その日は、よく晴れたいつもと同じ朝…の、はずだった。
ただ、朝食をとりにいつもどおり食堂にやってきたヴァイスとアイカの前に、ちょっとだけ違う雰囲気が漂っていた。
いつもはクルーで賑わっている時間帯の筈なのに、ヴァイスとアイカ以外の姿が見えない。どこで何をやっているのかわからないがとにかく姿が見えないのだ。
そして、その厨房には、いつもとは逆に、普段は絶対に見ることのできない人の姿があった。正解を先に言ってしまえば、その人物が厨房にいることが、他のクルーたちをこの食堂から遠ざける原因だった。
そこに立っていた人物は、女性である。くすんだ金髪をショートカットにし、背後から見てもそのスタイルの良さはすぐに分かる。彼女の周りには、銀色の鉄の塊に見える謎の生物・キュピルがせわしなく動いている。
その女性は、ファイナだった。
はっきり言って、ファイナは料理が苦手である。いや、料理だけではない。彼女は幼いころから、「銀の大神殿」という、特殊な場所で育ってきた。そこは完全に生活が機械化されたところだったらしく、ファイナはそこで何不自由なく育っていたのだ。…思想的には兎も角。
だから、料理だけでなく、ファイナは裁縫など、細かい手作業は全滅に近い。親友のアイカから縫い物を習ったときは、その白魚のような手を血だらけにしながら頑張ったのだが、流石にアイカに止められたし、料理のほうも、ヴァイス一家一番の料理上手であるポリー先生に何度も弟子入りしているのだが、一向に腕は上がらず、
「どうやったらこうなるのか、そもそも物理的にわからないねぇ…」
と、面倒見のいい筈のポリーにさじを投げさせてしまうほど、その腕前は崩壊していた。
そのファイナが、厨房に立っている。一応、脇にはポリーと、ポリーの一番弟子で、やはり料理上手なウララが控えているのだが、ヴァイスの見るところ、どうやらファイナは作業の殆どを一人でやっているようだ。よほど楽しいのか、足取りはかなり軽い。
ヴァイスとアイカは、はらはらしながらファイナの動きと、お互いの顔を見合っていた。
そもそもなんでこんなことになったのかというと、話は昨晩まで遡る。
アイカとファイナは、二人ともヴァイスの恋人である。普段から3人で行動することが多く、昨晩もそうだった。そこで、アイカがヴァイスのために、夜食を作ったのだ。簡単な料理ではあったが、料理好きを自称するアイカだけあり、味のほうはなかなかのものだった。一緒に食べたファイナは、関心するのと同時に、ヴァイスに褒められるアイカを見て、すっかり羨ましくなってしまったのだ。
『私も、ヴァイスさんに褒められたい!』
という強い願望が、アイカいわく「無謀な」行動に、ファイナを駆り立ててしまったのである。
「本当に大丈夫かい?」
と、隣でポリーが話しかけてくるのだが、ファイナは
「はい、大丈夫です! お任せください!」
と、どこから来るのか分からない自信に満ちた力強い言葉を返す。
しかし、その端から
「ああ、ファイナさん、それ違いますよ」
とウララに教えられれば、
「え? 本当ですか? えい」
と、一朝一夕で使い方を理解しているとは思いがたい量の調味料をぶちこむ。
「ちょっとちょっと、そんなに入れたら辛すぎて食べられないよ」
と、ポリーに注意されて、
「え? そんなはずは…」
と、聞き返そうとした途端にウララが、
「きゃあ、ファイナさん、鍋が、鍋が!」
と混乱気味にファイナの肩と背中を叩きながら、水蒸気だけでなく火まで上げ始めた鍋を必死で取り囲む。
…と、普通の厨房からは聞かれない会話が聞こえてくる。実際、どうやったらそうなるのか、火の消えた煮立つ鍋は紫色の煙を上げている。
はっきり言って、ファイナは優しいし、人当たりもいいし、頭はいいし、煌術を使わせても島で、というか世界でも第一人者である。本当にいい娘なのだ。…包丁さえ握らなければ。
「ねぇ、ちょっとヴァイス、本当に食べるの? 煙が紫だよ、あれ?」
アイカが不安そうな顔で、自分の恋人に話しかける。ヴァイスも不安そうな顔をしているが、それには諦めの要素も色濃い。
自然と、話はひそひそ話になる。
