Reincarnation (3) 空櫃

 赤く焼ける丘。
 空気は風となって足元の草を撫で、水平線を隔てて丘の向こうに広がる街を紅の淡色に染め上げる。
 丘の上にある一本の大樹。
 その元に、少女は腰を下ろしていた。
 何をするでもない、赤く染まった街と、役割を終えて地平線に沈む夕日を眺めていた。
 ……一人で。
 ――一人で? 
 そう、一人で。
 そう認識した途端、際限の無い寂寥が、彼女の心を満たした。

 そこは、少女の記憶の原風景だった。

 これまで、この紅い景色を何度見ただろう。
 そして、この風景を思い出そうとして、何度挫折したことだろう。
 そこがどこなのか、どうして自分がここにいるのか、全くわからない。
 それでも、この場所を夢見るたびに、彼女は記憶を探る。
 だが、毎回それは無駄に終わった。
 忘れてはいけない場所のはずだった。
 なぜか、そう思えた。
 この場所に迷い込むとき、自分はいつも一人だ。
 だが、本来、ここは一人では来てはいけないはずなのだ。
 何故かはわからない。
 だが、自分がここに来るとき、自分の隣には、常に誰かが一緒だった筈だった。
 それが誰だったかを、少女は探る。
 失われて久しい記憶の海を泳ぐ。
 だが、その行為が実を結んだことは、残念ながら無い。
 ただ憶えていることは、その不確定な「誰か」と共にこの丘にあるとき、彼女は常に暖かで、優しい空気に包まれていたことだけ。
 一人でこの丘に居るとき、彼女は何も持っていなかった。
 故意に何かを失おうとしていたことすらあるはずだった。
 それが記憶なのか、感情なのか、または命だったのか。
 それはわからない。
 だが、「二人」であるときは、彼女にとって、ここは最もかけがえの無い場所だった筈だ。
 自分が一人ではないんだと安心できる場所。
 暖かな意思を込めて自分の名前をよんでくれる「誰か」。

 もっとも忘れてはならない場所。
 もっとも失ってはならない記憶。

 そして――それを、失ってしまった自分。

 大樹の元に佇む自分の横で、一塊の空気が温度を持っているような錯覚を、彼女は覚えた。
 溢れ出る記憶の断片が物質化したのか、それとも夢の外からその「誰か」が自分を思い出せようとしているのか。
 そのどちらでもよい、と思う。
 自分はこの「風景」と、そこにいる「誰か」の元に帰らねばならない。
 それだけは確かなのだ。
「誰か」は、閉ざしていた自分の心に、暖かな息吹を与えてくれた。
 それは、記憶を失ってしまっている現在でも変わらない。
 自分が独りきりであるとわかってしまっているのなら、記憶の中をさ迷い、暖かな場所をみつけてそこに安住すればよい。
 だが、少女は孤独では無いはずだった。
 場所も、名前もわからない。
 でも、自分には大切な場所があり、そこに大切な人が待っている。
 だから、立ち止まるわけにはいかない。
 何度目の決意なのか。
 それすらもわからない。
 彼女の立つ記憶の断崖は暗く深く、そして険しい。
 しかしそれは、立ち止まる理由にはならない筈だった。

 少女は立ち上がり、大樹から二十歩ほど離れ、振り返ってみた。
 大樹の下、さっきまで自分が居た場所のすぐ隣で、赤く染まる風景に溶け込むように、黒髪の少年が手を振っているように見えたのは、果たして幻視であったのか、それとも……。


