二人は、つい先ほど低級の死徒を浄化したばかりの公園中央を走りぬけ、入ってきたほうとは逆方向の入り口を目指して駆ける。
夜の静寂と冷たい風を切り裂いて、再び女性の叫び声が響く。
「遠野君、どうするつもりですか!」
志貴の後ろを走りながら、シエルが声をかける。
彼女は嫌な予感がしていた。
恐らく、何か事件が発生していることは間違いない。
しかも、公園には一般人が入ってこれぬように、シエルが結界を張っている。
悲鳴が上がったのは、その中なのである。
確実に、普通の人間ではないもの同士の諍いなのだ。
シエルは志貴にはあまり無茶をして欲しくはない。
シエルにとって、彼は極東の地で得た貴重な戦友だったし、現在ではそれ以上の存在になりえた。
幾ら実戦経験が豊富とはいえ、彼の肉体は人間のそれに過ぎない。
余りに強力な死徒が相手だった場合、その異能の超抜能力の前に、一瞬のうちに魂ごと灰燼に帰すことすら充分にありえるのである。
「どうするって、放ってはおけないだろ! 助けが必要なら助ける!」
しかし、シエルの思惑を他所に、遠野志貴は、自ら難地に足を赴ける癖があるようだった。
彼自身が意識しているわけではない。
だが、彼は食堂に寄るかのようにふらりと死地に入り、食事をするかのように自然に死物に狂い、そして飄々と生還した。
自らの命を危険に晒しているという意識が、まるで無いように見えることすらある。
それは、彼自身が持つ「死」についての様々な経験と、彼が失っている記憶から導かれる諦観の一種であるのだが、だからと言ってシエルをはじめとして、彼を囲む幾人かの人間にとっては、大きな心配の種であることは間違いなかった。
「遠野君、余り無茶はしないように。結界内に侵入してくる者が普通の人間である筈がありません」
「わかった。気合いを入れる」
気合を入れてどうにか成るようなものでもないが、入れないよりは遥かにましだった。
自分で思いながらも、志貴は七夜のナイフを握り締める。
そして二人が辿りついた先で、二つの存在が待っていた。
一方は追い詰め、一方は追い詰められていた。
片方、追い詰められているほうは、少女だった。
背の丈は一六〇センチ程度、暗がりで身体的な特徴はわかりづらいが、茶色がかった栗色の、肩よりも少し下まで伸ばした髪とスカートが夜風に揺れている。
口元は恐怖に震えながらも、目はまだしっかりとした意思を持って、追い詰めた者を凝視していた。
その追い詰めたほうも、一見は少女に見える。
追い詰められたほう方よりやや小柄で、頼りない電燈光に照らし出される髪はショートの金髪。
動きにくそうなコートに身を包んでいたが、その手に握られた禍々しい一対二本の漆黒の剣が、明らかにその風貌に不似合いだった。
志貴の内部に、正体不明の既視感が湧き上がる。
それは、半ば義務感となって彼を動かし た。
この少女は、守らなければならない。
でないと、後日、必ず後悔するだろう。
志貴は軽い頭痛を振り払って行動した。
「なにがあった!」
志貴が二人の間に割ってはいる。
身体を震わせる少女を庇うように、剣を持った金髪の少女に身体を向けた。
志貴だけでなく、脇から見守っているシエルも、その少女の只ならぬ雰囲気に警戒を強める。
電燈の光に浮かぶ厳しい表情と、闇に浮き上がる深紅の瞳が、志貴の心を貫いた。
シエルは、この二人の少女が何者なのかを探っているが、思ったとおり、簡単に回答が出るわけではなさそうだ。
ただ、追い詰められている少女は、ごく普通の人間に見えはするのだが……。
「……その者の味方か?」
金髪の少女が端的に、だが凛とした声で一言問う。
答えたのはシエルだった。
「見知らぬ者です。しかし、我が結界内での諍い、通りすがりを決め込むわけにもいかない。
貴方は何者ですか。見たところ、死徒ではないようですが」
金髪紅瞳の少女は、半瞬程の時間で、志貴とシエル、そして自分が追い詰めた栗色の髪の少女を一瞥し、そして次の半瞬でなにやら考え事をしたようだが、すぐに志貴に目を向けた。
「シエルの結界……。なるほど、君が遠野志貴か」
「なに!?」
志貴とシエルの表情が、一気に警戒の様相を呈した。
もうこの時点で、二人はこの金髪の少女を危険だと判断していたのかもしれない。
「なぜ俺のことを知っている? 俺はお前のことを知らない」
「回答の必要を認めない。私はただ、君が庇っている少女を始末する責を負った者だ。
君らには関係も無いこと。口出しは無用」
金髪の少女は、切れ長の瞳から発した紅い眼光で志貴を貫く。
