志貴、シエル、そして少女の三人が行動を起こしたのは、食事を一回挟んでからで、既に時間帯は夕方に入りかけている。
昼食の席で善後策が協議されたものの、結局は少女の行動と意思力が全てを決することが確認されただけであるが、少女のはきはきとした受け答えが、志貴に一抹の希望を与えた。
シエルは、彼女らしく、少女と志貴に油断を戒めた。
少女が世界と向き合うと決断しただけで、実際のところ、現状はなにも変わっていない。
少女が世界を拒絶し、世界が少女を否定する、その最悪の状況から、わずかな一歩が踏み出されたに過ぎないのだ。
もちろん、踏み出されないよりましな一歩であるには違いないが、それを一歩のままで終わらせるか、そうさせないかの結果を予測するには、可変的要因が多すぎた。
なにより、世界と繋がっているあの小柄な襲撃者が、どのような行動に出るかは、予想がつかない。
シエルは、少女の決断の意思の大きさに望みを賭けた。
この事件を解決できるのは、この栗色の髪の少女を除いては存在しないことを、彼女はその経験から得た洞察力で知っていたのである。
無論、シエルは奇跡にのみ頼り、ただ座しているだけのつもりは無い。
場合によっては、あの襲撃者と三度目の死闘を繰り広げなくてはならないだろう。
むしろ、その可能性のほうが高いと、現在のシエルは踏んでいる。
その死闘が、結局のところ、ことの結末を先送りにしているだけのものだと、分かってはいても、先送りして解決の日を待つまでに殺されるわけにはいかなかった。
だから、シエルは少女に決断を促したのだ。
この永劫に続く可能性のある闘いの輪廻を、二度で終わらせるために。
それは自分たちのためだけではなく、誰よりも少女のためであるはずだった。
三人が事件の終幕の場に選んだのは、三咲町の公園だった。
昨夜、少女が次元の壁を突き抜けて志貴たちの世界に飛来した場所である。
それは、志貴にとってもシエルにとっても、そして少女にとっても重要な場所だった。
休日のこの時間ならば、普段はクラブ帰りの学生や、散歩や散策を楽しむ市民の姿が散見される時間帯であるはずなのだが、その日に限っては、一人の姿も見当たらなかった。
いや、人間だけではない。
新緑に包まれていたはずの公園は、不自然なほどに、生命力に欠けていた。
用心しながら進むシエルが、呟いた。
「……すでに結界が張られています」
「結界?」
志貴と少女の声が重なる。
「はい。人間が張るにしては、強力すぎるものです。「壁」と言っても過言ではない。どうやら……」
言いながら、シエルは前方を厳しい目つきで見据えた。
つられるように、少女と志貴の視線が前方を向く。
「どうやら敵さんは、やる気満々のようですね」
シエルの形の良い唇が、皮肉な形にゆがむ。
三人の目前に、肌を刺すような冷たい風が吹きすさんだ。
そして。
まるで色の着いた小さな粒子が組みあがっていくように、足元からその姿が構成され出現していく。
アレクトだった。
金髪の襲撃者は、その小柄な姿が完全に組みあがったあと瞳を閉じたままだったが、それも一瞬だった。
すぐに赫と厳しい紅き瞳を見開き、三人を睥睨する。
特に、少女の栗色の瞳と視線が合うと、なんとも言われぬ強い意志を、その視線に籠めた。
少女が、その迫力に押されて一瞬ひるんだ。
(やはり……)
シエルは内心で舌打ちする。
前回、今日の午前に、シエルが最大武装でもって破壊したはずの襲撃者の身体は、まるでその事実がなかったかのように、傷一つついていなかったのだ。
あの襲撃者は、肉体を破壊して追い払うことは出来る。
しかし、【世界】の【意思】そのものを破壊するのは、人間には不可能なのだ。
