母の面影 前章@


001

「あーーーーーーーーーーっ!!!」

 太陽がちょうど中天に昇ったころ。
 アメリカはサウスタウンのド真ん中で。
 思いっきり日本語発音な叫び声が、あたりに響き渡った。
 金髪や黒い髪、黒い肌など、様々な人種の人間たちが、その声の元を振り返ってみると、そこには、小柄な長い黒髪の女の子が、呆然と立ち尽くしたまま、デニム生地のタイトスカートのポケットをまさぐっていた。
 しばらくすると、少女は背負っていたバッグを地面に置き、まさぐっていたポケットの裏生地まで引っ張り出して中身を確かめていたが、そこに何もないことを確かめると、今度はバッグの中を引っ掻き回して何かを探しだした。
 そして5分後。
 探し物がどこにもないことを確認してしまった少女は、その場にペタン、と座り込んでしまった。

「どうしよう……。
 財布、なくしちゃった……」


「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」

 今朝から今までに歩いた道を探し回り、サウスタウンのセントラルパークに移動した少女は、ベンチに座って大きなため息をついた。
 少女が「行方不明の父を探す」という目的のために、日本からこの街に来て一週間になる。
 最初、現役高校生の彼女が日本を発つのを、母は反対したが、彼女の熱心な説得に根負けして、費用を用立ててくれた。
 正確には、用立てた費用を預けてある銀行のカードを渡してくれた。
 それがあれば、まだまだこの街で父の情報を集め、あわよくば発見して、日本に帰るつもりだったのだが。

「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……」

 少女は、もう一度大きくため息をついた。
 なにせ彼女が落とした財布には、そのカード、すなわち彼女の全財産が入っていたのである。
 今、彼女の手元にあるのは、安ホテルをチェックアウトするときにおつりで受け取って、ポケットに突っ込んだ3ドルだけ……。
 日本では、ハンバーガーセットを買ったら、それでなくなってしまう金額だ。
 その少女−藤堂香澄は、自分の手元に全財産を乗っけて、三度ため息をついた。

『年頃の女の子の一人旅』には不安はない。
 彼女の父「藤堂竜白」は日本で名を上げた優れた格闘家であり、香澄はその父から免許皆伝を受けた合気道の使い手である。
 銃でも持ち出されない限り、たとえ大男相手でもストリートファイトで負けるとは思っていなかった。

 しかし、そんな彼女でも、さすがに食わねば生活できない。

 たどたどしい英語で警察に遺失物届けを出しはしたが、かえってくる可能性はゼロに近いだろう。
 パスポートを別にしていたのは、不幸中の幸いなのだが……。
 残念ながら、香澄の知識ではパスポートはご飯を食べさせてはくれない。

『あ〜、こんなことなら、もっとはやく極限流の道場を探して、何か聞いてくればよかった……』

 香澄はベンチの背もたれに軽めの体重を預け、ぼ〜〜〜っと空を見上げた。
 極限流。
 それはこの街に根を下ろし、道場を開いている空手の一派のことである。
 極限流の開祖タクマ・サカザキと、香澄の父・藤堂竜白は若いころから因縁があり、何度も闘ったそうである。
 そして、日本で企業家として成功した父が、最後に格闘家として『タクマとの決着をつける』と言い残し、家を出たのだ。
 だから、香澄は渡米して真っ先にこの街に足を踏み入れたのである。
 香澄自身も極限流には顔見知りがいる。
 タクマ・サカザキの長男で、現在極限流で最強の男といわれるリョウ・サカザキとは何度か顔をあわせていて、一度だけ闘ったことがある。
 しばらく前のことだが、ぜんぜんかなわなかったことを覚えている。
 その時は自分がつけていた鉢がね(鉄の板を縫いこんだ鉢巻)をリョウに渡して再戦を期したが、まだ実現はしていない。
 リョウの妹であるユリ・サカザキとは、『キング・オブ・ファイターズ』というチーム制の格闘大会で、ともにチームを組んで世界を転戦したことがあった。
  ユリ自身がかなりアレンジしていて、正統的な極限流空手ではなかったが、かなりの使い手であることは間違いなかった。
 しかし、そのときはこの街に寄らなかったため、香澄は極限流の道場がどこにあるのか知らないのだ。
 今までサウスタウンの北部エリアで情報を集めてはみたものの、「キョクゲン・カラテ」の名を知っていても、道場の位置までは知られていなかった。
 電話帳にもなぜか出ていないし。
 で、意気込んで南部エリアに乗り込んできた矢先に……。
 財布を無くした。

「はああ〜〜〜〜〜〜〜……」

 もうため息しか出ない。
 乾いた風に、香澄の長い黒髪がなびく。
 見上げた空は、いつもと同じ色であるはずなのに、その青さがなぜか今日は癪にさわった。

 そして、しばらくたって。
 香澄は視線を地面に落とすと、両頬をペンペンと、自分で数回たたいた。

「仕方ない。歩き回ってみるか。見つからなかったら、なにか手を捜そ!」

 ベンチからすっくと立ち上がって、「う〜ん」と背伸びをした。
 立ち直りの早さは、父譲りだ。
 香澄はよく「母似の美人だ」と言われるが、性格のほうは間違いなく父・竜白の遺伝が強かった。
 しかし、この立ち直りの早さと、彼女が極度の方向音痴であるという事実が、今回は完全に裏目に出ることになろうとは、このとき、まだ香澄は想像もしていない。