いや、正確にはその背中で震えている少女を。
口出し無用、とはいっても、この期に及んで接触を避けることが不可能であるのは、誰よりも目の前の少女が一番理解しているはずだった。
「責、という言い方が解せませんね。協会の人間ですか? この街に協会の人間が入ったとの報告は聞いていませんが」
「知らんな」
金髪の少女の回答はそっけない。
というよりも、そもそも会話をするつもりが無いようだった。
協会とは、世界に点在する魔術師を管轄する「魔術協会」のことだ。
協会は大きく分けて三箇所に本部を構えるが、単に「協会」と称するときは、主にイギリスはロンドンの大英博物館のことを指す。
シエルの所属する教会と魔術協会とは、時に争い時に協力し、なかなか複雑な関係にあるのだが、この目前の状況にはさして関係はない。
志貴に庇われている栗色の髪の少女だけではない。
志貴もシエルも、周囲の異常な雰囲気を感じ取り、自然に戦闘態勢に入る。
空気の分子一つ一つが針となり、皮膚を細かく刺激する。
張り詰める大気の震えが、五感の全てを通して脳に生命の危険を伝達した。
それが、目前に立ち尽くす金髪の少女の齎すものであることを、三人とも皮膚で感じ取っている。
シエルが自ら張ったこの結界が、まるでこの金髪の少女のために誂えられた専用の処刑場であるかのような幻視すら抱かせた。
志貴は頭を振り眼鏡をはずすと、短刀を目前に突き出した。
「この女の子を襲ったのか? 理由ぐらいはあるんだろう」
「君らには一切関係の無いことだ」
「……この子を殺すつもりか」
志貴は、あくまで少女を庇うように、正対する金髪の少女に正対した。
「問答の必要を認めない。立ち入るならば障害と見做す」
リピート設定の音楽プレイヤーのように、深紅の瞳の少女は同じ文句を繰り返す。
埒が明かない。
ただ、この場でお互いが一歩も退くつもりはない、ということが確かになっただけだ。
「協会も教会も関係ない。俺たちを知っていることと、この娘を襲うことの理由、まとめて聞かせてもらおう」
「勇ましいのは結構だ。誰が邪魔をしようと構わぬ。君ごと排除するだけのこと、なにも支障は存在しない」
言って、金髪の少女が二刀を構える。
その場に、もはや殺し合い以外の選択肢は存在しなかった。
会話の流れからではない、急激に質量を増し温度を下げた感のある三人の間の大気が、その決断をさせた。
金髪の少女の剣は、漆黒に塗装された刀身八〇センチほどの一対の西洋剣である。
唯でさえ相手の技量がわからぬ初戦で、闇にまぎれる黒の刀身は充分に脅威に値した。
志貴は一度、背中の少女を振り返る。
少女は、肩の下あたりまで伸ばした栗色の髪と、同色の瞳を恐怖の一色に染め上げながらも、気丈に立っていた。
シエルは普通の人間ではないといったが、志貴の目には、ごく普通の一般人に見える。
目前の金髪の少女は、まるで戦うためのみに特化したように身軽で引き締まった体型をしているが、この少女は充分に女性としての魅力に恵まれていた。
『心から笑ったら、きっと可愛いに違いない』
瞬間的に志貴はそう思い、それは真実であったが、それを確認するには場が剣呑に過ぎた。
「遠野君!」
耳に飛び込んできたシエルの声が、志貴を正気に立ち直らせる。
彼が正面に顔を向けた途端、襲ってきたのは一筋の剣光だった。
志貴は一〇センチ顔を後方にずらしギリギリでそれをかわしたが、攻撃はその一手に留まらなかった。
上下左右、凄まじいスピードであらゆる方向から襲い来た。
金髪の少女の攻撃は、まるで剣による機関銃を思わせた。
それも、どこから襲ってくるのか全くわからぬ機関銃だ。
少女はその小柄な体格を生かし、恐ろしいスピードで動きまわりながら剣と肉体を自在に、かつ完璧に操り、頭一つ背の高い志貴を翻弄する。
頼りない電燈の光を頼りに剣の動きを目で見定めていたのでは、恐らく剣の一振りごとに一人の志貴が殺されている。
志貴は自分の運動神経と、経験から齎される洞察力で、ようやくその攻撃を凌いだ。
豪雨のようなその連撃に、割ってはいる隙は存在しない。
右から斬りかかった次の瞬間には、左下から剣先が襲い掛かる。
闇の中、コンマ数秒の誤差で高速で襲い来る二本の剣。
狙いは全て正確に急所。
一撃でも避け損なえば、志貴が次の攻撃を避ける必要は無い。
そのとき、もう彼の意識はこの世に存在しないだろう。
髪や衣服の切れ端を弾け飛ばし、短刀で受け、皮膚の表皮を傷つけながらも、彼はかわし続けた。
―――違う!