何度闘い、追い払い、追い払われても、結局のところあの襲撃者が、少女と、彼女に介入した二人を抹消しない限り、この血なまぐさい喜劇は終わらないのである。
だがシエルは、志貴が眼鏡をはずして戦闘態勢に入ろうとするのを、右手で制した。
意外そうな視線を向ける志貴に、シエルは一つだけ頷いてみせる。
ここで闘うべきなのは、自分たち二人ではなかったのだ。
少女は栗色の髪と瞳を緊張に震えさせながらも、一歩前に出た。
強くて頼りになる志貴とシエル「先輩」は、彼女の後ろにいる。
誰も自分を守ってくれない位置に、彼女は踏み出したのだ。
「聞いて、アレクト。私は、今は戦いに来たんじゃないの。貴方と話を……」
健気にも勇気を絞ってそう切り出した少女の目前で、絶望が音を立てて立ち上った。
アレクトが腰のホルスターから、闇が結晶化したような禍々しさを持つ二本の剣を抜き去ったのだ。
「…………………………」
まるで陽炎のようだった。
アレクトの小柄な肉体が一瞬、揺らめいたように見えた。
だが、次の瞬間、事態は急転する。
その肉体が揺らいだ後、殆ど光速に近い速度で、アレクトが少女に斬りかかる。
「ひっ……!」
少女が息を呑んだ一瞬に、風と同化したかのごとき速度で接近したアレクトは、少女の真下にもぐりこむ様な低い姿勢から、その咽喉元に、禍々しい切っ先を突きつけた。
一瞬、その後方で、志貴が飛び掛らんとしたが、今度もシエルがそれを制した。
志貴が抗議の声を上げようとしたとたん、再び事態は急転した。
少女の足元から、急速に色が失われていく。
まるで色を消す怪物が世界を侵食しているかのように、目に入る世界を白く染め上げていく。
固有結界。
少女が、無意識のうちに張ってしまったのだ。
結果は、午前の状況が再現された。
志貴、シエル、そして少女の三人だけが、色彩を保っていた。
それらを除く全てが、アレクトを含めて――輪郭だけを残して、白く染め上げられていたのだ。
音さえも。
「…………………………」
だが、金髪紅瞳の襲撃者の態度は、午前とは違っていた。
面白くもなさそうに、鈍重に剣を少女の咽喉元から引くと、ゆっくりとその眼前に立ちはだかった。
その距離は、約一メートル。
志貴とシエルが二人がかりで襲いかかれば、再度、アレクトを追い払うことはできるだろう。
だが、今はそれをすべきではない。
シエルは心に二重の忍耐をかけて、動きたがる志貴を制している。
少女は怯えた目をし、身体を震わせながらも、その襲撃者から視線を離すことはなかった。
「ふん」
アレクトはもう一度息を吐き出してから、口を開いた。
「やはり、その程度か」
「え……?」
少女の目に、怯え以外の光がともった。
「お前は、世界と立ち向かうと言いつつ、結局は世界を拒絶している。拒絶することで内に閉じこもるなど、簡単なことだ。蟻でもできる」
相変わらず、この厚顔不遜な襲撃者の言葉には、容赦の欠片も無い。
感情と呼びうる最低温度の声に、更に寒風を吹き込む。
「結局、お前の覚悟など、その程度の代物なのだ。
常に自分は被害者なのだろう?誰かのせいにしてしまえるなら、そうしたほうが簡単なのだからな。お前は逃げているだけだ」
「違います!」
少女が声を上げる。
「ほう、どう違う?」
「私はあなたを認めます。しかし、自分の命が危ないのなら、自分の意思でそれを守ります。
蟻でもそうするでしょう」
「そうして、自分の命を守るために、自分の意思で、
「それも違います。もう私は……
少女がそう呟いた瞬間……。
アレクトが色彩を取り戻した。
周囲の世界は白いままで、アレクトだけが色彩を取り戻したのだ。
「……………………」
シエルの表情がこわばる。
世界を拒絶したままで、世界の意思だけを認める。
そのようなことが可能なのだろうか?
