母の面影 前章A

003

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 香澄は、疲労で動かない身体をただ恐怖心のみに突き動かされて、逃げていた。
 こんな恐怖は、高校生としても合気道の使い手としても、日本では味わったことがなかった。
 純粋な女性としての恐怖。
 追ってくる男たちは、香澄をただ性欲のための獲物としてしかみていないことは、確認の必要もないほど明らかだった。

 男たちの足音は、確実に香澄に追いついてきていた。
 彼らにとって、ここは庭も同然であり、逃げる香澄を追いかけるのを楽しんでいるようにすら、香澄には思える。
 それは決して被害妄想ではない。

『ダメだ、一度止まったら、もう絶対に動けない……』

 自分で確認するまでもなく、体力はもうとうに限界を超えている。
 今、体を動かしている精神力ですら、あまりもちそうにない。

『お父さん、助けて……、助けて……っ!』

 香澄は心の中で、この場にいない父に必死で助けを叫びながら、足を動かした。

 が。

 その彼女の動きが、ついに止まった。
 おそらくは、道に転がっていた小さな石だったのだろう。
 上げようにも上がらない足が、引っかかってしまった。
 極度の疲労からか、香澄の身体は咄嗟の防衛本能も働かず、そのまま受身も取れずに地面に転がってしまったのである。

『……っっっ!!!』

 硬い地面でしたたかに背中を打った香澄は、呼吸をつまらせてその場でうずくまってしまった。
 そんな香澄の周りを、今までゆっくりと追ってきていた男たちが、再び取り囲んだ。
 香澄は、恐る恐る周りを見上げる。

「……」

 男たちは香澄を見下ろして、しきりに何かを騒ぎ立てている。
 聞いたことのない単語だが、それがいかにも下品な響きを持っていることだけはわかった。

『こ、殺される……』

 香澄は、再び顔を落とした。
 今度の男たちの行動は、性急で直接的だった。
 うずくまったままの香澄の両手を二人の男が両側から掴んで、彼女を無理やり立たせたのだ。
 砂まみれになった香澄にとって、自分より30cmも身長が高い人間の肉体は、絶望の壁に他ならなかった。
 自分の正面に立った男から、なんとか視線をずらそうとするが、男は品定めをするように、香澄の顎を片手でつかみ、その顔を正面から見据えた。
 香澄がきゅっと目を閉じると、正面の男は背後の男たちに顔を向け、なにやら話してげらげらと下品な笑いをあげる。

「……!?」

 香澄が一瞬だけ目を開けると、正面の男の手は、香澄の着ているTシャツの首の部分をつかんでいた。
 そして、勢いよくそのTシャツを引き裂いた。

「いやああああああああああああああああああああっっ!!!」

 続けざまにスカートも剥ぎ取られた香澄は、下着だけの無残な姿にさせられ、再び地面にひれ伏せさせられた。
 必死で体をもがかせて抵抗しようとするが、自分の両手と両足をつかむ4人の力は一向にかわらない。
 そして、自分の股間の間に立った男がズボンのジッパーを下げるに及んで、香澄はもう声も上げることもできず、砂と埃と涙でぐしゃぐしゃになった顔をふるふると震えさせることしかできなかった。

 しかし、この時、まだ香澄には運が残っていた。
 香澄の真ん中でズボンを下げようとした男が、突然鈍い悲鳴を上げて、後方に倒れこんだ。
 周りの男たちが、なにが起こったのかとその方向を睨みつけるが、香澄は涙と砂で目がかすんで見ることができない。

「なにをしている!?」

 それは、男の声だった。
 香澄の両手と両足を押さえつけていた力がはずれた。
 どうやら、自分たちの性の晩餐を邪魔した男に、いっせいにかかっていったらしい。
 香澄には、ただ殴り合いであろう音が聞こえるだけだった。
 なんにしても、自分はここで犯されて殺されてしまう……。
 だから、もうなんでもいい、早く楽になりたい……。
 そんな考えが、ふと頭をよぎったとき。
 ふわっ、と自分の身体が浮き上がるのを感じた。
 誰かに支えられているらしい。

