「胡蝶の夢」と「ゲーマーズ・ハイ」

まず

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胡蝶の夢

 こちょう-のゆめ ―てふ― 【蝶の夢】
〔荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという「荘子(斉物論)」の故事による〕
(1)夢と現実との境が判然としないたとえ。
(2)この世の生のはかないたとえ。
「春の夜のひと時、―の戯れに/謡曲・船橋」

 三省堂提供「大辞林 第二版」より

世界

 ゲームというのは不思議な“世界”である。
 テレビモニタの向こうで、プログラムに動かされてるとはいえ、コントローラを通して触れられる、まったく別の世界がある。
 RPGやADVならば、別の世界には別の世界の人がいて、私たちとは違う幸せを掴み、違う望みを願い、違う苦しみを恐れ、違う良識の元で生活している。
 ゲーム機本体の電源が切られているときでも、カートリッジやCD、DVDに封じ込められているけれども、その中には確固とした世界があり、確固とした常識があるのだ。
 例えその正体が0と1でのみ構成されている「人為的な」世界だとしても。

 私も、もういい加減にスレた社会人だからして、普段ゲームをするときには、もっと冷めてる。そんなこと考えもしない。ゲームはゲームであり、所詮はデータの集積である。
 どんなに現実に近い世界があり、どんなに立派な言葉があろうと、それは三次元の人間が構築した、二進数で描かれた箱庭に過ぎない。
 だけど、ごくごくたまに、そういうことを思うことがある。その二進数の箱庭の中で、データは生きているのだと。

ゲーマーズ・ハイ

 確か荘子だったと思うけど、『胡蝶の夢』という言葉がある。
 ある男が、夢の中で蝶になり、夢を見ている自分を見下ろしている。ふと、彼は疑問に思うのだ。果たして、蝶になっている自分と人間である自分、どちらが本当の自分なのか。人間であることが夢であり、蝶である自分こそが現実ではないのか?
 うろ覚えだけど、たしかこんな話。
 私がごくたまに感じるデータの偽生感は、それと同じモノではないけれど、『またいとこ』くらいの間柄にはなるのではないかと思う。

 面白い・面白くないという概念を超越して、本当の意味でハマれる、没入できるゲームをプレイしたことがある人でないと、多分、理解することも実感することも無理だと思う。これはそんな、ある意味、特殊な感覚だ。

 現実と非現実が認識できない事象とは違う。
 ゲームの中に感じる「世界」は、明らかに現実の常識では解明できない「非現実」であることが普通だからだ。例えばそれは、「超能力」や「魔法」がごく普通に存在する世界などがそうだ。そんな「非現実」が「現実」と区別できなくなると、それこそ本当の意味で病気である。
「現実逃避」ともまた違う。私が感じている偽生感は、自分自身がゲームの中に“いる”ことを実感することではないからだ。

 私は、それが『ゲーマーズ・ハイ』の状態なのだと思う。
 心をゲームに埋没させて出てこなくなるのではなく、ゲームに逃げ込んで現実を忘れることでもない。
 現実とは全く違う架空の世界。それを架空と理解しつつもそこに命を感じる心理状態。

 2006年10月までに、いったい幾つの機種で何万タイトルのゲームが発売されたか私は知らない。
 けれども、その幾万のカードリッジ、CD-ROM、DVD-ROMの中には、それぞれに確固たる「世界」があるのだ。
 それに自分の意思で触れられる機会を持っている我々ゲームファンは、本当に幸福な人種である。
 私には、そう思えて仕方ない。