母の面影A

002

 リョウは、暑さをおさえるために水を一杯呷ると、目の前で真剣な目をしている香澄に、静かに話して聞かせた。
 父のタクマ・サカザキが、三人の家族をつれてこの地に落ち着いてからの、サカザキ家の「変遷」を。
 それは、リョウやユリにとってもそうだったように、香澄にとっても大きなショックを受ける話だった。

 タクマがこの地を最初に訪れたのは、今から30年以上前だ。
 当時から交際があったイタリアの富豪アルバート・ガルシア(ロバートの父親)の仕事におけるボディガードを引き受け、サウスタウンにやってきた。

 当時ここは本当になにもない、街と呼ぶにも地味な土地だったらしいが、何故かタクマは気に入ってしまい、アルバートとの契約が終わっても、数日たむろしていた。
 そして、後に妻となるロネットと出会う。

 二人は連れ立って日本に帰国、結婚。
 数年後に男女二人の子供に恵まれた。

 タクマは日本では格闘家として相当に名の知られた人物で、数々の大会のタイトルを持ち、草薙柴舟や不知火半蔵、ジェフ・ボガード、藤堂竜白、火引剛等、若く才能にあふれた数々の格闘家とも親交を結んでいた。
 しかし、その若さと才能から来る奢りもあったのか、既存の協会や団体とは折り合いが悪く、また度々道場破りまがいのことも起こし、立場的には必ずとも恵まれていたわけではない。

 そしてそんな中、一つの事件が起こる。
 とある大会での試合中、タクマは対戦相手を激しい攻撃の末、殺害してしまったのである。

 無論、スポーツの試合中の出来事ということで、罪に問われることはない。
 しかし、当時の日本という国は、一度こういうことを起こしてしまった者には非寛容になりがちだった。
 試合後の昏倒の後の死去ではなく、試合最中の死去――誰の目にも明らかな即死――というのが、よりショッキングに人々の琴線に触れたせいもあろう。
 他の協会もいい契機と踏んだのか、タクマをすべての大会から追放し、実質上格闘家としての生命を断ってしまった。

 タクマも個人的な誹謗中傷ならなんとも思わなかったのだろうが、批判からの注目が妻や子供たちに及び始めて、初めてことの重大さに気づいた。
 そして、親友でもあったジェフ・ボガードの薦めによって、居辛くなった日本を離れ、家族を連れて渡米、妻との思い出の地であるサウスタウンに腰を落ち着けることにした。
 この時、不躾にタクマを追い掛け回していた芸能記者の姿を、リョウは鮮明に覚えている。
 そのせいか、リョウは記者という人種が、未だに嫌いだった。

 この当時のサウスタウンは、街としての機能も整い、タクマがいたときよりも遥かに大規模に発展していた。
 しかし、短期間の発展の裏には、必ず闇の部分がある。
 活発な経済活動の下で複雑な利権構造が生まれ、「組織」と呼ばれるドイツ系と思われる集団と、イタリア・シチリア系のマフィアがそれをめぐって激しい抗争を繰り広げていた。

 タクマはここで極限流の道場を開き、細々と生計をたてていた。
 数少ない弟子の中には、親友アルバート・ガルシアの子息であるロバート・ガルシアも含まれていた。
 しかし、「気」を自在に操り、劇的な戦闘力を発揮する極限流の存在は、徐々にサウスタウンに影響を与え始める。

 結局、この地における安息の時期は、二年に満たなかった。

「組織」の大幹部であり、自らも優れた戦闘技術の持ち主だった「Mr.BIG」と呼ばれる人物が、タクマの腕前と風評に目をつけ、格闘術のスペシャリストとして懐に引き込もうとしたのだ。

  タクマは再度のトラブルに巻き込まれるのを嫌がり、BIGからの再三の要請を断り続けた。
 段々と恫喝的になっていくそれも、すべて追い返して、彼なりに家族に心配をかけまいとしていた。

