金髪紅瞳の襲撃者を三人がかりで退けた後、その三人は遠野家の客間にいた。
栗色の髪の少女が目覚めた客間ではない。
その部屋は、襲撃者の無遠慮な暴力と、シエルが撃ちつけた黒鍵によって、めちゃめちゃになっていたのである。
表面上は、そのことについては一言も触れず、使用人である翡翠はその部屋の後片付けをするため、三人を別の客間に案内したのだった。
少女は怪我らしい怪我はなかったものの、精神的にも肉体的にも疲弊している。
志貴も、あの黒い剣の直撃こそ避けたが、体表と服に細かな裂傷をいくつも作り、琥珀の手当を受けていた。
三人の中でもっとも重い怪我を負ったシエルだが、ここでも琥珀の介抱を断わり、消毒液だけを借りると、簡単な手当てだけを済ませて、自分で出した白い包帯をその左腕に巻きつけていた。
剣が貫通したのだから痛くないわけは無いが、それでも、あの時にロアによって受けた傷に比べれば、まだマシであった。
シエルの心には傷がある。
だが、その傷は既に乾ききっていた。
何よりもシエル自身が、傷を乾かす術を知っていたのだ。
少女をベッドに寝かせ、一通りの治療とシャワーを済ませてから、志貴とシエルは食堂に移ったが、朝と違って、どちらかの口から何らかの話題が出ることはなかった。
口を開けば、あの襲撃者の話題しか出ないことは解っていたし、それについて詳しく述べることも、もはやなかったからである。
シエルの推論は的中した。
彼女は志貴に「蓋然性が高い推論」としか言わなかったが、実のところ、かなり自信はあった。
もっとも、正解したところで誇る気分にはなれなかったが……。
だが、シエルが安堵したこともある。
志貴が戦闘中、「殺人貴」として目覚めかけたことが、未発に終わったことだ。
もしそれが現実のこととなれば、たとえあの襲撃者を退けても、後々別の巨大な問題を残すことになったろう。
事実、志貴の覚醒は八割がた現実になりかけたのである。
志貴を現実に引き戻したのは、白一色に染まった襲撃者アレクトの姿だった。
もっとも、より正確には、少女の起こした固有結界の発現と、その瞬間にシエルにかけられた声によってであろうが、志貴自身の印象では、すべての色彩を失った襲撃者の強烈な姿が、彼を人間としての地平に再び立たせたのだった。
そのことにおいて、志貴は二重に救われた。
一つには、志貴自身が殺人貴と化して異能の沼へ滑落することをとめられた。
いま一つには、あの襲撃者による闘いから生還できるきっかけとなった。
そのことを、志貴以上にシエルが理解していたが、現状では手放しで喜ぶことは出来なかった。
これからがどのように展開していくのか、まるで予想がつかない。
手のうちようが無いのだ。
ただ、はっきりしていることが一つだけある。
これから先、そしてこれ以上、志貴とあの少女を組ませるわけにはいかない。
それを許せば、今後、シエルの立場も微妙なものとなろう。
それだけは、シエルの意識のうちに、はっきりとした意見で固まっている。
主に、シエルの主観的な理由から、であるが。
琥珀の入れた紅茶を、疲れきった表情で口にしながらも、志貴とシエルは沈黙を守った。
二人の身体を覆う包帯や絆創膏が、その沈黙には似合わぬ剣呑さを、紅茶の匂いに乗せていた。
その沈黙は、正確に五八分間続いた。
少女が意識を取り戻すまで。
「さて、いささか迂 遠なことですが、 ようやくお話を伺えますね」
少女のベッドの脇に並べられた簡素な椅子に腰掛けたシエルが、まず切り出した。
少女はベッドに上半身を起こし、志貴はシエルの隣に座っている。
志貴も少女も、その衣服を着替えていた。
志貴の服は細かく沢山の切れ目ができ、少女の服は砂だらけだったからである。
もっとも、少女は意識を失って行動は出来なかったため、琥珀と翡翠の手によって、品のよいシルクのパジャマに着替えさせられていた。
志貴とシエルの二人が、最初に少女の部屋を訪れたのは、三時間も前である。
その直後、茶々というには危険すぎるアクシデントが乱入し、ことここにいたって、ようやく少女と話をする機会が訪れたのだ。
