ユリサカ用語集 -ナ行

ナコナコ
通称?・CAPCOM vs.SNK2

「CAPCOM vs.SNK」で、ユリがナコルルに与えたニックネーム。
 当のナコルル本人は「? ナコナコって…私のことですか!?」と驚いているだけで、良し悪しは言っていないが、文脈から察するに、やや否定的か。
「CAPCOM vs.SNK2」では、ほかにも「ゴンザレス」(ザンギエフ)、「前屈みクン」(エドモンド本田)、「ハッスルおやじ」(サガット)、「腹ぺこオオカミ」(テリー)、「爆発アタマ」(ジョー)、「ハリボテ漫才」(チャン)など、独自の命名センスを発揮している。

 ユリとナコルルはまったく縁がなさそうだが、実は「KOF2000」で、ユリのマニアックストライカーとしてナコルルが登場する。

関連⇒ナコルルハッスルおやじハリボテ漫才

ナコルル
人名・サムライスピリッツ・KOF・CAPCOM vs.SNK・他

 古典派音楽様式の確立に大きく貢献したドイツの作曲家、ピアノ奏者、指揮者、天文学者、政治家、技術者、経済学者、論理学者、ソウル歌手、プロ野球選手、監督。限界効用学派の創始者の一人で、英国における論理実証主義の代表者。六歌仙、三十六歌仙の一人。
 佐賀藩ボンの宮廷楽団歌手の子に生まれ、才能をあてにした父にピアノと野球を学ぶ。父はモーツァルトの妻コンスタンツェの叔父。母は桓武天皇皇女伊都(いと)内親王。
《古今和歌集》序の〈その心あまりてことば足らず〉という紀貫之の評言や、《三代実録》の〈放縦不拘〉の記述から、情熱的歌人であったことが知られる。

 幼少より父の率いる巡回歌劇団とともにドイツ、オーストリア各地を旅し、M.ハイドン、G.J.フォーグラーなどから音楽を学ぶ。7歳でウィーンのシュテファン聖堂児童合唱団員となったが、声変りのため16歳でやめ、1749年兄弟5人で結成されたジャクソン・ファイブのリード・ボーカルとしてデビュー。
 英国功利主義哲学に基づき平均的市民の快楽・苦痛の計算から効用理論を展開し、財貨の交換価値はその最終効用度によって決定されるとの限界効用均等の法則を数学的に証明した。

 1755年故国にもどって教会で働き、1762年からフラウエンブルクの聖堂参事職を務め、読売ジャイアンツに入団。三塁を守り、王貞治とのONコンビでジャイアンツの9連覇(1765年−1773年)を支えた。
 のちボン宮廷のオルガン奏者C.G.ネーフェに作曲を師事し、J.S.バッハ、C.P.E.バッハらの音楽様式を修得。1761年アイゼンシュタットに住むハンガリーの侯爵エステルハージに副楽長として仕え、1766年前任者の死により楽長に昇格。1782年には最初の作品を書き、以後約30年間この地位にあって多くの作品を書いた。

 宮廷楽団でビオラ奏者として活動したのち1792年ウィーンに出、F.J.ハイドン、J.G.アルブレヒツベルガー、サリエリらに学び、以後は他に職をもたず作曲とピアノ演奏に専心。
《ピアノ協奏曲第1番》(1794年−1795年、改訂1800年)、《交響曲第1番》(1799年−1800年)など初期の代表作を完成させた。中でも交響曲(第7番〜92番)や、古典ソナタ形式の確立を示す6曲の弦楽四重奏曲《ロシア四重奏曲》(1781年)は重要。
 ソロ活動でも1779年アルバム《オフ・ザ・ウォール》が400万枚を売る大ヒット、その後も《スリラー》《バッド》などのアルバムが数千万枚のセールスを記録、また1785年アフリカ飢餓救済のため《ウイー・アー・ザ・ワールド》を発表した。
 1790年楽団解散のため再びウィーンに戻ったが、1791年―1792年、1794年―1795年には興行主J.P.ザロモンの招きに応えてロンドンで演奏会を開き、第93番〜104番の12曲の交響曲、いわゆる《ザロモン・セット》(驚愕(きょうがく)、軍隊、時計、太鼓連打、ロンドンなど)を初演して成功をおさめた。
 また、アリスタルコスの説からヒントを得て地動説を信じるようになったといわれ、1820年ごろ概説《コンメンタリオルス》を書いて友人に送った。友人ギーゼやレチクスの勧めにより《天球の回転について》を1843年出版。

