものだから、これらの資本は国債の奴隷となる……小さな親方たちの手から資本家の手に産業を集中すると、全人民が、そして国家も活力を失ってくる。
一般的に言って、現在の通貨発行は国民一人当りの消費に相応していないので、労働者の必要を満たすことができない。
通貨発行は人口増加に相応すべきであり、子供は生れたその瞬間から一人前の消費者であると計算しなければならないのである。
通貨発行量の変更は世界中どこの国でも重大問題となっている。
御存知のように、金本位制を採用した国々は危殆に瀕している。
われわれが流通している金を出来る限り引き上げるものだから、通貨の必要を満たすことが出来なくなっている。
われわれは紙でも木でも構わないのだが、労働力の価値に見合う通貨を作らなければならない。
われわれは国民の必要に応じて、つまり、人が生れれば通貨発行額を増加させ、死ねば減少させる。
各官庁各地方(たとえばフランス行政部)の財政は、それぞれが運営管理する。
国費の支払に遅延を来さないようにするためには、支払日と支払額とは王の命令で一定に定める必要がある。
これにより、ある省の大臣だけが便宜を得て、他の部門は迷惑するというようなことが起こらないようにする。
収入予算と支出予算とは、両者が隔絶することがないように比較点検しつつ実施する。
われわれが計画した逆徒の財政制度と原理の改革案は、誰も肝を潰さないように衣をかぶせてある。
われわれは、逆徒がしでかした不始末によって財政に撒き散らした混乱の結果、改革が必要であることを指摘する。
われわれが指摘する第一の不始末は、次々と起こる原因で年々膨れ上る年次予算に初めから仕込まれている。
その予算は、上半期まではダラダラと行われ、それから補正予算を要求し、三ヵ月ぐらいかかって補正予算を作ると、もう清算予算を出さなければならない時期になって終りである。
だが、翌年の予算は前年の総支出に基くので、経常の必要よりも年間五〇パーセントにも達し、十年もたつと三倍に膨れ上る。
逆徒政府の無頓着なやり方のお蔭で、国庫はついに空になる。
ここで国債時代が始まるのだが、国債は国庫以外のものまで呑み込み、かくて逆徒国家全部がご破産となるのである。
先刻御承知であろうが、かくのごき財政管理法は、われわれが逆徒に授けた方法であって、われわれがこれを実行することはできない。
国債はどんな種類であろうとも、国家が脆弱であり国家機能を理解することすら欠如している証拠である。
国債は支配者の頭の上にぶら下っているダモクレスの剣のようなもので、支配者は国民から税金を取る代わりに、われわれの銀行家に掌をさしのばして憐れみを乞うようになる。
外債は国家の体に取りついている蛭であって、蛭の方で自然に落ちるか、国家が叩き潰しでもしない限り取れるものではない。
だが、逆徒の国家はこの蛭を払い落とさない。
行き着く先は減亡というところまで、ますます取りつかせ太らせ、最後は失血して自ら死を招くのである。
細かい点は別として、国債とは、とりわけ外債とは何であるか?
国債とは……発行総額に比例して利息が上って行く、政府発行の手形である。
かりに国債に五分の利息が付いているとすると、二十年間に国家は国債総額と同額、四十年間にその二倍、六十年間に三倍の利息を払い、なおかつ借りた分だけが未払のまま残るのである。
この計算を見れば明らかなように、どういう徴税方法かで一人当りから徴税すれば、国家は富める外国人に利息を払うために、貧しい納税者から最後の小銭まで巻き上げずにすむのに、余計な利息など払わずに必要な額を調達すべく小銭をかき集める代わりに、富める外国人から金を借りてしまったのである。
国債が内国国債であるうちは、逆徒は貧民の懐から集めた金を富豪の懐に収めただけだったが、われわれが特定の人間を買収して、国債を外国に売らせるようにしてからは、国家の富はすべてわれわれの金庫に流れ込み、逆徒という逆徒はわれわれに国民を貢物として差し出したのである。
逆徒の王者たちの国務に対する浅薄な態度、大臣たちの腐敗、国政を預る者たちの財政問題に対する理解の欠如が、かれらの祖国をわれわれの金庫に対する払い切れないほどの巨額の債務者にしてしまったが、それはわれわれの側の労力と金銭の多大な出費なしには容易にできることではなかった。
われわれは貨幣の流通にはなんらの障碍も許さないから、一パーセント物を除いては利付き国債は発行しない。
従って、国家の力を吸い取る吸血の蛭どもに利息を払うことがない。
利付き公債発行権はもっぱら、利益から利息を払うことが無理でない工業関係の会社に与える。
国家は、会社のように借りた金で利益を収めるのではない。
国家は消費のために金を借りるのであって、運用資金として借りるのではない。
政府もまた工業公債を買うけれども、政府の立場は現在のように配当を払う債務者ではなく、利息を受ける債権者の立場になるのである。
この方法ならば、貨幣の流通停滞や奇生資金や遊休資金をなくせる。
これらはいずれも、逆徒が勝手にやってわれわれの支配に従う気がない限りは、逆徒に対する有効な手だてだったのである。
逆徒の頭というのは、思考力の発達していないことにかけては、全く野獣並みであることが明々白々ではないか!
