「………………」
香澄の目に最初に飛び込んできたのは、クリーム色の天井だった。
「………………?」
ここは、どこだろう?
「………………??」
なんで自分はここにいるのだろう?
「……私は…………」
香澄はゆっくりと起き上がる。
「つっ……!」
背中に痛みが走る。
香澄は、窓際に設置されたベッドに横になっていた。
窓からは、明るい日の光が入ってくる。
枕元におかれたデジタル時計は、午前7時をちょっとすぎていることを告げていた。
『そうか、私は…………』
段々とはっきりしていく意識の中、香澄はどうにか記憶と状況を整理していく。
ダウンタウンを空腹でさ迷い、大勢の男に襲われたこと。
レイプされる直前でリョウ・サカザキに救われたこと。
そこから記憶が飛んでいる。
意識を失うか、眠るかしてしまったらしい。
レイプされる直前の恐怖を思い出して、思わず香澄は自分自身を抱きしめて震えてしまっていた。
恐怖以外の何者でもない肉体の壁と、直線的な暴力への欲望の眼差し。
性的な暴力による心の爪あとは、時によらずとも、その後の女性の一生をすら左右する、最悪の腫瘍となる。
香澄にとってせめてもの救いだったのは、その犯罪が未遂に終わったことと、強引な腕力で自分を救ってくれた知己の者の顔を、気を失う直前に見ることが出来、大きな安心感を得られたこと。
リョウ・サカザキの顔を思い出して、体の震えは自然に止まっていた。
香澄は、なんとか自分を取り戻していた。
『じゃあここは……極限流の……?』
よく自分の姿を見ると、香澄は明るいデザインの、ちょっと大きめのパジャマを着せられていて、腕にはところどころ絆創膏が張ってある。
リョウが、応急処置だけでもしてくれたのだろうか。
部屋は、大きなクローゼットがあるものの、荷物はあまりなく、こざっぱりとしている。
香澄はなんとかベッドから立ち上がる。
身体の節々と背中が痛むが、我慢できないほどではない。
とにかくリョウの姿を探して、香澄は部屋を出る。
廊下の先から、なにやら音がするのに気づき、香澄はそのドアの前に立った。
察するに、どうやら炊事の音らしい。
香澄はそっとドアを開けると、そこはダイニング・キッチンのようだ。
味噌汁のいい匂いがしている。
キッチンでは、長い黒髪を三つ編みにまとめた、Tシャツとショートパンツ姿の長身の女の子が、なにやらリズムよく動いていた。
その背中を見ただけで、香澄はそれが誰かを理解した。
かつてのチーム・メイト、ユリ・サカザキだった。
「香澄、ほんとに大丈夫? だるいとか、悪寒がするとかない?」
ユリは心配そうにテーブルについた香澄を見ながら、ごはんと味噌汁を三人分並べていく。
香澄は首をさすりながら、苦笑して首を横にふった。
ユリは、香澄の姿を見たとたん、持っていたおたまを放り出して彼女に抱きつき、起きたばかりの香澄を再びノック・ダウンさせてしまったのである。
未だ、自分の現状を良く解っていない香澄の鼻をくすぐる味噌汁のいい匂いが、懐かしささえ感じさせて、彼女を安心させてくれる。
香澄は、まず自分がいまどういう状況にあるのか、ユリに色々と尋ねた。
リョウが半裸の香澄を抱えて帰ってきたこと、香澄の身体が細かい傷だらけだったこと、丸二日眠りっぱなしだったこと、ここが正真正銘、ユリたちの家であること。
ついでに、リョウが起きない香澄を心配して、知り合いの医者を呼んで診察させたが、痕に残るような怪我も障害もないと聞いて安心したことなど、ユリは正直に話してくれた。
「あの……、どうもありがとうございました。
なんてお礼を言ったらいいか……」
と、香澄がすまなそうに頭を下げたが、ユリは、
「いいっていいって、友達でしょうに。
それに、礼ならお兄ちゃんに言ってあげてよ。
助けた本人はあの人だからね」
と、笑いながら手を振った。
そのリョウ本人は、階下の道場を開ける準備をしているらしい。
新聞をとってくるついでにやってしまうのが、リョウの毎朝の日課だそうだった。
「ったく、毎朝遅いんだから。
折角のごはんが冷めちゃうよ」
椅子に腰掛けたユリがぶつくさ言いながらテーブルの上で指をタップさせるのを、香澄は微笑ましく見ていた。
