クォ・ヴァディス 34

6-1

 五月七日早朝、未だ日も昇らぬ時間帯である。
 うっすらと明るくなり始めたばかりのラズリル港の大桟橋に、十人ほどのグループが集まっていた。
 ラズリル騎士団のカタリナとケネス、オベル王女のフレア、マクスウェル一派のマクスウェルやアカギたち。
 このラズリルに集う大きな勢力の指導的な立場にいる者のほとんどが、この時間に港に集まっていた。
 もうすぐマクスウェルたちは、仲間と共にラズリルを出奔する。
 ラズリルを出る者と、ラズリルに残る者。
 立場の違いはあれど、各人の表情には迷いは無い。
 マクスウェルのこの独立行動が、事件に新たな局面を迎えさせる契機となるであろうことを、誰もが理解していた。
 本人の望むと望まざるとに関わらず、マクスウェルは常にいずこかを向いて行動し続けるように、何者かに決められているようであった。
 一時期マクスウェルは、その「何者か」に対して背を向けたが、結局は受け入れた。
 背を向けていても背後の過去しか見つめられないことを、今更ながらに悟ったのである。
 そして、前を向いて歩くことを選んだ。

 マクスウェルのその決意は、カタリナの黙認のうちに実行されようとしている。
 マクスウェルの準備行動を、カタリナは黙認するだけでなく、ケネスを通してできる限りの手助けを行った。
 資金や食料の支援はもちろん、当日の海上航路の安全の保障にいたるまで、なにもかもラズリル騎士団の全面協力の元に行われている。
 表面上、ラズリルの勢力は分裂することになるが、それが決して心理的な分離を意味しないことを、この事実は物語っていた。

「マクスウェル、ごめんなさい。
 今日のこと、お父さんは知らないはずはないと思うんだけど……」

 春先の冷たい風になびくブラウンの髪を押さえながら、フレア王女がすまなそうに声を詰まらせた。
 確かに、この場にオベル国王リノ・エン・クルデスの姿は無い。
 結局マクスウェルは、ラズリル入港から今日に至るまで、一度もリノ・エン・クルデスとは言葉を交わさなかった。
 マクスウェルが頭を下げる。

「いえ、全てのことの原因は俺にあります。殿下が謝罪なさらなければならない理由は、どこにもございません。
 オベルに狼藉を働いた身であるうえに、逃げるようなこの出奔、お許し頂けるだけでも幸いです」

「許すなんて……」

 フレアは寂しそうに俯いた。
 このように堅苦しい言葉で謝罪されるほど、自分たちは堅苦しい関係ではないはずだったし、このような堅苦しい反応自体が、マクスウェルらしくなかった。
 フレアにとってマクスウェルは、オベル王女としてではなく、同格の友人として接してくれる貴重な存在であったのだが、それも過去のもののように思えて、フレアは寂しさを感じざるを得ない。
 彼自身が意識している以上に、マクスウェルが自身に課した負い目は大きいのだろう。
 言葉でその負い目を取り除けると思っているほど、フレアは楽観的ではないが、なんとか彼の心を軽くしてあげたいとは思っていた。
 彼がラズリルにいる間にそれができなかったことが、心残りだった。
 何かを言おうとして、二度ためらった後、フレアはそっと右手を差し出した。

「必ず、また生きて会いましょう。そしてまた、オベルのために尽くしてください。
 私の許可なく死ぬことは、決して許しません」

 軽い口調ではあったが、言葉に込められた意味は、凄まじく重かった。
 その重さを噛みしめるように、マクスウェルはフレアの手をゆっくりと握った。
 この瞬間、彼の命は、彼だけのものではなくなった。
 握手を終えたフレアは、まだ何か言いたそうなそぶりを見せたが、自重して脇に下がった。
 自分よりも重要な話をしたがっている者がいることを、フレアは知っていた。
 カタリナが、より現実的な話を切り出した。

