密室の二賢 (上)

 夏。
 激しい内乱に揺れた、夏の一日。
 その日ほど、ファレナ国内の民と、国外の上層部の興味が揺らいだ日もなかったであろう。
 新女王親征。
 この五文字に籠められた意味の大きさを、意識せざるものはいなかった。
 ゴドウィンのクーデターに始まったファレナの内乱は、ゴドウィンが担ぎ出したリムスレーア新女王と、そのゴドウィンを打倒し、国の奪還をはかるファルーシュ王子――すなわち、リムスレーア女王の兄とが、戦場で、一軍を率いてあいまみえる一大転機を迎えていた。
 妹対兄、正規軍対叛乱軍。
 様々な表現を用いて、ファレナの内外が、この戦いと、女王と王子の一挙手一投足に注目していた。
 この会戦の勝利者が、そのままファレナの覇権を奪うにいたる可能性が高い、ともなると、誰もが注目せずにはいられなかったのである。
 特に、どちらに味方するか決めかねている諸侯と、諸外国にとっても、この戦いが、一つの大きな転換点になるであろうことは確実であった。
 この戦いの持つ意味の大きさを、戦いが始まる前から、誰もが意識していたのである。
 当事者たちには、まったく別の思惑があったのだが……。

 そして、丸一日をかけた凄惨な戦いを終え、両勢力はそれぞれの本拠地に軍を退いた。
 表面の形式だけを見れば、この戦いは、ファルーシュ王子の率いる「叛乱軍」の完勝と言ってよい。
 数で劣るものの、士気に勝る王子軍は、ヴィルヘルム率いるリンドブルム傭兵騎馬隊と、ダイン率いるセーブル騎馬隊の圧倒的な機動力を最大限に活用し、士気の上がらぬ敵部隊の内部を散々引っ掻き回した挙句、最後は周囲から矢と投石でその数を撃ち減らし、歩兵による突撃で決着をつけたのである。
 これは、教科書に載ってもよいほどの、見事な包囲殲滅作戦となった。
 敵兵の半数が戦死し、残りのうちの半数が降伏した。
 ソルファレナに撤退した女王軍(ゴドウィン軍)は、四分の一に過ぎなかったのである。
 この勝利は、戦闘での大戦果であるのと同時に、政治的にも大きな意味を持つこととなるだろう。
 今後、この勝利を喧伝文句として、王子サイドは更なる味方の増加に勤め、それに応じる者も多くいるに違いない。
 まさに、「歴史を変えた」といっても過言ではない勝利だったのである。

 当然、王子軍の一般兵の士気の高まりは、天を突くほどのものとなっている。
 数にして三倍の敵軍を屠り去った今、彼らに敵はいないも同然であった。
 少なくとも、彼らはそう思った。
 王子万歳! ファレナ万歳! ゴドウィンに天罰あれ!
 彼らは口々にそう叫び、酒の杯を上げ、凱歌を上げた。
 だが、彼らはこのとき、まだ気づいていなかったのだ。
 これほどの大勝利にも関わらず、軍首脳が、未だになんらコメントを発表していないこと。
 そして、彼らの表情が一様に苦々しさに包まれていたことに。

 その軍首脳の頂点であるはずのファルーシュ王子は、極めて不機嫌であった。
 戦闘には確かに勝った。
 それは間違いない。
 だが、その結末は余りに意外なものだったのだ。
 ファルーシュ王子は、まるで大敗北を喫したかのような凄惨な表情で、必要なことを済ませると、ダインとベルクートを相手に、剣舞を演じたのだ。
 その時の王子の、まるで相手を殺さんとせんばかりの気魄に、歴戦の剣豪であるはずの二人が一歩退いてしまうほどだった。

