志貴とシエルの二人は、扉の前で一瞬だけ足を止め、もう一度視線を合わせて頷く。
事態が一刻を争うことは明らかだ。
ゆっくりと手順や作戦を案じている時間は無い。
扉の向こうからは、相変わらず何者かが激しく暴れまわる音が響いている。
音から察するに数は二名。
恐らく、志貴が助けた少女と、昨夜激闘を演じた金髪の襲撃者に間違いあるまい。
志貴がドアノブを掴み、勢い良くドアを開け放つ。
そこには、昨夜、志貴たちが最初に事件に触れたのと、殆ど同じ状況が展開されていた。
栗色の髪の少女が床に尻餅をつき、金髪の少女が、それに対して今にも禍々しい漆黒の剣を突き立てんとしていたのだ。
唯一、前回と異なるのは、剣を向けられた少女の瞳が、生気と目前の事態に対する反抗心に満ち溢れていることだった。
一秒の五分の一ほどの微かな時間、現場に存在する四人の八つの視線が交錯する。
何者が来たのか咄嗟に目が向いた二人の少女と、無残に破壊された部屋の有様に目が取られた志貴。
だが、シエルだけが違った。
真っ先に、目前の現状以外の何者にも目もくれずに瞬時に反応した。
殆ど瞬間的に制服を脱ぎ捨て法衣に脱却すると、手にした十を越える黒鍵を、二人の少女の間に、文字通り機関銃のように続けざまに投げ放ったのだ。
シエルの剣が空を切り裂く音と、それが二人の少女の中間に突き刺さる音、そして金髪の襲撃者が咄嗟に身を後方にかわし着地する音。
この三つの音が、殆ど同時に志貴の鼓膜を刺激する。
だが、一人冷静さを保ちえたアドバンテージを捨てる気も、この攻撃の機を逃す気も、シエルにはまったく無い。
咄嗟に後方に飛びのいた襲撃者の現在位置に向けて、なおも黒鍵を間断なく、そして容赦なく投げ続ける。
十本、二十本、そして三十本。
その数は、一秒間に十本単位で増えた。
すばやく動く小柄な襲撃者の移動した後の床を、正確に無慈悲にシエルの剣は貫いていく。
細剣とはいえ、一本一本が下級の吸血鬼を消滅させるほどの破壊力を有する剣だ。
一本でも突き刺されば、その場でこの事件は全て終わるだろう。
だが、黒鍵は虚しく絨毯に突き刺さり、その破壊力を床に吸収され、さながら鉄の森と化していた。
神技ともいえるシエルの投擲をもってしても、この小柄な襲撃者の影さえ貫くこと適わないのだ。
襲撃者が栗色の髪の少女から三十歩ほどの距離を移動し、窓から脱出したところで、シエルはようやく投擲をやめる。
「遠野君、女の子を!」
一瞬の出来事に呆け気味だった志貴を叱咤しておいて、シエルは自分も素早く窓から庭に走り出る。
あの敵が三人の前から逃走するとは考えづらい。
恐らく、狭い室内から庭という広い戦闘フィールドへ出て、一旦、勝負を仕切りなおすつもりなのだろう。
『建て直しの時間など、与えない!』
シエルは、普段はそう血の気の多いほうではないが、間違いなく一流の戦士である。
慎重と拙速との使い分けを微塵も誤ることなく黒鍵を手にし、一瞬の躊躇いも感じさせぬ速度で敵を急追した。
地に片膝をついた状態からゆっくりと立ち上がった金髪の襲撃者は、襲いくるシエルの一撃目をその漆黒の剣で受けると、それで心のチャンネルを切り替え、シエルの攻撃を受けて立つ。
剣と剣、二刀流vs.二刀流。
金属と金属の打ち合う音が清涼な朝の空気をかき乱し、飛び散る火花が周囲の色を汚した。
図抜けて優れた戦士である二人が、四本の腕で駆使する漆黒と白銀の四本の剣は、それぞれが意思を持っているかのごとく、常軌を逸したスピードでお互いの急所を抉り取ろうと必殺の一撃を繰り出し、同時に敵のそれを弾き飛ばす。
二人は慎重に、だが全力で十数合を重ねあうと、一旦距離を開けた。
少女は後方に間合いを開き、シエルは充分に警戒しながら、走ってきた志貴と栗色の髪の少女の元に駆け寄ったのだ。
シエルの、この無謀とも思える突進は、実は冷静な計算の元に為されたものである。
無論、主な目的は栗色の髪の少女から金髪の襲撃者を引き剥がすことであったが、もう一つの目的がある。
前回の戦闘において、積極的に逃走を提案した自分が、むしろ積極的に敵に突進することで、敵の行動心理、あるいは経験からの「思い込み」の裏をかこうとしたのだ。
