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母の面影B
夕方、香澄はユリの部屋のドアの前に立っていた。ユリは自分の部屋にこもったまま、一度も出てきていない。
結局、香澄は考えをまとめられなかった。まとめようとしたのだが、どうまとめていいかすらわからなかった。だから、せめてユリと話し合おうと思っていたのだ。
香澄は、ユリの部屋のドアをゆっくりとノックした。
「誰?」
中から、ユリの声がする。声からは、ユリの状況を想像しづらい。
「あ、あの、私です。今、お話、いいですか?」
「香澄!?」
勢いよくドアが開いた。
ユリは慌てた様子ではあったが、表情自体は普段のユリに戻っている。香澄は少し安心したが、それでもユリの目の下にうっすらとくまができているのを見て、いたたまれない気持ちになってしまった。泣いていたのだろうか。
「どうしたの香澄、そんな切羽詰った顔して……」
「あの、朝はすいませんでした!」
香澄は、勢いよくお辞儀をする。ユリは何事が起こったのか一瞬理解しかねたが、「朝」と聞いてなんとなくわかった。
ユリは微笑んで息を一つ出した。真面目なこの娘のことだから、悩んでいたのかもしれないと、悟ったのだ。
「色々と考えちゃったんだね」
ユリは香澄の頭を撫でながら、香澄を自分の部屋に招きいれた。
ユリの部屋は、大きなベッドにノートパソコンが乗った机など、家具はすべてベージュの色調で統一されていて、趣味のいい大きな本棚には漫画や小説と並んでたくさんのアルバムが並んでいた。机の上には、ユリがリョウやタクマ、そして友人たちと写った何枚もの写真が、写真立てに入れられて並んでいる。
リョウの部屋に比べれば年齢と性別に見合った内装になっているが、唯一、壁に貼られた大きなジェニー・フィンチ(※)のポスターが異彩を放っていた。
ユリは自分は椅子をまたぎ背もたれの上に腕を組んで座ると、香澄をベッドに腰掛けさせた。そこには一冊のアルバムと、ユリが朝から眺めていたセピア色のかかった写真が置いてある。ユリは三つ編みを解き、ウェーブのかかった長い髪を下ろしていた。
香澄はリョウから話を聞いたことを素直に話した。
「そっか。お兄ちゃんから聞いたんだね」
「はい」
香澄は、頭を下げた。
この部屋に入るのは初めてではないから緊張はしないはずなのだが、今はユリの顔を見るのに少し勇気を必要とした。
「あの、何も知らずに軽はずみに話しちゃって、すいませんでした」
言葉の選び方や態度の表し方などを選択する余裕も知識もまだなく、香澄はストレートに謝る。 しかし、香澄もユリも、格闘家としての腕前はともかく、年齢としてはまだまだ子供に分類される筈なのだ。それを非難するつもりは、ユリには毛頭なかった。
それを受けて、ユリは軽い罪悪感を持ってしまう。自分が思っていた以上に、香澄を悩ませてしまったのかもしれない。何より、香澄に母親の話をせがんだのは、自分だったのに。
ユリは香澄の隣に座りなおすと、香澄の頭をリョウのように撫でた。顔はあまり似ていないが、こういうときにとる行動パターンは、やはり兄妹なのだろうか。
「あたしこそ、子供っぽい態度とっちゃってごめん。年上なのに、香澄を困らせちゃったね」
「そんな……」
香澄は、撫でられながらベッドの上にある写真にやっと気づいた。それを見つめる香澄に、ユリも気づいて、写真を手に取った。
「これが、あたしたちのお母さん。十年前かな」
「綺麗な方、ですね」
写真の女性は、確かに美人だった。よく見ると、なんとなくユリに面影が似ている。
ユリは改めて香澄の母親の話を聞きたがった。香澄は最初は躊躇したが、ユリに乞われるままに話した。母親の性格から家族の日常、強いが困った父親まで。特に父親のことに話が及ぶと、困った父親を持つもの同士、ため息をついて笑いあった。
「香澄、あたしがなんで空手はじめたと思う?」
ユリはベッドから一度腰を上げて、座りなおした。一通り笑いあって、香澄の緊張はだいぶおさまっていた。
「身を守るためだ、とリョウさんは……」
「うん、確かにそれが主な理由なんだけども」