「そりゃ、食べるしかないだろ」
「え〜? なんか怖い…」
「だからってお前、あのファイナの嬉しそうな顔を見て、食べたくないって言えるか?」
そう言われると、アイカも傾首せざるを得ない。普段のファイナは控えめで、アイカと違って常に一歩引いた立場を取る。その彼女が、自分から積極的に行動しているのだ。親友としては、止められるはずもない。
結局、ヴァイスとアイカはもやもやした気持ちのままで、「裁きの時間」を待つこととなった。…鍋の爆発音と、ファイナの悲鳴を背後に聞き(危機)ながら。
そして15分後。
ヴァイスとアイカの目の前に、ファイナの力作が並べられ、ヴァイスのテーブルを挟んだ反対側には、一仕事終えてこれ以上ない程爽やかな表情のファイナが座っていた。
ファイナ作の朝食は、全部で4品…なのだが、残念なことに、色合い他見た目では、その料理名はさっぱりわからない。
「さあ、ヴァイスさん、アイカさん。私の丹精込めた自信作です! どんどん食べてください!」
二人に両手を広げ、最高の笑顔を向けるファイナ。
いや、言われるまでもなく、これは自信作だろう、とヴァイスは思う。特に、紫と灰色が絶妙に混ざった液体(多分スープ)は、その筋の人には高く評価されるに違いない。…ただし、料理としてではなく、前衛的な芸術として、だが。
ヴァイスは、ちらりと隣のアイカを見た。どうやら、アイカも同じことを考えていたらしい。ちらちらとヴァイスの方を見ていた。
が、今更ここまできて後に引くことは出来ない。ヴァイスとアイカは、いざとなったら薬学士のアルキュミスが、強力な薬で生き返らせてくれることを期待して、スプーンを手に取った。
ヴァイスはまず、件の液体(多分スープ)に手を伸ばす。スプーンで一口とるとそれは、その中で少なくともまともな料理にはまずありえない色の小宇宙を形成していた。
ヴァイスは、ごくっとつばを飲んだが、覚悟を決めてスプーンを口に運んだ。こんなに覚悟を決めたのは、銀のギガスであるジェロスに取り込まれたラミレスと闘ったとき以来だった。
自分も空賊である以上、何時如何なるときも覚悟を決める決心はしているし、そのための訓練も受けている。…が、それをこんな形で発揮しなければならないことに、とんでもない無常観を感じる。
口の中に運ばれたスープは、微妙に溶けきっていないなにかの粉が、舌と歯に微妙に気色の悪い感覚を与えてくれ、更に鼻腔を強烈に刺激するとんでもない匂い(臭い)が、ヴァイスとアイカを悶絶させた。味のほうは、覚えていない。感じることを、完全に麻痺した舌が拒否したからである。
「どうですか?」
2人の苦悩を知ってか知らずか、ファイナは爛漫な笑顔で確かめてくる。この優しい娘を、せめて傷つけたくないヴァイスとアイカは、床をのたうちまわって叫びたい衝動を、精神内に必死にとどめ、なんとか笑顔を作り、指で「OK」と合図した。
それを見て、ファイナは更に嬉しそうな顔になる。脇でポリーとウララが
「…船長って仕事も大変だねぇ…」
「いえ、ヴァイスさんだから大変だと思うんですけど…」
などと、心底哀れそうな視線を、恐らく人生最大の試練を受けているヴァイス船長とアイカに向けた。
更に20分後。
生ゴムのような歯触りと、歯磨き粉のような味の(たぶん)から揚げを、死ぬ程咀嚼してようやく飲み込んだヴァイスとアイカは、ようやく終わった死のロードを、空になった皿を見て、実感した。
『じ、地獄から開放された…』
と、アイカは本気で思い、軽く痙攣する身体を突っ伏した。この痙攣も、得体の知れない料理の副作用に違いない。
「ご、ごっごちそうさま……」
どんな敵にも正面から立ち向かった伝説の空賊ヴァイスも、さすがに言葉少なめだ。今は辛くなるだけなので、正面に座るファイナの顔も見ることが出来ない。
しかし、さすがにファイナも、自分の料理を食べていくうちに、段々と崩れ落ちていく二人の変化に気づかぬ筈もなく、少しだけ不安そうな表情になっている。
「あの」
思い切って、聞いてみる。
「?」
「私の料理、美味しくなかったですか?」