まだ父が家にいたとき、母が毎朝同じような文句を言っていたっけ。
「そういえば、家事はユリさんがするんですか?」
香澄の突然の質問に、ユリが指の動きを止めて香澄を見遣る。
「なにが『そういえば』なのかわかんないけど、うちはお兄ちゃんと分担してやってるよ。
道場の経営だって、手伝ってあげてるんだから、こっちも手を貸してもらわないとね」
からからと彼女らしい笑顔を見せながら、ユリは言った。
格闘の世界では、ユリは自身の波乱に満ちた過去を引きずらない、のーてんきな明るい女の子として有名だが、こういった家庭的な一面があることはあまり知られていない。
実際、香澄の目の前に並んだ和風の朝食―ごはんと味噌汁、(ユリ曰く)自家製の梅干と焼き魚―は、いずれもすごくおいしそうな匂いで、起きたばかりでまだ疲れがとれきっていない香澄の食欲を掻き立ててくれる。
ユリとリョウの兄妹は父が日本人、母がアメリカ人のハーフなのだが、食事や生活習慣は父・タクマが日本のものに拘っていたせいか、朝は和食というのが通例だそうだ。
ついでに言えば、この家も普通のアメリカの家庭とは違い、玄関で靴を脱ぐようになっている。
その時、香澄の後ろでドアが開いて、誰かが入ってきた。
「遅ーいっ!」
香澄が振り向く前に、ユリが立ち上がって叫ぶ。
確認するまでもない。
振り向くと、袖のないシャツにジーパンという、極めて軽装のリョウがそこにいた。
「お、目が覚めたのか、香澄くん」
リョウは持っていた新聞をテーブルに投げ出すと、イスに座りながら香澄に声をかけた。
ちなみに、ユリは完全に無視されている。
香澄はリョウの顔を見て、自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。
ヘンな安心感に自分が包まれているのを自覚してしまい、更に彼に助けられたとき、自分が下着姿で彼に抱きついたことをふと思い出したのだ。
「あ、あの……どうも、ありがとうございました……」
ややどもりながら深々と頭を下げる香澄に、リョウは新聞を広げながら顔を上げるように言った。
「気にすることはない。
それより、大きな怪我がなくてよかったな。
体調は悪くないか?」
「あ……、は、はい、それは大丈夫……です」
うつむいて言いながら、香澄は自分がどうも本調子でないことを理解していた。
やっぱり、ふしだらな女の子だと思われただろうか。
それを見ながら、ユリはどーも不機嫌になる。
自分が無視された挙句に、香澄のこの変化だ。
ユリは、暗闇から浮き上がるように現れるハイデルンよろしく、素早く兄の背後に回ると、いきなり裸締めにはいるべく腕を首にまわした。
「!?」
リョウが驚いてそれをはずそうとするが、一瞬早くユリのほうが決めてしまった。
「なんで香澄がそこで恥ずかしがるっチかぁ! お兄ちゃん、やっぱり香澄になにかしたわね。
白状しなさい、このハレンチ龍虎乱舞ッ!」
「知るかあああああああっっ!!!!」
朝食前に、本気で兄を締め上げる妹に、それに抵抗する兄。
香澄は唖然としながら、その状況を見るしかなかった。
サカザキ家の、いつも通りの騒がしい朝である。
あれから、なかなか大変だった。
全開モードのユリをリョウがムリヤリ引っぺがし、強引にその場を纏めてしまったのだ。
結果、ユリはぶすっとして兄を睨みながら、もくもくと食事を続けている。
もっとも、香澄がおかわりを頼むと笑顔でご飯をよそってくれたから、心から本気で怒っているわけでもないのかもしれない。
このへんは兄妹の機微なのか、この兄妹が特別なのかは香澄にはわからない。
香澄にも瑞穂という姉がいるが、姉は身体が弱く、気弱なところもあった。
だから、自分が藤堂流を継いだこともあって、香澄はいつも気丈にしていた。
もし姉が頼りがいのある状態だったら、自分は格闘などせず、こんなふうに「妹」として行動したりしたのだろうか。
しばらくその険悪(もどき)な状態が続いたが、リョウの話が香澄に向いたところでそれも終わりを告げた。
「で、正直なところ、なにがあったのか、できれば話してくれないかな」
話したくなければかまわんが、とリョウは付け加えた。
