―――――俺は、月を見上げている。
 薄暗い宵に浮かぶ、頼りない、上弦の月を―――――。



―――――私は、月を見上げている。
 薄暗い宵に浮かぶ、しどけない、下弦の月を―――――。



上弦の月

Brother

下弦の月

Sister


 午後9時。突然思い立って、俺は外出した。
 特に目的があるわけじゃなかった。ただ、無性に走りたかった。
 自分でレストアした大型バイクを運転して、俺は高速道路を飛ばした。


 午後9時、ちょっと用事を思い出して、私は外出した。
 そんな急ぎの用事でもなかった。ただ、明日に回す気分にはなれなかった。
 お気に入りのスニーカーを履いて、私はダウンタウンの細い路地を歩いた。

 こんな時間でも、サウスタウンは眠らない。
 高速道路は多くの車に溢れている。それぞれが自己主張をするように、一定の距離を保ちながらも、猛烈なスピードで走っている。
 この街で、この時間に眠っているのは、うらびれたダウンタウンくらいだろう。
 その賑やかさ、静かさ、どちらにしても、俺には忘れられないことがたくさんある。

 こんな時間だから、サウスタウンは眠っている。
 路地にはほとんど人の姿はない。自己主張しているのは、人工的に植えられた街路樹だけだ。それは一定の距離ごとに、大きな枝葉を茂られている。
 この街で、この時間に賑わっているのは、開発が進む繁華街くらいだろう。
 その静かさ、賑やかさ、どちらにしても、私には忘れられないことがたくさんある。
サウスタウン。東海岸を代表する大都市。経済の街。文化の街。
そして―――犯罪の街。
その華やかさの影で、多くの血が流れ、その倍の量の涙を吸い尽くした、闇の歴史。
 バイクを転がしながら、俺はこれからどこに向かおうか考えていた。
 繁華街に出れば、とりあえず時間をつぶせるところはいくらでもある。
 だが、残念ながら、俺はそれほど芳醇な趣味の持ち主ではなかったりする。
 路地裏を歩きながら、私はこれから向かう場所のことを考えていた。
 こんな静かな場所だと、時間をつぶす場所はほとんどない。自然と人間は一箇所に固まってしまう。
 その人の趣味がどうあれ、この近辺で遊ぶという前提ならば、選択肢はほとんど無かったりする。
結局、目的があろうがなかろうが、今、行くべき場所は、一箇所しかないのだった。
 繁華街からダウンタウンに入った場所にある  ダウンタウンから繁華街に入った場所にある
バー「イリュージョン」である。
 テールランプと街灯の光の川の中を、バイクを斜めに倒しながら、俺は乱暴に突っ切っていく。
 口が裂けても安全運転とは言いがたい。ユリに見られでもしたら、また小言を食らいそうだ。

 そうして、また30分ばかり走ったろうか。直線的に走れば半分ほどの時間で着いただろうが、結局、大きく迂回して戻ってくることになってしまった。
 夜の闇に溶け込むような頼りない街灯の光の中を、足元に気をつけながら、私は足早に通り抜けていく。
 どんなに気が急いても、危ないことはしない。お兄ちゃんの心配そうな顔なんか、私はもう見たくないから。

 そうして、30分ばかり歩いたろうか。昼間ならば、大きく迂回してあちこち寄りながら来るから、もっと時間がかかるだろうが、今日は一直線に来たから早く着いた。
既に時刻は午後10時を回っているが、その店にとっては、これからがもっとも忙しい時間帯だろう。
余り大きい店ではないが、ライトはその存在感を示すように、煌々と灯っている。
その「イリュージョン」と小さく書かれた看板の下がったドアを、(俺は/私は)、静かに押した。

「いらっしゃい」

シックな装いで統一された店内の奥、カウンターの向こうから声がした。
新たな客に気づいた若い女マスターが、顔をこちらに向ける。
そのマスター、キングは、客が長年の友人であることに気づいて、