かれらは、われわれから利子付きの金を借りている。
その元利を返そうと思えば、国庫から取り出す以外に手はなく、結局またわれわれから借りなければならず、どうあってもわれわれの懐に戻るということを考えても見ようとしないのである。
かれらが必要とする金は、人民から取り立てた方がはるかに簡単であったのに!
だが、ここにこそわれら選ばれたる民が天才であることの証しがある。
われわれは、その方法ならばかれらの利益になるかのようにかれらに持ちかけて来たのである。
時至りわれらが会計を提示する場合には、われわれが逆徒政府に対して幾世紀にわたって行ってきた経験にかんがみて、明白かつ決定的な内容とし、われわれの新制度の利益になるものであることが万人に一目で判るようにする。
その予算は、われわれが逆徒を従属させるために多用した方法はすべて打ち切り、われわれの王国においてはかかる方法は微塵も許さない。
われわれは王であろうと最下級公務員であろうと、いかなる些少な金額でも、あらかじめ決められた支払先以外の所には支払われぬように会計方式を立て厳重管理する。
明確な計画なしには、統治は不可能である。
英雄や半神といえども、どこへ行くかも解らない道を、十分な金の準備もなしに旅立てば、失敗するほかはないのである。
逆徒の支配者たちは、かつてわれわれが助言したとおりに、国務を怠って各国代表たちとの宴会や儀礼、歓楽にふけっていた。
かれらはわれわれの支配が目に見えないようにする衝立に過ぎなかった。
王たちに代って寵臣たちが書いた回顧録なるものは、実はわれわれの代理人が書いたのであるが、そこには決まって将来の経済と繁栄が約束されていたので、皮相的にしか物を考えない人間たちを満足させた……が、何の経済のことか?
どんな新税を?
……われわれの回顧録や計画を読めばそういう問が出てくるはずなのに、誰一人として質問しなかった。
かれらの人民は驚くべきほど勤勉なのに、かれらが途方もない財政的混乱に陥った原因が、そのうかつさにあったことは、諸兄はよく御承知のことと思う。
前回の集まりで述べたことに、今回は内国債について細かい説明を付け加えたい。
外債については、重ねて申し上げることはない。
外債のおかげで、われわれは逆徒政府からたんまり稼がせて頂いたが、われわれの政府においては外国人がいない、すなわち、国外というものがないのである。
われわれは行政官の腐敗と支配者の怠慢に乗じて、逆徒政府には少しも必要でない金を貸して、その二倍、三倍、さらに数倍をわれわれの金庫に収めた。
いったい誰がわれわれをそんなにしてくれたのか?