先の戦闘で敵に仕込んだ、この心理的な「
そしてシエルにとっては、その「一瞬の隙」で充分であったのだが、目前の敵はどうにも素直では無いらしい。
「猛々しい冷静さ」とでもいうべきもので、一流の戦士には欠かせぬ長所ではある。
無論、一般の人付き合いに持ち込めば、たいそう役には立つが、「可愛げが無い」と嫌われることもまた疑いない。
シエル、志貴、そしてターゲットの少女の三人を目前にして、それまで無表情だった小柄な金髪紅瞳の襲撃者は、初めて口元を引き締めた。
先ほどのシエルの、常軌を逸した運動性能は、明らかに前回の戦闘とは異なるものだった。
なるほど、色々と画策してくれる。
まだなにを隠しているか、解ったものではない。
だが、それでも自分の優位は動かぬはずであった。
シエルが策を弄するのも、まともに正面からぶつかれば自分が不利であることを彼女が理解している、良い証左である。
ならばこちらは、小細工を弄する必要は無い。
堂々と正面から叩き潰すのみである。
それで、すべては済むはずであった。
間合いが開いて、一瞬のみ弛緩した空気が、金髪の少女が剣を構えなおすことで再び張り詰める。
大気の密度が急速に増し、それに反比例して温度は下がったように感じられた。
シエルと栗色の髪の少女はそれを敏感に感じ取り、緊張した面持ちで肩を張る。
だが、意外なことに、彼女の前に立っていた志貴が、それを制した。
シエルの突出を腕で制止し、小柄な襲撃者を睨み付ける。
「お前の左腕、俺が“線”を斬って“殺した”はずだな。なぜ、まだくっついている? なぜ自由に動かせる」
低い声で志貴が問う。
だが、前回の戦闘での問答を繰り返すように、襲撃した側の解答はにべも無い。
「解答の必要は無い。君が知る必要の無い事項だ」
だが、志貴はなおも問い詰める。
「それは、お前の正体が“世界”だからか」
その一言に、金髪の少女の眉が少し動いた。
それはすなわち、肯定の解答だった。
「なるほど、まんざら英雄気取りの馬鹿ではないらしい」
感心したのか嘲笑したのか、どちらともとれる微妙なトーンの声で、襲撃者は言い放つ。
「だが、君がそれを知ったところでどうする」
「それは俺たちが決めることだ。お前が気にすることじゃない」
志貴の解答も、礼儀に適ったものとは言いがたい。
この時点で、シエルは志貴の変化に気づいた。
彼女の目の前に立ちはだかる志貴の背中から、人間的な温度が消えつつあるのだ。
────なにかが起ころうとしていた。
彼なりに何かを感じ取り、感情が動きつつある。
シエルは、目の前の志貴と、離れた襲撃者の少女と、二人を注意深く見つめた。
「お前、名前は? 存在として生まれたからには、名前くらいあるだろう」
志貴のその質問は、襲撃者の意表を突いたらしい。
彼女は、明らかに表情に出して驚いた。
「異なことを聞く。名など、固体識別の用途意外に意味など無い。こうして単一の存在として、しっかりと私を認識している君に、私の名など意味の無いものだろう」
その返答に真っ先に反応したのは、志貴ではなく、ターゲットにされている少女だった。
「そんなことない!」
凛とした声で叫ぶ。
少女は目覚めたばかりのつい先ほど、魂の奥に眠る「名前」の存在で、小さな小さな希望を与えられたばかりだった。
目前の襲撃者のにべも無い回答は、自分の命だけでなく、その小さな希望まで刈り取る言動のように思えたのだ。
行動で存在を、そして言動で希望を、彼女は襲撃者に否定されようとしている。
黙っているわけにはいかなかった。
襲撃者は、奇妙にやりにくそうだった。
想定していなかった会話に乗るかどうか、決めかねているようにも見える。
だが、襲撃者は名乗った。
それで、この下らぬ会話に終止符を打つつもりだった。
「私に与えられた存在名は、アレクト。これで満足か」
「アレクト……」
その名を聞いた三人の中で、唯一、シエルの表情が変わる。
「アレクト」とは、古代ギリシア神話における「正義と復讐の女神たち」であるエリニュス(複数形では「エリニュエス」)の一員の名だ。
