何も変わらない一日、全く変化のない一日、というものは存在しない。
もしも毎日がそう感じるようなら、それは自分自身の感性がやや鈍っているのか、体調が思わしくないのか、そのいずれかであろう。
桂木綾音にとって、この三日ほどが、ちょうどそんな感じだった。どうも、しっくりこない。
別に体調が悪いわけではないのだが、どうにも集中力に欠けている。
今日も珍しく授業中にボーっとして、先生に怒られた。先生に怒られること自体が綾音には珍しい。
「どしたの、綾音? 体調でも悪いの?」
と、親友の天野みどりは心配してくれたが、綾音は頭を揉みながら「うーん……」とうなる。
「わかんない、なんか調子出ないんだ。
集中できないっていうか、注意力散漫っていうか……」
「ふーん。ま、誰にだってそんな時はあるけどね。
重傷なら、なにかで思いっきりストレス発散してみるのもいいと思うけど。
綾音ならピアノをメチャクチャに弾いてみるとか?」
「あはは、考えとく」
みどりの乱暴な提案に苦笑しながら、綾音は手を振った。
そのまじめな性格のせいか、綾音の毎日は実に規則正しい。
何事においても規則正しいのはいいことなのだが、たまに、マンネリ感を覚えてしまうこともあるのだ。
風邪と似たようなもので、一日か二日放っておけば過ぎ去ってしまうような感情であるのだが、そのマンネリ感を自分自身で打破するような飛びぬけた独創性や好奇心は、綾音にはない。
たまに、そんな自分が、なんとももどかしく感じることがある。
別に注目を浴びるような大げさなことをするつもりはないが、なにか自分にとって新しい扉を開けてみたいとは、いつも思っていた。
綾音はまだ気付いていないのだ。機会さえあれば、無理に自分でこじ開けなくても、その扉は勝手に開くのだ、ということを。
昼休み、綾音はボーっと窓から外を見つめながら、学食への廊下を歩く。
隣ではみどりが一生懸命なにかを話しているが、綾音の頭には残らず、見事に右から左へと抜けていく。
そして、ため息混じりにうつむいたときに、「それ」が目に入った。
「あら?」
学食へ行く人、学食から教室へ帰る人でごった返す廊下。
その床に小さな落し物があるのを、綾音が気付いた。
気落ちしてうつむいたから、それに気付いた。普段の綾音ならば、気付かなかったに違いない。
「なんだろう?」
思わず、綾音はしゃがみこんでそれを手に取った。
「生徒手帳……。落し物か……」
それは、青空高校の生徒手帳だった。つい手にとって、表紙と裏表紙を交互に眺める。
「落し物なら、職員室へ届けなきゃいけないよね……」
そう思いながらも、なぜか綾音はその生徒手帳がひどく気になった。
普通ならば、食堂のおばちゃんに預けるか、職員室の前にある「落し物ボックス」の中に放り込んでおくだけですむことだ。
綾音が気にすることは何もないはずだし、この生徒手帳にたいして綾音が持つべき責任もないはずである。
だが、なぜか綾音はその手帳がひどく気になった。
「誰がこんなところに落としたんだろう? 名前だけなら、別にいいよね……」
なぜか綾音は大きく深呼吸して、一つ自分に気合を入れると、大切な宝箱の蓋でも開けるような慎重さで、そっとその手帳の表紙を開けた。
「―――――!?」
そこに貼り付けられた男子生徒の写真と名前に、思わず目を疑った。
それは、綾音のよく知っている名前と顔だったのだ。
この男子生徒と直接の面識はない。でもかなり以前から、名前と顔くらいはお互いに知っているだろう、という確信はあった。
綾音は、激しくなる鼓動を落ち着けるために、もうひとつ深呼吸をした。
ここで自分がこれを拾った。それにどんな意味があるのだろう。
綾音は運命論者などではなかったが、現在の自分の状況が状況だからか、その行為に何らかの意味を持たせたかったようである。
いや、それは、
「この人と話せるかもしれない」
という、自分自身も気づききれない願望の、不器用な表れだったかもしれない。
綾音はもう一度呼吸を整え、その写真を見ようと、生徒手帳を抱きしめる。
―――その刹那。
不意に、綾音の肩を誰かがたたいた。
「うわぁああああ!」
心臓が口から飛び出そうなほど驚いて飛び上がった綾音は、思わずつんのめって振り向いた。
思わず生徒手帳をスカートのポケットに押し込んだのは、無意識の行動である。