 夜が開け、柔らかな太陽光が鳥の声と共に世界を照らし出す。
 午前六時半、遠野屋敷の朝はいつもと同じように明けた。

「失礼致します。もうお目覚めですか?」

 少女の声が、扉の向こうからその部屋に響く。
 だが、返事は無い。
 挨拶をした声の主は、申し訳なさそうに少しずつ扉を開け、まだその部屋の主が眠っていることを確認すると、遠慮がちに入室した。
 やや野暮ったいデザインのメイド服を着た、この屋敷のメイドだった。
 名を翡翠というその少女は、薄く入れた紅茶のような紅色のセミロングの髪を揺らし、窓を開け、部屋の空気を新鮮なものに入れ替えた。
 翡翠はそのまま振り返って、ベッドに視線を向ける。
 そこには昨夜、志貴とシエルが抱えて連れ帰った栗色の髪の少女が、規則正しい寝息を立てていた。
 昨深夜、志貴とシエルは、惨憺たる状況で帰ってきた。
 全力で何キロも走ってきたかのように激しく息を切らし、何よりも身体中を傷だらけにしていたのだ。
 応対した翡翠と、彼女の双子の姉でやはり遠野家の侍女を勤める琥珀は、傷だらけの志貴と、彼が抱えていた少女と、二つの現実に仰天しながらも、少女のために急遽客間を整え、志貴とシエルを介抱した。
 志貴の専属のメイドである翡翠にとって、志貴の深夜毎の「外出」は大きな心配事だった。
 翡翠は志貴が外でなにをしているのかを、詳しく聞かされていないが、慢性的な貧血持ちである志貴には、あまり無理をして欲しくないのだ。
 まして、昨夜のような状態で帰宅するようなことがあるならば。
 性格上、翡翠は志貴に直言するようなことは出来なかったし、よしんば直言したとしても志貴は、申し訳なさそうな笑顔で断るだろうが……。

 幸い、志貴の傷は浅いものばかりで命に別状は無く、彼を介抱した琥珀を安心させた。
 だが琥珀は、志貴のその夜の外出を強く戒めた。
 琥珀は、志貴の妹で遠野家の現在の当主である遠野秋葉の専属のメイドではあるが、同時に遠野の屋敷の食事やセキュリティ関連も任されている。
 志貴本人が心配なのも当然だが、志貴にもしものことでもあれば、様々な意味で秋葉に対して面目が立たないのだった。
 互いに心配しあいながらもどこかで立場という細い一線を引いている志貴と翡翠と違い、秋葉と琥珀は、主従というよりもむしろ親友に近い関係にあった。
 秋葉が琥珀の悪戯に腹を立てるのは日常のことだったし、琥珀はそんな秋葉を観察して楽しんでいるように見える。
 自分たちの関係が誤っているとは、翡翠には思えなかったが、秋葉と琥珀の関係が羨ましく思えるのも事実だった。
 もっとも、これらの四人の関係も、志貴が養子に出されていた有馬の家から帰ってきた、ここ一年半の間に構築されたものなのだが……。

 ところで、シエルは琥珀の介抱を断ったものの、昨夜は珍しく遠野家に逗留した。
 彼女は立場上は志貴と同じ学園の生徒で、アパートを借りて独り暮らしをしているのだが、志貴がそのアパートを訪れる機会に比べ、シエルがこの遠野屋敷を訪れる機会は、甚だ少なかった。
 それは、志貴を巡る秋葉とシエルの複雑な個人的な事情もあるにはあったが、それよりも大きな理由があった。
 秋葉が管轄するこの遠野家は、表向きは地元の資産家だが、裏ではこの地方の「魔」を統べる家柄である。
 遠野家自体が太古「鬼」と呼ばれた種族との混血であり、その血の濃さにおいては名門中の名門なのだ。
 教会の「異端狩り」を任務として欧州よりこの地に派遣されたシエルは、そういった意味での地元の名門である遠野家と、悶着を起こすことを避けたかったのである。

 翡翠は窓を閉じ、客人が目を覚まさぬよう、意識して音を立てぬように部屋を後にした。
 食堂では、志貴とシエルが朝食を囲みながら、この少女を巡る重大な話をしているに違いなかった。


 翡翠が食堂に入ると、既に大きなテーブルの上に二人ぶんの朝食が並べられていた。
 それは志貴とシエルのもので、侍女である翡翠と琥珀の朝食は必然的に二人の後になる。
 これは、シエルが秋葉の時でも変わらないが、休日の昼食だけは、四人で同じテーブルでとるのか慣例だった。
 この時間に志貴が既に朝食のテーブルについているのは珍しいことではあるが、昨夜の事件が後を引いているのか、その表情は彼が良く眠れなかったことを如実に語っていた。
 シエルはその志貴の対面に腰を下ろしている。
 いつの間に持ち込んだのか、その服装は昨夜の修道着ではなく高校の制服であったが。
 三人は型どおりの挨拶を交わすと、志貴が翡翠に尋ねた。