だが、実際に、アレクトは色彩を取り戻し、世界は漂白されたままだ。
アレクトは、口の端を吊り上げる。
「足らないな」
「……………………」
「お前の覚悟が足りないから、世界の一部だけを認めて、残りの大半を拒絶する、そのような中途半端な結果となる。
私一人を認めたところで、なんの意味も無い。それは、世界がお前に対して持っている加害心を【中和】しているにすぎない。
私一人を中和したところで、第二、第三の私が生まれ、お前を狙うだけだ。その能力の持つ危険の大きさに、とてもではないが比例しない!」
襲撃者が声を荒げた。
少女の身体の震えが大きくなって止められない。
さもありなん、この場で最も覚悟を要求されている彼女こそ、この場では最も弱い存在なのだ。
人並みはずれた魔術回路と魔力の蓄積量を持ってはいるが、それは彼女自身の意識せざるものであり、望んで持って生まれたものでもなかった。
志貴やシエルのような人外との戦闘経験があるわけでもなく、アレクトのように絶対的な意思とバックボーンが存在するわけでもない。
そんな彼女が、この場では最も強い意志を要求されていた。
少女は、それに、自分自身で応えねばならない。
ここまでに、この襲撃者の変化に気づいたのは、シエルだけであったろう。
いつにも増して、この襲撃者は饒舌であった。
「私を自由にすれば、私がお前をどうするか、予想がつかぬはずはあるまい」
「う……」
大量の汗が、少女の衣服を濡らす。
逃げることはできない。
逃げたら全てが終わる。
そのくらいのことはわかる。
だが、死ぬわけにはいかない。
死んでも全てが終わるのだ。
どうする? どうすればいい? 何を認めればいい?
少女が思考を迷宮に落としても、襲撃者の行動パターンには、一切の迷いが無い。
アレクトは再び剣を構えなおす。
「次で終わりだ。死んでまた並行世界をさまよい、たどり着いた先で、また私に殺されるがいい。
結局、永遠に殺され続ける運命にあるのだ、貴様はな」
失神寸前の緊張感の中、アレクトの腰が落ちる。
あの小柄で化け物じみた性能を誇る身体がもう一度疾駆したとき、その言葉通り、少女の命は終わるだろう。
次の行動。
次の決断が、すべてを
少女はそれを、身体中の全ての感覚器官で悟っている。
(無理だよ……、私ひとりで、こんなのに
少女の心に、挫けが紛れ込みそうになった。
それが彼女の心に小さな針を一刺しすれば、その場で全てが終わってしまう。
危険な感情だった。
事実、彼女の心は破裂寸前だったのだ。
世界だけではない。
アレクト、そしてシエルと志貴の身体までが、ゆっくりと足元から色彩を失いつつあった。
少女が、恐怖のあまり、自分以外の全てを拒絶し始めていたのだ。
あとは、心がはじけた後、襲撃者の剣が肉体をはじいて終わる。
それで全てが終わるはずだった。
だが、そこで初めてシエルが動いた。
シエルは、飛び掛る寸前の志貴を抑えながら、声を荒げたのだ。
「今、自分が何をするべきなのか、思い出しなさい! 誰を認め、誰を許し、
そして、抑えていた志貴を解き放った。
全ての制限から解き放たれた制服姿の死神は、一足飛びで襲撃者に斬りかかる。
「ちっ!」
志貴の攻撃的なナイフを剣で受けたアレクトは、舌打ちをして唇を歪めたが、それも一瞬だった。
自分よりも一回りも大きな志貴の身体を、腰に力をため、側方に弾き飛ばす。
ほんの一瞬。
だが、少女には、その一瞬で充分だった。
(―――「誰」?―――)
シエルと志貴に与えられた瞬間的な時間を、少女は最も効果的に使うことができた。
我に返り、あの名前を、自分の力で、思い出すことができたのだ。
少女に力をくれる、あの「魔法の言葉」。
常に自分と共に戦ってくれている「誰か」。
それは、少女自身の決意がもたらした奇跡に違いない。
(―――綾人さん!)