肩を大きく揺らせて驚愕の残滓に支配されている綾音の視線の先にいたのは、みどりだった。
みどりはみどりで驚いたのか、呆然とした表情で綾音を見つめている。
「み、みどりちゃんかぁ……、脅かさないでよ……」
「え、そんなに突飛なことしたかな、あたし」
ただ肩を叩いただけのみどりは、釈然としない様子で首をかしげる。
「それで、なに?」
聞かれたみどりは正気に戻って、綾音に忠告した。
「あ、いや、そんなとこに突っ立ってたら、学食の行き来の邪魔になるよー、って言いたかったんだけど」
魂が抜け出てしまったままの綾音は、ふと我に返って周囲を見渡す。
なるほど、まるで河の真ん中にある中州がその流れを分けてしまうように、自分が原因で人の流れが不自然になっていた。
あまつさえ、自分に注目が集まっている。
綾音は音が出そうなほどの勢いで顔を赤らめると、
「あああああの、あの、ごめんなさい、ごめんなさいいい!」
と、人ごみを掻き分けて、学食の入り口に立っているみどりの元へと、なんとか辿りついた。
「恥ずかしかった……」
テーブルに着き、苦笑しながら水をあおる綾音を見ながら、みどりは真剣な表情で綾音の額に手を当てた。
「ふーん、熱は無い……か」
「みどりちゃん?」
「うん、ま、誰だって頭のネジがゆるむことはあるよね。
特に綾音みたいなマジメな子は、たまには空気を抜かないといけないのかもしんない」
「みどりちゃん、なんだかすっごく失礼なことを言われたような気がするんだけど」
綾音の抗議もどこ吹く風で、みどりはきつねうどんをずぞぞぞっと吸い込んだ。
ほぼ全校生徒が一様に空腹を満たし、ほぼ全校生徒が一様に睡魔と闘う午後の授業が始まる。
春眠暁を覚えず、などとも言うが、季節は春五月。人間、誰しも欲求には抵抗しがたい。
食欲、性欲、睡眠欲の「三大欲求」のうち、もっとも抗いがたいのは睡眠欲であろう、と、桂木綾音などは思っているが、それを証明するように、親友たる天野みどりは、教科書を壁代わりにして、とうに夢の世界に旅立っている。
授業は現国だ。教師が延々と語る声と、チョークが黒板に文字を刻む音だけが、教室に響いている。
綾音は授業を寝サボりするつもりはなかったが、午前中と変わらず、集中力は途切れ途切れだった。
だが、午前中とは原因が違う。
綾音は昼休憩に学食の前で拾った生徒手帳を、机の影で何度も何度もつつきまわしていた。
内部を詳細に読んでみたい欲求をなんとか押さえ込んで、その持ち主の名前と顔写真、生年月日のページばかりを、記憶するまで読み込んでしまっている。
――――村上諸羽。
それが、この生徒手帳の持ち主の名前だった。
張られた顔写真は、桂木綾音にとっては馴染みのある顔だった。
特に中学時代、綾音はこの顔の持ち主を、ずっと気にし続けていた。
どこの学校でもそうだが、学年に一人二人は、必ず有名人がいる。
それは、どちらかといえば進学校で、特別に強い運動部があるわけでもないこの青空高校でも同様である。
青空高校で現在、飛びぬけて有名なのは、五人の生徒だ。
――女子合気道部の草薙忍(三年)。
――女子陸上部の後藤育美(二年)。
――男子テニス部の柳沢修一(二年)。
――軽音楽部(ピアノ演奏)の桂木綾音(二年)。
――そして、空手部の村上諸羽(二年)。
中学時代から全国レベルで名が知れた草薙、後藤、柳沢。
そして、高校に入ってから突然(と思えるほど急に)、全国大会の常連となった綾音と村上。
いずれも、弱小と言えるクラブの中で、一人だけ飛びぬけ過ぎるほどの実力を持った者たちだった。
この中で、共通点がありそうなのは、共に格闘技である草薙忍と村上諸羽だけのようにも思えるが、実は最も縁が深いのは、柳沢修一、桂木綾音、村上諸羽の三人である。
実は、綾音と村上の二人も、中学時代からかなり名の知れた存在ではあった。
だがそれは、現在のピアノと空手とは、全く異なるジャンルでの話だった。
この二人は中学時代、柳沢修一と同じく、テニスの選手だったのである。
桂木綾音がテニスを始めたのは小学校三年からで、ピアノよりも二年遅かった。
綾音自身はテニスをするつもりなど無かったのだが、母親の、
「綾音、あんたテニスしなさい」
という鶴の一声で、なんだか分からないうちに、そのテニス人生は始まってしまった。
だが何事もやってみないとわからないもので、綾音には確かにテニスの素質が埋蔵されていたのである。
