素晴らしく晴れ渡った夕日を眺めながら、シュラは二人の護衛、ニフサーラとシャルミシタを引き連れて、太陽宮を辞去した。
「シュラ様」
ソルファレナの郊外へと続く長い長い桟橋を歩きながら、シャルミシタがシュラの背中に声をかける。
シャルミシタはシュラの護衛であるのと同時に、幼馴染でもある。
体術や腕力ではニフサーラにはかなわないが、誰よりもシュラと付き合いが長く、彼の性格や思考も深く理解していたこともあり、これ以上の護衛役は存在しないであろう。
そういう意味では、ファルーシュ王子の護衛を勤めるリオンと共通点がある。
「なんだい、シャルミシタ?」
真紅の夕日に溶け込むような真紅の衣装をたなびかせて、シュラが首を傾ける。
「シュラ様は先ほどの会見において、女王陛下に、ファレナの当面の問題についてご指摘されましたわね」
「まあね」
「ファレナの問題点とは、いったい何なのです?」
「驚いたな」
シュラはくすりと意地悪げな笑みを浮かべた。
まるでいたずら少年のようなその笑顔は、シュラの幼い頃の面影を微妙に残しており、彼が一国の大権を担う存在であることを、一瞬とはいえシャルミシタに忘れさせる。
「君が
「あら、そうでしょうか?」
シャルミシタはとぼけてみせたが、確かに珍しいことであることは、自身も理解している。
ただ、シャルミシタは、政治的な話に興味を持たないわけではない。
普段は自身の役割をシュラの護衛、という方面のみに意図的に限定しているため、その範囲を超えることはしないように心がけているだけである。
政治的な行動に心血を注がなければならないシュラの邪魔をしないように、それだけを心がけている。
だが、アーメスの大使としてソルファレナに駐留するようになって以降、彼女の役割が徐々に変化しつつある。
いかにシュラが優れた軍人であり、優れた官僚であるとはいっても、政治と軍事の両方にまたがる膨大な量の仕事を彼一人でこなすのはさすがに不可能である。
それを補佐する秘書役が必要となってくるのだが、その役が、どうやら、シュラのことを誰よりも理解しているシャルミシタのもとに回ってきたようであった。
それで、最近はちょこちょこと、シュラの世話を焼く機会が増えている。
この質問も、後にシュラの重荷になるものならば、今から手伝えることがあるかもしれない、という生真面目なシャルミシタの責任感からきたものだ。
シュラは偉大な政治家ではあるが、なんといってもここは、つい先日まで最大の敵であった国の首都である。
現在は友好的関係にあるが、いつどのようなトラブルが彼を襲うとも限らない。
公私の両面で、いかなる状況からもシュラを護るのが、シャルミシタが己に課した役割であった。
「ここでは危ないな、誰が聞いているか分からない。
その話は大使館に帰ってからにしよう」
シュラは話を濁したが、それでもシャルミシタには笑顔を向けた。
「もっとも、これはファレナ王家が解決すべき問題で、僕たちが悩まなければならないことではないんだけどね。
それに、王家にはファルーシュ王子がいる。
周囲が思っている以上に、彼は傑物だよ。彼ならば、必ず上手い形で解決するだろう」
王子の頼もしい姿を想起したのか、シュラはまた微笑んだ。
普段は人選眼に厳しいシュラも、ファルーシュ王子については、つねに手放しで賞賛した。これは、殆ど異例といっていいことだ。
それはシャルミシタにも、なんとなく理解できる。
現在の王子の人気は、一時的なものには終わるまい。現在から将来にかけて、彼の才能と実績は多いに充実し、彼に率いられたファレナ女王国は、内乱の傷を早期に回復して、再び大国としての地位を確立することだろう。
(だけど……)
ファルーシュが偉大な存在であればこそ、シャルミシタは彼を警戒するのだ。
ファルーシュとシュラは、兄弟のように親密な関係であるが、それがいつまでも続くとは限らぬ。
このファレナの首都で、もしも二人の関係にひびが入ったしまった場合、ファルーシュがその高い能力でシュラをどのような手段で追い詰めてくるのか、シャルミシタには想像ができない。
王族や貴族が、真に完璧な存在である必要は無い。
全くの馬鹿でも困るが、完璧であるよりかは、むしろどこかが欠けていたほうが、本人にとって幸福であろう。
少なくとも軍人としては完璧に近い存在となりえたファルーシュとシュラ。
ダイヤモンドを砕くものは、ダイヤモンド以外にはない。
一方のダイヤモンドを護る立場のシャルミシタとしては、もう一方のダイヤモンドの一挙手一投足から目を離すわけにはいかないのだった。
