時刻は午後二時を少し回っていた。そこは、チャイナ・タウンの大通りに面した一等地に建つ定食屋。入り口の近くの席に、大柄な逞しい男が、どっしりと身体を沈殿させて、昼間から不機嫌そうに酒をあおっている。
まだ五十代だというのに、男の髪には白髪が混じり、これまでの半生を刻む顔の皺は、幾分、同年代よりも深かった。
いかに平日とはいえ、普段ならばまだ昼食目的の客で賑わっているはずの時間帯である。しかしこの日は、この男の不機嫌なオーラに当てられてしまったのか、客足は遠い。
見かねたオーナーは、今日の売り上げは兎も角、この男だけでもどうにかすまいと、男に声をかけた。
「タクマよ。なにが不機嫌なのか知らぬが、飲むなら奥で飲め。お主の背中に慄いて、客も寄らぬわ」
声をかけた男に向き直って、その客−タクマ・サカザキ−は、らしくもなく毒づいた。
「ふん、別にわしに当てられずとも、元より客なぞ寄りもすまいに」
しかし、オーナーの言にも一理あると踏んだのだろう、毒づきながらも、奥に入っていくオーナー−リー・ガクスウ−の背中を追って、彼も立ち上がった。
現在の極限流の現場責任者であるリョウ・サカザキが倒れた、というニュースがサウスタウンの情報網を駆け巡ったのは、ついぞ先日のことである。いつもどおり弟子達の練習を見ている最中、突然、彼は意識を失って倒れたのだ。
大騒ぎとなった道場をまとめたのは、ロバート・ガルシアである。彼は、兄に抱きついて会話も出来ないほど取り乱したユリを宥め、救急車を呼び、弟子達を落ち着かせて帰らせ、道場を閉めると、自分も救急車を追いかけて病院に駆けつけた。
幸いにもリョウの命に別状はなく、普段からの疲労がたたっただけのことらしい。考えてみれば、十年以上もほとんど休み無く働き続けているのだから、いつかはこうなってもおかしくなかったのだが、誰をも驚かせるニュースには違いなかった。
この報は当然、修行の山篭りをしていた父・タクマの元にも齎され、彼は即日山を下り、息子の下に駆けつけた。…まではよかったのだが。
病院に駆けつけたとき、意外なことに、リョウの病室の前の廊下で待っていたロバート・ガルシアに止められたのである。
ロバートは言った。
「師匠、今は堪忍してやってください。今は師匠をリョウに会わすなと、ユリちゃんに止められてますのや」
「なにを馬鹿な。親が子供に会うのに、なんの遠慮がいろうか。いいから、そこをどけ、ロバート」
幾分、気分を害した鼻息でロバートを押しのけると、タクマはリョウの病室の扉を開き、ずかずかと中に押し入った。そこには、やややつれたような表情でベッドに上半身を起こしたリョウと、脇の椅子に座って付き添うユリがいた。
「親父…」「お父さん…」
二人は驚いたように呟く。ユリは、彼を少しだけ非難するような視線をロバートに向け、タクマの後ろに立っていたロバートも、恋人の希望に沿えなかったことを視線で謝した。
タクマは、視界にリョウを入れていた。もちろん、彼は長男を慰労するつもりで、ここまで来たのであり、その言葉も用意してあったはずなのに。実際にリョウを見た彼の思考は、彼の長男を、息子である前に、自分が起こした極限流空手の次代を託した男だと判断してしまったようだった。
そして、その思考は、用意していた言葉をすら押しのけ、タクマを発言たらしめた。
「情けない!」
と。
わしは、極限流をそんなひ弱な男にまかせた覚えはない――――。
そう説教がましく言葉を続けようとした、次の瞬間。
彼は、殴られた。
彼の顔面を、他の誰ならぬユリが―彼の娘が、強かに殴りつけたのである。
「な…」
一瞬、思考と言葉を混乱させて彼がユリを見たとき、彼の娘は、大粒の涙を浮かべていた。そして、はっきりと敵意と解る視線を、自分の父親にむけていたのだ。
タクマは、次の言葉を失った。
ユリは、普段の彼女からは信じられないような低い声で、言った。
「そんなに極限流が大事なら、一人でやってればいいじゃない。お父さんにとっては、お兄ちゃんも私も、子供なんかじゃないんでしょう。弟子でしかないんでしょう?」
そして、ぼろぼろと涙を流しながら、言葉を続けた。
「もう、これ以上……あたしから大切なものを奪わないでよ――」
娘のその言葉は、タクマの肺腑を直撃した。どんな拳撃にもひるまぬ彼の身体は、間違いなく、一歩後ずさった。次に口を開いたのは、リョウだった。
「…親父、
ユリは、親父の娘であるのと同時に、俺にとっても娘みたいなもんだ」
ユリの背中からタクマの顔へと、その視線を移す。やや頬骨が浮いていたが、それでも瞳の奥に宿る静かな怒りは、充分にタクマを圧した。
「こいつをこれ以上泣かせるなら…。例え親父でも、どんな理由があろうと…ぶっ飛ばすぜ」
ユリもロバートも、タクマがリョウと顔を合わせたら、こうなるだろうということを、予想していたのだ。理解していなかったのは、誰でもない、タクマだけだった。
結局、タクマはそれ以上何も言えず、リョウの病室を後にした。
あの場にいたのは、ユリにとっての二人の父親だった。しかし、片方は娘を泣かせ、片方は倒れるような体調で尚、娘を庇った。どちらが父親と呼ぶに