「マクスウェル、あなたの「独立」の持つ意味がどれほど大きいかは、自分がいちばん理解しているだろうけれど、本拠をどこに構えるかは決めているの?」

 マクスウェルは大きく頷いた。

「はい、もう決めています。
 俺に大きな縁があり、戦略的にも見逃せない意味がある場所です」

 その場所は、マクスウェルが独立を決意した時点から本拠地として考えていた場所で、アグネスが当初から候補地として考慮していた場所だった。
 二人の意志が寸分違わず合致した時点で、すぐさまこの島が本拠地として定められた。
 群島解放戦争の直前、マクスウェルら一行が流れ着いた場所。
 そしてこの事件の直前、マクスウェルがナ・ナルの暴走勢力によって襲撃された場所。
 彼がオベル王国時代にリノ・エン・クルデスより与えられた「無人島」である。

 マクスウェルにとって感慨深く、彼が島の地理を知り尽くしていることが最大の要因だが、戦略的にもこの島は無視できぬ位置にある。
 オベル王国から北西、一般航路にして四日という位置は、王国に対して行動するのに最適の場所であると思われた。

「でも、そんな都合のいい場所を、ラインバッハ二世が見逃しているかしら。逆に危険ではなくて?」

 当然の質問をカタリナはしたが、マクスウェルは含みのある表情で頷いた。

「大丈夫、手は打っています」

 それ以上は語らなかったが、それで充分と判断したのか、カタリナも深追いはしなかった。
 脇にいるフレアが、複雑な表情でその会話を聞いていることに、二人は気付いていない。
 マクスウェルとカタリナの間にあるこの深い信頼感が、フレアには羨ましかった。
 無論、カタリナとてマクスウェルの心配はしているだろうが、同時に信頼しているからこそ、この深い笑顔で彼を送り出せるのだ。
 心配が募って普通の心境ではいられないフレアとは大違いである。
 共に過ごした時間の長さが遥かに違う。
 そんなことは分かっているのだが、分かっているだけに、フレアは微妙な悔しさが心の中で首をもたげた。

 マクスウェルは次に、ケネスと視線を合わせた。
 だが、この二人の間には、言葉すら必要としなかった。
 音高くハイタッチをすると、がっちりと握手を交わし、そして二人して大きく頷いた。

「おおい、そろそろ出発だぜえ」

 桟橋の先で、アカギが叫んだ。
 目を向けると、日が昇りだし光に染まる海上に、二十隻前後の漁船が浮いていた。
 その船上には船を動かす漁師といっしょに、マクスウェルと運命を共にすることを選択した四十六名の姿があった。
 アカギ、ミズキ、ポーラ、アグネス、ビッキー、ジーン、ラインバッハ、リシリア。
 そして、シラミネの許可を得て行動を共にする、タルの姿もある。
 彼らが、自分たちのリーダーの乗船を待っていた。

「じゃあ、行きます。一段落ついたら、またまみえましょう。それまでお元気で」

 深く一礼をし、マクスウェルはカタリナたちに背を向け、走り出した。
 その頭上から、太陽が眩しすぎるほどの光を放っていた。


 マクスウェルたちの旅立ちを、カタリナたちとは別の場所で見守っている者がいた。
 港が一望できる、裏通りの建物の影。
 そこから、身体を半分出すような形で、その女性はマクスウェルたちのことを眺めている。

 不意に、彼女の肩を、誰かが叩いた。
 女性がビクリと身体を震わせてそっと背後を向くと、見知った顔があった。
 ラズリル騎士団の剣術師範、グレッチェンである。
 グレッチェンは女性と港の様子を交互に見やり、一つため息をついた。

