感情と言葉と

記憶と絆

 いきなりぶっちゃけるが、私には子供の頃の記憶が無い。
 いや、記憶全部、というわけじゃない。学校にいる時に、同級生達と遊んだことや、修学旅行とかのイベントの記憶は、うっすらとだが残っている。

 私が失っているのは、『家庭』の中での記憶。

 子供の時、家族でなにをしたとか、どこかに旅行に行ったとか、そういう記憶が全くない。
 両親が長い間、ずっと共働きだった、ということもあるだろう。
 長男だった私は、丸一日家にいない親の代わりに、ずっと家で兄弟の世話をしていたが、両親や兄弟の笑顔など、記憶のどこにも残っていない。

 ただ、家族の一人に対して、強い憎悪、もう殺意と言っても良いほど強い憎悪を持っていたことだけは憶えている。
 その人は、人の言うことは全く聞かない。しかし、自分の言いたいことは何も考えずにぽんぽん喋る。本人さえ覚えていない人の過去の失敗をイキナリ話題に乗せて、相手を貶めて精神的に優位に立たないと会話ができない。そんな人だった。

 私は、その人と会話するたびに、反感を覚えていたようだ。でも、所詮は子供。なにを言っても、相手の容赦の無い言葉の攻撃に、ただ傷つくだけだった。
 誰も味方はいなかった。

 私が微かに憶えている家庭の中での記憶というのも、深夜に包丁を持って、夢遊病者みたいに、その人を殺そうと家の中をうろついていたとか、そんなことばかりだ。
 結果として残ったのは、……リストカットの痕だけ。

 私は、その時期に心に負った傷が原因で、今でも自律神経の失調症の後遺症に悩まされる。
 少しでも考えることを止めると、その人の顔が頭に出てきて、気が狂いそうになる。
 就寝時に、たまにいい夢を見ることもあるが、今でも殆どはその人が夢に出てきて、めちゃめちゃになる。
 何もしていないのに、夏でなくても大量の汗をかく。理由を知らない人と話すとネタにはなるが、正直いいことなんて何にも無い(今でも自殺未遂行動がある。未遂というよりは自傷に近いものだが)。

 それは、起きていても寝ていても、逃げ道の無い牢獄でしかない。
 私にとって、友人が掛替えの無いものである反面、今でも家族というものの意味が全く解らない。

 だから、私は小説にのめりこんだ。自分の憧れる家族を書き続けた。それが正しいかなんて解りはしない。ただ、自分が憧れたものだけを書いた。(まぁ、完全に我流だから、腕前のほうは…残念ながら疑問だが(笑))。
 私が「龍虎の拳」のサカザキ兄妹を好きなのも、そんな理由だ。あの強い絆を持つ兄妹に憧れた。
 だから、形を変えながらも、書き続けた。別に、兄のリョウ・サカザキになろうなどと思ったことはないし、ユリ・サカザキに恋心を抱いたわけでもない。そういうのとは、少し違う意味で、私はこの二人を好きになった。
 初代「龍虎の拳」から既に10年以上が経つ。「KOF」と舞台を変え、今でも彼らをゲームに出し続けてくれるSNKプレイモアに、私は頭が上がらない。
(KOFの開発スタッフには、ちょっと複雑なものが混じるが……)。

 私は、言葉によって付けられた傷が、如何に長く、如何に陰惨に心を侵食するか身をもって知っているし、他の人よりもちょっとだけ詳しいつもりでいる。
 それは、身体を一発殴られることよりも、何倍もキツい。

 書きたいことがあるのは解る。熱意が有るのも、非常にいいことだ。
 ただ、その発言・文章を口から出す前に、そしてネットに載せる前に、もう一度読み返してみることも、大切なことだ。
 節度と優しさは、どんな情熱にも勝る。ちょっと語弊はあるかもしれないが、間違いではないと思う。