相応しいか、判断の余地も無かった。
あの後の重苦しい沈黙が彼の身体を引きずっているかのように、彼の歩は重かった。
「ほう、そのような事がな…」
リー・ガクスウは、酒成分を多量に含んだタクマの言葉を聞きながら、一つ頷いた。
定食屋の奥の部屋。普段は宴会用に使っているのか、広いその部屋で木製の円卓を囲み、タクマとガクスウは小さな猪口で中国酒を酌み交わしている。
二人は、すでに付き合いが三十年になろうかという、古い友人である。タクマが未だ二十代のおり、既に齢六十を越していたガクスウと文字通りの死闘を演じ、以来、家族ぐるみの付き合いだった。
既にタクマもガクスウも後進に前線を委ねた身分である。今は、タクマが一格闘家、ガクスウは一実業家でしかない。もっとも、ガクスウはすでに九十三歳…実業家としても、生ける伝説になりつつあるが。
「大事なものを奪うな…、これ以上こいつを泣かせるな…か。よもや、自分の子供から…言われようとはな」
タクマは、ユリの言葉によって穿たれた心の穴を埋めるように、噛み締めながら酒をあおる。
無論、それがユリの本心でないことは解っている。リョウに対して心無い言葉を吐いてしまった父に対して、思わず出てしまった言葉なのだろう。
だが、その言葉を否定するには、タクマは心当たりがありすぎた。
妻・ロネットの死も、子供達の幼い頃の苦労も、彼が直接的な原因でないにしろ、源流にあるのは彼が生み出した極限流空手である。そして、倒れたリョウの疲労の原因も、そうだった。動転したユリの心の中で、それらが一直線に結びつき、思わず飛び出した言葉なのだ。
タクマが本当にショックだったのは、言葉そのものではない。その奥にある、ユリの心象である。
あの明るい娘でさえ、心の奥底に、僅かながらも『全てを奪った原因は父にある』という思いを沈殿させている。そのことが、何より彼を参らせた。段々と垂れていく心の
首を否定するかのように、タクマは勢いよく、頭を上げて再び酒をあおった。
「ガクスウよ…『父』とは、なんであろうな」
「うむ?」
突然の問いかけに、ガクスウが思わず視線をタクマに向ける。
「わしは、自分の父を知らぬ。母も知らぬ。故に、家族というものが解らぬ」
「戦争…か」
「そうだ。あの忌まわしき戦争が、わしの両親を奪い、家を焼いた。幼き身で食い生き延びるための経験が、極限流の原型となった」
一旦話を切り、タクマは酒を飲んだ。彼が自分の昔話をするのは、三十年の付き合いで初めてであったから、ガクスウは口を挟まず、それを聞いた。
「ここだけの話、わしは子供を持つ気などなかった。だが、妻と出会い、人を愛することを教えられた。今でもわしは、それだけのことでもロネットに頭が上がらぬよ」
タクマは不安を目尻に湛えたまま瞼を閉じ、口の端で微笑んだ。それは、
幾許かの自虐を含んだ微笑だった。
彼らしくない、とガクスウは思った。かつて誰の前でも堂々たる威風を放ち、慣れ親しんだ友の前でも、このような顔を見せる男ではなかった。
信じがたいことだが、タクマは弱気になっているのだった。それを悟り、ガクスウは注意深く、彼の言葉に耳を傾ける。
「わしは、子供に自分と同じ労苦を厭わせたくなかった。ただそれだけを願い、わが身を鍛え、リョウを鍛えた。わしなりに子供を愛した…つもりだった。
だが、今のわしのザマはどうだ。娘には泣かれ殴られ、息子からは悟らされ…。どちらがどういう立場なのか、全く解らぬ…」
そこで、タクマは語るのを止めた。思い出したくないようだった。
ガクスウには解る。リョウが幼き日にした苦労は、タクマが経験し、せめて子供には厭わせたくないと願った労苦そのままなのだ。自分が子供達のためにとしてきたことが、すべて子供達の苦労に繋がっていたと、はっきりと悟ってしまった時、父親にとってこれほど苦痛なことは無い。家族の責任を負う父親にとって、家族にかける労苦は、どのような言い訳でも逃れることは出来ない。
だが、タクマはその経験上、『家族』というものを学ぶ場がなかった。全て手探りで、自分で構築していかねばならなかった。その中で、彼が心血を注いで生み出した極限流空手が彼の手綱になってしまったことは、致し方ないことではあるのだ。
その点から言えば、リョウを十年間育てたタクマよりも、ユリを十年間育てたリョウの方が、遥かに『父親』として完成されている。ガクスウは、そうとすら思う。タクマは、リョウに極限流空手をもってしか相対せなかった。しかし、リョウは少なくともユリに、極限流空手以外のことを教えることができた。それが、彼自身の経験によって得た人生訓なのか、誰かから学んだことなのかは解らない。しかし、一つの事実として、それはタクマの前に横たわっている。
ガクスウは思っている。そして恐らく、タクマ自身も解っている。
タクマは誰に対しても、例え相手が家族であろうと、常に最強の【格闘家】であった。しかし、彼が【父】であったことは、一日も無かったのではないか。
タクマは語るのを止め、ガクスウも語ろうとしない。
しばらく、沈黙がその場を支配した。
<<了>>
06.12.21