思わず、志貴は唸る。
自分を切り刻もうとする目前の少女が、これまでの敵と余りに違う。
これまでの「死徒」と呼ばれる敵は、その存在自体が人間を超越していたし、なんらかの超抜能力を持っていた。
だが目前の少女は違う。
恐らく、彼女は人間だ。
人間でないにしても、極めてそれに近い存在だ。
だが、彼女は魔法も魔術も駆使しない。
如何なる超能力も用いていない。
志貴は気づいている。
だた己の四肢のみを武器として、彼を限界まで追い詰めている少女は、志貴の知る一人にそっくりなのだ。
顔や体型ではない、雰囲気が、である。
そしてそれは、彼自身が最も否定するべき人物だった。
七夜志貴。
かつて存在したはずの、もう一人の自分。
本来、志貴は形作るはずだった将来の一つ。
惨殺空間の主にして、面影糸に巣を張る蜘蛛――。
―――違う!
志貴はもう一度唸った。
今度は自分に対して。
自分は七夜とは決別したはずだ。
もうあの影絵の街も幻に過ぎぬ。
自分は遠野志貴。
それ以外の存在でも、それ以上の存在でもありえない。
半瞬の出来事だったが、愚にもつかぬ事を考えた。
彼は戦闘に集中した。
事実、少しでも気を抜けば、彼は殺されるのだ。
だが、かわし続けていることが、志貴にとっては既に奇跡に近かった。
彼女の攻撃には、一切の無駄がない。
幾ら優れた戦士といえど、ここまで肉体の全てを戦闘に特化して存在することが可能なのかどうか。
そんな疑問すら浮かんでくるが、その思考もコンマ一秒後には少女の剣戟によって薙ぎ払われた。
少女が志貴に更なる攻撃をかけようとした次の瞬間、その足元に数十本の黒鍵が突き刺さる。
少女は思わず後方に飛びのいた。
シエルが志貴の隣に駆け寄る。
「遠野君、結界を解除しました。ここはその女の子を連れて、一旦退きましょう」
「なんだって? 逃げるって言うのか」
「はい、そうです」
厳しい視線を少女に向けたまま、志貴は怪訝な表情を見せる。
シエルは言った。
目の前の金髪の少女は、人間ではない。
後で説明するが、今は二人がかりでも倒すのは困難だ。
それに―――。
だが、目の前の少女はゆっくりと歓談することを許してはくれなかった。
相手が三人に増えたことを一切気にする風でもなく、一気に斬りかかる。
この小柄な身体が風を斬って舞い上がり、着ているコートが引きちぎれんばかりの速度で疾駆する。
それは正しく、大気から弾かれた「矢」そのものであった。
「――ちっ!」
ほぼ同時に舌打ちし、志貴とシエルは少女の攻撃を迎撃する。
だが、驚くべきことに、戦闘標的が二倍になったにもかかわらず、少女の攻撃は一向に衰えを知らぬ。
それどころか、より一層攻撃の速度、密度の双方を上げてきたのだ。
挟み撃ちにしようとする二人の思惑をことごとく読み切って、少女は二人を一気に追い詰める。
志貴とシエルの連係プレーは、幾度もの戦いを経てかなり完成度の高いものとなっているはずだったが、それがこの一五〇センチを少し超える程度の少女の速度と五感と四肢にことごとく阻止された。
シエルは、この少女が人間ではないといったが、それも簡単に信じることが、志貴にはできた。
いや、嫌でも信じざるを得ないであろう。
人間の動きを遥かに超越している。
力、技術、身体の速度、柔軟性、そしてそれらを統率する脳の性能、神経伝達の速度。
全てが桁違いだった。
防御するのに必死で、攻撃どころか逃走の機会すら掴めない。
防御以外の何らかの構えを一瞬でも見せたら、次の瞬間に二人の首は胴から離れている。
そのイメージをはっきりと脳裏に描いてしまい、志貴もシエルも、瞬間的にだが死を覚悟した。
「遠野君、眼は使えませんか!?」
無茶と知りつつシエルは叫ぶが、
「駄目だ、本体を観ている時間なんてないッ!」
予想通りの答えが返ってきた。
志貴の持つ「直視の魔眼」は、志貴にとってもシエルにとっても、究極の攻撃手段だ。