「行かなくていいのか? 誰よりもマクスウェル様を見送りたいのは、あなたでしょうに」

 その小心を揶揄されたように思ったのか、その女性――ミレイは、小柄な身体を少し縮こまらせた。

「……いいんです。私には、もう、その資格は無いから……」

 寂しそうな笑顔で、ミレイは呟く。
 隠し切れない後悔と寂寥が、言葉の端々から零れ落ちていた。

「資格とか、そういうものでも無いと思うんだけど。あなたが行けば、マクスウェル様も喜んでくれるんじゃない?」

 ミレイは、目を閉じて首を振った。

「私は、マクスウェル様の護衛という役割に、誇りを持っていました。誰よりも、彼のことを守れると思ってた」

「……………………」

「……だけど、私はマクスウェル様をお守りするどころか、彼に恐怖心を持ってしまった。
 私はマクスウェル様が立ち直られるのに、少しも貢献できなかった……」

 握り締められた拳に、悔しさがにじんでいた。
 拳の震えが伝播したように、ミレイは肩と声を震わせた。

「アカギさんやミズキさんは、マクスウェル様を支えているのに、私はまだ立ち直ってさえいない。
 私だけ。私だけが、マクスウェル様の心の速度についていけなかった……」

 それは、誰にも告げることができぬまま、ミレイがずっと押し殺してきた感情だったのだろう。
 群島解放戦争のさなか、ずっと共にマクスウェルの護衛を務めたグレッチェンを前にして、心の箍がはじけた。
 ミレイはグレッチェンの胸元で、瞳からは涙を、口からは悔しさをこぼし続けた。

「悔しいよ……、こんな悔しいことってないよ……。
 私が一番長くマクスウェル様の傍にいたのに、私だけがついていけないなんて、こんな情けないことってないよ……」

 そこからはもう、声にならなかった。
 ラズリルに到着してから抑え続けた二週間分の感情を、一気に吐き出すように、嗚咽を漏らし続けている。

 グレッチェンには、分かっている。アカギやミズキと、ミレイの違いを。
 アカギとミズキは、第二次オベル沖海戦のとき、戦場にいなかった。
 あの場にいた全ての人間の精神を氷結させた、豹変したマクスウェルの様子を見ていないのだ。
 その場に遭遇し、その後も暴徒の手からマクスウェルを守り抜いたミレイと、アカギたちとでは立場が異なるのだ。
 マクスウェルの豹変を目撃した者の中で完全に立ち直っているのは、親友のケネスくらいであろう。
 リノ・エン・クルデスですら、明らかに過去と様子が違う。
 簡単な比較など成立しないのは明らかなのだ。
 ミレイは真面目な性格と、深すぎるマクスウェルへの敬意のせいで、全てを自らの責任として背負い込んでしまっているのだった。

 グレッチェンは、不器用に、だがゆっくりとそのことを一つ一つ、ミレイに聞かせた。
 そして、自分の胸元で揺れているシルバーグレイの髪を、やさしく撫でてやった。

「大丈夫、いつか胸を張って、マクスウェル様の顔を見ることができる日が来るさ。
 その日まで、頑張ればいい」

 ミレイの頭を撫でながら、グレッチェンは思った。
 ミレイは恐らく、本人が思っている以上に、マクスウェルに入れ込んでいる。
 マクスウェルがラズリルを出ることで状況に変化がもたらされるのなら、マクスウェルとしばらく距離を開けることで、この年下の友人にも、何か良い変化が訪れればいい、と……。

6-2

 十五隻の漁船に分乗してラズリルを出たマクスウェルたちは、新たな本拠地と定めた無人島までの長い道のりをこのまま漁船で行くつもりは、無論、無い。
 ラズリルから離れた場所で、別の船に乗り換える手はずになっていた。
 連絡役を依頼したケイトの報告が確かならば、もうじきその船群が見えてくるはずだった。

 天気は晴朗、波は穏やかで、日が日なら絶好のクルージング日和である。
 ビッキーはめずらしく長い黒髪を三つ編みにまとめ、気持ちよさそうに潮風に身体をなびかせていたが、もともと船に弱いラインバッハは、生きることすら諦めたようにぐったりとしていた。
 気取って舳先に足を乗せ、前方ににらみを利かせていたアカギが叫んだ。