「おい、大丈夫か? 生きてるか?」

 それは、先ほど聞こえてきた新しい男の声だった。
 香澄は朦朧とする頭と目を、なんとか男に向けた。

 そこにいたのは、見知った顔だった。

「あれ、おい、まさか君……っ!」

 男のほうも、自分が抱き上げているのを香澄だと認識したらしい。
 金髪に黒い眉、黒い目の男……。
 極限流の総師範代行、リョウ・サカザキ。

「ううううう……」

 香澄の目に、とめどなく涙があふれてきた。
 今までの、恐怖からの涙とは、明らかに違うもの。

「うわあああああああああっっ!!!」

 香澄は、リョウの首に抱きついて、大声で泣いた。
 疲労と空腹、恐怖と安心がごちゃごちゃになって、香澄自身でも感情をコントロールできなくなっていた。
 ただ、泣くしかできなかった。
 リョウは香澄に一言二言話しかけてみたが、香澄が動揺していて、とてもそれどころでないことを悟った。

「とにかく、ここにいるのは危険だ。
 道場に行こう」

 泣き続けている下着姿の香澄を抱き上げ、彼女のバッグを担ぐと、リョウは足早に自分の乗っていたバイクに向かい、そのままダウンアンダーエリアを後にした。

004

 極限流の道場は、香澄が襲われた現場から歩いて一時間、バイクで二十分ほどの場所にある。
 香澄の得た情報のとおり、ダウンタウンに近いものの、場所は大通りから一本だけ入ったところで、喧騒自体はビジネス街となんら変わらない。
 助けられたばかりの香澄は、安心しきって力が抜けてしまったのか、ひとしきり泣いた後、気を失ってしまったらしい。
 リョウが香澄を抱いたまま足を踏み入れたビルは、ややくすんだ白色の建物で、二階部分を取り巻くガラス窓には大きく「KARATE KYOKUGEN-STYLE」と、ゴシック調のアルファベットで書いてある。
 リョウは駆け足で中の階段を四階まで駆け上がった。
 この地上四階、地下一階建てのビルは、地下一階が駐車場及び駐輪場、地上一階が極限流の道場と利用者のための更衣室、二階が同じく極限流のトレーニングジム、そして三階と、吹き抜けでつながった四階部分がリョウ他サカザキ一家の居住空間になっている。
 リョウは息を切らせて玄関の前に立つと、扉のインターホンを連打する。

『はいはいはいはい、慌てなくてもすぐにでるってば!』

 中から、元気のいい女の子の声がして、玄関の扉が開いた。
 出てきたのは、ややブラウンのかかった黒く長い髪を三つ編みにまとめ、薄いブルーのTシャツと膝までのスパッツを身につけた、背の高い女の子だった。

「あ、お兄ちゃん、おかえ……」

 少女はリョウの姿を見て、いつもどおりの変哲のない挨拶をしようとした。
 しかし、リョウの抱えている下着姿の少女と、必要以上に息を切らせた兄の姿を見て。

「……」

 ……言葉を失った。
 そして、乱暴に扉をしめてしまった。

「こら、ユリ、閉めるな、開けろ!」

 リョウは扉を空いた手で激しく叩くが

「嫌です! 家には、裸の女をサラってくるような男はいませんっ!」

 と大声で叫んで、少女―リョウの妹、ユリ・サカザキ―は頑として扉を開けようとしなかった。


「ふう、やっと落ち着いた……」

 リョウは居間のソファに腰掛けると、ユリのいれてくれたアイスコーヒーに口をつけた。
 テレビの電源が入っていたが、とてもゆっくりと見る気分ではなかった。
 ユリは今、香澄を客間のベッドに寝かせにいっている。
 あれから、ユリを説得するのが大変だった。
 なかば実力行使で扉を開けると、あからさまに犯罪者を見るような視線をむける妹に、必死に事情を説明したのである。
 さすがにユリも、リョウの抱えている女の子が香澄と知ると、真っ先に客間のベッドを整えに行ってくれたのだが。