神話における「エリニュス」は、まさに【秩序】のシンボルであり、自然の摂理を守る女神の集団であるが、夜昼となく夢の中にまで現れて反秩序者を追い回すその徹底的な執拗さから、彼女たちに追われた者は必ず発狂するとさえ言われた。
彼女らの執拗さと武力は、当時の人間社会では非常に恐れられた。
「エリニュス」のローマ名は「フリアイ(Furies = 狂乱、激怒)」であり、また最大の旧約偽典「エノク書」においては、最初から「女神」ではなく「悪魔」として遇されていることからも、その程度がうかがい知れる。
その「正義と復讐の女神」の名を冠する少女が、「世界の修正力」として、目前に立っている。
なんと皮肉なネーミングであろう。
つまりは、アレクトが狙うこの栗色の髪の少女に加担した自分たちは、秩序への反逆者であり、遠き時代を隔てたオレステスの再来というわけだ。
シエルの顔に、苦笑寸前の表情がきらめく。
彼女らの信ずる主が作り上げた「世界」は、2000年という膨大な時間を経て、なんともブラックなジョークを好む存在へと成長したようである。
無論、それは彼女らの主の責任などではなく、その世界を変化させ続けた後世の責任にほかならない。
さしあたり、彼女たちは、その目前の「女神」を、障害として取り除かねば生き残れないのであった。
シエルが一瞬見せた心理的な空隙を逃す愚を、アレクトと名乗った襲撃者は侵さなかった。
剣を構えなおすのと、大地を蹴るのと、二つの動作を同時にやってのけると、初戦で見せた矢の如きダッシュを完璧に再現してみせたのだ。
彼女の小柄な体は、あっという間に最高速に達した。
シエルは、敵前で見せた隙を二分の一瞬で後悔したが、そんな後悔の時間すら、アレクトとの戦闘では貴重なものだった。
一撃目が出遅れるとわかっていながらも、シエルも最速で剣を構えなおし、アレクトがそれを阻もうと最大速度で襲い掛かる。
アレクトは漆黒の剣を大きくスウィングし、動作が遅れたシエルの頭上に叩き落した。
ゼロコンマ一秒後には、頭蓋骨と脳が砕ける手応えと同時に、シエルの脳漿があたりに撒き散らされている。
……はずだった。
だが、返ってきたのは金属の手応えだった。
信じられぬ体捌きで二人の間に割って入った志貴が、小柄な襲撃者の剣を、手に持ったナイフで受け止めたのだ。
すでに志貴は眼鏡を外し、魔眼を発動させている。
その瞳は、死神の吐息を思わせる蒼い輝きを放っていた。
「まだ俺の質問は終わっていないぞ」
「君と話すことなど、何も無い!」
襲撃者アレクトは、志貴の言葉と身体を跳ね付けた。
剣を持ったままの鋭い肘が、毒針と化して彼の脇に突き刺さりそうになるが、志貴はこれも軽く飛びのいて避ける。
アレクトはシエルを無視し、志貴を追撃した。
この三人が結合するのであれば、真っ先に始末するべきは、間違いなく志貴であると、判断したのだ。
生物・非生物の種類を問わず、完全に存在を“殺す”ことができる志貴の「直死の魔眼」は、先の戦闘で「世界」の末端であるはずの自分の左腕さえ“殺して”みせた。
そんな“呼吸する危険物質”である志貴に自由に動かれては、なにかと面倒である。
前回の戦闘での失策を、繰り返すわけにはいかない。
だが、シエルが前回と違う動きを見せたのと異なる意味で、今回は志貴の動きも前回とは異なった。
シエルのように、策を弄しているわけではない。
だが、目つきと動きが、明らかに違う。
速度でも腕力でも、アレクトの方が圧倒的に上のはずだ。
だが、前回は始終圧倒されっぱなしで、右往左往していた印象のある志貴が、今回は冷静にアレクトの動きを見極め、攻撃を防ぎ、反撃を試みた。
彼は縦横に流れる漆黒の剣をギリギリの距離でかわし、スルリと懐に入りこみ、そのままナイフを突き出す。
カウンターで突き出される剣を、これもかわして距離を置く。
アレクトは、数度にわたって志貴の反撃を避け、数歩退いた。
これも、前回の戦闘では無いことだった。
『なるほど、目覚めたのだな……』
ここにきて、アレクトとシエルが悟る。
遠野志貴がこの二年、数多の死地を潜り抜けて生還してきたのは、無論、彼が意識不明の重症を負うほどの事故に合い、【 】に触れることで手に入れてしまった「直死の魔眼」に負うところが大きい。
だが、彼が本来持つ能力は、それだけではないのだ。
