深い眠りから覚め、目蓋をゆっくりと開き、最初にクリーム色の天井を目にした時、その少女がかすかに落胆したことは、残念ながら事実だった。
何度も夢に見ながら手の届かない、あの夕日の丘。
また彼女は、そこではない違う場所で目覚めたのだ。
場所も地名も解らない、しかし大切な場所。
大切な誰かが待っているはずのその場所を思い出せないことに、少女は何度目か解らない失意のため息を漏らす。
横になったまま、思わず天井に向けて腕を伸ばし、その小さな手を握ってみた。
掴めるのは清純な、だがなにも知らない空気だけだった。
その白い指には、なんの小さなきっかけすら引っかかることは無かった。
そうして、少女は二度目のため息をついた。
だが、いつまでも落胆しているわけにはいかなかった。
とりあえず、自分がどういう状況にあるのかくらいは、知っていかなければならない。
少女はゆっくりとベッドに上半身を起こして周囲を見渡し──、そして、我が目を疑った。
まず第一に、自分が眠っていたその部屋の広さに。
そして、その部屋に設えられた家具に、である。
決して派手ではないけれども、充分に気品と品格を漂わせるその室内の装いは、持ち主、あるいは世帯主の、落ち着いた格調とセンスを感じさせた。
ホテルのスウィートルームの寝室もかくやというその状況に、少女は両目と口で三つのOを作ってしばらく唖然としたが、そのまま固まってしまうわけにもいかない。
ふと我に返って首を二つ振ると、ベッドから起き上がり、すぐ傍の窓際に立った。
その大きな窓を開け、部屋と自分に風を通して、少しずつ記憶と思考を纏めだす。
一番最初に脳裏に浮かんだのは「光」だった。
白い光に包まれて、彼女は夜の公園に足を踏み入れたのだ。
しかし、周囲の状況を確認するよりも前に、突然の襲撃者によって強制的に戦闘状態に巻き込まれたのだった。
そして、助けに入ってくれた一組の男女。
自分は守ってくれた男性の背中の後ろに隠れつつ……。
そこで記憶の糸はぷっつりと終わっている。
果たしていったい何があったのか。
どうして自分はここにいるのか。
記憶を纏めてみて気づいた。
結局、彼女は大切なことを何一つ覚えていないのだ。
自分の名前は?
白い光に包まれて夜の公園に現れる以前の記憶は?
あの襲撃者は誰なのか?
助けてくれた男女の正体は?
そして、この屋敷はどこなのか。
───なにひとつ、彼女の記憶の針にかからなかった。
ベッドの脇にある調度の鏡に、自分の顔を映してみる。
栗色の髪と、同色の瞳が、鏡の中から自分を覗き込んでいた。
年齢は十代半ばから後半。
見た感じの性格は大人しめ……。
……そう自分のものであるはずの顔を見定めるのも、奇妙な感覚であった。
見慣れていたはずの自分の顔。
でも、そこにはあるのは違和感だけ。
顔の造詣に対してのものではない。
身体と記憶が重ならない。
外面と内面が一致しない感覚。
記憶を失っているが故の感覚だった。
だからといって考えてもキリがない。
──なぜ?
──どこ?
──誰?