「翡翠、あのの様子はどうだった?」

「はい、まだお休みになっておられるようです。怪我は無いようですが、もう暫くはお目覚めにはならないと思われます」

「そうか……」

 安心したように志貴が頷くと、続けてシエルが尋ねた。

「彼女を見ていて、細かいところで気づいたことはありませんか?」

「?」

 翡翠はシエルの意図を理解しきれていないようだったが、半瞬だけ考えて答えた。

「そう……ですね、夢を見ておいでだったのか、小さな寝言を呟いておられたようでした。聞き取れはしませんでしたが……」

「なるほど」

 なにか思い当たるのか、シエルは一つ相槌を打つ。
 どう反応を返してよいか悩む翡翠に、志貴は目で少し席をはずすように合図した。
 恐らく、昨夜のことについてシエルと話をするつもりなのだろう。
 気になりはしたが、当事者同士の会話に口を挟む気の無い翡翠は、一礼して琥珀の居るであろうキッチンに姿を消した。

「さて……」

 シエルが腕を組み、深い息と共に言葉を吐き出す。

「昨日の戦闘について、少し纏めてみましょうか。とは言っても……」

「ああ、俺たちが一方的に押されて、一方的に逃走しただけだけどね」

 琥珀が腕によりをかけた朝食を口に運びながら、志貴は苦笑した。
 その直後、昨夜の「敵」を思い出し、背筋を氷塊がすべり落ちるような寒さを覚える。
 確かに、見た目は人間の少女、それも一五〇センチを少し超える程度の小柄な少女だった。
 しかし、その身体能力・戦闘能力は、遥かに人間のそれを超えていた。
 闇に浮き上がるその黄金の髪と深紅の瞳は、二人の記憶を圧迫するに充分なインパクトを、心理の奥に植えつけている。

「なあ先輩。いきなり結論を聞くんだけど……」

 志貴が問う。

「昨夜、先輩はあの女の子が人間じゃないって言ったよな。ある程度、彼女がどういった存在なのか目星はついているんだろう?」

「そうですね、そこそこ蓋然性の高い推論だと思います。でも、あくまで推論です。確実な解答ではありませんが、聞きたいですか?」

「はい、聞きたいです」

 志貴は即答する。
 ここでそれをためらう理由は存在しない。
 あの金髪の少女が剣を向けた栗色の髪の少女を助け、匿ってしまった以上、あの深夜の公園の戦闘がどこかで再現される可能性は、極めて高いのだ。
 そして、その結果まで再現させぬためにも、志貴は様々なことを考えなくてはならなかった。
 シエルもそれは充分に解っていた。
 というよりも、あの戦闘に関わってしまった以上は、自分もあの漆黒の剣のターゲットにされていることは間違いの無いことだった。
 単独で動き回って自滅する気は、シエルには全く無い。
 シエルも志貴も、それぞれに訓練された体術を持ち、それぞれに切り札を持っている。
 志貴がどう思っているかは兎も角、自分と彼のコンビプレイが、あの「あーぱー吸血姫」アルクェイド・ブリュンスタッドのそれに劣っているはずがない。
 少しでも自分の活躍を志貴に印象付けて、あのあーぱー吸血姫の天真爛漫な鼻をへし折ってやるのだ……。
 と、そこまで瞬間的に思考を進めたところで、シエルはふと我に返った。
 激しく本題から逸脱したことに気づいたのだ。
 これも、以前の、日本に来たばかりの頃の自分を思えば、想像できないことだった。
 他人から見れば、厳しい現実主義者に映るシエルだが、これでも考えられないほど丸くなったのだ。
 それもこれも、志貴に関わったおかげ、あるいはそのせいである。
 どのような形であれ、その責任は志貴にとってもらわなくてはならない。
 そのためにはまず、彼に生き残ってもらわなくてはならないのだ。

