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母の面影 前章B
5
「………………」
香澄の目に最初に飛び込んできたのは、クリーム色の天井だった。
「………………?」
ここは、どこだろう?
「………………??」
なんで自分はここにいるのだろう?
「……私は…………」
香澄はゆっくりと起き上がる。
「つっ……!」
背中に痛みが走る。
香澄は、窓際に設置されたベッドに横になっていた。
窓からは、明るい日の光が入ってくる。枕元におかれたデジタル時計は、午前7時をちょっとすぎていることを告げていた。
『そうか、私は………』
段々とはっきりしていく意識の中、香澄はどうにか記憶と状況を整理していく。
ダウンタウンを空腹でさ迷い、大勢の男に襲われたこと。レイプされる直前でリョウ・サカザキに救われたこと。
そこから記憶が飛んでいる。意識を失うか、眠るかしてしまったらしい。
レイプされる直前の恐怖を思い出して、思わず香澄は自分自身を抱きしめて震えてしまっていた。恐怖以外の何者でもない肉体の壁と、直線的な暴力への欲望の眼差し。
性的な暴力による心の爪あとは、時によらずとも、その後の女性の一生をすら左右する、最悪の腫瘍となる。 香澄にとってせめてもの救いだったのは、その犯罪が未遂に終わったことと、強引な腕力で自分を救ってくれた知己の者の顔を、気を失う直前に見ることが出来、大きな安心感を得られたこと。
リョウ・サカザキの顔を思い出して、体の震えは自然に止まっていた。香澄は、なんとか自分を取り戻していた。
『じゃあここは……極限流の……?』
よく自分の姿を見ると、香澄は明るいデザインの、ちょっと大きめのパジャマを着せられていて、腕にはところどころ絆創膏が張ってある。リョウが、応急処置だけでもしてくれたのだろうか。
部屋は、大きなクローゼットがあるものの、荷物はあまりなく、こざっぱりとしている。
香澄はなんとかベッドから立ち上がる。身体の節々と背中が痛むが、我慢できないほどではない。
とにかくリョウの姿を探して、香澄は部屋を出る。
廊下の先から、なにやら音がするのに気づき、香澄はそのドアの前に立った。
察するに、どうやら炊事の音らしい。
香澄はそっとドアを開けると、そこはダイニング・キッチンのようだ。味噌汁のいい匂いがしている。
キッチンでは、長い黒髪を三つ編みにまとめた、Tシャツとショートパンツ姿の長身の女の子が、なにやらリズムよく動いていた。
その背中を見ただけで、香澄はそれが誰かを理解した。かつてのチーム・メイト、ユリ・サカザキだった。
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「香澄、ほんとに大丈夫? だるいとか、悪寒がするとかない?」
ユリは心配そうにテーブルについた香澄を見ながら、ごはんと味噌汁を三人分並べていく。香澄は首をさすりながら、苦笑して首を横にふった。
ユリは、香澄の姿を見たとたん、持っていたおたまを放り出して彼女に抱きつき、起きたばかりの香澄を再びノック・ダウンさせてしまったのである。
未だ、自分の現状を良く解っていない香澄の鼻をくすぐる味噌汁のいい匂いが、懐かしささえ感じさせて、彼女を安心させてくれる。
香澄は、まず自分がいまどういう状況にあるのか、ユリに色々と尋ねた。
リョウが半裸の香澄を抱えて帰ってきたこと、香澄の身体が細かい傷だらけだったこと、丸二日眠りっぱなしだったこと、ここが正真正銘、ユリたちの家であること。
ついでに、リョウが起きない香澄を心配して、知り合いの医者を呼んで診察させたが、痕に残るような怪我も障害もないと聞いて安心したことなど、ユリは正直に話してくれた。
「あの…、どうもありがとうございました。なんてお礼を言ったらいいか…」
と、香澄がすまなそうに頭を下げたが、ユリは、
「いいっていいって、友達でしょうに。それに、礼ならお兄ちゃんに言ってあげてよ。助けた本人はあの人だからね」
と、笑いながら手を振った。
そのリョウ本人は、階下の道場を開ける準備をしているらしい。新聞をとってくるついでにやってしまうのが、リョウの毎朝の日課だそうだった。
「ったく、毎朝遅いんだから。折角のごはんが冷めちゃうよ」
椅子に腰掛けたユリがぶつくさ言いながらテーブルの上で指をタップさせるのを、香澄は微笑ましく見ていた。まだ父が家にいたとき、母が毎朝同じような文句を言っていたっけ。
「そういえば、家事はユリさんがするんですか?」
香澄の突然の質問に、ユリが指の動きを止めて香澄を見遣る。
「なにが『そういえば』なのかわかんないけど、うちはお兄ちゃんと分担してやってるよ。道場の経営だって、手伝ってあげてるんだから、こっちも手を貸してもらわないとね」
からからと彼女らしい笑顔を見せながら、ユリは言った。
格闘の世界では、ユリは自身の波乱に満ちた過去を引きずらない、のーてんきな明るい女の子として有名だが、こういった家庭的な一面があることはあまり知られていない。
実際、香澄の目の前に並んだ和風の朝食―ごはんと味噌汁、(ユリ曰く)自家製の梅干と焼き魚―は、いずれもすごくおいしそうな匂いで、起きたばかりでまだ疲れがとれきっていない香澄の食欲を掻き立ててくれる。
ユリとリョウの兄妹は父が日本人、母がアメリカ人のハーフなのだが、食事や生活習慣は父・タクマが日本のものに拘っていたせいか、朝は和食というのが通例だそうだ。ついでに言えば、この家も普通のアメリカの家庭とは違い、玄関で靴を脱ぐようになっている。
その時、香澄の後ろでドアが開いて、誰かが入ってきた。
「遅ーいっ!」
香澄が振り向く前に、ユリが立ち上がって叫ぶ。確認するまでもない。
振り向くと、袖のないシャツにジーパンという、極めて軽装のリョウがそこにいた。
「お、目が覚めたのか、香澄くん」
リョウは持っていた新聞をテーブルに投げ出すと、イスに座りながら香澄に声をかけた。ちなみに、ユリは完全に無視されている。
香澄はリョウの顔を見て、自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。ヘンな安心感に自分が包まれているのを自覚してしまい、更に彼に助けられたとき、自分が下着姿で彼に抱きついたことをふと思い出したのだ。
「あ、あの…どうも、ありがとうございました…」
ややどもりながら深々と頭を下げる香澄に、リョウは新聞を広げながら顔を上げるように言った。
「気にすることはない。それより、大きな怪我がなくてよかったな。体調は悪くないか?」
「あ…、は、はい、それは大丈夫…です」
うつむいて言いながら、香澄は自分がどうも本調子でないことを理解していた。
やっぱり、ふしだらな女の子だと思われただろうか。
それを見ながら、ユリはどーも不機嫌になる。自分が無視された挙句に、香澄のこの変化だ。
ユリは、暗闇から浮き上がるように現れるハイデルンよろしく、素早く兄の背後に回ると、いきなり裸締めにはいるべく腕を首にまわした。
「!?」
リョウが驚いてそれをはずそうとするが、一瞬早くユリのほうが決めてしまった。
「なんで香澄がそこで恥ずかしがるっチかぁ! お兄ちゃん、やっぱり香澄になにかしたわね。白状しなさい、このハレンチ龍虎乱舞ッ!」
「知るかあああああああっっ!!!!」
朝食前に、本気で兄を締め上げる妹に、それに抵抗する兄。香澄は唖然としながら、その状況を見るしかなかった。
サカザキ家の、いつも通りの騒がしい朝である。
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(06.06.21)
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