……そこで、余は内国債について詳しくお話ししようと思う。
政府が政府の為替手形すなわち利付き債券の購入者を公募したとする。
額面は小口大口いろいろ設けられ、早くから申し込んだ予約者には額面よりも割引いた金額で売る。
が、翌日になると、小細工を弄して、何しろ購入者が殺到したので、という口実で値上げする。
数日後に大蔵省の金庫はあふれんばかりで、予定額をはるかに超過したと言う(それなら、なぜ国債を発行したのか?)。
予約額は債券発行額の数倍にも達したと発表される……国債に対する信用を示そうというのである。
こんな芝居は芝居ですむが、新たに発生した債務をどうするのかという問題が起こる。
途方もない額の債務が生じたのである。
利子を払うには、その財源に新たな債券を発行する必要がある。
新たな債券は元利を清算するのではなく、ただ単に新たな債務を上乗せするだけである。
政府の国債発行の限度を超えたら、新しい課税で取り立てる必要が生じる。
それも国債整理のためではなく、ひたすら利払いのためである。
新税はひたすら借金のための借金となる……
そのうち債券書替えの時期がやってくる。
だが、これとても利率を下げることはできても、債務をなくなしてしまうわけではない。
それだけではなく、債権者の同意がなくては書替えはできない。
書替えにあたっては、同意しない人々には金を返済すると公告する。
もしも誰も彼もが、書替えは嫌だ、金を返せと言ったら、支払い不能に陥ることは火を見るよりも明らかであり、政府は自ら墓穴を掘ったことになる。
幸いにも逆徒政府の臣民は経済のことはとんと事情にうといから、金を新しい事業に投資して利が落ちるよりも書替えで利が薄くなる方がまだましだと思って同意する。
かくして臣民は数百万という政府の債務を穴埋めすることに協力してやる。
今日では、逆徒といえども外債でこんな芝居を打つことは、ごまかしが利かないことが判ってきた。
われわれが全額払戻しを請求することが判ったからである。
このようにして明らかな破産倒産状態が生じ、人民の利益と支配者のそれとは一片も共通する所がないことが明々白々となった。
今お話したこと、これからお話することには格別の留意を払っていただきたいのであるが、内債は今日ではいわゆる短期公債、すなわち、多かれ少なかれ期間の短いものに整理されているという点である。
これらの借金は貯蓄銀行に収納され資金として確保される。
政府はこの資金を外債の利子支払いに当て雲霧消散させてしまい、その穴埋めに同額の公債を当てているのである。
逆徒の国庫からの資金漏出をとりあえず穴埋めしているのは、実にこれらの短期国債なのである。
われわれが世界の王座に昇る時は、われわれの利益に反するかかる財政上の窮策を痕跡も残さず一掃し、併せて金融市場をすべて廃止する。
われわれの権威は価格変動に左右されるべきではないから、価格上昇も下落もできないように、法令をもって価格というものを固定してしまう。
(価格を吊り上げるのは落とすためであり、実にこの方法によってわれわれは逆徒との関係の初期にかれらを弄んだのである)
われわれは金融市場に代えるに政府による大規模な国立信用取引所を設ける。
その目的は、政府の意図する通りに産業生産物の価格を設定することにある。
この組織は一日に五億の産業証券を出してやり、また同額を買い取ることができる。
この方法により全事業がわれわれに従属するようになる。
このことがいかなる力をわれわれに与えるか、諸氏は御自分で想像していただきたい。
これまで長々と述べてきたことをもって、余は、将来、過去、現在の秘密を注意深く明らかにしようと試みたが、残るは近い将来、洪水のように起こるであろう大いなる事件と、われわれと逆徒との関係、その経済関係の秘密に入ることにしよう。
が、この件に関しては、余が付け加えることはごく僅かである。
われわれの手中には、現代最も威力を発揮するもの……金≠ェある。
われわれは二日間あれば必要な量の金をわれわれの貯蔵庫から集めることができる。
この事以上に、われわれの支配は神の思召しであることを証明する必要があるだろうか。
かような富があればこそ、何世紀にもわたってわれわれが重ねなければならなかった悪がすべて、真実の福利を最終の最終にもたらす……万物に秩序をもたらす……ために役立つことが疑いもなく明らかであるだろう。
たとえ暴力を用いたとしても、全く同じ結果となるだろう。
われわれが引き裂かれねじ曲げられた地球に、真実の善と個人の自由をも回復する大恩人であることを、われわれは証明するだろう。
そうすることによって、もちろん、われわれが確立した法をきびしく遵守する限りにおいてだが、われわれは地上に平和をもたらすことができるであろう。
そうすることによって、われわれは明白にする、自由とは放縦ではないことを、人間の品位とか力とかには自堕落が含まれていない以上に自由とは抑制の利かない権利は含まないことを、良心の自由や平等その他これに類するものは人間の本性にある破壊的な原理であることを万人に公表し、個人の自由とは決して無秩序な群集の前で言語同断な言説を弄して煽動することではないことを。
真実の自由とは、社会の法律には敬虔に厳しく従う人の不可侵性にあること、人間の尊厳とは権利意織に包まれてはいるが同時にいかなる権利意織ももたぬものであること、そして自分勝手な空想を実現しようとすることは決して許されないことを。
われわれの権威は強力なるがゆえに栄光に満ち、支配し指導し、自分では大真理と思い込んでいるが中味は何もない無意味な言説を声高に上げる夢想家に過ぎない指導者や弁舌家の後塵を拝するのではなく正直に話す……われわれの権威は秩序の王冠であり、その中に人類の至福が宿っている。
この権威の後光の前では、すべての人民が神秘のあまり平伏し、畏怖の情にとらわれるのである。
真実の力はいかなる正義にも、神にさえも譲歩しない。
何びともあえてこの力に近付いて一毫たりとも毀損することはできないのである。
人民を服従に慣らすためには謙遜ということを教え込む必要があり、従って奢侈品の生産を縮小すべきである。
これによって贅沢を張り合う卑しい根性を改める。
われわれは小さな親方製造業を再編成して、個人資本の工業家を倒すという狙いをもっている。
大規模の製造業は必ずしも意識的ではないにせよ、政府に反対する考え方を群集に植えつけるので、この処置は欠かせない。
小さな親方たちは罷業を知らず、既存の秩序にしっかり結び付いている。
罷業は政府にとっては破滅的な一大問題である。
われわれは時の権力をわれらの手に移す時に、この手を使う。
酩酊も法律によって禁止し、酒の力で野獣に変わる人間性に対する罪として処罰する。
重ねて述べるが、臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては、盲目的に服従する。
かれらはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……かれらは王者に天使の心を期待するのか?
