クリスはサロメと二人、馬を並べてヒュッテビュッケを後にし、百五十年前の英雄が住むという地に向かっていた。
少なくともシーザーから渡された地図によれば、そこは大変な山奥であり、また恐らくその地図を書いたであろうゲドが大変な「くせ字」であった為、いちいち文字と格闘しつつ地図を「解読」せねばならない有様であった。
クリスはこの訪問において、彼女の部下である他の四騎士をヒュッテビュッケから動かさなかった。ボルスとレオは声高らかに、パーシヴァルとロランは静かに同行を主張したが、クリスはそれらの意見を受け入れなかった。戦いに赴くわけではないのだから、剣呑な者たちは三人も四人もいらぬという理由で説得した。
表立っての理由はその通りだが、無論、裏の事情もある。六騎士が全員ヒュッテビュッケを後にすれば、騎士団の主要メンバーが誰一人として本拠地に居ないという事態になる。それだけは避けたかった。
クリスは他の構成員、シックス・クランのメンバーやゲドの傭兵隊、各地の義勇兵などを疑っているわけではなかったが、彼等も大人であり、異なる立場があれば異なる主張もある以上、ただ友情の一言で信頼するわけにもいかなかった。本拠地での立場を確保しておく為に、何人かは残しておかねばならないのだった。
「なあ、サロメ。ゲド殿やヒューゴが、我々を裏切ることがあると思うか」
あれだけ嫌っていた政治的思考に染まりつつある自分が嫌になったのか、クリスは首を振って、自分の左側に馬を進めるサロメに問うた。
「ゲド殿はきちんとした計算のできる人物ですし、ヒューゴ殿は英気盛んで若さと正義感に溢れ、敵を嗅ぎ分ける嗅覚も一品です。彼の後ろにいるルシア族長やデュパ族長も、政治的センスに優れた方々です。
共通の大敵がいる現在、我々の方から率先して剣を
翻さない限り、彼等が我等を裏切ることはありますまい」
「…そうか、そうだな」
サロメの回答を自分に言い聞かせるように、クリスは胸を撫で下ろす。気持ちを切り替えて、馬の手綱を握った。
ビネ・デル・ゼクセの北にあるヒュッテビュッケよりも更に北、国境に近い地域である。深い森の中を、二人は慎重に馬を進めた。道は人の手によって作られたものから外れ、既に獣道と言ってよかった。陽光が木々に遮られて直接当らない為、鎧特有の暑さは回避できたが、それ以上になにが出てくるかわからぬ緊張感もあり、クリスもサロメも、気を緩めることはない。
人跡未踏と呼べるような周囲の状況で、歩いているのはゼクセンにとっても炎の英雄の軍にとっても重鎮である二人である。万が一がありえない保障は無い。自分のためだけではなく、今や他人のためにも、彼等はその身を守る義務があるのだった。
そうして馬を進めること四時間も経ったであろうか。二人の行く手には背の高い木々と草が生い茂り、もはや道と呼べるものは形も見えなくなっていた。少なくとも二人が来る前にゲドが調査に来ているはずなのだが、その痕跡もまるで無く、ただただ人の手の加わった形跡のない大自然の繁栄が、目前に広がっているのみであった。
クリスもサロメもいい大人であるから、自分と相手を落ち込ませないよう「道に迷った」という絶望的な一言をぎりぎり喉元で抑えていたが、サロメは深刻な表情で押し黙り、クリスはやや苛つきを抑えながら地図をひっくり返したり裏を見たりという無意味な行動を繰り返している。
だが、苛ついている彼等よりも先に、馬の方がまいってしまった。道無き道を延々と歩かされての疲労もあったし、足を痛めさせるわけにもいかなかったら、二人は少しだけ開けたところを見つけると、軽休憩をいれることにしたのだった。
切り株という気の効いたものは無く、クリスは大木に背を預けて溜息をつく。鎧のなにげない金属音が気に障ったのか、クリスは顔をしかめながら何度も背の位置を変えた。そんな彼女の様子を、馬を休めて戻ってきたサロメが目撃した。彼には、わざわざ火薬をつついて自爆する趣味は無かったから、何も言わなかったけれども。
