「危ない! 避けろ!」
体勢を崩した志貴の悲痛な声が、冷たい空気を引き裂く。
わずか一瞬の思考。
だが、その寸毫で、志貴は自分の言葉の不可能を悟っていた。
標的まで最短距離を走る「敵」の黒い切っ先は、あの距離では誰にも避けようが無い。
あの剣は、少女の咽喉を間違いなく貫通し、この事件の全てを終わらせるだろう。
最悪の形で。
それを、まるで既定の未来のように脳に焼き映し、志貴は、視線をはずすこともできず、思わず口元を歪める。
だが、彼の目前で、その「既定の未来」はあえなく打ち破られた。
志貴の想像だにせぬ状況が、目前で為されたのだ。
アレクトの剣が、少女の身体をすり抜けたのである。
「!?」
声にならない衝撃を発したのは三者。
志貴、アレクト、そして少女本人。
アレクトは、剣どころか身体ごと少女の身体をすり抜け、勢いに任せてその背中まで突き抜けた。
「これは……」
志貴が体勢を立て直し、呆けたように声を上げる。
少女は、その瞳を黄金色に輝かせたまま、がっくりと膝を落とし、呼吸を荒げながら、自ら手を覗き込んでいた。
自分で何をしたのかもっとも理解できないでいるのは、間違いなく彼女自身であったろう。
その背中で、もう一度、アレクトが剣を構える。
志貴がそれを阻止せんと飛び掛ろうとするが、彼の右肩に置かれたシエルの手が、その行動を止めた。
志貴が意識をシエルに向けている隙に、アレクトが再び少女に斬りかかった。
だが、今度もその剣は空を斬るような手ごたえで、すり抜ける。
少女の姿は、先ほどまでと同じように、はっきりと見えているというのに。
「無駄です、アレクト。もう貴方に、彼女を害することはできません。
シエルが、やや声を低めて言う。
用心のためか、両手には五本ほどの黒鍵を握っている。
だが、それが無用の用心であることを、彼女自身が理解していた。
そして、おそらくアレクトも。
「貴方は理解したはずですね、アレクト。最後の攻撃は、それを確認するためのものでしょう」
「ふん……」
アレクトは、あいも変わらず面白くもなさそうに、剣の切っ先を下げる。
志貴が短剣を低く構え、少女とアレクトの間に割ってはいるように移動した。
「どういうことなんだ、先輩? あの子があいつと同じ存在になったって?」
アレクトと同じ存在。
つまり……。
「ええ、そうです。あの子はたった今、【世界の意思】となったのです」
シエルは、むしろあっけらかんとした声で、志貴に笑顔を向けた。
少女が【聖痕】を啓き、その魂に内在する【世界】と、彼女を否定するこの【世界】とを「接続」した結果、いったい何が起こったのか?
すなわち、少女自身が、その魂に内在する【世界】の【使徒】となったのである。
それは【少女を容認する世界の意思】を具現する立場のことであり、【少女を排斥する世界の意思】の具現であるアレクトと、同じ存在と化した事を意味する。
つまりは、少女とアレクト、二人の姿を介して、二つの【世界】が同じ地平に並存していることになるのだ。
そして、アレクトが少女を害せなくなった、ということは、アレクトの意思の源である【この世界】が、少女が接続した【少女の世界】を「認めた」ことの証しだった。
先ほどまで半ば呆けていた少女が、立ち上がった。
少し俯き、肩を震わせている。
志貴が心配して声をかけようとして、それをためらった。
黄金色に輝く瞳から、大粒の涙が零れ落ちていたのだ。
それは、悲嘆の涙ではなかった。
これ以上ないほどの、歓喜の涙だった。
少女の足元から、ゆっくりと世界が色彩を取り戻していく。
歓喜の涙に溶けるように、瑞々しい色彩が、世界を再び覆っていった。
「固有結界が消える……」
志貴が呆然として、急に鮮やかになる世界を見渡した。
アレクトが、声を発した。
「あの固有結界は、数多の世界から拒絶されていた彼女が、世界を拒絶しかえしていた心の壁だったのだ。だが……」
「自分を拒絶しない世界があることを思い出したことで、全ての世界を拒絶する必要がなくなったのです」
シエルが言葉を受け継いだ。
既に彼女の手には、黒鍵はない。
戦いを継続する理由がなくなっていた。
少女は涙に濡れた笑顔で、一度、天を見上げた。
そして、小声で何かを呟いた。
少女は、感情の奔流を止めようとはしなかった。
涙をぬぐうこともせず、笑顔のまま、アレクトに身体を向けた。
そして、その小さな身体を背中から抱きしめた。
お互い、相反する【意思】である以上、その身がもう接触することは無い。
すり抜けるだけである。
だが、少女は、アレクトの身体を、ぎゅっと抱きしめたのだ。
「私、やっとわかったよ。私が本当にやりたかったこと。
私は、世界から逃げたかったんじゃない。
生き残りたかったわけじゃない。
勝ちとか、負けとか、そんな大げさなことじゃなかったんだ。
私はただ……、綾人さんのところに帰りたいだけだったんだ……」
だが、望まぬ彷徨を繰り返し、世界を壊すかもしれない力を持つ自分を否定されて、否定され続けて、そんなことすら忘れていた。