 戦闘の勝利の裏で、この戦闘における最も重大な任務が、最悪のカタチで失敗を迎えていたのだ。
 一般兵には伏せられていたことであるが、王子軍にとってのこの戦闘の目的は、リムスレーア新女王の誘拐にあったのである。
 誘拐、といえば聞こえは悪いが、要はゴドウィン軍から女王を連れ戻し、自分たちがリムスレーアを要することが、最終的な目的だったのだ。
 リムスレーア女王さえ迎え入れることが出来れば、ゴドウィンが旗印とする「正規軍」の称号が、一気に地に落ちる。
 リムスレーアが一言、王子の正統を宣言すれば、正規軍と叛乱軍の立場が、そのまま入れ替わってしまうのである。
 王都であるソルファレナには、リムスレーア以外の王族は一人も残っていない。
 ファルーシュとサイアリーズは叛乱軍に属し、ハスワールはルナスから動く気配をまるで見せない。
 つまり、リムスレーアを奪われたゴドウィンがソルファレナに帰還したところで、リムスレーアの代わりの女王を立てることも出来ず、道は二つしか残されていないのだ。
 降伏するか、自ら皇帝の座について抵抗を続けるか。
 もちろん簡単な作戦ではなかった。
 だが、拉致同然にゴドウィンに利用されている10歳のリムスレーア本人も、ギゼル・ゴドウィンよりも兄を求めること、甚だしかった。
 兄妹にしかわからぬであろう、一種独特の波長によって、作戦は成功しかけた。
 リムスレーアの直属軍は、不自然なほど前線に出ていた。
 まるで「誘拐してくれ」と言わんばかりの突出ぶりであったのだ。
 そのリムスレーア直属軍に、王子自身の指揮する最精鋭部隊が突撃を敢行し、兄妹は久しぶりの面会を果たしたのである。
 あとは、そこからリムスレーアを連れ出せば、すべては上手くいく。
 この内乱が一挙に終息する可能性さえあったというのに。

 その場で、わらうこともできない醜悪な喜劇が演じられることになろうとは、誰も想像さえしていなかったのだった。

 王子を最も心配していたはずのサイアリーズの裏切り。
 そのたった一つの要因によって、99%成功しかけたこの作戦は、ものの見事に水泡に帰した。
 リムスレーアはサイアリーズに押さえつけられ、強引にゴドウィンに引き渡された。
 まるで処刑場に連れて行かれる直前のようなリムスレーアの悲痛な叫び声と、ドルフによって重症に追い詰められたリオンの蒼白の表情が、ファルーシュの脳裏から離れなかった。
 リムスレーア奪還が失敗したことによって、この勝利は、ファルーシュにとって、なんの意味も持たなくなってしまったのである。
 敵兵の半数を死に追いやっただけの、完全に無意味な勝利だった。

 ファルーシュは二人の剣豪を相手に、直截的に鬱憤を晴らしたが、部下たちはそうもいかない。
 不機嫌を胸のうちに抱えたまま、この勝利と失敗とをどのように次の成功に結びつけるか、模索しなくてはならなかった。
 ファルーシュが、医務室にリオンを見舞い、自室に帰ったのは真夜中になってからだった。
 わき腹を刺され重症を負ったリオンに代わり、しばらくはミアキスが王子の護衛を勤めることになっていた。
 王子は、そのミアキスに最初の指令を出した。

「ルクレティアを呼んでくれ。人目につかぬように」

 ミアキスは素直に指令に従ったが、意外さを感じたのは、ファルーシュが自分を含む人払いを命じたときである。
 王子の護衛であるミアキスも、ルクレティアの護衛であるレレイとシウスも、空しく王子の部屋の門番たるを余儀なくされた。
 そのとき、室内で二人きりとなった男女一組であるが、王子とルクレティアの間に交わされた会話は、はなはだ潤いを欠くものだった。
 王子はルクレティアに椅子を進めると、話を切り出した。