かれらが王者に見たいのは力、力、力の権化なのである。
現存する支配者たちに代わるわれらが至高の君主は、何をしなければならないか。
われわれが意気阻喪させた社会、神の権威すら失墜させた社会、四方八方から無秩序混乱の火の手に包まれている真中で、支配者たちはその存在を引きずって歩いているが、われらが王は何よりもこの燃え上がる炎を消し止める事に身を投じなければならない。
それゆえに、王は、かれらを王の血の海で溺死させるけれども、これら現存する社会を根絶せざるをえず、改めてかれらをよく組織された軍隊に復活再編成し、ただれた国家を覆うあらゆる種類の伝染病に対して意織的に闘わせなければならない。
神に選ばれた者≠ヘ、理性ならぬ本能によって、また人間性ならぬ獣性によって動くばかげた力を粉砕すべく天から下される。
この力は今は自由の原理という仮面をつけて略奪とあらゆる種類の暴力をはたらき凱歌を挙げているが、この力が秩序破壊の跡にわれらが王を王座に据えるのである。
だが、かれらの役割は王が王国に入ったその瞬間に終る。
王国の路からは、その残骸の一片すらも残さないように一掃される必要がある。
その時、われわれは世界の人民に次のように言うことができるだろう。
「神に感謝せよ。額に人類宿命の
その
その方を措いては生来の罪と悪から解き放って下さる方はいないのだ」
次に至高王朝の土台を世界最後の段階まで一層強固にする方法に進もう。
この方法は、何よりも第一に、今日まで世界の全問題を遂行し、全人類の思想教育を指導してきたわれらの賢人長老たちが積み重ねてきた伝統的な方法によるものである。
至高王の子孫のうちの数人が、相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。
その人々には、政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが、常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。
この方式の真意は、このような秘義を授けられたことがない者には、政府を委すことはできないということを徹底させることにある。
これらの人々にのみ、何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ、余がこれまでに述べたような計画の実際化や、政治経済運動や社会科学研究の全成果……一言で言えば、人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理……が伝授される。
直系の子孫が王位継承から外されるのは、秘義伝授の過程で浅薄……軟弱その他、王の権威破滅となる資質が明らかになった場合である。
そのような性向は統治者には不向きであり、王宮においては危険な人物となる。
たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物のみが、われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。
病気に罹ったり精神障害があったりその他王たるにふさわしくないことがあった場合には、王は律法に従って統治の手綱をふさわしい者に譲らなければならない。
通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。
王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。
断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には、万人が神秘の宿命を認めるのである。
何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。
王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。
王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。
人民が王を敬愛するのは、王が市場などで人民に意見を述べることを欠かさいからである。
現在ではわれわれが両者の間に恐怖の溝を作って引き離しているが、双方を結びつける必要がこれで満たされる。
この恐怖は、時が至るまでは、両者をわれわれの影響下に置くためには必要欠くべからざるものである。
逆徒の王は自分の感情、とりわけ情欲のとりこになってはならない。
王は自分の人格のどの一面でも、荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。
情欲はいかなる精神的な欠点よりも、明晰に見る力を殺ぎ、思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。
至高王の聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。
われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。
☆参考文献「シオン賢者の議定書」(一部改変)
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