だが、それすら有効に扱えぬような状況に追い込まれてしまった相手が、自分よりも小柄な少女であることに、シエルは一方ならぬ衝撃を受けていたが、目の前の当の本人は、それに浸る時間さえ与えてくれそうもない。
だが、「出来ない」で済ませるにはいかなかった。
それでは確実な死への時間を緩慢に伸ばすだけだ。
もはや、「何とかして反撃する」とかいった強がりを言っている段階ではない。
どんな手を使ってでも脱出しなければ、本当に死ぬ。
天涯孤独を自称する者が独りで自殺するのは本人の趣味の問題だが、守るべきものを持つ者がその責任を放擲して死を選ぶのは最悪の罪科だった。
志貴もシエルも、大事なものを多く心中に抱え込んでいる。
こんなところでそれを守る責任を自分から放棄するわけにはいかない。
と、瞬間的にだが、志貴と金髪の少女との間に距離が出来た。
少女は志貴を追わず、全力でシエルに襲い掛かる。
左右両翼から同時に襲い掛かる剣を、シエルは頭の至近で何とか両腕に握った黒鍵で防いだ。
金属が勢い良くぶつかり擦れる強烈な音が、シエルの鼓膜を震わせる。
「遠野君、今です!」
シエルが叫び、少女の剣を左右に弾きつつ後方に飛び退くのと殆ど同時に、志貴がシエルの後方から突っ込む。
これは殆ど唯一の攻撃機会だった。
ここを逃せば、二度と隙を見せてはくれないだろう。
決定打でなくてもいい。
とにかく一撃を与えて距離を離し、その隙に脱出するのだ。
超人的な動きを有する少女にとっては、志貴の動きは直線的なもので、避けるのは容易な筈だった。
だが一瞬、少女は珍しく集中力を殺がれた。
二つの変化が、彼女の視界に飛び込んできたのだ。
突進してくる志貴と、彼の後方で立ち上がった栗色の髪の少女。
二人の瞳が、蒼く輝いていたのだ。
志貴の瞳は黒色であり、栗色の髪の少女の瞳は髪と同色だった筈だ。
それは、剣を合わせながらも、確認している。
だが現に今、二人の瞳は蒼い色を放っている。
志貴の持つ「死神の眼」は、相手の「生命の流れ」を視、そこをナイフで切断することでその存在を概念から抹消してしまうものだ。
そこにあるのは生命としての「死」ではなく、意味としての「死」である。
彼がその力を発揮するときに、その瞳が蒼い輝きを放つことを、金髪の少女は知っていた。
だとすると、栗色の髪の少女の変化はどう説明する?
二人とも魔眼を発動させたというのか!
この現象に、シエルも気づいていた。
金髪の少女の一瞬の表情の変化を逃さず、彼女はそれまで振り返る余裕すらなかった後背をようやく振り返った。
そこに立っている少女は、間違いなく、先ほどまで震えながら志貴の後ろで守られていた少女だ。
だが今の彼女は、明らかに先ほどまでと雰囲気が違う。
『魔眼!? いや、違う!』
強烈な魔力が栗色の髪の少女の体内を駆け巡る。
それは蒼く薄いラインとして体表に現れるほど高純度で高濃度なものだった。
少女の周囲の大気が震える。
少女の身体から漏れはじめた魔力が、空気の分子に介入を始めたのだ。
それまで金髪の少女の放出する、絞首台への階段付近を意識させる冷たい空気を掻き乱した。
『これは魔力回路……! しかも、この強さは……!』
シエルの思惑を他所に、少女の魔力は開放を続ける。
その少女の呟きを、シエルは聞き逃さなかった。
「……私は……帰るんだ……やとさんの……元へ。……こんな……で……死んで……」
それは、意識しての呟きではないと思われた。
追い詰められて覚醒させた強力な魔力に、思考まで押し流されているのだ。
身体の中では魔力が、そして頭の中では思考が錯綜し、混乱しているに違いない。
今の彼女を立たせているのは、精神力でも生命力でもない、魔力の渦だった。
そして、ついにそれは柔らかな放電のような現象を付帯しつつ、ドーム状の空間となって少女の全身を覆う。
「あああああああああああ!」
次の瞬間、志貴と栗色の髪の少女が、同時に叫んだ。
志貴の眼は、正確に金髪の少女の身体の線を映している。
腕でも足でもどこでもいい、一撃抉れば戦闘能力を奪える!
