765プロ所属アイドル、水瀬伊織の朝は早い。
どれだけ忙しい日々を過ごしても優雅さを忘れない伊織は、アイドルランクAまで昇り、私人よりも公人、つまりアイドルとして過ごすほうが長い日も珍しくなくなったが、どれだけ忙しくても、睡眠と朝食後のティータイムだけは欠かさない。
欠かさないように努力する姿勢こそが、外に対しての余裕につながると信じている。
六月に入り、気温も安定したこともあってか、水瀬家の広大な庭を眺めるオープンテラスでの時間も心地よいものになっていた。
伊織は長い髪をわずかな風に揺らしながら、ゆっくりとお気に入りのカップに口をつけた。
同僚の萩原雪歩の淹れてくれる日本茶は絶品だが、紅茶に関しては実家の専属コックが淹れてくれるものも決して雪歩のものに劣るわけではない。伊織は長年親しんできたこの味を気に入っている。
しかしこの日は、優雅たる伊織の朝を、あるものが騒がせた。
「おくつろぎのところを失礼いたします、お嬢さま」
やや表情を曇らせながら話しかけてきたのは、執事服を着た老齢の男性である。
新堂という名の、アールグレーの髪をした男性は、伊織が生まれる前から水瀬家に仕えてきた名執事であり、伊織を生まれた時から知っている。
滅多に落ち着きを崩さないその表情を曇らせていることに、伊織は瞬間的に何かを悟った。
「あら新堂、なにかあったの?」
「お嬢さま、こちらを御覧ください」
新堂が伊織に差し出したのは、一冊の週刊誌である。伊織も芸能界に生きる身であり、この手の雑誌、特にタブロイド誌にはあまりいい思い出がない。
伊織は表紙をちらりと一瞥しただけで、すぐにティーカップに視線を戻した。
「なに、また三流誌が好き勝手に妄言を書いているの?
好きに書かせておけばいいのよ。誰も信じはしないわ」
「これが誤りであればよいのですが……」
普段は明快な新堂の言葉が、珍しく詰まる。
雑誌の記事よりも新堂の煮え切らない態度のほうが気になって、伊織は彼の差し出した雑誌を手に取った。
そして意味ありげに付箋の貼られたページに目を通し。
一気に表情を引き攣らせた。
「新堂、電話を! すぐにあいつに真偽を確認するわ」
「はい、お嬢さま」
伊織は雑誌を投げ出し、新堂はその場を立ち去った。
開かれたまま放り出されたページには、ぎとぎとしたレイアウトに読者の好奇心を煽るように、巨大なフォントでこう書かれていた。
「765プロの人気アイドル菊地真、東豪寺プロへ秋にも移籍へ。
765プロにくすぶる不仲と軋轢の噂――――」
伊織が電話をかけたのは、自分の所属する765プロのプロデューサーである。
伊織はデビュー当初はこのプロデューサーのプロデュースを受けていたものの、秋月律子の企画でトリオユニット「竜宮小町」を結成してからはそちらの活動が主軸となり、いまは彼の手を離れている。
彼は今、竜宮小町と秋月律子以外のアイドル九人の面倒を見ている。
そして雑誌の記事になっていた菊地真は、現在も彼のもとでアイドル活動に励んでいた。
彼は早朝だというのにもう事務所に顔を出しているようで、伊織の電話に落ち着いた声を返した。
『伊織か、おはよう。珍しく早いじゃないか。なにか連絡ごとか?』
普段どおりの対応に伊織は少し眉尻を上げたが、声を荒げることはしない。
伊織は765プロでは年少組に入るが、社交界の人間関係で磨かれたせいか性格は大人びており、どちらかというとマイペースな年長組のストッパーになることが多い。
手の焼ける先輩たちだ、とは思いつつも、その先輩たちの個性の強さ、いざというときの結束力の強さは、伊織も気に入っている。
伊織が水瀬家の娘としてではなく、一個人として我を出せる、貴重な場なのである。
「型どおりの挨拶はいいわ。率直に聞くけれど」
『なんだ?』
「あんたも当然読んでるわよね、今日発売の「週刊聞駿」の記事」
『………………』
一瞬、沈黙が訪れた。その沈黙は肯定の意味だと、伊織には分かっている。
「誤魔化さずに答えなさい。あの記事は本当なの?」
『事実じゃない。明らかな「トバシ」だ。
さっき真にも連絡して、本人に心当たりがないことを確認した。