 そして、またも事件は起きた。

 ある晴れた昼下がり、妻のロネットは子供二人を連れて街に出ていた。
 タクマにも用事があるときで、彼が心配して誰か弟子をつけようとしたのだが、妻はそれをやんわりと断った。

 ロネットは、信号待ちをしているとき、突っ込んできた大型車に撥ねられたのである。
 子供たちの目の前で。

 即死だった。

 タクマが急を聞いて駆けつけたとき、妻はすでに物言わぬ姿になってしまっていた。
 顔や体は損傷が激しく、一目ではタクマにも見分けがつかないほどだったが、つながっているだけ奇蹟だと、担当の者は言った。

 タクマは人生で初めて、涙腺を全開させた。
 2人の子供は、ただ泣きじゃくっていた。
 同じように、タクマも泣いた。
 ただ、嗚咽をあげ、泣き続けた。
 ユリは、幼い心にショックが大きすぎたのか、母親のそれも含め、この暫く後から以前の記憶の殆どを失ってしまっていた。

 この後、警察の調査で、事故を起こしやはり死亡した運転手の男から、大量の麻薬が検出された。
 そして、男が生前「組織」に所属していたこともわかった。
 組織はタクマを恫喝するために、ロネットを亡きものとし、運転手と他12名の市民までをも犠牲としたのである。

 数日後、妻の葬儀と埋葬をすませ、道場を閉鎖し、タクマは子供たちの前から姿を消した。
 自分が近くにいると、子供たちまで死ぬような目に遭うことは確実だったし、なにより妻の仇もとらねばならない。
 しかしこの時、リョウは10歳、ユリにいたってはまだ6歳であった。
 タクマがショックのせいか、物腰は冷静に見えても、正常な思考を欠いていたことは、残念ながら明らかだった。

 以来、リョウは住処を移し、生活するためだけに、ストリートファイトを始める。
 父から教わった極限流空手を駆使し、名立たる強敵たちを打破し、そのファイトマネーで二人分の生活費と、妹の学費を捻出した。
 時には乞食のような生活も経験したが、リョウはそんな中でも身を張ってユリを守り続けた。
 ユリは物心ついたときから、そんな兄の背中を見て育ってきたのである。

 そんな生活が十年間続いた。

 この間の「組織」のことについては、リョウもまた聞き程度にしか知らないが、どうやら内部で若い男が台頭していたようだ。
 ドイツ系と思われるその男は、なぜかマフィアの勢力を自在に操り、大幹部であったMr.BIGを追い詰めていた。

 リョウが20歳、ユリが16歳になったとき、二人の生活はだいぶ楽になっていた。
 リョウはすっかり格闘家として有名になり、各種の大会で優勝したりして賞金を得、父が閉鎖した道場を復活させて門下生も集まり、生活のほうは一応安定していた。

 なにより、これまで二人の行方を追っていた、父の親友でイタリアの富豪アルバート・ガルシアとその息子ロバート・ガルシアとの再会は、二人にとって喜ばしい出来事だった。

 その頃、サウスタウンの裏社会は一人の男の噂で賑わっていた。
 極限流に似た技を使い、天狗の面と空手胴着を身につけて目の前に立つ者をすべて破壊する男。
「Mr.カラテ」と呼ばれていた。

 その男に最大の興味を示したのは、当時「組織」内で著しい劣勢に立たされていたMr.BIGだった。
 その男の正体をタクマ・サカザキと看破したBIGは、その男を引き込み、自分の劣勢を覆すための「兵器」として利用するため、娘のユリを誘拐するという暴挙に出たのである。

 結局、当時「組織」の一員でありバウンサーでもあった男装のムエタイ使い・キングの裏切りによってユリは救出され、Mr.BIGはリョウとロバートによって打倒されて、裏社会からも完全にその名を消した。

 ユリを人質にとられていた「Mr.カラテ」、タクマ・サカザキは、リョウとの死闘の末にユリが救出されたことを知り、リョウと和解。
 十年以上にわたる事件のすべては、ようやく解決したのである。