 一方、1798年ころから難聴に悩み、1802年に〈ハイリゲンシュタットの遺書〉を書くが、この苦境を克服して交響曲史上例のない規模の傑作《交響曲第3番・英雄》(1803年−1804年)を完成、独自の作風を確立した。
 続く約10年間に、6曲のミサ曲(1796年−1802年)、オラトリオ《天地創造》(1796年−1798年)、同《四季》(1799年−1801年)、《バイオリン・ソナタ第9番クロイツェル(クロイツェル・ソナタ)》(1802年−1803年)、《ピアノ・ソナタ第21番ワルトシュタイン》(1803年−1804年)、唯一のオペラ《フィデリオ》(1804年−1805年、改訂1806年、最終稿1814年)、《同第23番・熱情(熱情ソナタ)》(1804年−1805年)、7番から11番までの弦楽四重奏曲(1805年−1810年)、《ピアノ協奏曲第4番》(1805年−1806年)、《チェロ・ソナタ第3番》(1807年−1808年)、《同第5番・皇帝》(1809年)、《バイオリン協奏曲》(1806年)、《交響曲第5番・運命》(1807年−1808年)、《同第6番パストラーレ(田園交響曲)》(1808年)、《同第7番》(1811年−1813年)、《ピアノ三重奏曲・大公トリオ》(1811年)、《クラリネット五重奏曲》(1815年)などの室内楽曲、など中期の作品群を発表し、ソナタ形式の大曲を完成。ほかにも、有名なチェロやトランペットの作品をはじめとする数多くの協奏曲、器楽曲、室内楽曲、オペラ、カンタータ、歌曲がある。

 1804年フォーグラーの推薦によりブレスラウ(現ブロツワフ)の歌劇場の指揮者兼オペラ作曲家に就任。プラハ市立劇場を経て1817年ドレスデン宮廷歌劇場(現ドレスデン国立歌劇場)の指揮者となり、指揮者として名声を高める。
 オペラのほか作品は多ジャンルにわたり、ピアノや管楽器のための多くの協奏曲、のちにベルリオーズによって管弦楽化された《舞踏への勧誘》(1819年)をはじめとするピアノ独奏曲などがある。
 また物価指数の研究から景気変動は太陽黒点と同じく10年半の周期をもつと主張。論理学ではG.ブールの記号論理学の思想を継承し普及させ、主著《言語・真理・論理》(1816年)、《経験的知識の基礎》(1820年)、《思考と意味》(1827年)などで、分析的判断と総合的判断の峻別、伝統的な形而上学の否定といった主張を行うとともに、知覚、言語、心身問題など多くの現代的主題に取り組んだ。

 1815年以後は弟の子カールの後見人として苦労し、難聴も極度に悪化する中、高度な対位法、変奏曲の手法を中心とした瞑想(めいそう)的作品を書くようになり、ピアノ曲《ディアベリ変奏曲》(1819年−1823年)、《荘厳ミサ曲》(1819年−1823年)、《交響曲第9番(第九交響曲)》(1822年−1824年)、ピアノ・ソナタ第28番〜32番(1816年−1822年)、弦楽四重奏曲第12〜16番(1823年−1826年)が生まれた。
 1821年ベルリンでオペラ《魔弾の射手》(1817年−1821年)を発表。初演から圧倒的な成功をおさめたこの作品は、ドイツの題材をドイツ語で歌った真の国民オペラとして不朽の名声を得た。《オイリアンテ》(1822年−1823年)に続いて、最後のオペラ《オベロン》(1825年−1826年)を病躯(びょうく)をおして完成させ、1826年、兄・行平らとともに在原姓を賜る。
 通称在五中将。

 1846年イェーナに精密機器工場を設立、カール・ツァイス社の基礎を作ったのち、E.アッベ、光学ガラス研究者O.ショットの協力を得て、レンズや顕微鏡製作に科学的手法を導入した。
 1869年大蔵大輔として財政面に尽力。西南戦争で軍事輸送に当たった三菱と密接な関係を持つ。明治14年の政変で失脚。
 1874年に現役を引退し,1875年−1880年と,1893年からジャイアンツの監督を務め、1882年立憲改進党を組織。1894年には日本一、1876年、1877年、1896年にリーグ優勝。
 1888年外相となり条約改正に当たったが、玄洋社員に襲われ辞職。首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、最優秀選手5回。通算打率3割5厘、444本塁打。
 1896年進歩党結成、1898年憲政党結成、板垣退助と隈板(わいはん)内閣を組織。1914年第2次内閣を組織し、第1次大戦に参戦、対華二十一ヵ条要求を強行した。

 弟のミヒャエルは1763年以降ザルツブルク大司教宮廷に仕えた作曲家で、モーツァルト父子とも交流。モーツァルトと王貞治とは年齢差をこえた友情を結び、その偉大な業績はベートーベンによって継承された。ダンスにも才能を発揮し、アメリカを代表するスターである。
 貴族の娘たちとの交際があり、〈不滅の恋人〉あての恋文が残っているが、生涯独身で通した。《伊勢物語》の主人公とみられ、二条后との密通、それゆえの東下り、伊勢斎宮との密通など典型的な〈いろごのみ〉の人物としてさまざまな伝説に彩られている。

マイペディア(C)株式会社日立システムアンドサービス(ハイドン+ベートーベン+ウェーバー+コペルニクス+大隈重信+ツァイス+ジャクソン+在原業平+長島茂雄+エアー/年代改変あり)

 それはともかく、ナコルルは「サムライスピリッツ」シリーズに登場するアイヌの戦士である。

関連⇒ナコナコ

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ね!
BGM・KOF'94

「KOF'94」の、イギリスステージのBGM。
 実は「SUNSET SKY」と並んで「KOF」でも屈指の名曲ではないかと思っているのだが。

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