「あんただったのかい」

少し、破願した。


 午後10時、俺は広めの店内のホールを横断し、いつものようにカウンター席についた。


 午後10時、私は広めの店内のホールを横断し、いつものようにカウンター席についた。
 この店もすっかり、パオパオカフェと並んでサウスタウンの隠れた名店となってしまった。
 パオパオカフェはマスターのリチャード・マイヤの方針もあって、つねに血の温度が高い客が集まっている。
 店内に格闘技の試合用のスペースまで用意し、若い格闘家たちが日常生活で発散できないストレスの発散口を提供しているのだ。
 このパオパオカフェから育った若手格闘家は多い。彼らの何割かはそのうち、狭いサウスタウンを飛び出して世界に目を向けるのだろう。
 そしてそのうちの大部分が、世界のレベルに打ちのめされて、涙とともに戻ってくるのだ。


 俺はカウンターに立つキング、その後ろに並べられた、そんなに数は多くはないが店主の目によって選び抜かれた数々の酒、そしてこの時間に訪れている客たちに目を向けた。
「イリュージョン」はパオパオカフェと違って、純粋なバーだ。客層は「パオパオ」とは全く異なり、全体的に大人しい客が多い。
 結婚をまじかに控えたカップルや、仕事帰りの営業マンだろうか、スーツの二人組が静かにジョッキをあおっている。
 店に流れるBGMも全く違う。パオパオのBGMは怒号や歓声、そして大きな笑い声。イリュージョンのBGMはキングが好んで聴くクラシックのピアノ曲やジャズが流れていることが多い。


 私はまずキングさんの集めたお酒の数々に目が行き、この時間にこのお店を訪れる客層が気になってちらりと目がいき、最後に今日も凛々しくカウンターに立つキングさんに目を向けた。
 キングさんは綺麗で、そして凛々しい女性だ。背が高く、常に自分の目的と意思をはっきり持っており、自分の目的の邪魔をする敵、そして自分の仲間を守るためならば、どんな相手も容赦しない。
 それでいて理性的な性格で、無目的に暴れることはない。お人よしと言うわけではないが、冷酷でもない。私の最も尊敬する格闘家の一人だった。
 店に入る客層も、パオパオカフェとは全く違う。お互いの野望をぶつけ合い語り合うのがパオパオ、そしてお互いの希望を語り合い、場合によれば将来を約束するのがイリュージョンだった。
「それで、とりあえずなににする? いつものでいいかい?」


 俺はキングの言葉にうなづいた。キングが笑顔で酒を選び、見事な手際でシェイクしていく。
 俺の前にワイングラスではなくグラスが用意され、その中に透明な液体が注がれていく。
 そして出てきたのは、「ダージリンクーラー」。
 ダージリン(紅茶のリキュール)を元にラズベリーとレモンを加えて甘酸っぱさを出し、ジンジャーエールを加えて爽やかさを演出する。
 作りてによって甘口にも辛口にもなるがアルコール度数は低く、女性にも人気のあるカクテルである。
 俺は酒には強い方だが、決して暴力的な飲み方はしない。キングはそれを知っていて、かつ、帰りにバイクを転がすであろう俺の為に、軽めのものを選んでくれた。
 なお、オレンジ色のカクテルを選んだのは、今でも自分の最強のライバルと認めてくれている俺へのキングなりの心遣いなのだろう。


 私はキングさんの言葉にうなづいた。キングさんが笑顔でお酒を選び、見事な手際でシェイクしていく。
 私の前にゴブレットが用意され、その中にピンク色の液体が注がれていく。
 そして出てきたのは、「プッシー・キャット」。
 オレンジ、レモン、パイナップルの各ジュースをシェイクして、氷入りのゴブレットにそそぐ。そう、「カクテル」とはついているが、とてもトロピカルなノンアルコールカクテルなのだ。
 私はキングさんのお店に来るのは好きだし、舞ちゃんとお酒を飲むのも好きなんだけど、どうも私自身はお酒には極端に弱いらしく、すぐ眠ってしまうのだ。
 そこでキングさんが気を使って作ってくれたのが、このノンアルコールカクテル。この南国風味の爽やかさは、私は大好きだった。
「さて、あんたがうちに来るときはたいがい、理由は決まってる」
キングが意地悪そうな笑顔をして、グラスに口をつけた俺/私を見つめている。
まぁ、恐らくキングの予想通りなので、俺/私も覚悟を決めて口を開いた。