初めて顔を合わせてから半日以上が経過し、あれだけ激しい戦いを二度も共にしたというのに、三人が言葉を交わすのは、これが最初だった。
シエルの言うとおり、迂遠なことである。
三人の中で、疲れきっていない者はいなかったが、それでも憔悴を表情に出す者がいないのは、流石というべきであったろう。
志貴とシエルは、一難が去って精神のチャンネルを切り替えていた。
少女は一時間弱とはいえ、休息をとれていた。
まず最初に、志貴とシエルが簡単な自己紹介をし、これまでに明らかになった事実の確認が行われた。
あの金髪の襲撃者が、少女を拒絶する世界の一端であること。
だが、その襲撃者アレクトは、人間の手で撃退が可能な存在であること。
少女自身が、世界のバランスを崩す危険な能力の持ち主であること。
その能力が、ペナルティ無しで並行世界を移動できるものであること。
少女が、固有結界を発現させうることができること。
その固有結界と、並行世界移動の能力に関係があるかどうかは、現時点ではわからないこと……。
結局は、靄のように不分明であった疑問の数々が、確たる疑問の数々に変わっただけではあった。
そうならないよりマシであろう、という程度の確認である。
「申し訳ありません……」
まず少女は謝罪した。
一つは、幾度となく危機を救ってくれたことの感謝が遅れたことに対して。
そして、いま一つは、彼女自身の記憶が不鮮明なことに対してである。
「私は、自分が何者であるかもわからないのです。あなた方の質問の全てにお答えすることは、恐らく……」
不可能だろう。
申し訳なさそうに垂れた頭が、その自信の無さを如実に現していた。
「一つでもいい、覚えていることがあればいいんだが……」
志貴が頭をかきながらシエルに視線を向ける。
シエルには思うところがあるらしい。
その眼鏡の奥で、理知的な輝きが増している。
「貴方の能力は、今のところ全く未知数ですが、あの襲撃者の言が確かならば、必ず繋がりがあるはずです」
「と、言うと?」
「個人として持ちうる能力が、全く関連が無いということは、まずありえません。
魂なり精神なりを通して、必ず何らかの相克関係にあるのです」
シエルの目が、少女のほうに向いた。
その視線には、微妙な優しさが加わっているように、少女には思える。
「貴方の場合、状況的に説明しうる能力は【並行世界移動】と【固有結界】です。
あの襲撃者は、その【並行世界移動】を貴方の存在の否定理由としていましたが、それは一面的な主張に過ぎません。
【並行世界移動】と【固有結界】は恐らく表裏一体の関係にある」
「つまり、どちらか一方が原因となって他方を刺激しているということか?」
「遠野君、ご明察です」
一つ微笑んでから、シエルは再び視線を少女に向けた。
「貴方が発生させた固有結界は、人間としては非常に強力なものです。ですが、あの結界は、最初からあのようなカタチではなかったはずです」
「……どういうことですか?」
「貴方がどのくらいの間、並行世界を渡り歩いているのかはわかりません。しかし、短い時間ではないでしょう。長い期間をかけて発展拡大した並行世界移動の能力が、魂を通じて結界を強力にしているのです」
「そんなことがありえるのか?」
志貴が身を乗り出す。
「真実かどうかはわかりません。あくまで、蓋然性の高い推論です。ですが……」
「わかってる。先輩の推論は当たるもんな」
らしくもなく、志貴は苦笑した。
この時、シエルも志貴も、そしてそれを作り出した少女ですら、知る由も無い。
少女の作り出した固有結界が、少女が幼い頃に受けた陰湿な虐めが原因で、少女自身が作り出している【心の壁】なのだということを。
自分を受け入れてくれるもののみを残し、あとは不要なものとして、世界そのものを漂白してしまう、それは、心の内部と外部との障壁なのだった。
「それで、貴方自身が覚えていることは、何一つ無いのですか?」
シエルの声が、急に実務家然としたものに変わったように、少女には思えた。
シエルは意識しているわけではなかったが、事件の当事者としては、わかることはすべて知っておきたいのも事実だったのだ。
ここで、少女の動きが止まった。
何かを意図して隠そうとしているわけではない。
