強さと品格

2007年春場所

 いやぁ、大相撲千秋楽、最後の取り組みと優勝決定戦、朝青龍と白鳳、まさか二人とも立会いで変化するとは思いませんでしたね。場内が静まり返ってましたが、さもありなん、余りにも意外すぎました。
 思ったとおり、解説の親方が「そりゃないよ」みたいなことを言ってましたが、こういう場面に遭遇するたびにあんたら何言ってんの?と思ったりします。

 だって、格闘技だぜ? ルールにある行動の中で、なにをしても勝ちをもぎとろうとする行動の、いったい何が悪いのか?

 いくら様式美に染まりまくっていようが、相撲だってれっきとした格闘技だ。「ウィナー・テイクス・オール」というやつで、横綱だろうが平幕だろうが、負けたら何にもならない。
 どんな格好だろうが、勝利を掴むことこそが、格闘技の目的だろう。それを否定していては、プロレスとまるで同じだ。ただの力強い道化ピエロでしかない。
 熱戦を期待するのはファンの都合でしかなく、勝負の当事者達には当事者の思惑があるはずだ。「頑張りましたけど、負け越しました」では通用しない。その結果として齎されるのは、「陥落」であり「降格」である。
 特に今場所は、開始直前に一部マスコミによる「八百長疑惑」報道に揺れた。協会も力士も、それを必死で払拭しようとする熱い場所だったはずだ。だからこそ、白鳳も朝青龍も、持てる力に策を絡めて勝ちにいった。全力で「勝ち」をもぎとったのだ。
 賜杯を目指す格闘技者として、恥ずべき部分は一ミリもないはずではないか。

 横綱の品格? 笑わせるな! 横綱というのは、最もお行儀の良い関取のことではない。確かに過去、「横綱」の名称が「名誉」でしかなかった時期はそれでよかったかもしれない。だが、時代が変わり、ルールも変わった。
 現在でいう「横綱」とは、どんな状態でも勝利を掴める「最強の関取」のことをいうのだ。「偉大な関取」と書く「大関」という地位の、更に上に存在する、至高の強者なのである。横綱の品格とは、そういう力士のまとう、独特の「強者のオーラ」のことだ。
 そもそも「品格」というものを他者が自分の基準で決め付けようとする外部の増上慢こそ、最大の癌であり、ありうべからざる恥ではないのか。

 様式や格式が全く不要だとは思わない。確かに、それらがあってこその大相撲でもあるだろう。だが、それらに足をとられすぎている一面が、関係者の間にはあるのではないか。
 デーモン小暮閣下の、豊富な知識に基づいた熱い相撲トークひとつ容認できず、口調と外見だけで判断して彼を除こうとするような狭量な「格式」など、百害あって一利なしだ。
 過去の朝青龍の「けたぐり」騒動などを、反吐へどが出るような思いで見ていた身としては、平成19年度の春場所、最後の二番は、まことに面白い勝負だった。

 朝青龍には、是非、今後も横綱審議委員会などという「相撲が好きなだけで偉そうな素人の集団」からチクチクと文句を言われる、憎らしくて強い横綱でいて欲しいと思う。こういう「異質な存在」がトップにいるからこそ、現在の相撲は面白いのだ。

 千秋楽に勝った横綱、そしてなにより、優勝決定戦を制した白鳳には、最大の賛辞を贈りたい。おめでとう!

※ちなみに、現在、横綱は「横綱審議委員会」が昇進の是非を決定し、理事長に昇進を推薦する、というかたちをとっていますが、1789年の第4代横綱・谷風梶之助から1950年の第40代横綱・東富士欽壹までは、吉田司家が唯一の「横綱免許」の家元として、昇進の決定をしていました。
 相撲協会が吉田司家から横綱免許の権利を委譲され、「横綱審議委員会」に横綱の昇進の是非を委託するようになって以降、両者は疎遠になっているようですが、事業の失敗による負債問題などもあり、その関係はほとんど断絶状態だそうです。

(初稿:07/03/26)