志貴が大地を蹴った直後、後背の栗色の髪の少女を覆っていた魔力のドームが弾けた。
ガラスの破砕音のような高い音が響き、強烈な白い光が夜の闇に包まれた周囲を一瞬で漂白した。
閃光弾が炸裂したような強力な光。
それは強力な魔力を伴った暴風と化して、周囲のものを弾き飛ばした。
「きゃあ!」
不意を突かれたシエルと金髪の少女が目を押さえて転倒してしまったが、その光に一人背を向け、空中に身を投げ出していた志貴は、より勢い得る形で、金髪の少女に圧し掛かる。
そして、少女が反射的に顔を覆った左腕に、そのナイフを突き立てた。
肉が抉れる鈍い音が響く。
両者の感覚に、ナイフが骨まで達したことを充分に悟らせた。
だが、この場合、意味があるのは傷の深さではない。
志貴が、金髪の少女の腕の「線」を断ち切ったことに意味があったのだ。
「つあっ!」
金髪紅瞳の少女は一瞬顔をしかめたが、次の瞬間には、猶も攻撃しようという志貴を身体ごと後方に蹴り飛ばした。
白光で焼かれた視界は機能を取り戻しつつあるが、死神の眼によって命の流れの「線」を見切られ、そこを抉られた左腕は、使い物にならないだろう。
その線を断ち切られたことによって、彼女の左腕は「腕」としての意味と概念を奪われたのだ。
直後にはもう握力が無くなり、持っていた剣をがらんと地面に落としてしまう有様だった。
「今です!」
これを好機とみたシエルは、志貴と栗色の髪の少女の腕を掴む。
今は相手を滅ぼすよりも、まず脱出を成功させるべきだった。
目の前の少女が再び冷静さを取り戻せば、片腕でも充分二人を追い詰めるだろう。
それに引き換え、こちらは志貴は体力をほぼ限界まで使い切り、栗色の髪の少女は失神している。
まともに戦える状況ではない。
むしろ、左腕を奪えただけでも奇跡と思ったほうが良い。
シエルは、辺りにノート大の紙を大量にばら撒いた。
それは嵐のように金髪の少女の周囲を吹き飛びまわって、その視界を完全に妨害する。
それは聖書のページを切り取ったものだった。
普通の人間が読むぶんには、聖書も普通の書物となんら変わらないが、元が歴とした魔術書である。
最高純度の信徒である代行者の操るそれは、充分に魔力を得た「概念武装」として機能するのだ。
「くそ!」
少女は大きく舌打ちをしたが、自分の周囲を乱れ飛ぶ紙の嵐を落とそうなどとは思わなかった。
片腕で剣を振り回しても不可能だとわかっていたからだ。
そして五分後、全ての紙が魔力を失って地面に落ちたとき、周囲には誰もいなかった。
これまでの喧騒が嘘のように、静寂が辺りを覆っている。
つまり、ターゲットにまんまと逃走を許してしまったのだ。
「しくじったか……」
少女はさして悔しさも見せることなく、片腕で二本の漆黒の剣を腰の鞘に戻す。
少女は負けたわけではない。
いや、彼女に敗北はありえない。
それは変えようのない「決定事項」であるはずだった。
「誰が来ようとも、次は……」
そう呟いた金髪の少女の肉体は、大気に溶け込むように消えた。
何かと波乱の戦いだったが、まだ第一幕が終わったにすぎない。
必ず第二幕があるだろう。
そのことを、全員が理解していた。
夜の闇はますます濃くなり、時間は流れるが、四人の去った公園の空気は、ようやくその重さから開放されたかのように、静寂を取り戻していた。
(To be continude...)
「同1霹靂」の続きです。
ALICEさんにお贈りしたときは1と2で一枚に纏めてましたが、こちらで公開するにはちょっと長めだったので分割しました。
(初稿:07.01.07)
(改稿:08.08.20)