だが、何かを話しあぐねている。
そんな印象を志貴は受けた。
だが、シエルが決定的な疑問を呈した。
「貴方は先ほどの戦闘中、こう言いましたね。【綾人さんの元に帰るのだ】、と。綾人とは誰ですか?」
志貴は不思議そうな顔をする。
この少女はそんなことを言っていたか? 記憶を探ってみるが、自分は覚えていない。
志貴はアレクトとの戦闘に集中していて、少女まで意識がいっていなかったのだ。
だが、シエルがアレクトとの戦闘で手を抜いていたわけではない。
どれほど過酷な状態にあろうとも、自由に動かせる触覚を確保しておけるのが、シエルの戦闘経験であった。
事実、アレクトにとどめを刺したのは、彼女なのである。
少女は観念した。
そして、静かに語り始めた。
顔も正体もわからない、綾人という男性のこと。
なのにその名を聞いて心が暖かくなれること。
どこなのかもわからない夕日の丘の記憶。
自分はそこに帰らねばならぬという、激しい想いのこと……。
志貴にはなにがなんだかわからなかったが、それらを聞いて、シエルはため息を一つついた。
「聖痕……ですね」
「すてぃぐま?」
志貴と少女の声が重なった。
「そうです。人間は誰でも、原初の風景と記憶を魂に内在しています。どのような記憶であるかは、人によってそれぞれですが。
その中でも、特に密度の濃いものをさして聖痕と称します。
その魂の所持者がそれを意識することはまずありませんが、それでも、その人の行動にまで影響を及ぼすほど強いものをです」
「魂の記憶……」
志貴の目が、不意に遠くを見る。
だが、それも一瞬のことだった。
「俺にもあるのかな」
「あるかもしれませんね」
シエルは冗談めかして言った。
だが、内心、もう一つ大きなため息をついている。
実のところ、遠野志貴という少年の聖痕は、強いとか弱いとかいうレベルの騒ぎではない。
志貴の魂に刻まれた記憶とは、すなわち「七夜の記憶」のことである。
ついさきほど、志貴を殺人貴へと誘おうとした忌まわしい記憶だ。
この記憶は、志貴の現在の行動にも、少なからぬ影響を及ぼしている。
ここで、シエルは思い当たることがあった。
『まさか……。遠野君が変化しかけたのは、この少女の強い聖痕のせい……?』
他者にまで影響を与えるほど強い聖痕など、シエルは聞いたことが無い。
だが、可能性の一つとしては無視できぬものだった。
志貴とこの少女、二人の持つ強い聖痕が、もしも本格的に影響を与え合うような事態が起これば……。
想像したくなかった。
その時は、シエルは強い覚悟を持って、二人に当たらねばならないだろう。
最初に感じた危惧と合わせても、やはりこの少女を志貴の傍においておくことは、シエルには得策とは思えなかった。
「目的ははっきりしているわけですね。ならばやることは一つだけです。貴方を、その綾人さんの元へ帰れるようにすればいい」
シエルは言ってみせたが、志貴と少女は、むしろ呆れたように声を低めた。
「随分と簡単に言ってくれるね、先輩……。雲どころか宇宙を掴むような、途方も無い話だけど、アテでもあるの?」
「言うだけならタダですから。目的がわかりきっているのに、後ろ向きに歩かなければならない道理などありませんよ」
極めて前向きなシエルに、志貴は再び苦笑した。
確かに、シエルの言うとおりではあるのだが……。
だが、シエルの前向きは気分の持ちようだけではなかった。
シエルは笑顔のまま、こんなことを言ったのだ。
「それに、アテならあるじゃないですか」
「は?」
再び志貴と少女の声が重なった。
表情のほうは、驚くのを通り越して唖然としている。
「アテがあるのですか!?」
少女がベッドから身を乗り出すようにシエルに詰め寄る。
彼女が初めて見せた能動的な行動かもしれない。
そんな少女の前で、シエルは指を振った。
「貴方について、貴方よりも詳しい人が一人、いるじゃありませんか」
まるで理解できない。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔、というのは、この瞬間の志貴と少女の表情をさして言うのだろう。
