辺りの空気が肌に刺さる。
吐いた息が白い煙へと変わり、空に溶けていく。
淡く頼りない明かりの中でもそれを確認できるほど低い気温。
冷たい風が横切り、ユリ・サカザキの長い三編みを揺らした。
「さむ……」
手をこすり合わせたり、口に手を当てて吐息で温めながら、ユリは小さく独りごちた。
そんなユリの肩に、手が置かれる。
ふと振り返ってみると、そこには彼女の兄リョウがいた。
リョウは無言で温かい缶コーヒーをすっと差し出してくれる。
「ありがとう」
ユリは素直に礼を言ってそれを受け取ると、しばらく手と顔に缶を当て、冷え切った皮膚を温めてからふたを開け、ゆっくりと熱い液体を喉に流し込んだ。
リョウもユリの隣に立ち、自分の車に背中を預けながら、同じようにコーヒーを嚥下した。
「寒いんなら、車の中で待っていてもいいんだぞ。
時間が来たら教えてやるから」
心配そうに言うリョウに、ユリは努めて笑顔を作って兄を見上げた。
「ん、いいよ。
だいぶ明るくなってきたし、遅くてもあと30分くらいでしょ? どうせだったら、その瞬間を見てみたいしね」
言って最後の一口を飲み干し、未練がましそうに中身のなくなった缶を覗き込む。
この冬、サウスタウンは記録的な寒波に見舞われた。
ここ数年は暖冬だったし、天気予報も比較的例年通りの冬を予想していたから市民は油断していたのだが、いざ冬が来てみれば大方の予想は見事に外れた。
20年ぶりの大雪が到来し、街は一面の雪化粧に覆われた。
サウスタウンはアメリカ東部を代表する大都市だが、だからといって冬を夏に変えられるわけでもなく、市民は凍った道路を転びながら、雪かきに悪戦苦闘した。
折からの原油価格の高騰の煽りを受け、凍死者の数は例年の三倍から四倍になると、不吉な予想されていた。
リョウが総師範代として現場責任者を務め、ユリがそれを補佐する極限流空手一門は、自分たちの道場の周囲で雪と挌闘した後、リョウ自身を含むほぼ全ての門下生を市街に派遣し、ボランティアとして市民の作業を手伝った。
慣れぬ除雪作業に悪戦苦闘していた市民たちは、力作業こそ本望といわんばかりの筋肉と体力を持つカラテマンたちの登場に、ある者は感謝の言葉を述べ、ある者は腰を落として荒れた呼吸を落ち着けた。
そうこうしているうちにも、時間は流れていく。
12月28日、サウスタウン市長が開催したレセプションで、極限流空手による大規模なボランティア活動が賞賛され、表彰を受けた。
リョウが彼には珍しいスーツ姿で表彰式に登場して、周囲を驚かせた。
12月29日、極限流空手道場は年内の全ての行事予定を終え、師範・門下生全員による三本締めで一年を締めくくった。
そして12月31日、一年の最後の一日、大晦日である。
二人の父タクマ・サカザキはこの日、早朝からチャイナタウンに出かけていた。
サウスタウンの表裏に歴然たる力を持つチャイナタウンの長リー・ガクスウは、タクマの30年来の友人である。
ガクスウは既に齢90を越える老人だが、しっかりと長身の背筋も伸び、声の張りもよく、部下や弟子たちを厳しい一喝で震え上がらせる美髯の傑物だ。
だが、この日だけはさすがに箍も緩むのか、40歳も年下のタクマ相手に、年が改まるまで酒を酌み交わすのが欠かせぬ習慣であった。
色々と人間の常識を外れた“超人”同士、話も合うのだろう。
その隙を狙って、というわけでもないが、リョウとユリの兄妹は、年内最後の買い物を連れ添ってゆっくりと済ませ、夜までのんびりと過ごしていた。
12月31日から1月1日に日付が変わると、市内のあちこちで花火が上がり、新年を祝う乾杯の音が響く。
この時間になると、気の早い親しい友人たちから電話やメールが複数届き、その対応に忙殺されるが、それも一時のことだった。
二人にとって“新年”が来るのは、もう少し先のことだった。
ユリとリョウにとっての新年には、欠かせぬ行事がある。
そのために街の興奮も冷めやらぬ1月1日の午前3時から、わざわざ3時間かけて二人は深夜の暗闇の中をドライブしてきたのだった。
かろうじて道路と呼べるほどの舗装がされている道を延々と走ってたどり着いたのは、これも広いだけで特に遊ぶ場所があるわけでもない駐車場だった。
こんな日のこんな時間帯には、人気などない山頂だ。
サウスタウンの周囲にも、観光地化したいくつかの山がある。
そこには、きちんと施設が完備され、年が改まる何時間も前から市民や観光客であふれ、日付が変わると同時に一斉に酒を酌み交わしているはずである。