「見ろ大将、デカい軍船がいるぜ。あれが連中の船じゃないのか」

 アカギほどの視力はないが、マクスウェルが目を凝らすと、確かに黒い軍船が何隻か海の真ん中に碇を下ろしているのが見える。
 時間を考えれば、恐らくラズリルから三十キロ付近だ。
 事前の連絡どおりの位置であった。

「よし、あの船に近づけてくれ。俺たちはあれに移る」

 マクスウェルの船を操っている漁師が、心配そうに尋ねる。

「おい、本当にいいのか? 見間違うはずもないが、ありゃクールークの軍船だぞ。大丈夫なんだろうな?」

「大丈夫、心配ないさ。意外と顔が広いんだよ、俺は」

 おどけるような口調に安心感が混じった。マクスウェルにも不安はあったのだ。
 じかに面談したわけではない、手紙の上での約束だったし、もし相手が約を違えれば、マクスウェルたちにはラズリルに帰るしか道がなくなってしまう。
 それでは何のために自分が決起を決意したのか、意味が分からなくなる。
 充分に信頼できる相手ではあったが、やはり実際に姿を見れば安心するのも当然であった。

 まずは漁船と軍船の間で、手旗信号による確認がなされ、さらに漁船の一隻が軍船に近づき、かねてから決めてあった合言葉と割符による確認が行われた。
 こうして、お互いが待っていた約束の者同士であることが確認され、軍船から縄梯子が下ろされた。
 マクスウェルは船を乗り換える間際、自分の船を操船してくれた漁師に対して篤い礼を述べた。
 三十代のその漁師は、気さくに笑って手を振った。

「良いって良いって。それよりも、生きてラズリルに帰ってこいよ。シラミネをはじめ、みんな待ってるからよ。
 戦争が終わりゃあ、昼夜通して酒盛りでもするさ」

「手加減してくださいよ、俺は酒が飲めないんだから」

 マクスウェルは、思わず苦笑した。

 軍船に移ると、やはりマクスウェルは気分が引き締まる。
 かつてオベル海軍の旗艦オセアニセス号の艦長を勤めていたときの緊張感が、胸に湧き上がってくるようであった。
 苦さ半分の記憶ではあるが、自分が船上の人であるのだと思い知らされる一瞬である。
 自分では意識していないつもりではあるが、やはりかつての敵国の軍船ということもあるのか、緊張感はいつにもまして強い。
 その緊張感が解けぬうちに、彼の前に、この小艦隊の責任者が現れた。
 一部の隙もなくクールークの軍服を着こなした、中背の男である。

「久しぶりだ、マクスウェル艦長。あれからお互いに色々とあったが、また会えて嬉しく思う」

 そう言って、その艦長はマクスウェルに、生真面目に右手を差し出した。
 無論、マクスウェルも、この銀髪の端整な表情をした青年のことを良く知っており、屈託なく握手に応じた。

「ご無沙汰しています、ヘルムート提督。これまでご無事でなりよりでした」

 ヘルムートと呼ばれた青年から、思わず笑顔がこぼれた。
 その青年艦長ヘルムートは、かつてはクールーク第二艦隊の分艦隊司令官として、マクスウェルたちと敵対していた身である。
 群島解放戦争のときは、クールークの手に落ちたラズリルに駐留する艦隊の提督として、ラズリル解放を志すマクスウェルと戦い、そして敗れた。
 敗戦の後、部下の助命を条件に降伏したが、そのために自らの命を厭わない堂々たる姿勢が、マクスウェルに強い印象を残していた。
 そして終戦後のどさくさに紛れて、ヘルムートが同じく捕虜となっていた父親と共に旗艦から脱出するのを、マクスウェルは手助けしたのである。