 シエルは、語る。

「彼女は……簡潔に言うならば、そう、【世界】ですね」

「……世界?」

 いかにも要点を得ない、という表情で、志貴の目が丸くなる。

「そりゃまた、いきなりスケールがでかいな。先輩のことだから脅かす気はないんだろうけど……」

「当然です。私は至極、真面目に言っています」

 最高の葉を用い、匠の腕で淹れられた美味な紅茶に舌鼓を打ちながら、ちょっとだけ目元に怒りを表して、シエルが言った。
 こういった日常的な表情を垣間見ることが出来る限り、志貴は安心して彼女に背中を任せることが出来る。

「そうですね、少し例えが大きすぎましたか。彼女……あの金髪の少女は、【この世界が作り出した修正力】……と言うべきものでしょう」

「世界の修正力……」

 志貴が呟く。
 ますます混乱してしまったようだ。
 シエルは話を続けた。

「この【世界】は、ただ漫然と宇宙を漂っているわけではありません。
 明確に視認できるものではありませんが、確実な意思を持って、この【社会】に細々とした修正を重ねています。
 それは自然災害であったり、不世出の偉人の功績であったり、形は様々です」

「…………」

「ですが、極稀に、その修正力が直接、形を成すときがある」

「……それが、彼女だと?」

「そうです。この【世界】にとって危険な特異点が発生した場合、それを排除するために【世界】が直接的に行使する絶対的な力」

 シエルは言い終えると、一息ついて再び紅茶を嚥下する。
 聞かされた志貴は、驚きも呆れもしなかったが、一つため息をついた。
 シエルの言葉を拒絶する気はなかったが、いまひとつ飲み込めないのだ。

「先輩の話が本当だとすると、その修正力とやらが追っていた女の子……栗色の髪の子が、その【危険な特異点】になるのかな」

「そうでしょうね。修正力が人型を得たのは、彼女を排除するに最も適した形だと判断があったからでしょう」

「しかし、追われていた彼女は、明らかに普通の人間に見えたぞ。とても世界に除かれるような因子を持つようには……」

 言葉尻を弱めながら、抗議しつつも志貴は考えこむ。
 兎角、彼には解らないことが多すぎた。
 シエルの推測が本当なら、あるいは、事実を突きつけられても理解できないかもしれない。

「遠野君の言いたいことはわかります。
 しかし、実際に彼女は私の結界の中に出現した、それは事実です。
 この事実を無視して、いかなる推論も成立しません」

 事実を曲げて、自分の想像から結果を導くことを、シエルは戒めた。
 事実に即せば、彼女は如何なる形かはわからぬものの、やはりどこかが常識を隔絶する存在なのだ。
 一般の常識ではない。
 充分に魔術や吸血鬼などの存在と関わり携わってきた「シエルらの常識」を、である。

 実のところ、シエルは志貴が助けた少女が何者であるのか、おおよその見当はついていた。
 ほぼ確信といっても良いレベルで。
 シエルが昨夜、公園に張った結界は、一般の市民の確認も侵入も拒絶するものだった。
 その結界が張られている時、一般人は公園の存在すら確認出来ない筈だったのだ。
 あるいは、直接【世界】に関わる何者かならば、その術式を無視して、何事もなく侵入してくることも可能だろう。
 だが、そうではない栗色の髪の少女が、その結界の中に入るにはどうすればいい? 
 ――――考えてみれば簡単な話だ。
 外から入れないのならば、「中から」入ればよいのである。
 簡単に言えば、テレポート、瞬間移動……そういった類の能力でもって、外から強引に入るのではなく、他の場所から、結界内に直接出現するのだ。

「そんなことができるのかな」

「限りなく不可能に近いですが、実現した人間が居ないわけではありません」

 例えば、万華鏡カレイドスコープの異名を持つキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。
 現存する四人の「魔法使い」の一人であり、第二魔法「並行世界の運営」を営む彼は、並存する多元世界を自由に行き来することが出来る。
 かつて朱い月アルティミット・ワンと相打ちになって血を吸われ、死徒と化して以降は、かつてほどの魔法を行使することは出来なくなっているようだが、ふらりと並行世界を旅して各地で弟子を取り、しばしば破滅させているという、奇人でもある。