雑誌社には抗議の電話を入れて、公式HPにもあの記事は事実ではない旨のページを掲載した。
コレ以降の対応は社長と協議することにはなるが、いまは伊織は心配しなくていい」
彼の対応は、相変わらず早い。朝一番で雑誌をチェックしてから、できる手はすべて打っている。自分のこととなると疎いくせに、周囲のアイドルが絡むととたんに敏腕になる。
「……真が出て行くことはないのね?」
『出て行かせるもんか。無理やり出されそうになったら、全身全霊で引き止めるよ』
「あんたならそうでしょうね」
少し表情を崩して、伊織が別のことを言った。
「私が心配なのはね、もう一方の当事者にされている東豪寺プロの動向よ。
東豪寺の社長とは面識があるけど、この記事を黙って「間違いでした」でスルーするような人間じゃないわね」
『確かにな。半年前のアイドルマスターグランプリでは、全力でこっちを叩き潰しにきた。
961プロ顔負けの徹底さだったからな。あの無節操さで攻めてこられるのなら、今回も覚悟が必要かな……』
はあ、と受話器の向こうでため息が聞こえる。
『お前には言っておいてもいいと思うが、実は、東豪寺から真を単独指名して、コラボCDを作らないか、って企画を持ち込まれてるんだ』
「東豪寺から? この765に?」
『そ。東豪寺のほうは「魔王エンジェル」が出てくる。企画CDと、一夜限りの限定ライブを「魔王エンジェル」と菊地真でやりませんか、ってお誘いさ」
「……なんで真なのかしら。麗華は……東豪寺社長はどちらかというと千早に拘っていたと思うんだけど」
『本心はあちらのみぞ知る、ということさ。
少なくとも、この企画はこちらで受けることが決定していて、真にも伝えたばっかりだ。
ひょっとしたら、この話しが外部に漏れあげくに曲解されて、「真が東豪寺に移る」というネタになったのかもしれない』
「ずいぶん質の悪い伝言ゲームね。関わる人間の程度が知れるわ」
『どんな話しでも、自分の都合のいいように受け取る人間はいるからな。
伝言の結果、周囲の人間には予想もできないモンスターが生まれることだってままある』
受話器のむこうで、何かをすするような音がする。ひょっとしたら雪歩がもう事務所に来ていて、プロデューサーにお茶を出しているのかもしれない。
『とにかく、今は話を大きくしないことが肝要だ。千早の引退騒動のときも、貴音の移籍騒動のときも、周囲が勝手に騒いで事務所もざわついたからな』
「雪歩はどうなの。いま、そこにいるんでしょ?」
『……よくわかったな』
一瞬、プロデューサーの歯切れが悪くなった。
雪歩は真の無二の親友である。事務所に入ったのもほぼ同期であり、性格も趣味も正反対だが、お互いが相手の自分にないところを尊敬しあっており、いつも一緒に行動している。
それだけに、このセンセーショナルな記事は、雪歩を正気に留まらせていないだろうと、伊織は思っていたが。
『伊織ちゃん、聞こえる?』
受話器の向こうの声が、か細い少女の声に変わった。今にも消え入りそうな儚い声は、雪歩のものだった。
「雪歩はあの記事を見たの?」
『うん。朝、家のお弟子さんに雑誌を見せられて、真っ先にここにきたの。
プロデューサーさんに何がどうなっているのか確かめたかったから……』
声は細いけれど、そう狼狽はしていないようだ。プロデューサーから、それなりの解決策をきいているのだろう。
「雪歩、安心しなさいね。真が出て行くなんて絶対にないから。
あの善人が、雪歩やわたし達を置いて行くなんてありえないわ」
『うん、ありがとう』
雪歩の礼のあと、声がプロデューサーに変わった。
『伊織、できればやよいや亜美・真美のフォローを頼む。
美希と響が騒ぐかもしれないが、そちらは貴音と千早が何とかしてくれるはずだ。
当然、俺からも強く否定はしておくが』
「真は今日はオフなのよね。一人にしておいて大丈夫?」
『むしろ一人にしておいてくれと頼まれた。
外に出てマスコミの相手をするのはいやなんだそうだ。ちょっと落ちつかせてやろうと思う」
「そう、それがいいかもね」