ユリは、ちょっと真剣な面持ちで香澄を見た。
「あたしはもう、自分の大切なものをこれ以上失いたくない。自分の身を含めて、せめて自分の大切なものだけは、自分の手で守りたいの。お兄ちゃんも、お父さんも、ロバートさんも、親友も、道場も」
ユリは一度言葉を切り、香澄から視線をはずした。
「あたしには、確かに欠けたものがあると思う。他の人が言う『両親』っていう言葉は、意味は解ってもどういうものか実感として解らない。『お母さん』っていうのも、どういう存在なのか、知識だけじゃ想像も出来ない。『お父さん』っていうのも、どこかあやふやなんだ。あたしには、『お兄ちゃん』が全てだったから……」
言って、膝の上でぐっと拳を握り締める。
「全部、あたしの手の届かないところで、あたしの知らない人のせいで、失くしちゃったんだ。もう、そんなのはイヤだよ。
あたしはチカラが欲しかった。だから、極限流を身に付けた。お兄ちゃんが傷つかなくて済むチカラ、大事なものを身近に引き入れるチカラ、そして、それを守ることの出来るチカラ……」
言って、ユリは香澄を抱きしめると、自分の胸にぎゅうっと押し付ける。香澄は抵抗しなかった。
「香澄、あんたもね」
香澄はユリの胸に抱かれたまま、目を閉じる。
香澄は、自分がこの強い絆を持つ兄妹に家族として認めてもらえることに、心から喜びを感じた。加えて、自分の母と姉に対して何かと不満を持っていたことを恥じた。その存在があるだけで、自分も幸せの中にいたことに、やっと気づけたのだ。
「ユリさん……」
ちょっと涙ぐんだ声で、香澄は言った。ユリは香澄を離して、彼女の顔を見て微笑んだ。
「香澄、ここに来て泣き虫になっちゃったね」
リョウはリビングで、香澄の母が自分に宛てた手紙を読んでいた。内容的にはユリに宛てられたものと大差はなかったが、無論リョウはそれを知ることもなく、達筆で整然とした言葉に感心しながら読み進めていた。
そのとき、誰かがリョウの背後から肩に腕をまわして抱きついてきた。首を回すと、そこには彼の妹が微笑んでいた。
「ユリ」
「それ、香澄のお母さんから?」
「ああ。もう香澄くんとは仲直りできたのか?」
リョウは便箋を元通りたたみながら、ユリに隣の席を勧める。ユリは素直にそれに従った。
「うん、おかげさまで」
「香澄くんは?」
「また荷物の整理をしに、自分の部屋に戻ってる」
「そうか」
「香澄に、あたしたちの昔のこと話してくれたんだね」
「ああ。必要だと思ったんだが、いらなかったか?」
「ううん。大いに感謝してます」
ユリは大きく頭を下げた。
ユリには昔の記憶は曖昧にしか残っていないし、なにより母親のことを覚えていないのだから、自分の正確な気持ちを香澄に伝えるのは難しかっただろう。いい加減に伝えても、香澄のもやもやした気持ちをかき回すことになるだけなのはわかりきっていたので、兄の心遣いには素直に感謝していたのだった。
「おまえにしては、珍しく素直だな」
「あ、それひどい。あたしはいつも素直だよ」
「そうか? 初めて聞いたぞ」
リョウが笑いながら言った。意地悪く聞こえるかもしれないが、これも不器用な兄なりに和ませようとしているのは、ユリにはわかっていた。
ユリはもう一度リョウの肩に腕をまわして抱きつくと、リョウの頬にキスをした。
リョウはユリを抱き寄せて、ゆっくりと彼女の頭を撫でてやる。
色々な不安に恐れる妹を安心させるために、いつもこうして頭を撫でてやっていたのは、たった数年前までの日課だった。
「こうして、撫でてくれるのって、久しぶりだね。やっぱり、落ち着く……」
ユリは兄の首筋にしがみついたまま、その耳元でつぶやいた。
香澄はその晩、実家に連絡を入れた。
普段は日常の報告をするくらいで、その連絡自体も毎日していたわけではないのだが、この晩は久しぶりに母親と、そして姉と話しこんだ。
香澄にとっては、かけがえの無い一日となったのである。
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(06.06.21)
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