志貴が「遠野志貴」になる以前、未だ「七夜志貴」だった頃、本人の記憶に無いほど昔から体内に刷り込まれた「暗殺者」としての訓練がもたらした、驚異的な体術。
いや、暗殺・退魔を生業とする「七夜」が、途方も無い年月をかけて磨き続けてきた、「超体術」という名の「超能力」。
志貴は、無意識にそれを繰り出しているのだ。
そう、目覚めつつある。
稀代の暗殺者「七夜黄理」の息子として、裏社会にその名を響かせるはずだった、本来の志貴────「殺人貴」。
「面白い!」
アレクトは叫ぶと、その攻勢をさらに増した。
本来、「戦闘を楽しむ」という思考は、彼女には無い。
卓抜した体術と剣術を駆使し、徹底的に任務遂行に特化した神経網でもってターゲットを一撃で葬り、そして彼女自身も消える。
それが、「世界の修正力」としての、アレクトという存在の全てだ。
……本来ならば。
だが、今目の前に現れた異物は、明らかにその範疇を超える判断を、彼女に迫っている。
彼女に、「戦え」と挑発しているのだ。
どのみち、あのターゲットを抹消するには、この目の前の生粋の死神と、彼に組する教会の犬を倒さねばならない。
ならば、この挑発に乗るのも無駄では無い!
切り替えの速さは、この襲撃者の最大の長所だった。
迷いというものが微塵も無い。
その精神的な速度がある限り、ちょっとやそっとでは、彼女の鼻を挫くことは不可能であろう。
『遠野君、いけない! 』
志貴とアレクトの表情の変化を察し、シエルが参戦する。
直接斬り合いを演じる二人の後方から、アレクトの足を追い、退路・進路を断つ様に黒鍵を投げつける。
アレクトはこの広い庭にありながら、瞬間的にできた黒鍵の壁に背中を阻まれて、追い込まれる形になった。
だが、これで一向に狼狽するところが無いのが、この襲撃者の可愛げのないところであった。
後ろがダメならば、ひたすら前へ。
簡単な話だ。
一撃で自分を殺す能力を持つ志貴と、神技の域に達した投擲技術を持つシエルを相手に、なお押しまくる。
小さな七夜の短刀でよく応戦し続けた志貴は、ついに数歩後ずさる。
シエルが、彼への追撃を阻むように黒鍵をアレクト目掛けて投げつけるが、それを器用に剣で弾き返し、金髪が風に乗って死神へと襲い掛かかった。
再び剣とナイフが空を裂き、火花を散らす。
瞬間的に切り裂かれた空気が、鎌鼬となって風さえ薙ぎ、光を焼いた。
これほどの死闘を演じてなお、二人は問答を続ける。
「なぜ、あの少女を世界が狙う!? 彼女が結界をコントロールできないからか?」
「それも間違いではない。だがそれは、あの少女がもつ問題の一端に過ぎぬ!」
「どういうことだ」
「その少女は、肉体を別の並行世界に残したまま、本人の意思に関係なく、魂だけで並行世界を彷徨する
それも、特定の並行世界に行き着けば、魂に内在する魔力だけで、自在に物質化し、肉体を得るほどの力を秘めた!」
混戦の中で数十合を斬り交わし、今度は志貴の方から間合いを離した。
シエルがそれを追い、彼の傍らに立つ。
「だが、異邦人だからといって、なぜ世界が彼女を狙うのです? ゼルレッチの例もある。
彼と違い、なぜこの少女は看過できないのです」
志貴に次いでシエルが問う。
アレクトが、立ち止まってシエルに剣を向けた。
「君等には解らぬだろうが、世界は実に微妙で繊細なバランスを保っている。ゼルレッチは自ら現実世界からの修正を苛むことで、ギリギリのバランスを保っていた。
だが、その少女は違う。
なんのハンデも無く、自らの意思にすらよらず、複数の世界を行き来する。
それは、この世界の複雑で絶妙なバランスに、いつ、どの程度の楔を打ち込むことになるやも知れない危険な要素なのだ」
「だから、彼女を消すというのか。まだ、なにも起こっていない、この段階で」
「そうだ。“何か”が起こった後では遅いのだ」
無慈悲に、そして無遠慮に、襲撃者は言い放った。
遠慮などあろう筈もない。
彼女は、それを成すためのみに、この世に生まれ出でた存在なのだ。
だが、言われた当事者は、とても正気を保っていられなかった。
栗色の髪の少女の身体が、小刻みに震える。
いったい、自分が何をした?
