三省堂提供「大辞林 第二版」より
私も、もういい加減にスレた社会人だからして、普段ゲームをするときには、もっと冷めてる。そんなこと考えもしない。ゲームはゲームであり、所詮はデータの集積である。
どんなに現実に近い世界があり、どんなに立派な言葉があろうと、それは三次元の人間が構築した、二進数で描かれた箱庭に過ぎない。
だけど、ごくごくたまに、そういうことを思うことがある。その二進数の箱庭の中で、データは生きているのだと。
面白い・面白くないという概念を超越して、本当の意味でハマれる、没入できるゲームをプレイしたことがある人でないと、多分、理解することも実感することも無理だと思う。これはそんな、ある意味、特殊な感覚だ。
現実と非現実が認識できない事象とは違う。
ゲームの中に感じる「世界」は、明らかに現実の常識では解明できない「非現実」であることが普通だからだ。例えばそれは、「超能力」や「魔法」がごく普通に存在する世界などがそうだ。そんな「非現実」が「現実」と区別できなくなると、それこそ本当の意味で病気である。
「現実逃避」ともまた違う。私が感じている偽生感は、自分自身がゲームの中に“いる”ことを実感することではないからだ。
私は、それが『ゲーマーズ・ハイ』の状態なのだと思う。
心をゲームに埋没させて出てこなくなるのではなく、ゲームに逃げ込んで現実を忘れることでもない。
現実とは全く違う架空の世界。それを架空と理解しつつもそこに命を感じる心理状態。
2006年10月までに、いったい幾つの機種で何万タイトルのゲームが発売されたか私は知らない。
けれども、その幾万のカードリッジ、CD-ROM、DVD-ROMの中には、それぞれに確固たる「世界」があるのだ。
それに自分の意思で触れられる機会を持っている我々ゲームファンは、本当に幸福な人種である。
私には、そう思えて仕方ない。