伊織は今日は、竜宮小町として音楽番組の収録と、雑誌のインタビューが入っている。真のことは心配だが、自分の仕事を放り出すわけにもいかない。
もうすぐ、秋月律子が車で迎えに来るはずだ。
「あんた、真のことはませたわよ」
『ああ、任された。こんなときのために俺がいるんだからな』
「じゃあ、何かあったらすぐに連絡をよこしなさい。いい、真っ先によ」
『分かった分かった』
電話は切れた。伊織は電話を新堂に下げさせると、何かを思うように広い庭から空に視線を向けた。
プライベートは終わりだ。これから、アイドルとしての水瀬伊織の時間が始まるのだ。
双海亜美、三浦あずさ、秋月律子に水瀬伊織。竜宮小町のメンバーが車内に乗り込んで車が動き出すと、その話題は菊地真のこと一点となっていた。
どうやら、伊織の家に来るまでも、この話題で盛り上がっていたらしい。
「ねー、まこちん、765プロやめちゃうのかな〜。いやだよ、そんなの」
手元の携帯ゲーム機をつつきながらも、最年少の亜美がさびしそうにつぶやく。
運転席の律子が、前を向いたまま口を開いた。
「そんなことさせないって言ってるでしょ。あの記事は私たちの仲が悪いっていう前提で書かれてるものだし、実際にそんなことがない以上、あの記事は大嘘もいいところだわ」
「そうよ、亜美ちゃん。もし真ちゃんがやめるって言い出しても、みんながそれを止めるわ。
雪歩ちゃん、美希ちゃん、春香ちゃん、やよいちゃん、響ちゃん、プロデューサーさん。そして伊織ちゃん。
みんなが全力でね」
あずさが微笑んで伊織をちらりと見てきたので、伊織は少し視線を外して何かを考えている仕草を見せていたが、ふと思い立ってスマートフォンを取り出した。
「ちょっと電話するわね」
言って、慣れた手つきで操作する。どうやら、話し相手が出たらしい。
「早朝に失礼いたします。私、765プロに所属しております水瀬伊織と申しますが、東豪寺社長はおられますか?
……はい、伊織とお伝えくださればお分かりになると思います……。
…………………。
分かりました、また後ほどお電話させていただきます。失礼いたします」
伊織は表情を変えずに電話を切ったが、表情を驚愕に支配されていたのは律子である。
「い、伊織、あんたいったいどこに電話したの!?」
「危ないから前を見て運転しなさい。どこって、東豪寺プロの社長に電話したのよ。
秘書の方が今は忙しいって、断られちゃった。また連絡してみるわ」
「そうじゃなくて、あんた東豪寺プロの社長と知り合いなの?」
「知り合いも何も、幼なじみよ」
伊織は水瀬財閥の関わる社交界のパーティーなどに、幼いときから参加していた。そこに、後の東豪寺プロ社長、東豪寺麗華もいたのだ。
同年代の女の子が少ないことも合ってか、二人はすぐに意気投合した。パーティーを抜け出しては、将来の夢を語り合ったりした。
二人でアイドルを目指して頑張ろうと誓い合ったのも、この頃のことだ。
その後、麗華と伊織は、まったく別の道を辿りながらアイドル界の頂点を目指すこととなる。
伊織は仲間たちとの絆をより所にしてトップを目指すようになり、麗華は自らの力をすべてと信じて何もかもを足蹴にして上を見続けていた。
「これは噂だけど」
律子がハンドルを切りながら、つぶやいた。
「東豪寺プロは、半年前は盗作とか買収とか引抜とか、かなり酷いこともしていたけどね、今はそれ以前の正統派路線に舵を戻してるって話しよ。
ある時期を境に、東豪寺からの嫌がらせがぱったりなくなったって、いろんなところで言われてる。見事な転身だって褒めてる人もいるくらいよ」
「東豪寺麗華は、もともと悪人じゃないのよ。ただ、芸能界に入った直後に厳しすぎるほどの洗礼を受けてひどく絶望したの。そこから道を踏み外してしまった」
「それでも、魔王エンジェルは一度はトップアイドルまで登りつめたのだから、大したものなんじゃないかしら?」
亜美の頭を撫でながらつぶやくあずさに、伊織が大きく息を吐き出していった。
「買収したサクラに持ち上げられての成功なんて、成功じゃないわ。蜃気楼のようなものよ。
幻の人気に、一部の人間が惑わされていただけ」
「もー、今はとーごーじさんのことなんてどーでもいーよ!