だが今、二人がいる場所は、小さなジュースの自動販売機と小汚いトイレだけが、細々と存在感を主張している。
そんな寂しい場所だった。
だが、そんな寂れた山頂の駐車場が、リョウとユリにとっては大事な場所だった。
大切な思い出があり、しかもどこよりも日の出が美しく映えるこの場所で、一年の最初の太陽を拝むことが、二人にとってはもっとも大切な行事だったのである。
誰も知ることがない、誰にも知られる必要のない、二人だけの大切な場所なのだ。
午前6時30分。
目前に広がる山嶺から、ほんのりと明るくなってくる。
日の出まではまだ時間があるだろうが、それでも暗闇がゆっくりと晴れていく様は、冷え切った身体と頭脳を活性化してくれる。
つくづく、人間とは光と熱なしで生きてはいけない生物なのである。
リョウは車に体重を預け、ユリは駐車場の木製の手すりに腰をかけたまま、景色に魅入ったようにしばらく無言でいたが、なにか思うところがあったのか、不意にリョウが苦笑した。
なにごとかと、ユリが兄を振り返る。
「しかしまあ……、去年はいつにもまして、色々あったな」
言って、リョウは煙草に火をつけた。
すでに車の灰皿は吸殻でいっぱいになっている。
これから迎える新たな年のことを思い、ふとあらゆることに忙殺された一年間を振り返ったのだった。
兄の表情に釣られるように、ユリも苦笑を閃かせた。
「そうだねぇ。
参加した大会も多かったし、お兄ちゃんと私が揃って入院したのなんて初めてだったしね。
きっと何年か早い厄年だったんだよ、私もお兄ちゃんも」
ユリは手すりから降り立ち、リョウの隣にきて、兄と同じように車に背中を預けた。
確かに、昨年は春から色々なことが起こりすぎた一年だった。
春にはリョウが長年の過労から身体を壊して倒れ、明るいユリの顔から血の気が引くほど心配させた。
夏には毎年のようにKOFでわけも分からない陰謀に巻き込まれて、死ぬような目にあった。
そして、今度はユリが肋骨と鎖骨の亀裂骨折で長期入院を余儀なくされたのは秋、10月のことである。
毎年、なにかしら多事多難で事件に縁のある二人だが、それでもなんとか無事に乗り切ってきていたのだ。
二人揃って入院するほどのトラブルにめぐり合うという事態は初めての経験だったから、リョウが嘆息するのも無理はないのである。
厳しい修行である程度は頑丈になったと思っていたが、自分たちも思ったより繊細な部分があるらしかった。
それでも、リョウが入院したときはユリが、ユリが入院したときはリョウが、それぞれ片時も離れずに付き添って看病していたことは、この二人の絆の強さを周囲に改めて認識させることになった。
ユリの看病の際、総師範のリョウが道場の仕事をタクマとロバートに任せてしまい、まったく顔を出さなくなってしまった件については、「仲が良過ぎる」「無責任だ」などと、やっかみ混じりに言う者もいたが、少なくともユリはまったく気にする様子を見せたことはない。
リョウとユリは二人で苦労した幼少期を通して、兄妹というよりも、むしろ親子と夫婦を足して二で割ったような関係にある。
普通の兄妹の関係と比較して、仲が良いと言われれば確かにそうだと、ユリも思う。
だがそれは、そういう関係でなければ二人とも生き残ってこれなかった、その結果なのだ。
ユリにとっては貴重なものであれ、生涯失ってはならぬ、もっとも大切な“絆”なのだった。
「まあ、去年が大わらわだった分、今年はいい年になるよ、きっとね」
背伸びをして微笑みながら、ユリは言った。
リョウはそれを見ながら思う。
この妹の朗らかさに、何度助けられてきただろう。
「そうだな、きっといい年になる。いや……」
半分も吸っていない煙草を足元に捨て、リョウは拳を握った。
自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「いい年にするんだ、俺たちの手で。いつもしてきたように、全力で」
決意を新たにするリョウを見て、ユリは思う。
この兄の、どんな状況でも絶対に諦めない力強さに、何度救われてきただろう。
お互いに助け合って生きてきた心の紐帯は、生活が安定した今になっても、決して失われていない
。
口にこそ出さないものの、それは二人が一番理解していることだった。
「結局、毎年同じこと言ってるよね、あたしたち。
まぁ、それしか言うことないのも事実なんだけどさ」
ユリが言う。
表情こそ苦笑を浮かべているが、皮肉めいたものはない。
「まあな。だが悪いことでもないだろう?