「それにしても驚きましたよ、今やクールークの一勢力の領袖なんですって?
 コルトン提督もご壮健のようで、何よりです」

 領袖、という言葉に反応して、ヘルムートはやや眺めの銀色の髪を揺らした。
 幾多の困難を切り抜けてきたのであろうその細面は、二年前とは比べ物にならぬほどの精悍さで彩られていた。

「なにせあの時、卿からは厳しい宿題をもらったからな、おちおち死ぬこともかなわないよ。
 生き残ってあれこれ頑張っているうちに、かつての部下に祭り上げられて、この現状さ」

 ヘルムートの父親であるコルトンは、かつてクールーク第二艦隊を率いた、歴戦の武人である。
 トロイのような天才型の軍人ではなく、派手さとも無縁であったが、堅実な用兵と作戦でもって、多くの勝利を掴み取ってきた。
 部下の士心を良くつかんでおり、クールーク崩壊後、彼の名を慕ってかつての軍人が多くその元に集まった。
 その勢力が発展して、現在は南部の三つの街を治める有力諸侯の一人となっている。
 コルトン自身は、

「私が政治家などという柄か。不似合いにもほどがある」

 などと不満をこぼしているが、それでも真面目に政治家を演じているあたり、実はまんざらでもないのではないか、とヘルムートは思っている。
 ともかく、クールーク崩壊を生き残った皇王派の重鎮、オルネラとコルトンが、それぞれの形でオベル側に組したことは、この事件が既に群島だけの問題ではないことを如実に物語っている。

あの時、私は卿の恩に対していつか報いると約束したが、ようやくその約束を果たせるときが来た。
 群島で事件が起こる、というエレノア殿の先見で、いつでも出撃できるように準備はしていたが、ケイト殿から出港要請を受け取ったときは、ついにこのときが来たと雀躍じゃくやくしたものだ」

 この冷静沈着な司令官が、拳に力を込めるように語った。
 群島解放戦争の末期、マクスウェルとかわしたわずか十分ほどの約束が、それほどまでにヘルムートにとっては重いものであったのだ。

 グレアム・クレイがその元を去って以降、アグネスとターニャを引き連れたエレノアは、クールークで勢力を築きつつあったコルトン一派の元に身を寄せた。
 そこで、コルトンとヘルムートの勢力拡大に知恵を貸す一方で、旧海軍におけるコルトンの名声を利用し、クレイの動向を探っていたのである。
 お互いのメリットが一致したゆえの政治的な結合ではあったが、コルトンとエレノアの老齢の組み合わせは、幸いにも双方にとって理想的な結果をもたらした。

 クールーク皇国にとって最後の対外戦争となった群島解放戦争は、群島地方において「軍師」たちの活躍で勝敗が決まった戦いのさきがけといえる。
 戦争末期、解放軍の重要な捕虜としてオセアニセス号に身を置いたコルトンは、クールーク海軍と解放軍の両方の戦略を垣間見た貴重な証言者である。
 この賢明な証言者は、クレイの奸智に振り回されるクールーク海軍と、エレノアの鋭い叡智に導かれた解放軍との質の違いを、まざまざと体験させられた。
 彼は文人ではなく、ひたすら前線で鍛え上げた現場の責任者であるから、その質の違いがどれほど戦果に影響を与えるかは簡単に想像できた。
 ただ前線で戦う兵士が強いだけでは、その軍全体の強さとは言えぬのだ。
 解放戦争におけるクールークの敗因は幾つか考えられるが、兵装の充実でも艦艇の数でも勝っていたはずのクールークが敗れた最大の原因は、上層部が混乱し、一本化された戦略を前線の末端まで充実できなかったことだ、とコルトンは思い始めた。
 そして、クールークの崩壊を運よく生き残った彼は、自らの勢力を率いるようになって以降、主だった部下の中から将来性のある俊英を選んで、軍師の教育を与えようとした。
 だが、肝心のコルトン自身が、骨の髄まで前線の人である。
 彼の戦いの行動原理は書物ではなく自らの経験則であったから、軍師の思考法など分かるはずもなく、だれか優秀な経験者を教師に招くことを考えていた矢先に、エレノア・シルバーバーグが弟子を引き連れて現れたのであった。