まこちんが出て行かないように、なんとかするのが先決でしょ!?」
頭を撫でていたあずさの手を振り切って、亜美が吠えた。
亜美はいたずら好きで、伊織ややよいに比べれば精神的には子供だが、765プロの絆を構成する大事なピースのひとつには間違いない。
961プロの陰謀で千早が引退騒動を起こしたときや、春香が精神のバランスを崩してしまったときも、積極的に動いていた。
「そうは言っても、真の担当はあいつよ。わたし達がここでとやかく言っても仕方ないわ。
絶対に辞めさせないって言ってたから、今はそれを信じましょう」
伊織はスマートフォンを手の中でいじりながら、窓の景色を眺めていた。その心中を、あずさは読みきれないでいる。
「絶対に納得できないの! 詳しい状況の説明を求めるの! ハニー!」
プロデューサーに詰め寄るように、星井美希が彼の机を叩いた。
普段は彼にべたべたと甘えることの多い美希だが、真が絡むと話しが違う。
真は千早と並んで美希にとっては憧れの存在である。その真が、765プロの空気に嫌気が指して事務所を移籍する。少なくとも、美希が読んだ週刊誌にはそう書いてある。
美希にとっては見過ごせる記事ではない。
その美希の後ろには、響、貴音、千早、春香が、やはり難しい顔で並んでいた。
プロデューサーは、意識して難しい顔を作らないように、声を和らげた。
「これは、トバシ記事だよ。根も葉もない噂を、面白おかしくばらまいてるだけさ。
今朝、真にも確認した。真が765プロからいなくなることなんてありえないから心配するな」
優しいプロデューサーの声だが、美希は泣きそうな声でになっていた。
「ミキ、真クンがいなくなるなんて嫌だよ……」
「いなくなりはしないって。全力で守るから、俺を信じろ」
美希が落ち着くのを待って、貴音が聞いた。
「あなた様、魔王エンジェルと真が歌唱を同一にする企画があると聞きました。
この企画にこの雑誌記事、いささか時期が符合しすぎるように思います。
この記事は、東豪寺から情報を漏らし、ゆくゆくは真を東豪寺に引き抜くための布石にしようという陰謀なのではないでしょうか」
「ありえない話じゃない、以前の東豪寺を考えれば。
だが、どちらにしても真の意思も俺の意思も「NO」で固まっている。
今朝連絡を取ったときに、逆に怒られたよ、プロデューサーはボクを守ってくれないんですかって。
東豪寺がどう動こうが、こちらは真を引き渡すことはしないし、組み伏せられることもない」
プロデューサーは断言した。
「で、その真は? 今日は事務所には来ないのか?」
「真は今日はオフだよ。この記事の直後だから、余り目立つような行動はするなと言ってある。
家から出ないかどうかは分からないけど」
小柄な響は、むっつりと顔をしかめたまま、黙り込んだ。
現在、765プロで人気のトップを独走しているのは如月千早である。
千早はその歌声と歌唱力が世界的に認められるレベルの歌姫で、海外レコーディングを経て、日本での人気を踏まえてアメリカ・イギリスでの同時デビューも果たしている。アイドルランクも765プロ唯一のSランクであり、「オーバーランク」玲音に対抗できる唯一のアイドルともいわれる。
彼女に次ぐのが竜宮小町、プロジェクトフェアリー(星井美希、我那覇響、四条貴音)の両ユニット、そして天海春香だろう。
バランスの良い竜宮、突き抜けた個性の集合であるフェアリーと、それぞれの特長を前面に押し出した楽曲でランキングを賑わし、全国ツアーも積極的に行なっている。
春香は歌手と同時にタレントとしてのスキルが非常に高く、いまやテレビのバラエティやトーク番組で春香を見ない日はない。
このレベルにはわずかに及ばないものの、萩原雪歩も徐々に女優としての地位を確立しつつあるし、高槻やよい、双海真美はテレビで、菊地真もラジオで冠番組を持っており、765プロは少数精鋭ながら、押しも押されぬ人気プロダクションになったことは間違いない。
だが、経営陣、アイドル個人、そしてファンの思惑が完全に重なるとは限らない。
その代表格が真だった。
