母の面影@

001

 休日の朝。
 サカザキ家はいつもより少し遅めの朝を迎えている。
 午前九時半、香澄とユリは朝食の後片付けをしていた。
 いつもの通り、朝食前に一通りトレーニングを終え、疲れてはいるが二人は心地よい高揚感のなかにいる。
 リョウは用があるというので、休日だというのに朝食をとってすぐ出かけていった。
 さすがに一流派の総帥ともなると忙しいのかな、と香澄は思ったりもしたが、ただの私用らしかった。
 テレビをつけ、最近の麻宮アテナのアルバムについて、二人であーだこーだと雑談しているとき、玄関のインターホンがなった。

「は〜い」

 ユリがぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、玄関にかけていく。
 どうやら客は男性らしい。
 二、三、英語によるやりとりが聞こえた後。

「香澄〜、荷物〜!」

 と、呼ばれた。
 香澄は玄関まで言ってみると、そこには宅急便の配達員らしき男性と、大きなダンボールの箱が二つ、鎮座ましましている。

「ほい、宛名があんただからさ、ここにサインしてって」

 ユリに紙を渡されて、香澄は慣れないアルファベットで自分の名前をさらさらと書いた。
 それを見て満足したのか、巨漢の宅配員は「HAHAHA!」とアメリカ人らしい陽気な声を残して、去っていった。
 とりあえず、二人でその大きなダンボールを、リビングまで持っていく。
 そうとう大きなものが入っているのか、それとも大量に荷物が入っているのか、それは結構な重さがある。
 普通の女の子よりは二人は力持ちだが、荷物をテーブルに置いたとき、二人は汗をかいてしまっていた。

「なにが入ってんのよこれ。すっごい重さ……」

「あの男の人、こんなのよく4階までもって来ましたね……」

 不覚にも二人は息を切らしながら、無名の達人をちょっと尊敬してしまった。

「で、それなに?」

 ユリが興味津々で聞いてくるので、香澄は箱にべたべたと貼られたラベルを見てみると。

「あれ、お母さんからだ」

 送り主を見ると、それは実家の母親からである。
 香澄はべりべりと豪快にダンボールに封をするガムテープを剥がしていき、箱を開けると、中には紙の包みがいくつか入っている。
 それは両方の箱で同じだった。

「うあっ」

 紙の包みの中には、香澄の着替え等の衣服が主だったが、勉強道具や母親のお稽古事の教本が何冊かあって、香澄は苦笑してしまった。
 嬉しかったのは香澄の胴衣が入っていたことだった。
 白い上と紺の袴、同色の腕当てと赤色のたすき。
 それがそれぞれ2セット、丁寧にたたまれて入っている。
 今まではユリの胴衣を借りていたのだが、これで晴れて「藤堂流の継承者」として道場に立てるのだ。

「あ、手紙がついてますね。これ、ユリさん宛です。家の母親から」

 箱には、手紙が三通ついていた。
 それぞれ香澄、ユリ、リョウに、香澄の母・志津香から宛てられたものだ。
 ユリは封筒を受け取ると、封を開けて便箋を出し、目を通した。
 それは実に達筆なペン字で、香澄を助けてくれたこと、及び居候させてくれていることに対する感謝が述べられていた。
 同時に、同年代の友人がいないアメリカで、ユリの存在は香澄にとって実に大きいであろうこと、これからも仲良くしてやって欲しいといったことが、理路整然とした日本語で書かれていた。
 ユリは微笑んで、何度も手紙を読み返した。
 母親のいないユリには、喜ばしくもあり、羨ましくもある。
 香澄を見ると、なぜか苦笑して頭をかきながら、母からの手紙を読んでいた。

「なんて書いてあるの?」

「え? いや〜、お二人に迷惑をかけるなとか、勉強を欠かすなとか、生水を飲むなとか、そんなことばっかりです。
 相変わらず心配性なんだから」

 言いながらも、香澄は嬉しそうだ。
 それはそうだろう。
 こっちに来てから、実家どころか日本語に接する機会すらあまりない。
 家の中ではリョウとユリは日本語で話してくれるが、家の外ではほとんど英語だ。
 香澄はいつも元気だが、気弱になることがあってもおかしくないのだ。
 どんな形でも実の家族の温かみを感じれば、嬉しくなるのも当然だろう。
 二人は、再び息を切らして荷物を香澄の部屋に持ち込んだ。

「ちょうどヒマだし、整理すんの手伝おうか?」

「いいんですか?」

「うん。
 そのかわり、香澄のお母さんのこと、教えてくれる?」

「はい♪」

 二人は大量に送られてきた荷物を箱から引っ張り出して、整理を始めた。
 香澄は手を動かしながら、嬉しそうに家族のことを色々と話した。
 ユリも微笑みながら聞いていた。
 嬉しそうな香澄を見るのは、ユリにとっても嬉しいことだった。