何が起ころうと毎年、年末年始は健康で迎えられてるんだ。
初志貫徹、立派なものさ」
「自分を褒めてあげたい、とか?」
「たまには、な」
リョウの表情には、ほのかな優しさが浮かんでいた。
弟子たちに対してみせる、求道者としての表情ではない。
ユリ以外には滅多にみせる事のない、人間としてのリョウが持つ、奥深い優しさの顔だった。
ユリが呆けたようにその顔を見つめていることに気づいたのか、リョウが振り向く。
ユリは一瞬、鼓動を早めて顔を逸らした。
リョウは何かを言いかけたが、あえて追求することはしない。
その時、視界に広がる山地の向こうから、太陽の頭が顔を出した。
周囲の明るさが増していく。
ユリは思わず、ぎゅっとリョウの腕を掴んで、一年の最初の日の出に魅入られる。
恐らく、他のサウスタウン市民の誰よりも早く目にしている初日の出だろう。
リョウは自然と目を閉じ、心中を引き締めた。
今年もきっと、様々な困難が待ち受けているだろう。
だが、それは必ず克服できるできるはずだ。
12年前に襲われた最大の悲劇を忘れることは出来ないが、自分たちは乗り越えることができた。
それに比べれば、どんな困難も大したことはない。
ユリと仲間たちが居てくれれば、自分にとって恐るべき何者も、この世には存在しないのだった。
リョウは決心を固めて目を開くと、右側のユリを見下ろす。
ユリも、彼の右腕を掴んだまま目を閉じ、右手を胸に当てて、何かを祈っているようであった。
そして、太陽がその真円の姿を完全に現し、二人はこの年最初の夜明けを迎えた。
夜の闇は完全に打ち払われ、冷えた空気が徐々に暖かみを帯びていく。
肌を突き刺すような冷気の痛みも消えていった。
この瞬間が、二人にとって本当の、新たな一年の幕開けだった。
太陽が姿を見せてからしばらくして、漸くユリは目を開ける。
そして大きく息をして、幾分暖かくなった空気を肺に入れた。
その瞳には、清新な決意が込められているようにも見えた。
「随分と長いこと願い事をしていたな。
なにか、重大な頼みごとでもしたのか?」
「え? ……へへ、内緒」
リョウの質問に、ユリは彼女らしい微笑をつくって答えをはぐらかす。
「お兄ちゃんは?」
「内緒だ」
「なによ、教えてくれたっていいじゃない!」
「お前な、そういうことは自分が答えてから言え」
リョウが逃げるのを、ユリが不満そうに追いかける。
だが、聞かなくても分かっていたのだ。
お互いがどんな願い事をしたか、くらいのことは。
それは二人にとっては、聞くまでもないことだったから。
車の周囲をしばらく追いかけっこをした後、ユリは立ち止まる。
リョウもそれを確認して、逃げるのをやめた。
二人とも走り回ったわりに息を切らしていないのは、空手家の面目躍如といったところだろう。
ユリはコートの襟とロングスカートを整え、ぴっと背筋を伸ばした。
長い黒の三つ編みが、冷たい風に揺れる。
真面目な顔でリョウの顔を直視し、そして一礼する。
「何はともあれ、今年もよろしくお願いします。
ね、お兄ちゃん」
リョウは少し俯いて頭をかき、妹のほうに微笑を向けた。
そして、彼らしい礼儀正しさで礼を返した。
「こちらこそ、だ。
今年もよろしくお願いする。
色々と苦労をかけることになると思うが……」
「それはお互い様。
いいんじゃない? 今までどおり、みんなで頑張っていくってことで」
「今までどおり、か。そうか、そうだな」
初志貫徹、立派なものだ。
リョウは息を一つ吐き出して、太陽に向き直る。
同じ願いを日に二度することはない。
あとは自分が行動するだけだった。
逃げることなく、何事にも正面から。
「さて、そろそろ帰ろうか、ユリ」
「そうだね、遅くなるとお父さんが煩いしね」
ユリはリョウの右腕を胸に抱きしめると、雪原を舞う妖精のように、楽しげに車へと先導した。
時刻は7時30分。
これから戻ると、サウスタウンに着くのは昼前になる。
いかにタクマが放任主義だといっても、元旦に連絡もしないまま半日家を空ければ、さすがに心配するだろう。
リョウが勢いよくアクセルを踏み込む。
だが、それも公道に出るまでだ。
バイクに乗るときのワイルドな運転が嘘のように、“無敵の龍”が運転する車は至って安全運転である。
それもこれも、同乗者を無用な事故から守るためだった。
どのような苦難にあっても、リョウはユリのために、ユリはリョウのために生きてきた。
それはどれだけ生活が安定しようと、日々が平穏だろうと変わることはない。
そして、その絆が傷つくことがない限り、この兄妹に暗い未来など存在しないのだった。
(Fin)
えー、前回の更新から半年以上間が空いてしまいました。
随分と久しぶりの更新になります。
久しぶりに書く題材として、一番書きなれたユリサカものを選んでみましたが、いや、やっぱり定期的に書かないと色々と勝手を忘れてしまうものですね。
長くもないこの短編に、思った以上に四苦八苦してしまいました。
必要以上に絆、絆とうるさく書きすぎてしまったかもしれません。
どうしても私がユリを書くとブラコン気味になってしまうので、KOFしかプレイしたことがない人には、少々違和感があるかもしれません。
原作である「龍虎の拳」でも、「2」ではすでに薄れてた設定だしなぁ(笑)。
まぁ、そこはそれ、人それぞれの解釈だと思って楽しんでいただければ幸いです。
(初稿:08.01.05)