ユリも大きく頷いている。
香澄はちょっとだけ迷ったが、結局はすべてを話した。
隠すようなことでもないし、その理由もないと感じたからだ。
なにより、リョウの前だと安心して話せる気がしていた。
タクマを追った父親を探してサウスタウンに来たこと、ここに来ればなにかわかると思ったこと、財布を落として街中を彷徨ったこと、そして襲われたこと。
「うーん…………」
香澄の話を聞いて、リョウはすまなそうに腕を組んだ。
「悪いが、ここには竜白氏は来られていないな。
俺たちの親父も、ここ半年ほど『修行だ』とか言って家を出たままだ。
しょっちゅう放浪してるから、俺たちもどこに行ったのかわからん」
「そう……ですか……」
香澄はちょっと項垂れてしまった。
これで父親の手がかりがひとつ消えた。
それも、一番確実だと思われた手がかりが。
「香澄はこれからどうするの? まだアメリカを捜すとか?」
ユリから、これまた痛い質問がとんだ。
財布をなくして一文無しだったことを、今更ながらに自覚してしまった。
「あー……」
がっくりと頭を下げる香澄。
「あ、あたし、なんか変なこと言った?」
ユリが心配そうに香澄をのぞきこむ。
香澄はあわてて「ち、違います違います」と、オーバーに否定してみせた。
「私、いま一文無しなんですよぅ……。
だから、捜すとか帰るとか以前に、それをなんとかしないと……」
同時に大きくため息をついた。
よく考えてみたら、リョウが立て替えてくれたという自分の診察代も払えないのだ。
情けない……。
そう思うと、もうひとつため息が出た。
「お父さんをサウスタウンで捜すつもりなら、ここをベースにしてもかまわんぞ?」
なにげにリョウが言った言葉に、香澄は「へっ?」と頭を上げた。
少し意表をつかれたせいか、気の抜けた表情だったが。
「そうだね。
ここなら、サウスエリアの真ん中に近いから、サウスタウンにいる間は行動しやすいかもね」
兄の言葉に、ユリが自然に反応した。
「え? で、でも、迷惑なのでは……」
香澄が言うと、ユリが微笑んで香澄の肩をぽんぽんと叩く。
「ぜんぜん迷惑じゃないって。
ロバートさんやキングさんだって、サウスタウンに来るときはここをベースにしてるんだから」
「はぁ……」
ちなみに、ロバートとはイタリアの大富豪の子息であり、リョウとは「竜虎」と並び称されるほどの極限流の達人である。
またキングとはロンドンのバー「イリュージョン」のマスターを務める女性で、過去サウスタウンにいたこともあり、やはり極限流に浅からぬ縁のあるムエタイの達人である。
香澄は二人とも面識があった。
もっとも、ロバートに関しては、未だに香澄は彼のことを「カルシア」だと思っているが。
ユリに言わせると、ロバートもキングもお金持ちなのに、この街にくるたびにわざわざホテル代をけちって極限流道場に泊まりにきては、タクマ・サカザキの長〜い昔話につき合わされている「変わり者」だそうだった。
ここでリョウが「正真正銘の変わり者のおまえに言われちゃ、いかにロバートでもかわいそうだろ」などと余計なことを口走って、妹から、両頬をむに〜っと引っ張られたのは余談だが。
兄の頬を引っ張ったままユリが言うには、サウスタウンにくるたびにここに泊まる知り合いは多いそうで、変わったところでは、道場破りにきて、死闘の末にリョウに敗れた「如月流」を名乗る派手な忍者が、そのまま何日か居着いたことがあった。
その時は、ぶつぶつ言いながらも家事や弟子の修行を手伝ってくれて、再戦を期して日本に帰ったらしい。
「何というか……、アメリカとは思えないほど大らかですね……」
香澄が驚いて感想を述べると、再びユリを引っぺがしたリョウが、豪快に笑った。
「まぁ、そうは言っても、よく泊めるのは面識のあるヤツばかりだし、見た目によらず、この建物もセキュリティはしっかりしてる。
それに、いざとなれば極限流の免許皆伝者が何人もいるからな」
『なにかあったら半殺し』というわけだ。
香澄は思わず想像して苦笑してしまった。
赤くなってしまったほっぺたを抑えながら、リョウは続ける。
「まぁ、君もまだ起きたばっかりなんだろ?