「うーん……」

 志貴が、難しい顔で首をかしげた。

「例としては解るけど、いささか特殊すぎないかな。ゼルレッチのことは俺も先生から聞いたことがあるけど、それこそ億に一人の割合の人だろう」

 なおも納得できないふうでいる志貴に、シエルは微笑んでみせる。

「そうですね、私としても極端という気がしないでもありません。しかし、遠野君は気づかなかったかもしれませんが、昨夜、戦闘中に彼女が見せた膨大な魔力の埋蔵量を思えば、私は暴論ではありこそ、あながち極論ではないと思っているんですが」

 昨夜、少女が魔力を炸裂させ、志貴を吹き飛ばした時のその様子は、シエルの脳裏にはっきりと記憶されている。
 回路が体表に浮き上がるほどの魔力。
 シエルにはわかるが、彼女は魔力を暴走させただけではない。
 恐らくは無意識のうちに魔術を行使し、【固有結界】の一種をその場に発現したのだ。
「固有結界」とは、術者の心象世界を架空の現実世界として発現させる大禁呪の一であり、それは現実世界にも多大で様々な影響を及ぼす「魔法に最もちかい魔術」である。
 もとは「悪魔」と呼ばれる存在が現世に発現させる「異界常識」「異界製造法」をさして「固有結界」と呼称していたが、現在では使用者の心象世界を実体化する魔術をさす言葉として用いられる。
 いずれにせよ、現実世界からの強烈な修正と、使用者に膨大な魔力の消費を要求するために、使用可能者は人間と死徒とを集めても、片手の指で数えられるほどしかいない。

「余りに一瞬だったので、どのような効力の結界かはわかりません。しかし、彼女が「世界の修正」から追われる理由は、その事実に間違いないでしょう。
 自分でコントロール出来ないというのならば、なおさら世界にとって危険ですから」

「……世界を狂わす能力を無意識に使う女の子と、それを修正しようとする【世界】……か」

 重々しく呟いて、志貴は一つ背伸びをした。

「なんだか、とんでもないことに首を突っ込んじゃったかな」

 なにを今更、とシエルは本気で思ったが、口には出さなかった。
 何気ないきっかけを発端として「とんでもないこと」に志貴が巻き込まれるのは、なにも今に始まったことではないのだ。
 シエルは、代わりに別のことを聞いた。

「遠野君は、なぜあの栗色の髪の子を助けたんですか?」

 それは、純粋な興味にしては低く、弾劾というには威厳さを欠く、微妙なトーンの声だった。
 志貴は腕を組み、一瞬考えてから答えた。

「はっきりとは解らない。けど一瞬、何かを感じたんだ。何かと聞かれると困るんだが……」

 志貴は、最初に公園で覚えた既視感を思い出して、軽い頭痛を覚えた。
 あれがなんの記憶と重なるのか、まだわからないが……。
 恐らく、それは志貴の直感というか、化け物じみた性能のある彼の第六感だろう。
 説明を求めても明確な回答が返ってくる可能性がないことはわかっていたので、シエルは深入りを避けた。

 シエルは、自分の考察にはかなりの自信を持ってはいたが、それが自らが語ったとおり、「蓋然性の高い推論」の域を出ないことも理解していた。
 例え二人の正体がはっきりわかったとしても、現段階で彼女らのほうから先手を打ってアクションを起こすことは不可能であり、結局はあの小柄な金髪の追跡者の出方を待つほかはない。
 それほど待つ必要はないだろうが……。
 志貴が助けた少女が、何らかの事情を語ってくれることに一縷の望みを持ってはいたが、それにも大きな期待はしていない。

 それまでの深刻な話題が陽炎でもあったかのように、三瞬ほど場が沈黙に支配された。
 暖かい朝の陽光が大きな窓から二人を照らしていたが、二人の心境はそれほど晴れやかにはなりえなかった。
 寧ろ、未だに温度を失わない料理の湯気の如く、靄がかかっている。
 志貴もシエルも、お互いに別の考え事に沈んでいた。
 そして、その沈黙を破ったのは二人ではなく、第三者の出現だった。
 翡翠が控えめに食堂に姿を現して二人に告げたのだ。
 ――お客様が目を覚まされました、と。

(To be continude...)

 

COMMENT

(初稿:07.01.07)