 そして今、二年が経った。

 タクマはユリの懇願もあり、リョウたちと同居することになったのだが、やはりどこか子供たちに後ろめたさがあるのか、リョウが築いた子供達の安息の場に遠慮があるのか、たびたび修行の旅に出て、あまり家に寄り付くことはない。

 リョウは格闘技の大会への参加をなるべく控え、自分の修行と後進の育成に専心し、なにより、なにかにつけ危なっかしい妹の傍にいてやることに注心している。

 ユリは兄の反対を押し切って、自分の身を守るために、帰ってきた父から極限流空手を習った。
 やはり鷹の子か、溢れる才能で他の弟子たちを押しのけ、わずか一年で奥義を習得。
 中でも外でもやんちゃぶりを発揮しているが、兄にだけは頭が上がらない。

 そんな生活を送っている。


 リョウの話を聞き終え、香澄が受けた衝撃は、小さなものではなかった。
 二人の母のことだけではない、二人の人生のすべてに、自分とは大きな隔たりを感じていた。

 二人は常に「死にもの狂い」で、その日その日を生き抜いてきた。
 自分には、それがあっただろうか。
 すべての物が身の回りにあるのを、当然のように受け入れ、ただ漫然と生活してきた。
 勉強も格闘も、上達は誰よりも早かった。
「天才」と言われたことも一度や二度ではない。
 しかし、自分がそうなれた原因をさぐれば、それは最初からそうなれるだけのものが幸運にも自分の周辺にあった、それだけのことなのではなかったか。

 自分の方が格闘の修行歴が長いにもかかわらずユリにかなわないのは、藤堂流が極限流に劣っているからではない。
 無論、才能の差もあるかもしれないが、その闘いにかける「覚悟」の量が、香澄とユリとでは段違いだからだ。
 これまで、ユリにとってもリョウにとっても、「闘い」は常に生死に関わってきた。
 負ければ食えない、抵抗できねば誘拐される。
 そういった、文字通りの極限状態で生きてきて、相当の「覚悟」をするのが当然になっている。
 だから、あの強さがあるのだ。

 香澄は今まで、そういった「覚悟」を一度でもしたことがあったか。
 リョウやユリのように「闘い、ひいては生きることそのものが、決して安易なものではない」ということを、心から考えたことがあったろうか。

 そして、ユリが自分の母のことを何も覚えていないという事実。
 なにより、これが香澄の心に大きく圧し掛かった。
 ユリやリョウが言う「家族」という言葉の意味の重さを、香澄はやっと理解した。
 そのユリの前で、そのことを知らなかったとはいえ、軽はずみな言葉も含めて、無知悉に家族のことをぺらぺらと喋ってしまった。

 自分で受け止めるには大きく、多すぎる事実を一気に理解してしまったせいか、自分の精神的な幼さを痛感してしまったせいか、香澄は不意に涙を溢れさせてしまった。
 一度出た涙は止めることができず、香澄は膝の上で拳を握り締め、下を向いてただ泣いた。

 リョウは香澄の隣に座りなおし、静かに肩を抱いてやると、香澄はリョウにしがみついて、しばらく泣き続けた。

「私、私……」

 こぼれるような香澄の言葉に、リョウは宥めるように肩を抱いたまま、頭を撫でてやった。

「もう過ぎたことだ。
 香澄くんには責任はないし、君が気にしすぎることはない。
 でも、君が俺たちのことを好きでいてくれるなら、心の隅にでもいいから置いておいて欲しい」

 リョウは一度、咳払いをする。
 わざとではなく、自然と出たもののようだ。

「そして、今の話を踏まえて、もう一度ユリと話をしてみることだ。
 他の誰でもない、お互いのために。
 いいか?」

 リョウの、父親が幼い娘に理解させるような言葉を、香澄は涙ぐんだまま聞いた。
 こういう時にリョウが発する言葉は、香澄にとって常に重い。

 香澄は手で涙を拭い、リョウの目を見据えて、しっかりと頷いたのだった。

(To be continude...)

 

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(初稿:06.06.21)