「さて、ルクレティア。サイアリーズの……伯母上の目的はなんだ?」

「目的、と言われますと?」

 とぼけて見せたルクレティアに、王子は不機嫌な表情をひらめかせたが、それも半瞬のことだった。

「伯母上は、言動は奔放に見えるが、その実、極めて理性的な方だ。
 決して一時的な感情で動く方じゃない。
 伯母上がああいった無茶な行動をとったからには、なにか目的があるはずだ、と思うのだけど」

 ファルーシュはいったん言葉を切り、自らの軍師の表情を観察する。
 常に柔らかな表情で包まれているその顔は、珍しく謹直さに満ちていた。
 ファルーシュの問いが直接的なものであったため、誤魔化しを用いる場ではないと判断したのだ。

「そうですね、私も殿下の御意見に賛同いたします。
 サイアリーズ様が心中からご心配されているのは、殿下のことだけであると言っても過言ではありませんし、そのことを、わが軍のほぼ全員が認識しています」

「その認識を裏切るとどうなるか、予測できない伯母上とも思えない。
 自身にファレナ全体の非難を一身に受けるようなことをしてまでも、達したい目的とはいったいなんなのだ。
 大体の見当はついているんだろう、ルクレティア?」

 ファルーシュは、またしても直截的に切り込んだ。
 普段ならば自由な裁量でルクレティアに好きに行動させることで、度量と器量の大きさを示し続けているファルーシュだが、それを許してはならぬときもあるのだった。
 それが、一勢力を預かる身としての、責務だったのである。
 ルクレティアのほうでも、このような深刻な事態のときに真剣以外の要素を言葉に加える気は毛頭無い。

 ルクレティアは語った。
 サイアリーズの思惑は、恐らく次のようなものであろう。
 すなわち、内戦をいましばし長引かせ、甥であるファルーシュに味方する勢力と敵対する勢力の位置づけを、はっきりさせようとしているのではないか。
 今日の戦いで内乱が終わってしまっては、そのあたりの線引きが曖昧なまま、ファルーシュとリムスレーアを中心とする新体制が始まるだけであろう。
 結局は、年若い政府首脳をさげすんで、有力貴族が政治を壟断ろうだんするこれまでの悪しき習慣が、その悪しき度を増して再現されるだけだ、とサイアリーズは危惧した。
 だから、このさい、ファルーシュとリムスレーアに敵対する勢力をすべてあぶり出し、あわよくばそれらを巻き込んで滅亡することで、次代の全てをファルーシュに託そうとしている。

 ルクレティアはそこまで語って、いったん言葉を切った。
 ルクレティアの考えは、王子の考えとほぼ重なるものであった。

「それにしても、なんとしたたかな方だ。
 ことここにいたって、状況を利用しようと考えるとは……」

 おかしな感慨が、ファルーシュの口から漏れた。
 今日の作戦を失敗に追い込み、リムスレーアを乱暴に連れ去ったサイアリーズを、ファルーシュは、奇妙に憎みきれずにいる。
 これまで彼女が自分にかけてくれた期待と心配が、まがい物であるとは思えなかったからだ。

「サイアリーズ様は、恐らく誰よりもファレナ女王家の一員であることに、プライドを持っていらっしゃる方です。
 ファレナという国が貴族という名の害虫たちに蚕食さんしょくされていくのを、見るに耐えなかったのでしょう。
 それに、サイアリーズ様には、敵将であるギゼル・ゴドウィンと婚約関係にあった過去をお持ちです。
 もちろん、とうに解消され、今はなんの効力もありませんが、ゴドウィンと完全に敵対してしまった今、そういった色眼鏡で見られる可能性のある自分が、殿下の傍に居続けるのは得策ではない、と思われたのかもしれません」

「すべてはファレナのために、か……」

 一言発して、ファルーシュは、サイアリーズの決断した覚悟の悲壮さに、改めて身震いした。
 尊敬する姉と義兄を殺され、自らも死ぬような思いをしながら甥の後見人であり続ける。
 そしていざとなれば、姉と義兄が愛したこの祖国のために、命すら賭けて行動に出てしまう。