 俺は思わず口を開いた。文字通り飛ぶような強さを身に着けていくユリのこと。
 妙に俺に対抗心を持っていて、「闘え、闘え」とえらくしつこい。まさか自分の妹を本気で殴れるわけもないので、いつも六割くらいの力で相手するのだが、それを「また手加減した!」と怒る。
 そして、最近妙にお局みたいなところが出てきた。うちの道場の定期的道場破りとしてすっかり定着した香澄君やまりん君に対して、時々厳しい態度をとりはじめたんだが、あれはなんなのだろう。
 そういえば最近、急に甘えてくることも増えたな……。
「どうしたものだかなぁ」


 私は思わず口を開いた。文字通り、飛ぶような勢いでお兄ちゃんへの文句が出てくる。
 お兄ちゃんがどれだけ強いか、私がお兄ちゃんに敵わないのは私が一番知っているけど、それで格闘家としてもどこまで近づけているのか試してみたいのに、どうも本気を出してくれない。
 そういえば最近、お兄ちゃんの周囲がどうにも女性が増えてきたことも気になる。道場破り常連の香澄ちゃん、まりんちゃん、私達の幼馴染で最近道場の経理・受付を担当くれているマリアお姉ちゃん、そして「相撲をしませんか?」ととんでもないデートを誘ってくる雛子ちゃん……。
「どうにかしなくっちゃ……」
キングは終始、俺/私の話を興味深そうに聞いている。賭けてもいい。キングは俺/私の話を聞きながら楽しんでいる。
「あんたらのところは平和だね。私の家とは違う意味でね」
グラスを磨きながら、キングは大きな声で笑った。そして、俺/私の目を直視していった。
「でもだからこそ、大事なんだろう?」


「まぁな」
 俺は苦笑してキングの指摘を認めた。


「そりゃぁ、まぁ……」
 私は自分でも分かるほど顔を真っ赤にして呟いた。
時間は午後11時を過ぎた。バー「イリュージョン」は、徐々に客の数を増している。
こうなったら、バーテンダーのキングが俺/私に張り付いているわけもいかなかうなる。
「ほら、今日はもう上がりな。家で大事な家族が待っているんだ。心配させることもなかろうよ」
キングはクールな笑顔で言うと、他の客のオーダーに応じ始めた。
確かに、これ以上の長居はキングの迷惑になるかも知れない。


「じゃあ、またくるよ」
 と俺は料金とその言葉を置き土産に、バー「イリュージョン」を出た。

 空には上弦の月。  俺は、エンジンをふかして帰路についた。
 妹が文句を言ってくるかもしれないが、甘んじて受け入れよう。
 自分でレストアした大型バイクを運転して、俺は高速道路を飛ばした。


「じゃあ、また来ますね」
 と私は料金とその言葉を置き土産に、バー「イリュージョン」を出た。

 空には下弦の月。
 ちょっと遅くなりすぎたかな。またお兄ちゃんに怒られそうだな。
 ま、今日は良いか。甘んじて受け入れよう。
 お気に入りのスニーカーを履いて、私はダウンタウンの細い路地を歩いた。
空には月。二つの月が、二人をつないでいる。

(fin)



COMMENT

 大昔の原稿を引っ張り出して書き加えたもの。もうちょっとシリアスものに仕様かと思いましたが、リハビリがてらこうなりました。これを気に、少しずつまた文相にも手を出していきたいと思っています。 (初稿:06.06.21)
(邂逅:21.04.30)