もうしばらく体を休めて、頭を落ち着けてから決めたらいい。
財布が返ってくれば一番いいんだろうが、なんにしてもこれからのことだしな」
「はい、ありがとうごさいます。
申し訳ありませんが、しばらく御厄介になります」
香澄は正直に感謝して、好意に甘えることにした。
このままこの家を出てもどうにもならないし、頭のほうはどうやら正常に戻ってきてはいるが、体のほうはまだ節々が痛むのも事実だった。
それにもうひとつ、香澄がこの兄妹に対して興味がわいて来たこともあった。
目の前の二人はどうにも緊張感に欠けているが、格闘家としては、その強さにおいてかなりの知名度を誇る兄妹である。
その普段の生活を観察してみたい、と、藤堂流古武術の継承者として思ったのだ。
「あ、そうそう」
そんな香澄の心理を知ってか知らずか、ユリは性懲りもなく兄にチョークスリーパーを、どうやら手加減一切なしでかけながら話し掛ける。
「香澄のバッグ、私が預かってるよ。
中身は見てないから、後でなくなってる物とかないか、確かめたほうがいいよ」
「あ、はい。
ありがとうございます」
安心しきっていたのか、自分の所持品のことをすっかり忘れていた。
いざという時のために入れていた藤堂流の胴着や、着替えなどがなくなっていなければいいのだが。
その時。
「スキありっ!」
ユリに首を締め上げられて真っ赤な顔をしていたリョウが、ユリの意識が香澄に行った一瞬の隙をついて、チョークスリーパーから脱出すると、椅子に腰掛けたまま逆にユリの体を自分の前面に持ってきて、チョークスリーパーをユリにかけ返した。
「きゅう」
という空気が抜けるような台詞が、ユリの口から漏れる。
どうやら、がっちりと決まってしまったらしい。
『今のは……』
香澄の表情が思わず真剣になる。
あまりにもさりげない動作なので見逃すところだったが、今、リョウがユリの体を入れ替える動作は、あきらかに合気道のそれだった。
相手の力を利用して、相手の体を操ったのだ。
格闘家という人種は『二重感覚者』だと言ったのは誰だったか。
他の行動に集中していても、近くの、自分と同じ人種の使う力の流れを、まるで違う器官が働いているかのように、敏感に感じ取ってしまう。
香澄の今の状態もそれだった。
ほんの小さな動作にすぎないが、極限流の強さの一端を垣間見たのかもしれない。
「ん、どうした?」
香澄の真剣な視線が自分に向けられているのを悟って、リョウは香澄に顔を向けた。
香澄は慌てて「すいません」と視線を逸らす。
恋愛の経験の無い香澄はまだ、命の際から引き上げてくれたリョウが、彼女にとって特別な存在になりつつあることを、自覚しきれていなかったのである。
リョウと真正面から視線が合うとどもってしまうことにも、その原因が解らないことにも、恥ずかしさを感じてしまう香澄だった。
ただ、失神寸前のユリが、弱々しくタップしていることに、二人とも気付いていなかったことだけは、事実だった。
それから、どたばたした朝食が終わると、ユリは首を押さえて咳き込みながら後片付けをはじめた。
どうやらこの家に「手加減」という言葉はないようだった。
リョウはこれから道場を開けるという。
香澄はユリから自分のバッグを受け取ると、そのまま宛がわれた部屋に戻って再び眠りについた。
自分は無事だった、と安心したのと、リョウとユリの掛け合いを見てリラックスできたせいか、それはとても深い眠りだった。
(Fin)
「母の面影」とワンセットの連作です。
公開したのは「母の面影」の方が先で、そのあとWEB拍手で「香澄がサカザキ家に居候した経緯が気になる」というコメントを頂いて、晴れてこちらの「前章」の公開となりました。
詳細は「母の面影」のコメントに譲りますが、実はこれ、「母の面影」を含んだ「KASUMI Try! Try!! Try!!!」という長編シリーズの第一エピソード。
本来ならこの「前章」と「母の面影」の間にかなり話を挟むので、やや繋がりに不自然な部分もあります。
ひらにご容赦を。
では、「KASUMI Try! Try!! Try!!!」の残りの話はどこにいった?
その回答は当サイトの成人向けコーナー「YURIBLO_G! EXISM」 です。
あの第二部が、「KASUMI Try! Try!! Try!!!」を継承しています。
(初稿:06.06.21)