「恐らく誰よりも知識豊富だと思いますよ。とっつきにくさも世界一ですけど」
「無茶だ!」
今度は、志貴が声を荒げて身を乗り出した。
彼にはわかったのだ。
シエルの言う「アテ」の正体が。
「全くもって無茶だ。彼女とはついさっきまで殺しあったばかりだぞ。そんなヤツと、場を合わせて喋れって言うのか!?」
彼女、ヤツ―――。
ようやく、少女にもその正体がつかめた。
アレクト。
あの金髪の襲撃者と、立ち向かって話せ、とシエルは言っているのだった。
志貴の言うとおり、まったくもって無茶な話だった。
そも、そのアレクトにとどめを刺したのはシエル自身ではないか。
「だから、そんなヤツと場を合わせて喋れ、と言っているのです」
シエルの言葉は、どこまでも楽天的に、志貴には思えた。
どのような思惑があるのか、まるでわからない。
シエルは、衝動にまかせて抗議しようとする志貴を制して、打って変わって少女に厳しい目を向ける。
自然と少女の背筋が伸びた。
「このままでは、貴方は永遠にあの襲撃者から逃げ続けなければなりません。いつもいつも、都合よく私たちが助けに入れるとは限らない。
いつかあなたは、この世界と正面から向き合わねばならないのです。でなければ、永遠にこの繰り返しです。逃げているばかりでは、帰るべき場所にも、たどりつけはしません」
言って、シエルは一つ頷いた。
表情にこめられた厳しさが、一段と増した。
「……覚悟を極めなさい。自分と向き合う覚悟を」
その言葉に、先ほどまでの楽観的な響きはない。
陰惨なまでの覚悟を要求する、それは言葉だった。
少女は俯き、下半身を覆うシーツを握り締める。
震えていた。
それは、シエルの厳しさに対してのものか、あの襲撃者と向き合うことへの恐怖か、志貴にはわからない。
あるいは、その両方かもしれなかった。
だが、少女は決意した。
自分の意思で、再び前へと踏み出したのだ。
「わかりました。貴方の仰るとおりにしてみます。他の誰でもない、自分自身のために」
その瞳には、先ほどまでの彼女にはなかった強さが籠められていた。
志貴が心配そうに声をかけるが、少女は気丈にも微笑んで頷くだけだった。
もう後へは退けない。
道は、自分自身の前にしか無いはずだったから。
シエルも微笑んだ。
その微笑には、少女とは異なる意味が籠められていた。
少女の持つ固有結界は、自分の望まぬものを漂白して、世界に縛り付けてしまう類のものであった。
そして、その結界のなかで、遠野志貴は色を奪われることなく、しっかりと立っていた。
この結界の力と、志貴のもつ死神の力が有機的に結合すれば、どのようなことになるか。
極めて簡単な回答である。
少女が自ら望まぬものの足を奪い、ゆっくりと、志貴がそれを「分割」する。
すべての足を止める「結界」と、すべてを「殺す」ことができる「眼」――――事実上、この世界に破壊できない概念はなく、それに抵抗できる存在もいない。
それは、現世に現れた正真正銘の死神以外のなにものでもなかった。
元来、シエルがこの地におくられてきた重要な任務の一つは、この地方の「異能」を抹消するというものである。
この地の最大の「異能」――すなわち遠野志貴の存在を。
それを、シエルの志貴に対する好意もあり、上にはだましだまし、シエルは現在の生活を楽しんでもいるのだ。
だが、志貴が本物の死神に堕ちてしまうと、話は変わってくる。
この極東の地にそのような存在が生まれ出でたとなれば、シエルの誤魔化しも、もはや通用しないだろう。
埋葬機関は、異端審問官という名の武力の塊を、団体で送り込んでくるに違いない。
そして、この地で遠野志貴を抹殺するための先導役は、シエルの任となろう。
シエルにとっては、それはもっとも避けたい未来であったのだ。
だが、少女が覚悟を極めてくれたことで、最悪のカタチでの志貴との結合は、どうやら防げそうではある。
無論、何が起こるかはわからない。
楽観的な意見は、この場合、百害あっても利は一つもないであろう。
覚悟を極めなければならないのは、少女と同様、シエルもそうであったのである。
(To be continude...)
(初稿:08.05.10)