辺りは既に闇に包まれていた。
太陽は出演時間を終了し、地平線と云うカーテンの向こうに退場してしまっている。
そして、次なる出番を静かに誇るように、真円を描いた月の光が、微弱な光で地上を照らした。
人は機械の力で闇を克服した現在でも、種としてもつ闇への恐怖心を克服したわけではないらしい。
人間としての生活サイクルは陽の元で行われ、闇を避けるようにできているようだ。
だが今宵、少年は闇を恐れる暇を与えられなかった。
一口に“闇”と言っても様々な意相があるが、今夜、少年が相手にしていたのは、二種類の闇だった。
無論、一つは夜の闇である。
それは、激しく闘いながら移動する少年の視界を奪い、平常心を持ち去ろうとする。
少年は夜間の行動に人より慣れてはいたが、それでも自由自在に吾身の周囲を支配するには至っていない。
そして、少年を侵そうとするいま一つの闇。
それは、文字通りの意味での“闇の”存在だった。
少年は何かを激しく追いつつ、街中の道路を駆け抜ける。
既に一キロ近く走っているはずだが、少年は息を切らしはすれ、行動の選択を誤ることはない。
夜の闇に溶け込もうとする暗きその存在を、少年は眼鏡のレンズを通してしっかりと視界に捕らえている。
追いつくのは時間の問題だ。
手に持つ短刀の柄を握り直し、少年は速度を上げる。
「遠野君、ターゲットは公園に向かうようです」
声が聞こえる。
女性の声だったが、それは奇妙なことに、走る少年の上空から聞こえた。
だが、少年は不思議がることも無い。
声は猶も続く。
「私はこのまま先回りします。公園で挟み撃ちにしましょう」
「OK、先輩。俺はこのまままっすぐ行けばいいんだな」
「その通りです。突っ走っちゃってください」
少年の力強い返事に気を良くしたのか、女性の声も滑らかになる。
遠野と呼ばれた少年は、走りながら声のした上空に目を向ける。
驚くべきことに、背の高い電柱の上から、月光を背に、スカート姿の女性が空を跳ねていた。
少年はそのまま速度を上げ、坂を駆け上り、広い公園の入り口に差し掛かった。
少年にとっては、色々と思い入れのある公園だった。
既に季節は夏から秋に差し掛かりつつある。
この公園で少年―遠野志貴が、一生忘れることができないであろう出来事と遭遇してから、既に一年半が経過していた。
その事件から以降、彼の人生は、それまでの年月からは想像も出来ないほど変わってしまったが、それは彼にとって悪い気のするものばかりではなかった。
この公園で、彼は様々なモノを「殺した」。
美しい金髪をもつ真祖の「吸血姫」。
そして「死徒」と呼ばれる吸血鬼の中で最も 強力な二七の存在の内の一〇位、六六六の命を持った「混沌の獣」。
全てが、所謂“闇の存在”の中でも、その象徴とされるべき者たちであった。
それを、人間に過ぎぬ彼は「殺して」きたのだ。
真祖の吸血姫―アルクェイド・ブリュンスタッドにはすっかり気に入られてしまい、彼女との間には、その後も様々なエピソードが生まれたが、現在、この瞬間の彼に、そのことを邂逅する心理的な余裕はない。
どれだけ戦闘経験が豊富になっても、彼は超人ではなく、遠野志貴という名を持つ一人の人間に過ぎない。
様々な超抜能力を身につけた「死徒」にとって、人間とは血液を供給するための餌に過ぎぬ。
そんな存在との戦闘は、例外なく彼の精神に緊張と負担を強いるのだった。
志貴は公園の中央に走り入る。
そこに、ターゲットの死徒は迷い込んでいた。
それは、かつて彼が破ってきた混沌の獣や転生無限者等の、魔術を極めた大物に比較すれば、語るのも馬鹿々々しいほどの小物ではある。
だが、油断はできない。
少し前に彼が巻き込まれた事件で知り合った少女は、吸血鬼が人を咬み下僕(死徒)とすることを伝染病に例えていた。
なるほど、上手いことを言う。
彼は今更ながらに納得してしまう。
吸血鬼が人間を死徒とし、その死徒が更に人間を襲い、放っておけば鼠算式にその数は増えていく。
「伝染病」という例えは、真に正鵠を射ているように、彼には思われた。
そして、その存在と戦っている彼が死徒に敗れ、その仲間に入れられないという保証は、どこにもないのだ。
そうして、その「鼠算式に増えようとする死徒の大元」が、今夜のターゲットだった。
ターゲットは姿かたちこそ人間のなりをしているが、奇妙な唸り声を上げ、力なくダラリと両腕を前方に下げている。
その様には、まるで人間としての存在を思わせるものはない。
自意識による律動を放棄し、他者―この場合は、ターゲットから血液を奪い取った死徒か吸血鬼―のコントロールのままに動く人形に過ぎない。
戦闘経験が豊富とはいえ、志貴も人間である。
吸血鬼に咬まれ死徒と化した「元人間」のターゲットを抹消するのに、良心が軋まない筈が無いが、その心の律を、今夜の彼の相棒は許してくれない。
その相棒が、ターゲットを挟んで志貴の反対側に立った。