一方の当事者は、それを他国の問題として舌下に語ればすんだが、もう一方の当事者としては、それを茶のみ話で済ませるわけにはいかなかった。
夕方にまで及んだ昼食会を終え、リムスレーア女王とファルーシュ王子は、謁見の間の奥に存在する女王の私室に場を移していた。
この部屋には、基本的に王族と女王の世話役以外の入室を許されず、二人の護衛である女王騎士、ミアキスとリオンも、扉の前で門番たるを余儀なくされている。
女王と兄王子は、女王の執務机を挟んでブレーンストーミングを続けている。
テーブルの上には最高級の紅茶の湯気がたゆたっていたが、それを心底楽しむには、話題は剣呑であった。
「それで兄上、シュラが指摘した問題点とは、いったいなんなのじゃ?」
リムスレーアはズバリと切り込む。
女王はまだ10歳でしかないが、その才覚たるや一般の童女とは比較にならない。
名君と言われつつも夭逝を強制された母帝アルシュタートの天才を、間違いなく彼女は受け継いでおり、あと五年もすれば、名君として歴史に名を残す存在となろう。
それまでは、兄や議会のサポートが必要とされるだろうが、五年という仮の期間が短くなることはあっても、長くなることは無いだろう。
ファルーシュは真剣で一途な妹の視線を受け止める。
兄とはいえ、臣下たちの前では、ファルーシュは女王騎士長、つまり女王に忠誠を誓う臣下の筆頭という立場に過ぎない。
公式の場では主従の関係を貫き通しているぶん、プライベートでのリムの兄への甘え方は尋常ではない。
それは、ゴドウィンが起こした内乱の中で、兄と引き離されていた期間の反動、ということもあるだろうが、例えば、
「わらわは兄上と結婚するのじゃ!」
などと、ごく真剣な顔で語る女王陛下の言葉には、重臣たちは狼狽するばかりであった。
それでも、真面目に語るべきときはきちんとわきまえており、そんな時は兄も真剣に対応する。
生まれたときから女王となるべく育てられたリムスレーアは、為政者としての枠をよく理解している。
さて、ファルーシュは紅茶で咽喉を潤してから、リムに応えた。
「大きな問題点は三つだ。
まず、内乱で大きく数を減らしてしまった女王国軍の補充だが、これが一番難しい。
ゴドウィンが行った無理な徴兵の影響で、国民は王室への支持はあっても、軍拡への支持はしないだろう。
志願兵を募ってはいるが、集まりは芳しくないな。
内乱以前のレベルまで数を戻すには、時間がかかるよ」
「国外からの脅威に対しては、心もとないと言うことか。
兄上は外国の情勢にも詳しいであろう。
いま外国から攻められたら、我らはファレナを護りきれるのか」
「北の群島諸国連合とは、好意的な関係が続いているから心配は無い。
アーメスが表面上だけでも友好国となったことで、東からの侵攻も、当面は無いと見ていい。
南の地方にはルクレティアを潜伏させている。不確定要素も多いが、彼女が上手くやってくれるだろう。
問題は西の果てのハルモニアだ。
こちらからも密偵を放っているが、英雄ヒクサクがどういう方針でいるのか、よくわからない。
ストームフィストにはエセルバルド卿がいるから、簡単に落ちることはあるまいが、万が一のことを考えて、ヴィルヘルム傭兵隊と、竜馬兵団の一部をストームフィストに駐留させている」
「そうか」
リムスレーアは、複雑な表情を浮かべた。
「周囲の全てが味方であるわけではない、というわけじゃな。
ハルモニアもそうじゃが、わらわとしては、アーメスもいまいち信用できんのう。
シュラには悪いが、九年前の戦乱の遺恨を忘れられぬ者も多いと聞く。
わらわは一歳であったから、伝え聞く形でしかことを知らぬが、亡き父上の活躍が無ければ、ファレナは危なかったというし、先年の内乱にも介入してきおったしな。
シュラは殊勝なことを言うておるが、信頼していいものかのう、兄上?」
「完璧な信頼を置くのは、確かに難しいな。
けれども、完全に信頼する必要は無い。要は、敵対さえしてくれなければ、それでいい。
友好条約を交わしてさえおけば、先に裏切ったほうが国政社会の信頼を失うことになる。
ただでさえ周囲から警戒されているアーメスにとって、完全に立場を失墜させることは自殺に等しい。
穏健派のジャラト王にとって、そこまで危険を犯すことはできないだろう」
ふうむ、と頷きながら、リムスレーアは紅茶をすすった。
「嘆かわしい世界じゃな、外交というのも。