真はその低めの声とボーイッシュな魅力から、女性ファンに圧倒的な人気を誇る。事務所もこれを考慮して、当初は真を「王子様」キャラクターとして売り出した。
他のアイドルが可愛い衣装と可愛い歌で押し出していく中で、真はボーイッシュなパンツスタイルの衣装とミステリアスな、または勇ましい歌をまわされた。
真は仕事にまじめだったから、それを拒否はしなかったものの、それが彼女の理想と重なっていたかといわれると、疑問が残る。
真は誰よりも「女の子らしさ」に憧れていた。子供の頃からほとんど男子と変わらない教育をされ、許される習い事といえば空手にカート、許される髪形はショートカットばかりだった。
その頃の反動からか、アイドルになったばかりの頃、真はずいぶん「はじけた」。
ステージ上で、他のアイドルのために作られたフリルだらけのスカートを穿いて「まっこまっこりーん!!」と絶叫したこともある。
この時は雪歩に止められてファンの混乱も最小限ですんだが、真は、自分の理想が誰にも受け入れられないのだと、悟ってしまったらしい。
そのライブ以降、もともと得意だったダンスに磨きをかける一方で、仕事に対する愚痴を押さえ込むように、一切言わなくなった。
真の願望に気づいていたプロデューサーが、なんとか女性らしい仕事を、と奔走したが、社会の真へのイメージはあくまで「爽やかな王子様」であり、真の願望が光を浴びる機会は極めて少なかった。
真は表面上は明るく振舞っているが、事務所に出るときはレッスンルームに篭っていることが多い。
「勝負あり!」
主審の声が響き、その試合が終了したことを告げる。
胴着を着込んだ二人の選手のうち、一人が倒れこんでいた。
勝者が近寄り、倒れたほうに手を貸して起き上がらせる。
立ったほうも小柄だったが、立たせたほうはもっと小柄だった。150cm前後であろう。
二人は開始線に戻って一礼し、タオルで汗をぬぐっていた。敗れたほうが、勝ったほうに声をかけた。
「今日はオフなのに、付き合ってくれてありがとうございました、早苗さん」
声をかけたのは、真である。
真は小学校卒業まで空手をならっていたが、父親の教育に反発したことと、道場で真の圧倒的な強さについてこれる者がいなくなってしまったこともあって、黒帯を取得した時点で辞めてしまったが、今でも時折この実家のすぐ裏の道場を訪れては汗を流している。
真の組手の相手をしたのは、片桐早苗だった。
自身も346プロに所属するアイドルだが、元婦警という異色の経歴を持っている。警察官になるための身長制限に届かないほど小柄だが、それを補って余りある格闘技の経験を生かして狭き門を潜り抜けた。
現在の芸能界で、真と格闘技で互角の勝負ができる唯一の存在と言っていい。
その早苗は、真からバスタオルを受け取ると、汗を拭きながら神妙な表情で真を見つめていた。
「ねえ真ちゃん、今日なにかあった?」
何気ない質問だったが、深刻な表情から出た深刻な声が、真をぎくりとさせた。
「や、やだなあ。ボクはいつもどおりですよ。
ちょっと足がすべっちゃいましたけど、次は負けませんから!」
「真ちゃん、隠し事はダメよ。真ちゃんがあんなに簡単にダウンを奪われるなんて、普段ならありえないわ。
身体は嘘をつかないの。お姉さんでよければ相談に乗るけど?」
スポーツドリンクを口にしながら、横目で見てくる早苗から、真は故意に視線を外した。
「なんでもない……というと嘘になります」
ぽつりと、真が言った。早苗は隣に座って、静かに聴いている。
「いま、ボクの前には二つのドアが開いてるんです。
どちらもボクが望んだとおりの世界につながっています。
ひとつは、自分を抑えなきゃいけないけど、自分もみんなも喜んでくれる世界。
もうひとつは、自分を抑える必要がまったくないけど、身近な人たちは敬遠し、その向こうの人たちが喜んでくれる「かもしれない」世界」
真はぐっと手を伸ばし、何かをつかむように拳を握り締めた。
その顔には、普段の真らしくない苦渋に満たされている。
らしくない、と早苗は思った。
菊地真というアイドルは、もっと爽やかな笑顔に満たされているべきだ。