頭に浮かぶ言葉の全てに、疑問符が付随してくる。
決して前向きな思考が出来る状況でないことを、彼女自身が理解していた。
理解せざるを得なかった。
ただ、昨夜自分を襲ってきた襲撃者と、自分を守ってくれた少年の背中に、なぜか酷く懐かしいものを感じたことだけは覚えている。
なぜかは解らないが……。
そのとき、背中で扉が開く音がした。
振り向くと、そこにはメイド姿の少女が立っていた。
入ってきた方も入ってこられた方も、それぞれに理由あって驚いた表情を見せ合う。
メイド姿の少女は、翡翠と名乗った。
綺麗な響きの名だ、と少女は素直に思う。
この屋敷の管理を姉と共に世帯主から託されていると翡翠は言い、昨夜、彼女が運ばれてきた経緯を少女に聞かせた。
「お身体の様子に違和感はありませんか? 介抱した姉は、大きな怪我はしていらっしゃらないと申していましたが、ご気分が優れぬようでしたら、いつでも仰ってください」
やや機械的な口調ではあるが、それは少女に翡翠の印象を下げる要因にはならなかった。
初対面ではあるし、唐突な客には違いないのだから、多少の警戒も動揺もあるだろう。
窓から入ってきた風が、少女の栗色の髪と、翡翠の赤色の髪を揺らす。
少女は髪を押さえ、少しだけ窓のほうに視線を向けた。
その様に、翡翠は不思議な魅力を感じていた。
なぜだろう、少女を見ていると心が安らぐ思いがするのだ。
時間的には、まだ初対面の域を出ていないというのに。
翡翠の目に映る少女の表情は、その幼さなのなかに、どこか翳りの色を秘めていた。
『心から微笑みになったら、綺麗なのに──』
翡翠は思わず、昨夜の自分の主人と同じ感想を抱いた。
「あの──。もし宜しければ、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
いつまでも沈黙を守るわけにもいかず、翡翠は尋ねる。
名前くらいは知っておかないと、これから便利が悪いだろう。
だが、翡翠の心遣いも虚しく、少女は首を横に振った。
「ごめんなさい。私は……なにも覚えていないんです。自分の名前も、自分がどうしてここにいるのかも……」
「あ、も、申し訳ありません……」
思わず頭を下げた翡翠に、少女は頭を上げるように言った。
「貴方が悪いわけじゃないわ」
頭を上げた翡翠に、少女が微笑んでみせる。
どこか憂いを残してはいたが、それは、恐らく志貴や翡翠と同年代であろう少女の、年齢相応の笑顔だった。
少女が心に暗いものだけを詰め込んでいるわけではないと知って、思わず翡翠も安心する。
翡翠も笑顔になっていたのだろう、お互いに微笑んでいることを自覚して、二人は少しだけ心を軽くした。
翡翠が語りかける。
「あの……。僭越ながら、お客様の記憶喪失は、一時的なものだと思われます。
きっかけさえあれば、記憶は戻るのではないでしょうか」
「あら、どうして?」
きょとんとした顔で、少女が聞き返す。
「昨晩、お客様はお眠りになっていた時、小声で誰かの名前を呼んでおいででした」
「名前……」
「はい、よくは聞き取れませんでしたが、男性のお名前のようでした。『あやと』様、もしくは『あさと』様か……。
そのようなお名前の方にお心当たりはありませんか?」
「あや……と……?」
その名を聞き、自分で口にした時、不意に自分の身体と心が温かくなるのを、少女は感じた。
その名前の所持者のことを、少女は覚えていない。
だが、彼女の魂が、その名を欲していたように、その男性名は、彼女の全てを包み込んだ。
ふわりと心が軽くなり、心臓が少しだけ熱みを帯びる。
確かに、少女はその名前を知っている。
知っているはずだった。
顔も印象も覚えていない。
だが、その名前は、少女にとってかけがえの無い言霊を孕んでいるはずだった。
ふと前を見ると、翡翠が心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。
気づかなかったが、彼女は涙を流していたのだった。
自分の涙を確認すると、それは止め処なく流れて止められなかった。
『会いたい────』
一瞬のうちに芽生えたその想いが、名前も確かではない、顔すらも覚えていないその相手に対して、無限に大きくなっていく。