女性である。
深い紺の修道着に身を包み、その両手には二桁に届こうかと言う数の身の細い剣を握っている。
シエルという名のその女性は、代行者と呼ばれる最高純度の教会信徒であり、同時に埋葬機関と呼ばれる教会の異端審問官―つまり、宗教的な見地から異端を抹消する実戦執行者であった。
本来ならば、この街のこういった異端―死徒の抹消は、シエルに全て委ねられている。
それを、目的が一致するという理由で、教会とは無関係の志貴が手を貸しているのだった。
志貴にしてみればシエルは同じ学校の先輩であり、一年半前の事件で得たかけがえのない仲間だった。
シエルにしても、志貴の異端との度重なる実戦経験は貴重なものであったし、志貴の危険を嗅ぎ分ける独特の嗅覚はそれこそ「お化け級」であったから、あらゆる意味で彼は頼りがいのある存在だったのだ。
無論、彼の持つ魔眼と呼ばれる能力を含めて、である。
そして、今夜のターゲットの抹消も、実に呆気なく終わった。
死徒が志貴に気を取られている隙に、その後背から、何十本と言う黒鍵―シエルの短剣が、瞬間的に容赦なく突き刺さり、更に燃え上がったのだ。
それを予測していた志貴は兎も角、突き刺されたほうの死徒は、何が起こったのかわからぬと言うふうで、自分の背中から腹に突き抜けた刃物を凝視し、自分の身体を包む炎に焼かれながら、意味不明の雄たけびを上げ続けた。
だが、それも長くは続かず、後背から近づいてきたシエルの一撃で、ターゲットは「消滅」したのだった。
シエルは普段は明るく、穏やかな性格で、志貴にとっても良い先輩ではあるのだが、その実、彼女は極めて冷徹な現実主義者でもあり、すべきことに対しては仮借なく最善の方法を用いた。
今回も、その例に新たなページが加わっただけのことであり、そうでなければ埋葬機関の七位など勤まらぬのである。
「はい、おしまいです」
場違いと思えるほど明るい声を上げて、シエルは志貴に向き直る。
既に黒鍵は全て回収され、シエルの修道服の下にしまわれている。
黒鍵は遠目には剣だが、実際に存在するのは柄の部分のみで、刀身は対吸血鬼用の概念武装である。
故に、所持しようと思えば、しまえる限り幾らでも所持できるのだった。
もっとも、教会の代行者でも扱いの難しいこの武器を好んで使うのは、「弓」と呼ばれるほど飛び道具に長じたシエルぐらいであろうが……。
「お疲れ様、先輩」
「今日は楽でしたね。やはり遠野君がいてくれると、色々と助かります」
「俺は何もしなかったけどね」
「いやいや、居てくれるだけで、貴方は頼りになりますから」
志貴に笑顔を向け、シエルは語りかける。
その笑顔は、普段、先輩として学校で見せる笑顔とどこも変わらなかった。
ただ衣装が、制服から修道着に変わっただけであった。
志貴は、学校での明るい先輩としてのシエルと、代行者・現実主義者としての容赦のないシエルの、どちらが本当の彼女なのかと、幾度か考えたことがある。
だが、志貴とてシエルの全てを知っているわけではないし、そもそも、どちらが本当の、と考えること自体が馬鹿馬鹿しいことでもある。
両方とも、本当のシエルなのだろうから。
「さて、これからどうしましょう。うちに寄って行きますか? アルバイト代わりに、晩御飯くらいご馳走しますよ」
志貴は暫く考えたが、
「ごめん、先輩、今日はこのまま帰るよ。
秋葉が所用で暫く帰らないし、琥珀さんと翡翠が心配するだろうから」
遠野の屋敷で働く二人のメイドの名を出し、申し訳なさそうにシエルの勧誘を拒絶した。
シエルの作る晩御飯(一〇〇パーセント、カレーだろうが)も魅力的だったが、志貴にとっては二人も大事な「家族」だった。
心配そうな顔で送り出してくれた翡翠と琥珀を、早く安心させてやりたかったのだ。
「そうですか……、ちょっと残念ですけど、仕方ありませんね」
シエルも志貴の意思を優先した。
これがアルクェイドであったら、「私もついていくー」などと言い出して、一騒動起こしそうなものだが、その点、シエルは「空気が読める」という一点に於いて、何百歳も年上の筈のアルクェイドより大人だった。
そうして、二人は別れ、今日の夜警は終わる。
明日になれば、また二人は同じ学園の先輩と後輩に戻る。
その筈だった。
だがその瞬間、文字通り絹を裂いたような女性の悲鳴が公園じゅうに響き渡った。
志貴とシエルは厳しい表情で視線を交錯させ頷くと、先ほど出てきたばかりの公園へと再び走っていった。
(To be continude...)
以前からお世話になりっぱなしだったALICEさんに、ようやく贈れた一本目。
「幻想水滸伝3」+「同4」+「ラプソディア」というふうに、同シリーズでは書いたことがありますが、全く別の作品同士のクロスオーバーというのは、実は初めて書きます。
破綻させないように頑張ります。
(07.01.06)