いつの間にか、ただ生き残ること、自分を否定する世界から逃避することが、全ての理由になっていた。
そして、その絶望によって、彼女が自身の内に閉じこもるようになるにつれ、そんな自分自身を守るように、「結界」も「世界移動」の力も、強力なものになっていったのだった。
「ふん。力ずくにもほどがある」
アレクトは小さく呟く。
「覚悟しておくがいい。
お前の【旅】が、これで終わるとは限らぬ。そして、今のこの【記憶】が、次の【世界】に受け継がれる保証も無い。
これからもずっと、お前は否定され続けるかもしれない。お前の力が、数々の【世界】にとって危険な存在であることには、変わりはない。
その中で、大地を踏みしめ続けていく覚悟が、お前にはあるか」
少女は、アレクトを抱きしめたまま、小さく頷いた。
「私の心に、綾人さんがいてくれる限り、私に真の孤独はありません。
私のことを覚えている人が、一人でもいてくれるとわかっているから、私は、歩いていけます。
……たとえ、どんな状況に置かれようとも……」
「そうか……」
ここではじめて、少女はアレクトの変化に気づいた。
アレクトの身体が、徐々に透明に近くなっていた。
その存在が消えようとしていた。
「消えちゃうの? アレクト……」
「当然だろう。私の世界はお前を認めた。
お前を排除し、この世界を修正する意思の塊である私が存在すべき理由は、なくなった」
「………………………」
アレクトは、彼女を抱きしめるように組まれていた少女の腕をすり抜け、一歩踏み出した。
その身体は、もう半分ほど空に溶けていた。
それでもなお、この襲撃者は、これまでと変わらぬ無表情を、志貴とシエルに向けた。
だが、何も言わなかった。
「待って、アレクト! 教えて。今、ほんものの【私】は、どうしているの!?」
少女の叫び声に、アレクトは肩越しに振り向いて、言った。
「眠っているさ。ある病院で眠り続けている。目を覚ますことなく……」
そして、その姿は、音もなく、完全に掻き消えた。
それは、いま彼女たちが立っている【世界】が、少女の存在を完全に認めた証しだった。
「……終わったのか……?」
志貴が尋ねる。
シエルが答えた。
「いえ、まだ終わっていません。もう一人……」
アレクトの消滅を見届けた少女は、すぐに自分にも起こった変化を自覚した。
自分の身体が、わずかに白い光を発しているのに気づいたのだ。
そして、ゆっくりと、自分の密度が薄くなっていくことに。
少女は理解していた。
先ほどのアレクトの言葉。
自分の【旅】は、まだ続くのだ。
アレクトに言われる前から、なんとなく解っていたこと。
迷いは無い。
……だが、怖くはあった。
自分がどうなるのかは、わからないから。
少女は、志貴とシエルに向き直った。
志貴はその変化に驚いているが、シエルは微笑を浮かべている。
少女は、二人に向かって、深く礼をした。
「もう……お別れみたいです。本当にありがとうございました。
そして、ごめんなさい。
危険なことに巻き込んでしまって……」
だが、志貴はそのことを責めなかった。
彼が問うたのは、別のことだった。
「次こそ、帰れるのか? その、綾人君という人のもとへ?」
「分かりません……。アレクトも言っていました。私の旅は、まだ続くと」
「大丈夫ですよ。いまの貴方なら、きっとうまくいきます。願いは届かせるためにあるのです」
シエルが、最高の笑顔で頷く。
ああ、この二人は、本当に強くて、格好良くて、そして……。
思わず、憧憬の視線を、少女は志貴とシエルにむける。
自分にも、これだけの強さがあれば、きっと、恐れるものなど無いに違いない。
この、果ての知れぬ旅でさえも。
「綾人さんに会えたら、まず何をしましょうか」
少女の恐怖心を除くための心遣いか、シエルが話題を転じた。
少女の身体を覆う白い光は、一秒ごとに強さを増している。
もう、あまり時間が無い。
少女も、つとめて笑顔を返す。
「まず綾人さんに抱きしめてもらって、それから自慢します。すごく楽しい夢を見てたって。
綾人さんの知らない世界で、頼りになる男の子と、物知りな女の人と一緒に、物凄く可愛げがなくて強い敵と戦ったんだって。
綾人さんも男の子だから、こういう話、好きだと思うんです」
話題を無理に続けようとする少女の努力をあざ笑うかのように、【扉】は開き、その身体を次の世界へ誘おうとする。
徐々に徐々に、希薄になってゆく自分の密度と意識、そして反比例して強くなってゆく光の中、少女の栗色の瞳に大粒の涙が零れ落ちた。
それは、先ほどの歓喜の涙ではなかった。
真の、悲しみの涙だった。
出会いの喜び、そして、別れの悲しさ。
この二人が思い出させてくれた、人間らしい感情だった。
別れたくなかった。
せっかく、濃密な時間を共有できたこの二人と、別れたくなどなかった。
だから、それにせめて対抗するように、腕を伸ばし、涙声を張り上げた。
「私、忘れません。たとえ戻れなくても、次の世界で記憶を失っても、絶対に忘れません!