名前の存在そのものが温度を持って、彼女を包み込んでいるようだった。
不思議な感覚だった。
「あ、あの……?」
突然、大粒の涙を流しだした少女を心配し、翡翠が覗き込む。
少女はふと我に返り、背を正した。
「ごめんなさい、取り乱しました。でも、大丈夫です。私は、大丈夫です」
少女は言った。
一度目の確認は翡翠に対しての、そして二度目の確認は自分に対してのものだった。
『あやと』が誰なのかはわからない。
だがそれが、彼女が帰るべき場所に待っているであろう男性のことであることに、少女は一点の疑問も持っていなかった。
記憶の上では、確かに失っているかもしれない。
だが、心と魂はこんなに熱くなれる。
自分は、忘れてなどいないのだ。
失ってはならないものを、永久に失ってしまったわけではなかったのだ。
その事実だけで、彼女は何倍も強くなれる気がした。
翡翠はその言葉に安心はしたが、しかし完全には心配を解いていないようだった。
「今、主人をここに呼んできます。昨夜、貴方をお助けした人です。昨夜の詳しい状況が解るかもしれません」
言って出て行こうとする翡翠を、少女は呼び止めた。
「お願いがあるの」
「はい、なんでしょう?」
「その……、さっきの名前の話題は、伏せておいて欲しいの。何があるかわからないし、……なんだか恥ずかしいから」
やや俯きげに言う少女の姿を、翡翠は微笑んで見守った。
「わかりました、他言は致しません。ですが万が一、その話題が主人、遠野志貴の自発的な疑問に触れるようでしたら、できればご協力をお願いいたします」
頭を下げ、さりげなく自分の主人にフォローを入れておいて、翡翠は退室した。
少女は一つ大きな息を吐き出す。
いくら劇的な発見であったとはいえ、少し取り乱してしまいすぎたかも知れない。
目前にいたのが、恐らく自分と同年代、なにより同性の翡翠であって良かった。
もしも相手が男性であったりしたら、今頃恥ずかしくて死にそうになっているに違いない。
だが、目覚めて真っ先に希望を見つけることが出来たのは、僥倖ではあった。
記憶を失ったまま何もわからずに虚ろに過ごすよりは、一万倍もましであろう。
出口があるかどうかも解らない暗闇を歩くのと、同じ暗闇でも、小さな出口の光の見えているトンネルを歩くのとでは、希望の持ちようが全く違う。
答えも方程式も見つかっていない。
結局、なにも解決してはいないのだが、その問題を解くことが可能なことだけはわかった。
それだけでも、少女にとっては充分な前進と言えた。
少女は身体と心の温度を下げて落ち着くため、再び窓際に向かう。
開け放たれたままの大きな窓からは、相変わらず心地の良い風が、少女の心を靡かせる。
窓際に立ち、大きく一つ伸びをして、少女は一つ考えた。
翡翠が言っていた「志貴」という男性。
昨夜、自分を助けてくれたあの少年のことだろう。
屋敷のメイドである翡翠が「主人」と言うからには、この大きな屋敷の持ち主なのだろうか。
気が動転していたしていたせいか、昨夜のことは余り覚えていないが、その背中だけは微かに覚えている。
頼りになるのかならないのか良くわからない、さして大きいともいえない背中。
けれども、不思議な安心感を与えてくれた。
そして、微かな懐かしさも……。
「─────!?」
一瞬、風に邪気がまとわりついたことに気づいて、少女は表情を険しくする。
そして、窓の外に視線を向けた。
先ほどまで柔らかな音を立てていた風が、不意に渦巻いた。
屋敷を取り巻く、よく整備された広い庭。
緑が多く、本来は訪れる人の心を和ませるであろうその空気の中に、明らかに不釣合いな存在が立っていた。
少女の目に、そして誰の目にも疑いようのない異物が、その景色の中で自己主張していた。
その姿は、少女だった。
小柄な体格をロング・コートに包み、短めの金髪を風に揺らしている。
十代後半かと思われる見た目の年齢の印象を、抜き身のまま両手に握られた一対の漆黒の剣と、険しい真紅の瞳の輝きが吹き飛ばしてしまっている。
余りにも不吉なアンパサンド。
間違いない、昨夜、自分を襲撃した少女だ。
「!」
その姿を目で確認しただけで、その情報を脳が処理する前に、少女は窓から脊髄反射で飛びのいた。
昨夜の情景が瞬間的に脳裏をよぎる。