002

「よし、行くか」

 香澄はベンチに放り投げていたバッグを背負うと、全財産の3ドルをポケットにねじ込んで、元気よく歩き出した。
 香澄は、これからが彼女が自分の生きてきた16年間の中で、もっとも波乱に満ちた半日になることを、まだ知らない。

 香澄は、元気よく街中を歩きながら、行く先々で『極限流道場』の住所を聞いて歩いた。
 英語に不慣れなうえ、東洋人独特のイントネーションのせいもあってなかなか話が通じないが、それは北部地区での聞き込みで慣れてしまっていたので、今更は気にならない。
 今、香澄にできることは、情報の聞き込み以外なんにもないのだから、仕方がないのだ。
 しかし、ここならすぐにわかるだろうと思っていた南部地区でも、香澄の想像を超えて、捜索は困難を極めた。
 理由は簡単だ。
 北部地区はサウスタウンができたばかりの頃の雰囲気を残す「下町」的な場所だったが、南部地区は近代的なビルが立ち並ぶ商業・通信・情報・人材等の中心地である。
 しかも、いったんダウンタウンに入ると、狭い道路が網の目のように走り、街自体も圧倒的に広いのだ。
 土地勘のない人間が適当に歩いても、目的地に到達するのは難しい。
 外国人ならば、尚更のことだった。
 それでも、4時間近く歩き回る中で、香澄はどうやら目的地に近づいている実感を得ている。
 あまり詳しい話は聞けないが、「あっちだったと思う」という類の話が増えてきたからだ。
 極限流の道場は、大通りから一本入ったダウンタウンに面しているらしい、ということもわかった。
 だが、本当の問題はここからだった。
 更なる情報を求めてダウンタウンに入ったところで、ぷっつりと話が聞けなくなってしまったのだ。
 サウスタウンのダウンタウンは、表のビジネス街とは裏腹に、まるで貧民街のような様相を呈している。
 生活の活気というものがまったくない。
 細路地裏に座り込む人々の表情は一様に疲れきっていて、話しかけても反応がまったくないこともしばしばだった。
 香澄にとっては、一種異様な場所だった。

 腕時計の針が午後7時を指した頃、香澄は疲れきったせいもあり、お世辞にも清潔とはいえない路地の一隅に座り込んでしまっていた。
 狭い路地を歩きに歩いた挙句、情報らしい情報もなく、ちょっとだけ諦めの感情が首をもたげた瞬間、疲れと空腹が一気に襲ってきたのだ。

『疲れた……。お腹すいた……』

 まだ香澄はポケットに3ドルを忍ばせていたが、目に見える範囲では、それを使って食事ができそうなところもない。
 それにもう辺りは暗く、足もパンパンに張って、ちょっと動きそうになかった。

『あたし……、どうなっちゃうんだろ……』

 膝を立てて座り、その上に腕を組み、真ん中に頭を突っ伏して、つい愚にもつかないことを考えてしまう。
 普段はポジティブな考え方をする香澄だが、それも健康な状態の身体と精神があってのこと。
 こんな最悪の状況は、遭遇どころか、考えたことすらなかった。

 その時。
 自分の周辺に異様な気配を感じて、香澄ははっと顔を上げた。
 彼女の周りを、5〜6人の大柄な男たちが遠巻きに囲んでいた。
 みな若いが、どれも服装は不衛生で、このダウンタウンの住人であることは一目瞭然だった。
 香澄はよろよろと立ち上がりながら、このサウスタウンのもうひとつの顔を、思い出さずにはいられなかった。
 犯罪都市としての顔を。
 男たちは、じわじわと間合いを狭めてくる。
 彼らの目的は、香澄にも十分すぎるほどわかっている。
 男たちの目の、尋常ではない光は、明らかに「獲物としての女」を見定めた目だった。
 そのうち、男の一人が、やおら香澄に襲い掛かった。
 香澄は掴み掛かってくる腕をかわして逆に掴み反すと、そのまま相手の力を利用して、男を背後の壁にたたきつける。
 合気道の呼吸法である。
 肉がひしゃげる嫌な音がして、男はずるずると地面にのびた。
 しかし、これは香澄にできる最後の抵抗だった。
 普段ならともかく、疲れきった身体では、これ以上の反撃は望めそうになかった。
 幸い、男たちは香澄の意外な反撃に驚いてか、包囲網をやや広げている。
 香澄はじりじりと横に動きながら、タイミングをはかり、男たちの間隙を縫って、その場から走り出した。
 動かない足を無理やり動かし、よろよろと壁に手をつきながら、必死の思いで走ろうとする。
 背後からは、明らかに男たちが追ってきている。
 香澄には、選択の余地はない。
 なんとか逃げるか、捕まって犯されるかのいずれかしかない。
 少なくとも、香澄の本能はそう告げている。
 香澄は、逃げられると自分に言い聞かせながら、壁沿いに真っ直ぐ逃げた。
 その先にあるのがダウンアンダーエリア、サウスタウンでもっとも危険な場所であるとも知らずに。

(To be continude...)

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(初稿:06.06.21)