その裏表のないまっすぐな笑顔に、男も女も魅了される。
しかし、今の真にはそれがない。迷路の中をあてもなくさまよって疲れているようにも見える。
「どちらのドアに入るか、迷っているということ?」
「いえ」
真は首を振った。
「どちらのドアにも入らない選択肢もあるんじゃないかって。
どちらのドアも避けて、そのまま帰っちゃうこともできるんじゃないかって……」
「真ちゃん」
早苗が不意に、強い力で真の肩をつかんだ。小柄な体格からは予想もできない腕力なのは、さすが複数の格闘技の経験者といったところだろうか。
「あなたはなに? 菊地真はアイドルなのよ。
トップアイドルを目指してここまで努力を重ねてきたのなら、自分を裏切ってはダメ。
どっちのドアが幸福な未来につながっているのか、それは入ってみないと分からない。
でも、その未来から逃げてはダメ。それはファンへの、そして自分の努力への裏切りでしかないわ」
半ば怒りを込めた早苗の目を、真は直視した。しかし、感情を言葉に表すことはできなかった。
午後、765プロにCDとDVDが一枚ずつ届いた。差出人は東豪寺プロ社長、東豪寺麗華となっている。
「東豪寺プロからですか」
朝の車内での会話が引っかかっているのか、律子が複雑な表情で複雑な声を出した。
封を開けたのはプロデューサーだ。
「ああ、あちらさんから、今度の真とのコラボで使う楽曲を送ってきた。
DVDのほうは振り付けかな」
「東豪寺は、あの記事をどのように受け止めてるんでしょう?
ここまでは公式なコメントを出してませんけど……」
「コメントを出すまでもないと無視しているのか、黒幕として次の手を打っているのか。
まあ、考えたところで仕方ないさ。いまはこのコラボ企画に集中しよう。
せっかくの真念願の、ダンスつきのポップナンバーだ」
「タイトルは「
プロデューサーがCDをケースから出し、プレイヤーにかける。
――言葉もなくて ただ浪の音 聞いてた
――記憶の意味 試されているみたいに
――闇の中でも思い出す 前に進むの 見ていてよ
――So repeatedly, we won't regret to them
――そんな風にも考えてたの
――憧れ 抜錨 未来
――絶望 喪失 別離
――幾つもの哀しみと海を越え
――たとえ 世界の総てが海色に溶けても
――きっと あなたの声がする
――大丈夫 還ろうって
――でも 世界が総て反転しているのなら
――それでもあなたと まっすぐに前を見てて
――今 願いこめた一撃 爆ぜた――
「………………」
一瞬の沈黙を置いてから、律子は首を二度、縦に振った。
「うん、いい曲だと思います。真なら歌いこなせるわ。
構成はどうなってるんです?」
「真と東豪寺麗華社長のボーカル兼ダンスで、魔王エンジェルの朝比奈さんと三条さんはダンスとコーラスだそうだ」
「なるほど」
律子はプロデューサーから歌詞カードを受け取ると、少し考えるような仕草をした。
「東豪寺社長は、なんでこの曲をカバーしようって思ったんでしょう。
魔王エンジェルはゴスロリのイメージがあって、この曲には合わないような気がするんですが……」
「それはわからん。ただ、歌詞がすごく印象的だな。
この曲を選んだ理由、相手に真を選んだ理由……。
何かにあがいて救いを待っているのか、這い上がろうとしているのか……」
「魔王エンジェルが分岐点に立っている、と?」
「あるいは、真を分岐点に立たせようとしているのかも知れない。
皮肉にも、伊織曰く三流誌のゴシップ記事が、東豪寺社長の思惑を代弁しているのかもな」
「東豪寺プロがその記事の首謀者でなければ、ね」
「どっちにしろ、その記事が書かれる前にこの曲はできていたし、魔王エンジェルと真のコラボ企画も立案されていた。
それはれっきとした事実だ。この三流誌を信じないように、広報を徹底するしかない」
「東豪寺プロが協力してくれることを祈りましょうか」
「協力させるんだよ。それが俺たち、裏方の仕事だろ?」
プロデューサーが言うと、律子は苦笑し肩をすくめた。
(後編に続く)
(15.03.03)