昨夜、事件の最後がどうなったのか、少女には記憶がない。
だが、その恐ろしさは、充分に記憶に刷り込まれている。
意識せず、視界がぐらついた。
それに会わせるように落ち着いたばかりの呼吸が乱れ、鼓動が激しくなる。
先ほど知ったばかりの名前の正体を知るためにも、自分は逃げるわけにも、まして死ぬわけにもいかなかった。
だがあの襲撃者は、そんな願いと決意を、簡単に彼女の肉体ごと吹き飛ばしてしまうだろう。
逃げることも死ぬことも論外。
ならば、どうするべきか。
少女は震える足を必死で押さえながらも、脳と神経を動かし続ける。
生き残るために、最善の道を選択する義務が、彼女にはあるのだ。
庭の襲撃者は、暫く部屋の中の少女を、罠にかかった獲物の如く眺めていたが、一瞬、その口の端を吊り上げた。
──せめてもの手向けだ。
この立派な屋敷を餞別に、華やかに不帰の旅に出るがよい。
良き永遠の旅路となることを──。
他人ならば充分、傲然の域に入るであろうその思考も、この襲撃者にとっては、「思い上がり」の端にもかからなかった。
彼女は、それをするためにここにいるのであり、それをできる能力を自分が持っていることを、よく知っているのだ。
一瞬の後、その金髪が流れるように風に溶ける。
驚くほどの速度で、襲撃者はターゲットのいる部屋に突入した。
女の子が目覚めたという翡翠からの報告を受け、志貴とシエルは廊下を歩いていた。
翡翠は、彼女に大きな怪我はないといっていたが、その状態は気になったし、確認すべきことも山ほどあった。
「素直に語ってくれれば良いですけどね」
表情を少しだけ引き締めて、シエルが語る。
「あの子が隠し事をするかも知れないってこと?」
「その可能性もありますし、本当に覚えていないという可能性も、その両方の可能性もあります。
私としては、むしろ素直に全てを喋られると、なにか裏があるのではないかと、余計に疑わしく感じてしまう」
ちょっと穿ちすぎだろう、と志貴は思いもしたが、口には出さなかった。
彼女の様々な人生経験は志貴の上を行くものだったし、それに対して志貴は素直に尊敬の念を抱いていた。
そのシエルが言うのだから、可能性はあるのだろう。
「先輩は慎重だな」
「遠野君がお気楽なだけです」
「む、面目ない」
そんな、緊張感と無縁の会話をしながらも、二人は警戒をしていないわけではない。
シエルが志貴に語った推測が本当ならば、昨夜の事件以降現れていないあの小柄な襲撃者が、いつどこに現れるか解らないのだ。
昨夜、志貴は確かに襲撃者の左腕を奪った。
それは、あの襲撃者がいかな存在であろうと、志貴の「直死の魔眼」をもってすれば、“殺す”ことそのものは可能であることの証拠である。
だが逆に、「世界の修正力」とやらが、受肉し物質化するほど強い概念を持った存在である証拠でもあるのだ。
殺すことは可能である。
だが、殺される可能性がそれ以上に高い。
『分の悪いギャンブルだ』
と、シエルは思わざるを得ない。
だが、分が良かろうが悪かろうが、すでに賽は投げられている。
足を踏み入れるだけ踏み入れて、見もせず勝ちもせずに背を向けるのは不可能であった。
勝つか、それとも死ぬか。
……確かに、これ以上ないほど酷い二者択一ではある。
だが、いったい誰にとって幸いなのかは明らかではないが、不幸というのは常にドアの脇に隠れていて、部屋の主人を待っているようである。
彼らは、どのような意味合いだろうと、言葉尻に自分の名が出ると、「待ってました」と言わんばかりの笑顔で飛び出してくるのだ。
そして、今日の志貴とシエルとその客人にとっての不幸は、しかめつらしく無表情ではあったが、笑顔の代わりに両手一杯の殺意を抱えて、屋敷を訪問してきていたのだった。
二人は、確かに少女の部屋から派手に暴れるような音が響いているのを聞いた。
目覚めたばかりの少女が、体操がわりに部屋を破壊するほど暴れるとも考えにくい。
どうやら、最悪の状況が、予想の最悪を極めるカタチで訪れていることを、二人は自覚せざるを得なかった。
一瞬で覚悟を極めた二人は、視線を交わして頷きあうと、音のする方向に向かって走り出す。
今の彼らに無駄に出来る時間は、コンマ一秒も存在しなかった。
(To be continude...)
(初稿:07.01.07)