「この見習い軍師殿も、教師の一人として同年輩のクールーク軍人たちを教えていたわけだが」

 と、ヘルムートはアグネスを見て笑った。

「その時の彼女の混乱ぶりを、こまごまと皆に語って聞かせたいものだ。
 私はこの年になるまで、あんなムチャクチャな講義を聞いたことが無い。
 あれが周囲を自分の世界に引き込む話術とするなら、この軍師殿はすでに超一流だ」

「やめてくださいよ、もう。
 あれは私の人生で一番、闇に葬ってしまいたい記憶なんですから……」

 水を向けられたアグネスが、不満そうに唇を突き出した。
 アグネスはアグネスで、マクスウェルには語っていない苦い記憶が色々とあるらしい。
 どうやら、この艦橋の中にもアグネスの「講義」を経験した者がいるようで、何人かが興味深そうに元先生の顔を眺めていたが、それに気付いたアグネスが、「しっし」と手を振った。
 ヘルムートが笑みをおさめて、表情を引き締めた。

「私たち親子は、ただでさえマクスウェル殿に恩があるが、今度の提案でさらに助けられた。
 今後の作戦行動においては、我が艦隊のすべてが卿の指揮下に入ることを確約する」

 マクスウェルは一つ頷いた。
 彼は、カタリナやリノ・エン・クルデスが、自分達と同じくクールークのオルネラ一派と手を組もうとしていることを知っていたが、考え方の下地が違う派閥同志が、政治的な思惑のみで結合することへの危険性を、彼は本能的に察知していたのである。

 そこで、自分達と手を組んでくれるコルトンたちに対しては、その行動に見合った「利」を提供することにした。
 クールーク地方はここ数年の異常気象で作物の育ちが悪く、食糧危機に陥っている地方が多い。
 マクスウェルはチープー商会に依頼して、群島やガイエン地方で余っている食糧を買い集め、コルトンに無料ただに近いほどの格安で転売したのだ。
 こうすることで、艦隊を派遣するコルトンたちがマクスウェルに一方的に利用される、というネガティブな思考を和らげることができる。
 さらにチープーは、コルトンとの間を橋渡ししてくれたマクスウェルに対し、ネイ島に買い集めた武器・弾薬の類を、それらの価格が高騰している現状を考えれば、破格ともいえる安値で譲り渡すことを約束した。
 この状況では、チープー商会が一方的に損をしているように見えるが、その代わり、コルトンとヘルムートの治める街においては、チープー商会は破格の待遇で商売することを許されているし、マクスウェル一派がものの売買を必要とした場合は、すべてチープー商会が間に入ることになっている。
 現在は収支がマイナスになっても、今後、商会はクールークでも群島でも、大きな利益を得ることができるだろう。
 すべては将来を見越した、しかも結果的に全員が得をするようにできた「契約」である。

 この、ラインバッハ二世のお株を奪うようなマクスウェルの経済的な手法に、アカギが素直に感嘆した。

「驚いたな。あんた、どこでこんな知恵をつけたんだ?」

「知恵、か」

 マクスウェルは少し微笑んだ。いくらかの満足感も入っているように見える。

「知恵というなら、敵であるラインバッハ二世がつけてくれたものだろうね。
 ラインバッハ二世が金をばら撒いて手下を集めたのなら、もうちょっとスマートなやりかたができないか、と苦心した結果だよ」

