クォ・ヴァディス 01

 歴史に対して、直接的・間接的に関わることは、大変な快感とスリルと、そして危険を伴う。だが、その出来事に対して快感なりスリルなりを感じるのは、たいていの人にとっては後日、回想においてである。
 自らが今、この瞬間に行っている行為が、歴史にとってどのような意味があるのかを理解しながら生活している人間など、殆どいないであろう。群島の歴史に詳しい女性歴史家ターニャは、その事象の不思議と不条理に嘆息する。

 彼女は、自ら望んで歴史の変事に関わりたいと、常に思う。自分で能動的に騒ぎを起こす気は無いが、歴史の変節を自分の目で見たいという希望は、物心ついたときから心の片隅にあった。
 これは別に彼女に限った話ではなく、少しでも歴史に興味を持つ者ならば、大なり小なり、一度は思考の端にかかる願望であろう。

 そして実際にターニャは、そんな歴史の変節に望んだことがあるのである。自ら能動的に関わったわけでもないのに、三度も。それも、この世界の根幹に関わる、重大極まる事件だった。
 この世界の創世と、現在の世界のバランスとに重大な影響を及ぼす要素、「真の27の紋章」。その一つ、「許し」と「つぐない」を司りながら、強大すぎる破壊力と数奇な宿命とを併せ持つ「罰の紋章」。
 その強大な紋章を巡る歴史的な事件に、ターニャは自ら意図せずに、三度も関わることになったのだ。
 自ら歴史的な事件に関わることは、大変な快感とスリルと、そして危険を伴う。この三度の事件は、それらをまとめてターニャに体験せしめた、稀有な事件であった。

 一度目の「群島解放戦争」、二度目の「クールーク皇国崩壊」に関しては、彼女が記したもの以外にも、優れた記録が多く残されているため、ここでは記述を割愛する。今日、彼女が戯れに手にした、彼女自身が著した記録は、彼女が「罰の紋章」に、能動的に寄らず関わった三度目の事件に関してである。

 よく晴れた日だった。鳥のさえずりが心地よく胸に沁みる、小春日和の昼。ターニャは、ラズリルの港を望む自宅のベランダで、その記録を紐解いた。
 事件から既に七〇年が経つ。これらの事件を鮮明に記憶している人間は、もう殆ど生存していない。彼女はこれらの事件を語り継ぐ、貴重な記録者であり、記憶者であり、そして語り部だった。
 ターニャは、自らの記録を開き、自らの記憶を呼び起こす。躍動的な若々しい文章は、この事件がいかに彼女を興奮させていたかを、よく物語っていた――――。

0

 オベル国王リノ・エン・クルデスにとって、その日は、忘れられぬ一日となった。
 どちらかといえば、余り良い記憶ではない。一概に悪いとは言えぬまでも、じめじめとした、不快な湿気を伴う記憶である。

 その女性がリノ・エン・クルデスの元を訪れたのは、太陽暦三〇五年、群島解放戦争の二年前の春のことである。
 当時のオベルは、表立っては南に徐々に進出を図ろうとする北の大国クールークに対する対策に追われ、そして裏では、オベルから失われた真の紋章のひとつ「罰の紋章」の捜索に全力を挙げている時期で、リノ・エン・クルデスも重要な案件を多数抱えた、多忙極まる身であった。

 そんな春先に暖かな一日、ひとりの女性が彼の王宮を訪れる。
 その女性は、自らの身許を一切語らず、名さえ明らかにしなかったが、妖艶という言葉を結晶化したような美しさは、リノの記憶に残るのに充分な特徴といえた。
 肌を覆う、辛うじて「衣装」と呼びうる最低限度の面積しか身体を隠していない「衣装」といい、その長身、美しい銀色の髪など、彼女の視覚的な一次的情報は、氏名や年齢などの、言語による二次的な情報の確認を圧倒した。
 そして何より、彼女の発するえもいわれぬ正体不明の「雰囲気」が、若くして精悍、長身雄偉な銀髪の国王をして、彼女の話に耳を傾けさせた。

 彼女の提案は、実に奇妙なものだった。「王宮」というよりは、南国の「館」と呼ぶのが相応しいオベル王宮の西に、現在は打ち捨てられた、古く巨大な遺跡がある。
 地上部分も広大だが、さらに地下に深い、巨大な「迷宮遺跡」である。「罰の紋章」が失われた事件が、オベル王国にとって「トラウマ」になっているせいもあって、その事件以降は、まったく手を入れられていない。その迷宮遺跡を、その女性は秘かに、だが急いで更に発掘せよ、と提案したのだ。

 客観的には、まったく意味の無いと言ってよい提案である。重臣たちも、首をかしげた。
 遺跡に関する資料はほとんど残されておらず、「罰の紋章」に関わりがある、という程度しかわかっていない。何度か小規模な発掘は行われたが大した発見もなく、当時のオベルに対して学術的にも政治的にも、大きな成果をもたらすことは無いと考えられていたからだ。
 しかも、国も国王も多忙な時期である。本来ならば、氏名不詳の一民間人の「気まぐれな提案」など、一笑のもとに門前払いされてもおかしくは無い。
 だが、なぜかリノ・エン・クルデスは、彼女の提案を受け入れて、軍の一小隊を用い、発掘に従事させた。