志貴さんが教えてくれたこと、シエル先輩が教えてくれたこと、絶対に忘れません!
だから、だから、私のこと、忘れないでください。綾人さんだけじゃない。
貴方たちが忘れずにいてくれたら、私はきっと―――――」
志貴の目の前で、少女の身体を覆う白い光が、一層強くなる。
もう、少女の身体も、半ば以上透けていた。
声も殆ど聞こえない。
だがそれでも、志貴も腕を伸ばした。
もう触れることもできない少女の腕に、自分の腕を重ねた。
たとえすり抜けても、重ねようとした。
志貴も叫んだ。
彼にもわかっていた。
たぶん、これが最後の言葉。
「君の名前を教えて!」
栗色の瞳から流れる涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、少女も必死で腕を伸ばした。
そして、可聴域から半分以上はみだした、かすれるような声で、少女は言った。
「私の―――名前は―――」
志貴の鼓膜は、少女の声を確かに拾った。
最後、感覚を共有することすらできなくなった二人の手が重なり合った瞬間。
強烈な光が、志貴とシエルの視界を焼いた。
志貴が視界を回復したのは、三十秒ほども経った後だった。
既に、少女の姿はなかった。
世界は、まるでそうあることが当然であるように、二人を置いてきぼりにしたのだった。
「忘れてなんかやるものかよ……絶対に……」
志貴は呟いて、ぎゅっと拳を握り締める。
その腕には、少女の手の暖かさが、確かに残っていた。
「さて、帰りましょうか、遠野君」
いつまでも目前の空間から視線を動かさない志貴に、シエルが優しく声をかける。
既にアレクトが張った結界も、少女が形づくった固有結界も効力を失い、公園は人の姿がちらほら見えだしていた。
日は傾きはじめ、もうじき、舞台を昼から夜へと変えるだろう。
「あの女の子なら、大丈夫ですよ、きっと」
志貴はもう一度、拳を握った。
その中には、何かの決意が握り締められているように、シエルには感じられる。
そうして、シエルのほうに振り向いた志貴は、もう迷いを振り切っていた。
彼にできることは、忘れないこと。
それだけならば、それだけを全力で。
いつもの志貴であり続ければよいだけのこと。
「はぁ。気が抜けたらお腹が減ったね、先輩」
「はい、その言葉を待ってました」
シエルは志貴の手をとると、最高の笑顔で、先導するようにテンポよく歩き出した。
「一仕事終えた後は、あそこに限ります。さぁ、このままメシアンに直行です♪」
それは街中で、密かな人気を持つインド料理の店だった。
志貴もシエルも、その店の常連である。
やや苦笑気味の笑顔を浮かべて、志貴はシエルについていく。
明日から、また騒がしい日常に戻るだろう。
めちゃくちゃになった客間のことを秋葉に説明しなくてはいけないし、アルクェイドがこの事件のことを知ったら、もっと騒がしくなる。
だが、志貴にとってそれはむしろ、好ましい日常であった。
シエルにされた「どうして彼女を助けたのか」という質問。
あの時、志貴は答えることができなかったが、今ならしっかりと答えることができる。
少女が襲われた場面に遭遇したときに、彼自身が気づかぬうちに、強烈な記憶が彼を動かしたのだ。
必ずこの少女を助けなければならない、と。
オーバーラップするのは、志貴自身の最も忌まわしい後悔の記憶。
志貴は願わずにはいられなかった。
あの栗色の髪と瞳を持つ少女が、幸福な日常を向かえることが、できるように、と。
志貴が以前、助けることができたかもしれないのに、助けてあげることができなかった大切な友人。
弓塚さつきのぶんまで――――。
(FIN)
終わりました。
ALICEさんに前半五編をお送りしてから、私の個人的な体調の都合で中断してしまって、約一年半。
やっっっと終わりました。
本当に、ごめんなさい。もう謝るしかないですね。
では、本作の解説。
この小説は、「月姫」と、ALICEさんの大長編作品「その先」、そして私(=KEEF)のオリジナルである「断罪の剣」のクロスオーバー小説です。
つまり、二次創作+三次創作+セルフパロディという、分からない人にはなにがなんだかわからない組み合わせになっています。
本当にすいません。
元々、贈り物のリクエストに「月姫」を頂いたこと、ALICEさんの「その先」のヒロインが眠り続けている理由を私なりに解釈してみたかったこと、そしてそのためには強力な敵が必要であったこと。
以上の理由から、この三作品の組み合わせになった次第です。
あいかわらず無駄が多い文章で、しかも最後をぎゅっと凝縮してしまったせいで、分かりづらくなってしまったかも。
せめて楽しんでいただければ幸いです。
(作品中では、ラストとの関連もあり、あえて「その先」のヒロイン(栗色の髪の少女)の名を明記しませんでした。
贈り物の小説である、という趣旨をご理解いただけたら幸いです。
興味を持って頂いた方は、ぜひ「その先」をお読みください)。
(初稿:08.05.10)
(改稿:08.08.20)