誰にも望まれずにこの世界に降り立ち、誰にも教えられることなく目的を探してさ迷い、誰にも祝福されることなく死んで逝け、というのか。
……自分は、世界にすら必要とされていないというのか。
少女の身体が震えた。
悲しみだけではない、どうしようもない無力感と、悲しみ、情けなさ、そして怒りがこみ上げる。
身体の中身の全てが空白になった。
少女は暴走し始めた感情を、襲撃者に叩き付けた。
「私だって、帰りたいの! 彷徨いたくて彷徨っているわけじゃない! 失いたくて全てを失っているわけじゃない!!
なのに……、なんでこんな……」
言葉の最後は、声にならなかった。
怒りに勝った情けなさが、涙に変わって零れ落ちた。
自分が誰かも解らぬまま与えられるものは、死しかないという現実。
そして自分だけではそれに対抗しえぬ情けなさに涙した。
だが、そんな少女に対してすら、襲撃者の言葉は、痛烈を極めた。
「君の意思など問題ではない。君の存在こそが問題なのだ。君が生きている、その事実こそが、この世界にとって最大の障害なのだ」
それは、少女の存在に対する『全否定』に他ならなかった。
言葉、行動、そして意思。
世界の全てが少女を否定していた。
少女は、膝から地面に崩れ落ちる。
そして、地面に突っ伏して泣いた。
ひたすら泣いた。
泣くことしかできなかった。
だが、彼女が流した涙すらも、世界の一部である地面は否定し、弾き返すかもしれない。
そう思うと、もう涙も出てこなかった。
ただ心と咽喉だけが、血の涙と嗚咽をこぼし続けた。
そんな少女をアレクトの視界から守るように、志貴が立ちはだかる。
彼の表情も、深刻という言葉以外の形容は不可能だった。
「それが────
志貴の言葉に、アレクトは表情を消したまま返す。
「そうだ────これが
言いつつ、アレクトは剣を構えなおす。
次のアクションで、三人の首を纏めて狩り落とす。
それは、決して不可能なことではないはずだ。
それに対する志貴の顔から、すべての表情が消えた。
目前にいるのは、昨夜・今朝と、二度にわたって散々に彼らを苦しめた存在に他ならない。
だが、そんな彼女を見る彼の表情からは、まったく人間らしい感情が消えてしまっていた。
「ならば、俺は……」
小さな声で呟き、目前の襲撃者に合わせるように、ナイフを構える。
なんの感情も宿らぬ表情の一点で、その魔眼が一層の蒼い光を放つ。
静かな声が、周囲の空気を凍結させた。
「────
(To be continude...)
有名なエピソードとして、ミュケナイの王アガメムノンの長子オレステスの例がある。
アガメムノンは勇者であり優れた統治者であったが、ある日、結託した妻と愛人によって暗殺されてしまう。
復讐を誓い成長したオレステスは、見事に母とその愛人を討ち取り、父の復讐を成し遂げた。
だが、血族による絆が最も崇高とされた古代、いかな理由があろうと、母親を殺すという行為は秩序への最大の反逆である。当然、オレステスの行為は、秩序を守るエリニュスたちの逆鱗に触れた。
オレステスは必死に事情を説明するが、エリニュスたちは一切聞く耳を持つことなく、母親を殺した彼の命を奪おうと、逃げるオレステスを執拗に追い続けた。
多くの人々が彼の助命を嘆願し、宣託の神アポロンがオレステスの罪を清めたが、それでもエリニュスらは納得しない。余りに執拗に、夢の中にまで現れて追い続ける彼女達に、オレステスは肉体も精神も、ボロボロになってしまっていた。
最終的に、アテナイにおいて、神々の開催する裁判でオレステスに無罪の裁定がなされ、それでようやく彼女たちは納得し、武器を引いたのだった。
旧約偽典ではなく、旧約外典とする説もある。また、エチオピア正教会では聖典として扱われている。
「エノク書」には、エチオピア語で書かれた「エノク第一書」と、スラブ語で書かれた「エノク第二書」があり、これらを纏めて「エノク書」と称するのを憚る動きもある。
「エノク書」における「エリニュス」は、ローマ版「フリアイ」として描かれており、悪魔の階級にして七位。
イナゴの王でありヨハネ黙示録における「奈落の王」であるヘブライの悪魔「アバドン」の支配を受けているとされる。
アバドンのギリシア名は「アポリオン(= 破壊者)」。
(初稿:07.02.24)