修羅の門

1994年4月2日発売/講談社/1点

「修羅の門」です。陸奥圓明流という闇の総合格闘技を操る主人公・陸奥九十九の、かなり無茶な挌闘人生を綴った挌闘漫画です。
 一応、他の一般挌闘漫画と同じように、きちんとした(かどうか怪しいものもあるが)大会で、マットなりリングなりのきちんとした試合場がある場所で戦うのですが、毎回のように死人や瀕死の重傷者が出るあたりは、さすがはバーリ・トゥードの恐ろしさ。

 さて、本作はそんなバイオレンス人気漫画のゲーム化。漫画の内容が内容ですから、普通のゲームになるわけでもなく、メガドライブで発売されたときは、挌闘漫画のゲーム化なのに挌闘シミュレーションという謎のジャンルで発売されていました。
 そして時代は流れ、ようやく挌闘漫画原作らしい「ポリゴン挌闘ゲーム」というジャンルで、改めてゲーム化されることになったのです。

 まあ、作りなおしたら作りなおしたで、ファミ通で2点だったんだけどね。

 そう、本作はあのファミ通のクロスレビューにおいて、セガサターンで伝説を作ったスーパークソゲー「デスクリムゾン」を、さらに一点下回るポイントをつけられました。しかも「これ完成品ですか」等々、罵詈雑言寸前の素晴らしいコメントが満載。
「極めたら、折れ!」というのが本作のキャッチコピーですが、本作をプレイして心が折れなかったプレイヤーはいないと思います。

 世にクソゲーといわれるものは沢山ありますが、本作ほどそれらの要素をまとめてぶちこんだゲームも珍しいです。陳腐な演出、チープな効果音、適当に捏ねた粘土みたいなポリゴン造詣。
 世に「暗黒太極拳」と呼ばれるものは二つありますが、一つは「センチメンタルグラフィティ」のオープニングの、謎に満ちた少女たちのサバト、もう一つは本作のオープニングでラジオ体操するドカン親父です。絶対にテストに出ませんが。

 挌闘ゲームの最大の演出の一つであるはずのキャラクターボイスにいたっては、存在すらしません。攻めようが守ろうが勝とうが負けようが、ものの見事に全員無言です。同じくらいポリゴン不細工なあの「フィスト」ですらしゃべったというのに。
 実はキャラが無言なのは狙いがあり、緊迫した試合での緊張感を前面に押し出そうとしたらしいです。確かに、K-1でもPRIDEでもボクシングでも、選手同士がピーチクパーチク喋りながら闘う場面は見たことがありませんが、素直に声優に回せる金がなかったって言えよ。
 おかげで、ほとんど生成直後の生ポリゴンに近いキャラクターとあいまって、試合そのものが非常に不気味です。本作の登場人物は、原作にはないなにかタチの悪いウチュウ電波かなにかに操られているのではないかと思います。

 さて、挌闘ゲームであるからには一応なりとも挌闘っぽい試合をするのですが、これがまたぜんぜん挌闘になってないあたり、バーリ・トゥードの奥深さを思い知らされます。
 技の数がえらく少ないし、いまどき挌闘ゲームでジャンプできないのは、初代「龍虎の拳」のMr.BIGか、「御意見無用」の面々くらいではないでしょうか。たしか、陸奥圓明流には飛び技もあったような気がするのですが。
 また、本作唯一のオリジナルの要素で「極め折り」というものがあります。原作でも、凶悪なオリジナル関節技で多くのキャラクターが骨折させられてましたが、それを忠実に再現。本作が原作に忠実な、唯一のポイントです。
 面白いのは、腕や足を折られると、その試合中はその部位を使った攻撃ができなるということ。つまり、腕も足も折られると、以降は何も出来ずにただ殴られ放題蹴られ放題のサンドバッグ。ゆえに、試合はいかに相手の四肢を折りにいくか、という駆け引きになります。もちろん無言で。

 しかも、ファイナルダウンのときには、みなオリジナルの負けポーズがあります。どういうことかというと、体力を失って倒れてそのまま試合が終わるのではなく、倒れた後、いちいち立ち上がって負けポーズをとってから再ダウン、やっと死にます。もちろん無言で。
 これにいたっては、何をやりたいのかさっぱりわかりません。挌闘家たるもの、漢の死に際はラオウのごとくあるべきだとスタッフが思ったのか、単に演出不足をポーズで補おうとしたのか。

 現在では原作つきゲーム(キャラゲー)でも面白いもの、出来がいいものはたくさんあります。そういう意味では、本作は、志が低かった昔の一部のキャラゲーに回帰したものと言えなくもありません。開発スタッフは、わざとこういうゲームをつくり、安直な原作キャラへの依存を止めよと、業界全体を戒めたかったのではないでしょうか?

 それくらいしか、本作の存在意義を見出すことが出来ない自分の能力不足を呪うばかりです。

(2008.01.14)