 しかし、時間がたつにつれ、ユリの顔からなんとなく元気がなくなっているのを、香澄は気づいた。
 整理の手を止めてしまう。

「ユリさん?」

「……え?」

「あの、なにかお気に触ることを言っちゃいました?」

 ぼうっとしていたユリは、はっと気づいて笑顔に戻した。
 しかし、その笑顔もなんとなく生気を欠いている。
 いつものユリの笑顔ではなかった。

「ううん、なんでもないよ。
 あたしの方こそ、ごめん。話の途中だったね」

 二人は、再び作業を始めたが、言葉が出てこなかった。
 香澄はユリの顔をちらちらと覗いたが、なにか考え込んでいる顔で、手のほうも動いていない。
 なによりその目は、悲しみが浮かんでいる。
 普段のユリからは考えられないことだった。

「あの、ユリさん……?」

 心配して香澄が声をかけると、またユリははっと我に帰った。
 そして、すっくと立ち上がってしまった。
 驚いて見る香澄の顔を見ずに、

「香澄、ごめん。あたし、ちょっと頭が痛いから、部屋で寝てる」

 と言って、香澄の部屋を出てしまった。

「ユリさん……」

 香澄は原因がわからず、なかば呆然として、ユリを見送った。
 見送らざるを得なかった。
 ユリの言葉は、かすかに涙ぐんでいた。
 昼前、リョウが用を済ませて帰宅したとき、香澄はリビングで沈痛な表情を浮かべて座っていた。

「あれ? ユリは一緒じゃないのか?」

 リョウが聞くと、香澄はやっとリョウに気づいて、沈痛な顔を向けた。
 その顔を見て、リョウも二人の間に何かあったのだと気づいた。

「どうした。ケンカでもしたのか?」

 香澄の対面に腰かけながら、リョウは再び聞く。

「リョウさん……」

 香澄は逡巡しながらも、朝の出来事をすべてリョウに話した。
 聞き終えてリョウは、重い表情で天井を見上げた。

「そうか……」

「私、ユリさんになにか悪いこと言っちゃったんでしょうか? ユリさんのあんな顔を見るのは初めてだから……」

 香澄はもう泣きそうな顔で、リョウに懇願するように聞く。
 香澄としても、初めて見るユリの悲しそうな顔に、どうしていいかわからなくなってしまったのだ。

「なにが悪かったんでしょう……」

「まぁ、とにかく落ち着け。香澄くんが悪いわけじゃない」

「でも……」

「たぶん、香澄くんのしたお母さんの話を、自分に重ねちゃったんだ。
 昔のことを、思い出したのかもしれん。
 それで、ちょっとやりきれなくなったんだろう」

「……?」

 香澄はよくわからず、涙をためた目でリョウを見た。
 リョウも重い表情を変えていない。

「あの、それって、どういう……」

 リョウはその質問をくることは読んではいたが、答えていいものかどうか少し迷った。
 しかし、香澄に必要以上に自戒させないためにも、話してしまうことにした。
 香澄とユリがお互いをもっと理解しあうためには、必要なことだとも思った。
 自分の目を見つめているリョウの顔を凝視しながら、香澄はリョウの次の言葉を待った。
 リョウは、重々しく口を開いた。

「ユリは自分の母親のことを、なにも覚えていないんだ」

 その時、ユリは自分の部屋で、ベッドに横になっていた。
 寝転がって、一枚の写真を見ていた。
 その写真には、後列に大人の男女が、前列には子供の男女が映っている。
 後列の黒髪の男性は、前列でやんちゃそうに笑う二人にあきれるような顔をしている。
 その隣の長い金髪の女性は、子供たちの笑顔につられるように笑っていた。

 セピア色がかかっているその写真は、もう十年以上前、母が亡くなる直前に、サカザキ一家四人でとったものだった。
 サカザキ家にとって、家族全員で写した最後の写真。

 なにをするでもなく、ユリはその写真に魅入った。
 そして、ふっと息を一つ出した。

「あたしにも、香澄みたいに「ママ、ママ」って甘えてた時期があったんだろうな……」

 ぽつりと言うと、写真を胸の上に置いた。
 そして、その上に両手を乗せる。

 このとき、長い間持っていなかった感情が、ユリの胸に溢れた。
 かすかに、ユリの身体が震え始めた。

「あたし、母さんのこと、なにも覚えてない。母さんにとって、あたしはいい子だったのかな。心配かけてなかったのかな」

 リョウによると、ユリは兄以上にやんちゃな子供だったらしい。
 母の教えてくれる英語にも、最初は見向きもしなかったそうだった。
 今も、やんちゃなとこはあまり変わっていない。
 今、リョウが心配してくれるのと同じように、母も心配してくれていたに違いない。

 思えば思うほど、その感情はユリの中で大きくなっていく。
 そして、胸に収まりきらなくなった感情が、涙となってユリの目から溢れた。

「母さん……。もう一度会いたいよ……、ママ……」

 ユリは、何年かぶりに泣いた。
 リョウに心配をかけまいと押し殺してきた感情を、久しぶりに爆発させた。
 誰も見ていないのに、とめどなく流れる涙を、目の上に腕をそえて隠した。
 自然にもう片方の腕で、母の映った写真をぐっと胸に押さえつけていた。

 写真の母は、ずっと微笑んでいた。
 永遠に変わることのない、変えることのできない、それは笑顔だった。

(To be continude...)

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(初稿:06.06.21)