 リノ本人は相変わらず政治に翻弄されて、発掘に関わることは殆どなく、発掘作業は孤独なプロジェクトと化したが、それでも担当した小隊は、こつこつと作業を進めた。

 そして半年後、その発掘小隊が「掘り起こしてしまった」ものを、リノ・エン・クルデスは、表情を驚愕と呆然とに二分させて見る事になる。
 いや、リノ・エン・クルデス一人ではない。このプロジェクトに関わった者、特に、発掘に従事した当人たちを最も困惑させた。

 地下八階部分に忽然と現れた、高さも奥行きも広大な空間。地下七階までが迷宮と化していたのに対し、その地下八階部分は、ぶち抜きのワンフロアであった。
 改めて、この遺跡の広さを思い知らせるかのごとき広大なスペースではあったが、しかし、その広大なスペースには、目立ったものは何一つ存在しなかった。
 東側の壁面、ただ一点を除いて。

 リノ・エン・クルデスは、その壁面を凝視した。地下特有の湿気の高い空間の中で、熱い汗と冷たい汗とを交互に流し、逆に緊張に乾く口内と唇を、複数回湿らせた。
 その壁面に存在した【それ】は、それほどの「物体」だったのだ。
 いや、「物体」と称してよいのかどうかすらわからない。あまりに衝撃的なそれは、だが、それ自体についての情報を何も持たなかった。
 何のために作られたのか、誰によって作られたのか、いつ作られたのか。ただ圧倒的な存在感を持って、そこに鎮座していただけである。

 そして、その日にそれが見つかることをまるで見越していたように、再び女性が王宮を訪れた。関係者全員の狼狽と驚愕をよそに女性は、半年前と全く同じ衣装、同じ雰囲気で、王宮を妖艶な空気に包み込んだ。

「あれは、あれはいったいなんなんだ。誰が作った。いつ作られた。なんの意味がある。そもそも、最初からあそこにあったものなのか!?」

 口角泡を飛ばしながら、発掘された「物体」の正体について迫るリノ・エン・クルデスの巨体を器用にいなし、女性は一言だけ残した。

「【 あれ 】は、貴重で重要な世界の宝。でも、使い方を誤れば、貴方とオベルに大きな災禍と後悔とをもたらすでしょう。ゆめゆめ、注意を怠りにならぬように……」

 次の瞬間、関係者は再び目を疑うことになる。一方的に現れ、一方的に注意を与えた氏名不詳の女性は、淡い銀色の光を残し、「消えて」しまったのだ。まるで、最初からそこにいなかったかのように。

 結局、正体も何もかもが不明なまま、古の「物体」と、意図不明の「忠告」だけが残された。
 薄気味悪さを感じたリノ・エン・クルデスは、関係者全員にかん口令を敷き、発掘された【それ】を、地下八階のスペースごと埋めなおさせてしまった。
 物体の正体については多大な興味があったが、あまりにも正体が不明すぎた。下手に刺激すると、何が起こるかわかぬ。
 女性の荒唐無稽な「忠告」。リノは、それを嘘とは思いきれなかったのだ。結果、下手に刺激するよりも、「触らぬ神に祟りなし」という決断を、彼は下したのだった。

 それ以降、オベル遺跡の最深部は、細心の注意を払って管理された。地下五階までは、一般人や冒険者の出入りを許可したが、それより階下の最深部の入り口は、その存在すら明かされなかった。

 それ以降、謎の女性がオベルに現れることもなく、遺跡の時間は平穏に過ぎていったが、リノの深奥には、その「物体」と女性の「忠告」についての、驚愕と呆然の湿度を伴った記憶が刷り込まれ、彼の精神に、小さな靄を生み続けた。

 群島の歴史に詳しい女性歴史家ターニャは、深く嘆息する。彼女がこの場に居合わせていれば、リノ・エン・クルデスの不興を買おうとも、より詳しい調査を行うようにと強行に主張したはずである。
 だが、大国の情勢と罰の紋章とに殆どの意を注がざるをえなかたった当時のリノ・エン・クルデスを責めうる者は、恐らく存在しないだろう。彼は、国のことを第一に考えなければならなかったし、その国にどのような影響を及ぼすか不明なものに、おいそれと手を下すわけにはいかなかった。
 これまで、埋まっていてなんの影響もなかったのだから、これからも埋めておけば、特に影響をもたらすことはあるまい、という図式である。

 そして、リノ・エン・クルデスがこの時の中途半端な処置を苦々しく後悔することになるのは、「物体」発見の四年後、ラズリルにおいてである。

COMMENT

 久しぶりの「幻水4」です。
 前回の「密室の二賢」で、私が「幻水5」を書くと内容的に偏りまくることが解ったので、しばらくは「5」から離れることにしました。
 でも、「1」「2」「3」ならともかく、いまさら「4」の小説書いてる人って、わたしくらいなんじゃあるまいか……。

(初:08.08.20)