 もっとも、マクスウェルは経済の知識などほとんどないので、アグネスとシャルルマーニュに教えを乞うた。
 典雅なシャルルマーニュは、貴族になる前からミドルポートで宿屋を営んでおり、経営者としてもまず一流である。
 マクスウェルはそこに目をつけたわけであるが、シャルルマーニュは意外にも、教官としては鬼の一面を持っており、グレン団長のしごきとは違う意味で、マクスウェルは泣かされた。
 彼にしてみれば、涙ぐましいまでの努力の結果、ひねり出したアイデアであった。

 同時にマクスウェルは、戦争というものが、経済力という後ろ盾がなくてはできぬものだと改めて痛感した。
 後述するが、現在は味方についたラインバッハがマクスウェルに巨額の投資をしてくれ、一派には潤沢な資金がある。
 だが、いつまでもそれを食いつぶしながら行動するわけには行かない。
 幸いにもチープーは下積み時代からの知己であるし、これを機会に群島最大のチープー商会と密接な関係を築いておくことで、後々の苦労を少なくしておこう、という思惑もある。
 マクスウェルは、アグネスに説得されて人の上に立つことを決意して以降、本意かどうかはともかく、少しずつ後々を見据えながらものを考えるようになっている。
 その思考法の源流には、もう少し虚無的なものが流れていたが、心に秘めた自分の覚悟は別にしても、自分に協力してくれた人たちの将来のことは考えておかねばならないと思っていたようである。

 ヘルムートが、マクスウェルと握手を交わして言った。

「露払いは、我々が引き受けよう。卿は自らの思う道を進んでくれ」

 今のマクスウェルにとっては、なによりも頼もしい言葉であった。
 クールークの現状は混沌を極めているが、長老派と皇王派の対決の様相は変わっておらず、ヘルムートはかつて皇王派に属していた人間である。
 長老派がラインバッハ二世につき、皇王派の一勢力であるオルネラがカタリナらに組したように、ヘルムートは自らの意志でマクスウェルに組したのである。

「この事件は、すでに起こした張本人も、制御できないところに来ているのではないか。
 ひょっとしたら、卿が望まぬ結末に進んでいくかも知れないが……」

 ヘルムートの言葉に、マクスウェルは首を振った。
 事件をおかしな方向に持っていった要因の一つは、間違いなく彼自身であった。
 それを否定するつもりも、その事実から逃げるつもりも無い。

「どんな方向に行くにせよ、俺は逃げることだけはしません。
 どうせ後悔するのなら、せめて自分の決断で後悔したいんです。
 この命を賭けると、決めたことだから」

 マクスウェルの決意の重さの一端を知ったのであろう、ヘルムートは沈黙した後、大きく頷いた。

「卿はその勇気を見せるだけで充分だ。未来が分からないのは、我々とて同じ。
 勇気をふりしぼる卿の姿に、奮い立たない人間はいないさ。そうして卿はかつて、我々を破ったのだからな。
 まずは最初の指令を出すがいい。自らの言葉で、卿の勇気を我々に示してくれ」

 マクスウェルの身体が、小刻みに震えた。
 緊張もあるだろうが、武者震いであろうと、自らに言い聞かせる。
 そして、肺の中のありったけの空気を声に乗せ、吐き出した。

「抜錨せよ! 進路0-4-5、目的地、無人島!」

 おお、という大きな声が、マクスウェルに返された。
 現在のヘルムートの部下たちも、かつて提督と同じく解放軍の捕虜になった者が多いが、ヘルムートの降伏の英断と、降将であったコルトンとヘルムートを厚遇してくれたマクスウェルの温情を覚えており、彼に対して好印象を持っている者も多い。
 返せる限りの恩は返しておこう、と考えている者も少なくないのであった。

 風を切って艦隊は動き出す。
 マクスウェルの活躍が始まるのは、この瞬間からであった。

COMMENT

 マクスウェルとヘルムートの言葉のいきさつについては、「父と子」を参照。
(初:10.01.05)

 皇帝派→皇王派の誤りを訂正。
(改:10.01.30)

 大幅に加筆。
(改:10.05.10)