わらわは兄上やミアキスを信頼しておるし、兄上がわらわを信頼してくれていることも知っている。
二人がわらわを裏切ることなどありえぬし、考えもせぬ。わらわも二人を裏切らぬ。
信頼関係というものは、そういうものじゃ。子供のわらわでも分かることが、大人たちにはわからぬのか」
リムスレーアのまっすぐな言葉は、彼女に代わって外交を取り仕切っているファルーシュにとっては、耳に痛い。
世界中の人間が隣人を愛することができれば、どのような素晴らしい時間がくることだろう。
しかし、現実にはそういうわけにはいかぬ。
誰しも護らなければならぬものがあり、内に対してそれを強く思えば思うほど、外に張り出した圭角は人を深く傷つけずにはおかぬ。
その最も愚かな例が、この国対国の関係であろう。
それでもないがしろにはできない以上、ファルーシュにしても、
「愚かと分かっていても、人は護らなければならないものがたくさんある。
リムも大きくなればわかる。人はどこかで妥協しないと、人の中で生きていくことはできないのさ」
などと、愚にもつかぬ言葉でごまかすしかないのであった。
「さて、王国軍の充実が第一の問題であることは理解した。では、二つ目の問題は?」
紅茶の無くなってしまった自分のティーカップと、まだ豊かな中身を誇る兄のティーカップを恨めしそうに順に眺めながら、それでも侍女を呼ぶことは後回しにし、リムスレーアは兄に問う。
ファルーシュは苦笑に近い表情を閃かせかけたが、それも未遂で終わった。
「第二の問題、というか、これは軍事と並んで第一の問題にすべきことだが」
「うむ」
自然とリムスレーアの背筋が伸びる。この女王は、根が真面目なのであった。
「先年の内乱では、国土の多くが荒れた。
国民の皆は頑張ってくれているが、まだまだ全てが復旧しているとは言いがたい。
ことに、道が悪い山間部や、過疎が進んでいる奥地は、殆どが手付かずに近い状況になっているのが現状だ。
それにあわせて、奥地から仕事の多い一部の都市圏に人が流出し、多少の問題が出てきている。
河川に頼らない交通網を全土に充実させる、という将来的な目標のためにも、国土の人口密度に穴を開けることは避けたい。
なんとか、都市部にあふれ出た人たちを、故郷に戻す手立てを考えなくてはいけない」
「それは母上も悩んでおられたのう。
人口が一地域に密集すると、どうしても工業や産物が偏って、国内で自給できる食料のバランスに問題が生じてしまう、とな。
じゃが兄上、正直に言うと、わらわはまだまだ国勢には疎い。勉強が足りぬから、この問題はよく分からぬ。
一朝一夕に解決できることではない、ということくらいは分かるが、どうすればよいか」
兄上ならば解決できるであろう、という願望を多分に視線に乗せて、リムスレーアはファルーシュを見たが、なにぶんにも全能神ではないファルーシュとしては、
「リムはよく勉強しているさ」
と、聡明な妹の頭を撫でてごまかしておいて、テーブルの上にファレナの地図を広げて意見を述べた。
「まずは、ファレナの国力がどの程度のものなのかを、はっきりと目に見える形でまとめなければならない。
それには、これまでの地理だけを表すものではなく、人口や産業規模を示した【国勢地図】と呼ぶべきものが必要だ」
「ふむ、それを参考にしながら、どこにどの程度の人口を戻すべきか、などを決めるわけじゃな」
「さすがにリムは理解が早いね」
尊敬する兄に褒められて、リムはうれしそうに胸を張った。
「僕としては、タカムを責任者に抜擢して、専門の研究チームを立ち上げたいと思っているんだけど」
タカムは亡き兄妹の父、先代の女王騎士長フェリドが抜擢した地図作成の専門家である。
どのような複雑な地勢でも絶対に道に迷わない、という特殊な方向感覚を身につけており、ファレナ全土の地図を製作するにあたって多大な貢献を為した。
王都ソルファレナがゴドウィンによるクーデター政権にとってかわられた時は、地図情報を独占したがるゴドウィン家に反抗し、一時的に牢に入れられていたが、ゴドウィンが倒れ、リムスレーアの新政権が樹立されてからは旧職に復帰している。
亡きサイアリーズやファルーシュらと同様、全国を飛び歩いたという意味で、誰よりも国内の情勢には詳しい。
リムスレーアは、兄の提案に一も二もなく賛成した。
「うむ、タカムならば適職であろう。
じゃが、調査に完璧を期すのならば、人間以外の異種族の現状も知っておきたいところじゃな。