綾音の中学時代、県の学生テニス界には、現在でも語り草になっているほど多くの名物プレイヤーが誕生したが、その中でも特に実力派で有名だったのが、柳沢修一、村上諸羽、桂木綾音の三人だった。
綾音のテニスは、極端なくらいスピードに特化していた。
もともと俊足ではあったが、初速から最高速度に到達するのが圧倒的に速く、その様は「桂木エクスプレス」と称されたほどである。
(もっとも、綾音自信は、そのあだ名で呼ばれて喜んでいたわけではないが)
持ち前のスピードに大人しめな見た目に似合わぬガッツでもって、パワー不足という弱点を補い、どんな球にも食らいついて確実にリターンを返し続け、相手のミスを誘った。
その綾音に対し、圧倒的なパワーとタフさで、ひたすら相手をねじ伏せたのが村上諸羽である。
その速度が時速200kmに達する全国屈指のビッグ・サーバーで、学生離れしたパワーと、長身ゆえのリーチ、スイッチヒッターという強烈な個性に加え、トスが低くコースを予測しにくい独特のサービスは、それだけで一試合勝てる、とまで称された。
細かいテクニックはかろうじて平均いくかいかないか、というレベルだったが、ただ打ち合うだけで相手が吹っ飛ぶという、テニスとは思えぬ試合を展開して観客を興奮させた。
ド派手で分かりやすい試合をするこの二人に比べれば、柳沢修一のテニスは地味だったが、それでも最終的な勝率は、常に二人を上回った。柳沢の最大の特徴は、なんといっても凄まじく高いレベルで安定した「基礎技術」だ。
彼のテニスには、綾音のスピードも諸羽のパワーも必要が無かった。人が普通にやることを、人よりもハイレベルで普通にこなすことで、どんな試合のどんな状況にも、確実に対応できるのである。
当時の県内の中学テニス界は、後に揃って青空高校に進学したこの三人が引っ張っていたといっても、過言ではない。
綾音は村上や柳沢と会話を交わしたことは無いが、その噂は耳にタコができるくらい良く聞いていたし、その試合を目の前で見たこともある。
そして、この三人が纏められる際、綾音と比較されたのは、決まって村上諸羽だった。
スピードやパワーにまかせた派手な試合をする分、柳沢よりもセンスで勝っている、と思われていたからだ。
もちろん、そんな単純な比較が簡単に成立するはずが無いが、そういう話を聞き始めてから、綾音は村上諸羽という同級生の男子プレイヤーに興味を持ち始めていた。
とはいえ、同じ県内でも通う中学は違うので、直接的な接触は殆ど無かったし、結局、中学時代に会話を交わす機会も無かった。
ただ、彼の試合や取材記事は、機会があれば必ずチェックした。
自分がテニスとピアノという、つながりの無い二足のわらじを履いているのと同じように、村上も、テニスと空手、というメチャクチャな二足を履いている、という小さな記事を読み、急に親近感が増した。
互いに、今はテニスのほうに重きを置いていること。二人ともテニスは母親に無理やり始めさせられたこと。高校に入ってもテニスを続けていくかどうかは迷っていること……。
共通点の多さが、まるで他人とは思えなかったのである。
いつの間にか、彼の試合を見ながら一喜一憂している自分がいることに、綾音は気付いていた。
結局この三人は、同じ高校に進んだものの、その進む道は分かれた。
テニスの道に残ったのは柳沢だけで、綾音はピアノの道に、村上は空手の道に、それぞれ「戻って」いった。
柳沢は、村上がテニスをやめる、と聞いたとき、まじめな彼にしては珍しく荒れたらしい。
仕方は無いだろう。最大のライバルだと思っていた、自分と並ぶ実力者が、急に目の前から消えてしまったのだから。
結局、綾音の村上への想いは、憧憬のまま、その歩みを止めてしまっていた。
つい、さっきまでは。
綾音が彼の生徒手帳を拾ったことで、何かが動くかもしれない。
彼の顔写真を目にしたときの驚きと胸の高鳴り。
村上諸羽という名前が、未だに自分にとって特別なものであった、ということに、綾音自身が驚きを隠せずにいた。
「村上君、か。返さなくちゃいけないよね、これは……」
たったそれだけの決意に、全ての動員しているしている自分がいる。
それは、初出場で準優勝に輝いたピアノの全国選手権のとき以上の緊張感だった。
(fin)
あーははは、けっこうメチャクチャ書いてますね(^^;;)。
(09.07.02)