彼が口にしたのは別のことだった。
「クリス様、今の内に食事を済ませておきましょう。空腹では重大な役割も果たせますまい」
言って、彼は自分の荷物から二人分の弁当を取り出す。それはヒュッテビュッケ城で食堂を一手に引き受けるメイミの手がけたものである。カニパンチ丼だったらどうしよう、などとサロメの要らぬ心配をよそに、それは贅を極めたサンドウィッチだった。
「…そうだな」
クリスは溜息をついて感情を構成し直し、とりあえず表情だけでも落ち着けて、サロメからサンドウィッチを受け取った。丁寧に巻かれたラップを剥がし、女性の口にちょうど合う大きさに作られたサンドウィッチを口に運ぶ。
太陽の角度を見るに、時間的には昼頃だから、ちょうど良い時間帯ではあった。最高級の味に満足に舌鼓を打てるような状況ではなかったが。
「すまんな、サロメ。私が不甲斐ないばかりに、不必要な苦労をかける」
「いえ、誰にでも失敗はあります。クリス様は、政治や戦場では判断を誤ったことはございません。それに比べれば、日常での失敗など些細なことです」
すまなそうに目蓋を落としているクリスに、心の底からサロメはそう答えた。
サロメが思うに、クリスという女性は、自分に与えられた責務が大きければ大きいほど、それに合わせて知力と行動力とを充実させる人であった。国の威信をかけた戦争や、騎士団の存続をかけた評議会では、心にいくら思うところあろうとも、理性で自分をしっかりと制御し、正しい判断を素早くすることができた。それは賞賛の一言に尽きるであろう。
だが、気宇が広く大きいが故に、逆に足元がおろそかになることも、またあるのだった。クリスの場合、なぜかそれが私生活に集中している為、被害が他人に及ぶことはあまりなかったけれども。
サロメが思うに、常に他人のために気を張り、命を張っているクリスであるから、プライベートな時間にその責務から開放され、気が抜けてしまうと、思わずしでかしてしまうこともあるのだろう。強力なゴムといえど、常に引っ張られていてはいつかは千切れてしまう。時には、弛ませたほうが良いものなのだ。
サロメとしては、公人として常に完璧な英雄像の下にあったクリスの、つい先日の「深夜に夜着でヒューゴ襲撃」事件を始めとして、最近になって私人として思った以上に人間くさい一面を見せられており、逆に安心した一面があるのも確かだった。
クリスは英雄といえど超越者ではなく、サロメは神に仕えているわけではないのだから。
サロメの珍しい微笑ましい表情を垣間見て、なにかを言いかけたクリスであったが、不意に表情を切り替えた。近くに留めていた馬が、激しく
嘶いたのだ。此処にくるまでには、人間どころか、その痕跡さえ見かけなかった。そんな中で馬がこれだけ鳴くのは、ただ事ではない。野犬か狼でも来たのか、……それとも、二人を狙う暗殺者か。
考えてみれば、ここは暗殺にはうってつけの場所である。まず他の人間が寄り付く場所ではなく、恐らく死体が二つ転がっても気付く者はいまい。また背の高い草や木が多く、クリスの主武器である長剣では極めて戦いにくい。逆に暗殺者の毒のナイフは自由自在に動くであろう。また、仮に暗殺に失敗しても、草木に火をかけてしまえば、燃え盛る山野を脱出してヒュッテビュッケに戻るのはほぼ不可能だ。
他の四騎士を城においてきてしまったことを瞬間的にクリスは後悔したが、今更言っても始まらぬ。クリスは食べ終えたばかりのサンドウィッチの包み紙を足元に放り、
愛剣を構える。
サロメも、一瞬遅れて事態に気付き、自分の武器であるメイスをとりだした。周囲が森林であり、空気が乾いている為、火魔法は使えない。盾魔法で如何にクリスを援護できるか、それが問題であった。いざとなれば、クリスの代わりに命を投げ出さねばなるまい。
どちらにせよ、ここまで来て馬を失うわけにはいかない。二人は足音をできるだけ消し、馬の方に歩く。短時間の嘶きはあったものの、既に暴れているような音はしない。落ち着きを取り戻しているのか、すでに殺されたのか。