軽く痙攣していたヴァイスとアイカの身体が、びくっと一際大きく震えた。
「ななな、何を言っているのかな、ファイナ」
「そそそ、そうそう、美味しかったよ、本当に」
と、ヴァイスとアイカは言うが、顔面を蒼白にしながら言ってもあまり説得力はない。それに、ファイナは一年近くこの二人と付き合ってきて、よく知っているが、ヴァイスもアイカも、嘘をつくのが本当にヘタだ。今回も、気を使ってくれているのは、一目瞭然だった。
その時、背後ではらはらしながら見ていたポリーが、ファイナの背中をたたいた。
「ファイナ、ちょっとこっちに」
「は、はい」
言われて、ファイナはポリーと厨房にやってきた。そして、自分のつくった(たぶん)スープの入った鍋の前に立つ。
「ちょっと不思議に思ったんだけどね。ファイナ、あんた味見したかい?」
「え? あ、そこまでは気が回りませんでしたけど…」
ポリーは「やれやれ」といった感じで、鍋に入っていたおたまを取り上げた。
「ちょっと、口をつけてごらん」
言われて、ファイナはそのおたまの中の液体を、ちょっと指ですくった。そして、眉をしかめてぺろっと舐めてみる。
その瞬間、ファイナの全身をアナザーワールドが襲い掛かった。前後どころが上下の感覚まで失調し、身体はふらついているだけなのに、脳だけがぐるぐると回転しているような、奇妙な感覚。ファイナは、その場にふらふらとへたりこんでしまった。
ただスープを飲んだだけなのに、こうである。ヴァイスもアイカも、身体はファイナよりも頑丈にできているから、これより酷いということはないだろうが、二人は、更に三品食べているのだ。無事であるはずがない。
「どう? 味見の大切さがわかったかい?」
「は〜い〜…」
ポリーに言われて、まだ脳バック転状態のファイナは、よろよろとシンクに手をついてなんとか立ち上がる。
「ヴァイス船長のこと思うのもいいけど、もうちょっと回りに思いを至らしたほうがいいかもねぇ」
「はい、すいません」
やっと立ち直り、立ち上がったファイナは、ポリーの言葉に深く頷いた。
「ま、若いうちに自分の得手不得手を心得るってことは、いいことさ。それに、恋は盲目って言うしね」
「………」
一転、真っ赤になって俯くファイナ。彼女がヴァイス一途だというのは、三日月島では知らぬ者のないほど有名な話なのだが、ファイナ本人はどうやら秘密だと思っていたらしい。
黙って俯いてしまったファイナを微笑ましく見ながら、ポリーは彼女の腰を、ポンッと一つ軽く叩いた。
「ほら、一人で照れてないで、謝らなきゃいけない人がいるんじゃないのかい?」
「あ」
ファイナは気が付いて、ふらふらと厨房を出て行った。
食堂では、ヴァイスとアイカがウララから水をもらい、冷えたお絞りを額に当てていた。宛ら野戦病院の状況である。
「お、ファイナ、なにしてたんだ?」
ヴァイスが起き上がって、駆けてきたファイナに気が付いた。アイカも、こちらを見ている。
ファイナは二人の前に立つと、
「ごめんなさい!」
と、深々と礼をした。
なにを謝っているのかは、さすがにヴァイスにもよくわかったので、それを問うような真似はしなかった。恐らく、厨房で味見でもしたのだろう。
逆に、自分が酷い目にあったばかりだというのに、恋人のこういう姿を見ると、なんとなく気の毒にすらなってくる。ファイナも、よかれと思ってやったことに違いないのだから。
「まぁ、いいさ。ファイナだって頑張ったんだろ?」
「…はい」
「じゃ、次は今度以上に頑張ればいいじゃないか。それだけだよ」
言って、ヴァイスはファイナの肩をぽんぽんと叩く。
「そうそ。できなきゃ出来るまでやればいいんだって」
隣で、ちょっと弱弱しいが、アイカも笑顔でフォローした。
こういう時、ファイナは、自分がこの二人の恋人であり、親友であることを感謝する。たぶん、何事でも失敗の数は自分が一番多いのだが、その度にこの二人は優しく包んでくれるのだ。
「次は、もっと頑張ります!」
と、ファイナは力強く頭を下げ、ヴァイスもアイカも、それを見守った。
…一週間後、更なる惨劇が繰り返されるとも知らずに。
(終わり)