「お兄ちゃん……」

 言いながら、ユリが居間に入ってきた。

「香澄くんは?」

「今は寝てる。砂だらけだったから、身体を拭いてあたしのパジャマを着せてきたけど……」

 ユリは兄の脇に立つと、心配そうな顔でリョウに視線を向けた。

「とりあえず命には異常無さそうだが、起きたら医者に見せたほうがいいな」

「うん……」

 ユリは、自分もアイスコーヒーの入ったカップを持ってきて、リョウの対面に腰を下ろした。
 ユリは兄と香澄に何があったのか知りたがったが、リョウにしても香澄が数人の男たちに襲われそうになっていたのを助けただけで、それより前のことは見ていなかった。
 ユリにすれば、兄の言葉はにわかには信じられなかった。
 日本にいるはずの香澄が、なぜサウスタウンの、それも一番危険な区域で襲われているのか。
 香澄の合気道の腕前も知っているだけに、ひょっとしたらリョウが香澄に何かしたのでは……という最悪の考えが一番に頭に浮かんで、それを詰問しようとしたのだが。
 兄の沈痛な表情を見ると、何も言えなくなってしまうユリだった。

「とにかく、全ては彼女が目を覚ましてからだ。ひどく怯えてたみたいだし、今はゆっくり休ませてやったほうがいい」

「そうだね」

 ユリは、少しだけ残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
 つけっ放しになっているテレビからは、ニュースが流れている。
 地元のケーブルテレビのニュースだろうか、目に入るのはダウンタウンの殺人、窃盗、レイプ……、血生臭いものばかりだ。
 香澄もリョウが居合わせなければ、こんなニュースになるところだったのだろうか。

「……今夜は、私が香澄を看るよ。隣で寝てれば、何かあったらわかるだろうし……」

 ユリが言うと、リョウも少し考えて頷いた。
 それがいいかもしれない。
 少なくとも男の自分よりは適任だろう。

「そうだな。だけど、あまり得意の寝相の悪さを発揮するなよ? 香澄君が悪い夢を見るかもしれない」

 真面目くさってリョウが言うと、それが癇にさわったのか、ユリはムッとして、兄の目の前に立ち、その顔を両側からゲンコツでぐりぐりと挟みこんだ。

「どう見てもヒトサライにしか見えなかった男を、隣に寝させるよりは百倍マシでしょうがっ!」

「いててて、こらやめろ!」

 リョウはユリの腕をつかんで強引に引き剥がすと、すっくと立ち上がった。

「あれ、どっか行くの?」

「ああ、着替えてくる。よく考えたら、少しホコリっぽいしな」

「汚いなぁ、もう。誰が掃除すると思ってんのよ」

「ここは俺の担当だ。文句は言わせん」

「はいはい……」

 ユリは少し苦笑すると、ソファに座りなおした。
 そして、居間を出ようとするリョウに声をかけた。

「晩御飯できてるから、すぐに来てね」

「おう、今夜は?」

「甘口カレー」

「……」

 リョウは「やれやれ」といった感じで、肩をすくめた。
 甘口カレーはユリの好物だが、リョウは甘口が嫌いなのである。

 リョウは、居間の扉を閉めながら、香澄の眠っている客間のほうに目をやった。
 リビングとキッチン、リョウの部屋と客間は、一本の廊下でつながっている。

『香澄くん、精神的なショックを引きずらなきゃいいが……』

 そんなことを思いながら、リョウは自室へと歩を進めた。
 ともすれば、心の傷というものが、身体の傷よりも遥かに残酷な未来を齎す可能性があることを、彼はそれこそ骨身にしみて知っているのだった。

(To be continude...)

 

COMMENT

(初稿:06.06.21)