クリスとサロメは、いつでもきりかかれるように腰を沈め、周囲を警戒する。
「――――――いた!」
クリスが、馬の側にいる人間に気付いた。すぐにサロメもそれを確認する。
それは、背の高い黒髪の男だった。彼の背中から二人は見ているため、顔は確認できない。すらりとした体格で、剛力の戦士というわけではなさそうであった。暴れていた馬を落ち着かせようとしているのか、その鼻を撫でている。
「
暗殺者という風ではありませんね。馬泥棒でしょうか?」
サロメが言うと、クリスは男を凝視したまま答える。
「いや、そうではあるまい。むしろ暗殺者の方が近いかも知れぬ。あの男の武器を見ろ、只者ではないぞ」
言われて、サロメは男の右手を注視した。左手は馬の鼻に当てられており、右手はサロメから死角になっていて見えなかったのだが、ちらりと視界に入ったそれを見て、サロメも喉を鳴らした。
それは、巨大な双刃の剣であった。恐らく振り回して使うタイプの武器なのであろう、中央にある柄の両端から、禍々しい刃が突き出ている。見た限り、あの男の身長と同じくらいの長さがあるのではないか。まさしく「バケモノ刀」の形容に相応しい剣だった。
「あ…あれは…」
「見たか、サロメ。確かに武器は力のみで扱うものではないが、あの体格であの武器を自由自在に扱うとなると、並の暗殺者などより遥かに厄介な
手錬だぞ」
サロメはクリスを見て、目を疑う。彼女は如何なる心境からか口の端に笑みを浮かべ、額には冷や汗を浮かべていた。剣の達人であるクリスでさえ畏怖する相手なのか。
サロメは現実を理解しなおして、覚悟を決めた。
「ヒュッテビュッケには、生きて戻れぬかもしれんな」
「ご心配なく。私の命に代えても、クリス様には脱出して頂きます」
「その勇気と献身はありがたく受け取っておこう。だが、あの男が見逃してくれるとは限らぬ。この場で死ぬも生き延びるも、恐らくは二人一緒だな」
「……本望です」
二人はお互いに覚悟を確認する。二人は騎士であると同時に戦士である。いつ、いかなる時も死は隣り合わせであった。不意にそれが身近に寄り添ってきているとは言え、狼狽するようなことは無かった。
「こちらを向け、青年よ。貴公は如何なる地の如何なる者か。……我等に何用か」
毅然と立ち上がり、クリスは青年に問いただした。
命の危険が現実的なものであろうと、彼女等は戦士であるのと同時に騎士であった。目の前にいる相手の背中から不意打ちを仕掛けるような精神的な汚泥とは、彼女等は無縁だった。
クリスの声に反応し、巨大な剣を持った青年は二人の方に振り返る。クリスもサロメも、お互いに息を呑んだ。その青年の美しさに。
歳の頃は二十代前半であろうか。背は高く、すらりとした体格に繊細な容姿。黒の髪も、赤と白を基調にしたその衣装もよく整えられ、気品すら感じられる。その手にした巨大な武器が、あまりにもアンバランスであった。
青年のほうでも、二人を量っているようだった。その美しく開かれたブラウンの瞳に力を込め、二人を順に見定めている。敵であると即断しかねているようではあるが、少なくとも味方とも思っていないようだ。二人に向けられたままの刃の切っ先が、それを物語っている。
しばらく、そのまま時が止まった。時間にしてみれば十秒ほどであったろうが、三者にとっては一瞬の永遠であった。
その永遠を先に放棄したのは、青年のほうだった。一つ息を吐くと、剣の先を地面に下げる。その瞳からは、少なくとも敵意は消えていた。
クリスとサロメが意外に思っているうちに、青年は口を開いた。
「ゼクセンのクリス・ライトフェロー騎士団長と、サロメ・ラハス殿ですね。如何な御用かは存じませんが、このような山奥までようこそ。
……僕の名は、キリル――」
<<続く>>
初稿:06.09.02
(あとがき)
すいません、七ヶ月半ぶりの続きです。なにがなんでも時間掛かりすぎました。終わらせる気はちゃんとありますので、もうしわけありません…