 自分は、そんな伯母と両親に恥じぬだけの功績を残すことが出来るだろうか。
 ファルーシュは、歯痛にも似た疼痛を覚える。
 王族であり続けること。
 それ自体が、なんと重大な責務であることか。
 サイアリーズのたった一つの覚悟が、それらの重さを一気にファルーシュの肩にのしかけてくる。
 ファレナを奪還した暁には、彼が妹女王リムスレーアを補佐して国政をみる事は、ほぼ決定事項である。
 サイアリーズの決断に恥じぬだけの国を、果たしてリムと共に築いていくことができるのだろうか。
 それは、いまこの場では答えを出せない命題であった。
 もちろん、ファルーシュがゴドウィンに敗れるようなことがあれば、そのような可能性を内包したまま、彼は命までを失うことになるであろうけれども。

「つまり、我々もゴドウィンも、しばらくは伯母上の手のひらの上で踊るほかはない、ということだね」

「そうです。そしてその中で、確実に勝利を重ねていかねばなりません。
 簡単な戦いではありませんね」

 ルクレティアがためいきをつき、ファルーシュも続いた。
 まったく、簡単な戦いではない。
 自分が指揮するのがファレナ国民であるのなら、自分が討たねばならぬのもまたファレナ国民なのである。
 この争いが如何に醜悪なものか、その一事だけでも明らかだった。

「ルクレティア」

「はい、殿下」

「申し訳ないが、我が軍にあっては、伯母上には悪役になっていただく。
 先の戦いの真の目的を公表し、同時に伯母上サイアリーズの「裏切り」も公開しなければならない。
 そうだな?」

「そうです。
 恐らく兵たちは怒るでしょうが、その憤怒を上手く士気向上に繋ぐことが出来れば、しばらく敗戦の心配に悩まされることは無いかと存じます。
 もしかすると、サイアリーズ様はそこまで計算されていたのかもしれません」

「どうかな……」

 ファルーシュは、その部分にだけは追従を避けた。
 ファルーシュがリムスレーアとわずかの対面を果たした時、リムスレーアがサイアリーズに押さえつけられたのと、リオンが背後からドルフに刺されたのは、ほぼ同時だった。

『話が違うじゃないか、ドルフ!』

 そのとき、サイアリーズは明らかに声に出して怒りを露にした。
 つまり、そのドルフの蛮行は、事前の計画にはなかったものなのだ。

(だとすると、全てが伯母上の思惑通りに進んでいるとは限らない、ということか……?)

 ファルーシュは、直線になりそうになっていた思考を、再び放射状に伸ばした。
 物事を一面のみから考えるのではなく、できるだけ客観的に捉えるようにしなければ、物事の本質は見えてはこない。
 普段から彼をそう諭すのは、サイアリーズの役割だった。
 恐らく、永遠に彼女を失うことになってしまった今、ファルーシュはそれを一人で実践しなければならなかった。
 一度だけ、生前の母女王アルシュタートが、息子である彼に漏らしたことがある。

『私は、国の主権者として絶対の権力を行使する代わりに、国における全責任を一人で負わねばなりません。
 この責任は、主権者として当然のことであり、他の誰にも投げるわけにはいかないものです。
 権力者に必要なものは、確かな決断力と、絶対の孤独に耐えうる精神力なのです』

 ……と。
 今、ファルーシュは、その責任を負う立場になりつつある。
 力強い味方に囲まれた、絶対の孤独。
 どれだけ知恵に秀でた軍師がおり、武勇に傑出した将軍がいても、彼らを統率し、作戦の決断をするのは彼以外にいないのだ。
 何千人という「叛乱軍」の兵士の生命と未来を、彼一人の肩に背負わねばならない。
 サイアリーズが未来の彼に託した責任の重さを改めて痛感し、ファルーシュはもう一度、眉間を指で揉んだ。

COMMENT

(初:08.05.10)