これを期に、人間以外の種族とも親交を結ぶことができれば、ファレナの国力も上がるというものじゃが。
兄上に協力したビーバー族などは協力してくれるやも知れぬが、ルナスのエルフ族などはどういう反応を示すかのう」
リムスレーアの提案に魅力的な面も見出しながら、ファルーシュは腕を組んだ。
「凄くいいアイデアだが、実現には時間がかかると思う。
エルフやドワーフは誇り高い種族だし、ビーバー族は大人しいがそれだけに保守的だ。
特に、ドワーフやビーバー族は、先の内乱の中で、人間が原因で被害者が出ているし、調査を要請しても、その結果をどう利用するのか、警戒されるかもしれない。
調査を頼むにしても、もう少し信頼関係を高めてから、かな」
「実現の可能性が、ないわけではないのじゃな」
「もちろんだ。種族間の交流を深めて、リムが成人する頃までには、実現させたいな」
リムスレーアは、小悪魔めいた笑顔を浮かべる。
「わらわが成人する頃、というと、あと10年ほど後のことじゃな。
その頃には既に、わらわは兄上の子供を、二〜三人は産んでおるかのう」
ファルーシュは食道に入れるはずだった紅茶を思い切り器官に流し込んでしまい、苦しむのと咳き込むのと涙を流すのと、三つの行動を同時に行った後、妹をしかりつけた。
「リム! あのな……」
だが、当のリムスレーアはけろっとしたもので、反省のかけらもない。
「わかっておる兄上、冗談じゃ冗談。
いかにわらわが子供とはいえ、本気でそんなことができると信じておるわけではないぞ」
言って、けらけらと元気に笑った。ファルーシュとしては、これほど心臓に悪い冗談もないのだが。
リムスレーアは内乱のストレスから解放されてから、すっかり以前の明るさを取り戻したが、年齢なりのおてんばさも全解放してしまっており、相手をするファルーシュを驚かせたり困らせたりすることがたびたびある。
特に、彼女の護衛をしているミアキスが、面白がって様々なことを幼い女王陛下に吹き込んだりするものだから、相乗効果でファルーシュ単独では抗しきれない時も多かった。
だが、リムスレーアがファルーシュを困らせているのは、周囲の事情にも原因がある。
リムスレーアとしては、なんとかして兄に自分の相手をさせたいのだが、ファルーシュ王子にも女王騎士長としての公務があり、なかなかプライベートな時間がとれないでいる。
リムスレーアにはそれがもどかしくてたまらない。
それに昨今、ファルーシュ王子の周囲に複数の縁談が持ち上がっていることも、リムスレーアの焦りを生んでいる理由の一つでもあった。
ファレナ王家は代々、女性が統治者の地位に立つのが慣習である。
しかし、現在、王家に残されている女性はリムスレーアと、遠くルナスに隠棲している、兄妹にとっては大叔母にあたるハスワールの二名しかいない。
ハスワールは王位継承権を放棄しているため、実質的に現在の女王家には、年上、年下に関わらず、後継者が一人もいない、という異常事態になっているのである。
そこで、解決の矛先はファルーシュ王子に向いた。
リムスレーアが未だ若すぎることを思えば、ファルーシュ王子に早期に女児をもうけていただき、女王が後継者を出産するまでの安心感を得よう、というのであった。
王位継承権の無い女王家の男子は、本来なら外交の道具として、外国に婿入りさせられることが多かったが、まさか救国の英雄たるファルーシュ王子にそのような役割を演じさせるわけにもいかない、という事情も重なっていた。
縁談の相手として、女王の特別補佐官を務め、穏やかな人格と聡明な頭脳で知られるルセリナ・バロウズ嬢や、王子と深い縁のあるラフトフリートからも数名の名前が挙がっていたが、当事者たちはそのことについては一言も触れなかった。
当事者たちがなにも話さぬ以上、リムスレーアとしても一人で大騒ぎするわけにもいかず、結果として悶々たる女王の想いが、すべて王子に降りかかってくる、という次第であった。
王子と女王は、複雑な表情と視線を互いに交わしつつ、新しい紅茶を運ばせるために侍女を招きいれた。
(To be continude ...)
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実に二年半ぶりの「続き」です。
というか、「食侈政談 /1」が連作であることを予想していた人はいるのでしょうか。思いっきり「fin」とか書いてたし。
それ以前に、この作品を覚えている人がいるのかどうだか。
しかも、実は更に続きます。
(初稿:09.07.03)