少女の脳裏に、「あの風景」がフラッシュバックする。
紅き夕日の丘。
その丘に立つ大樹。
その傍に立ち、常に彼女を見守ってくれていた、長身の少年。
常に彼女に手を差し伸べてくれた、その優しい瞳。
彼女の全てを「受け入れて」くれた、その抱擁――。
今度は、それは「魔法の言葉」では終わらなかった。
その優しい表情が、初めてはっきりと、彼女の脳裏と魂の内部に描き出されたのだ。
(―――そうだ、私は―――)
少女の身体に、あの「暖かさ」が再び沸いてくる。
少女の魂に、次々と映し出される「風景」。
それは、少女が本当の意味で「生命力」と「希望」に溢れていた頃の、もっとも光輝に満ちていたときの「記憶」。
様々な出来事が、少女にゆっくりと「世界」を拒絶させる前の――彼女の、本当の姿だった。
そして、その「記憶」の殆どは、彼女が一人で構築したものではなかった。
自分の隣には、いつもその少年がいた。
夕日の丘で待ち合わせ、様々な話をした。
自分を受け入れてくれた、初めての存在。
自分を許容してくれた、初めての人間―――。
彼が、くれたのだ。
人間としての暖かさを。
全ての命が持つことを許されているはずの、歓喜を。
(―――私は、そんな大切なことを忘れるほど―――)
長い間、さ迷っていたのか―――。
なにかのきっかけで始まった、この当ての無い、彼女を否定し続ける並行世界の彷徨と、そのさなかで生まれた絶望が、それをすら忘れさせるほど深く、彼女の心を蝕んでいた―――。
(―――ありがとう―――)
少女は瞳を閉じる。
全てを拒絶する、深く凍りついた湖のように蒼く輝いたその瞳。
だが、一瞬の後、再び開かれたその瞳は、全く異なる輝きを有していた。
まるで、全てを抱擁する豊穣を示すかのような、淡い黄金の色に輝いていたのだ。
(やった! 聖痕が啓いた!)
シエルの表情に、はじめて深刻以外のものが混ざりこむ。
これこそ、シエルが待っていたものだった。
この「戦い」を終わらせるには、少女の決意だけでは、要素は不十分だった。
少女に世界を「受け入れさせる」だけではダメだったのだ。
少女が本当に望む世界。
少女が「自分の意思で本当に生きたい」と望む世界―――すなわち、彼女の内部に眠る「魂の原風景」と、この世界とを、彼女自身を介して接続しなければならなかったのである。
世界が彼女を「拒絶」しているとは言っても、それは「この世界」では、の話なのだ。
「全ての並行世界」が彼女を否定し、拒絶していたなら、少女は生まれてすぐにでも、その存在と命を抹消されていなければおかしい。
この「世界」の修正力は、その世界に干渉する力の大きさに正比例する。
だから、アレクトが言うように、世界の全てがこの少女を拒絶するほど、その能力が大きなものなら、彼女はとうに死ぬか、それに近い状況で能力ごと抹殺されていなければおかしいのである。
そこには、当人の意思など関係ない。
だが、少女は外見上は十代後半。
つまり、生まれてから、すでに二十年ちかくは生きているはずだ。
これはどういうことか?
つまり、「少女が生まれた世界」では、少女は「拒絶されていなかった」、つまり、「少女の存在は許容されていた」はずなのだ。
もちろん、全てが容認されていたかどうかはわからない。
だがそれは、彼女の命を奪うほどのペナルティではなかった。
少女は、なんらかのペナルティを課せられたかもしれないが、その世界ではしっかりと生きていたはずなのだ。
少女が自らの意思で、「少女の存在を否定する世界」から抜け出す、もしくは生き残るには、「少女を容認していた世界」と、そうでない世界とを、強引にでも「接続」しなければならなかった。
「世界」の全て、全ての「世界」が少女を否定しているわけではないのだと、証明しなければならなかったのだ。
そして、そのために最も確実な方法が、少女の魂に眠る原風景を見せる、つまり聖痕を解放することであり、そのための最も確実な「鍵」が、少女の魂に深く根ざしたあの「名前」だったのである。
だが、自ら外部を拒絶していては、そのような行為は不可能である。
シエルが少女に、アレクトと胸襟を開いて話せ、と言ったのは、自分の全てを世界に啓いて見せろ、その勇気を持て、ということだったのだ。
そして、少女の決意がもたらした「勇気」は、もっとも劇的な形で、彼女の聖痕とこの世界とを、どうやら繋いだようだった。
アレクトは、志貴を弾き飛ばした勢いで、今度こそ最後の一撃を少女に見舞うべく、大きく剣をスウィングし、少女に切りかかる。
「しまった!」
志貴の声とアレクトの剣先が、空気を裂く。
彼の勇気と少女の決意は、その非情の剣に粉砕された。
それ以外の未来が訪れるはずが無い。
それほどの勢いで、アレクトの剣は、確実に少女の咽喉に突きたてられ、貫通する。
だが、次の瞬間、志貴は目を疑うことになった――――。
(To be continude...)
(初稿:08.05.10)