深夜1時30分。
誰もいないはずの、漆黒に包まれたサカザキ家のリビングに、足音をしのばせ、誰かが入ってきた。
その影は、足元に注意しながらソファのところまでゆっくりと歩いていくと、そろりそろりと腰を下ろした。
そして、電燈もつけずに、位置を確認するとテレビのスイッチを入れた。
暗闇にテレビ画面から光が漏れる。
その光にぼんやりと照らされたのは、パジャマに身を包んだ香澄だった。
その日の朝、香澄は新聞を読んだあたりから様子がおかしかった。
門下生との組み手にも気が入らず、様子を心配したリョウから、少し早く練習をあがるように言われる始末だった。
しかし、それも仕方がなかったのかもしれない。
香澄は渡米してからずっと、ある彼女が大好きなことができなかった。
それはわざとしなかったのでなく、時間がなかったり、疲れてそれどころではなかったりといったことが続いたせいだった。
それは、「ホラー映画鑑賞」である。
香澄は朝、新聞のテレビ欄の深夜の時間帯に、ある非常に恐ろしいことで有名なホラー映画の題名を発見していた。
監督・キャスト・スタッフ、どの名前もホラー映画愛好家ならば期待するなと言うほうが無理な面々である。
香澄の知る限り初めての地上波公開ということで、まだ見ていなかったこともあり、期待に胸を躍らせてしまったのだ。
そして、その時がきた。
『つ、ついに……!』
香澄はクッションと拳を握り締め、流れ始めたオープニングに魅入った。
ここで煎餅かビスケットでもあれば言うことなしなのだが、居候の身なので、そこまで贅沢は言えない。
リョウやユリに頼めば、笑いながら許してくれるだろうが、香澄はここではできる限りわがままは控えるようにしている。
ストーリーの作りはドキュ・ドラマ(ドキュメンタリーのように作られたドラマ)であり、クリーチャーが派手に暴れるわけではないが、じわじわと恐怖を煽ってくる。
物語の中盤、人死にが出始めたあたりから、香澄も握った拳に汗をかいてきた。
姿の見えない殺人鬼、というありがちな設定ながら、その恐怖を煽る見せ方が凄かった。
少なくとも、今まで香澄が見た数多くの映画の中では、抜群にうまい。
香澄は、「きゃっ」とか「くっ」とか小さく声を上げながら、たまに顔を背ける。
しかし、怖いとわかっているのに、また画面に見入ってしまう。
ホラー映画ファンにとって、その物語が科学的に正しいかどうかは問題ではない。
理屈はSF映画にまかせておけばよい。
その表現が、どのように見るものの心を蝕むか、というのがもっとも重要なのだ。
そしてこの映画は、ホラー百戦錬磨の香澄の興味と恐怖心とを、どうやら完全につかんだ。
香澄は、口元をひきつらせて、大きめのクッションとテレビ画面にしがみついた。
サカザキ家は最新の液晶大型テレビを導入しているため、画面には文句の付けようはないが、さすがに深夜だけあって音声はイヤホンを通している。
もし、これが映画館のサウンドであれば、恐怖と迫力は更に増すだろう。
一人、また一人と殺害されていく。
作り自体はドキュメンタリー仕立てなのだが、そもそものその視点が、「殺人者」のものであるから、その迫力がまったく違う。
正体も目的も不明、ただ作業のように黙々と殺人を重ねていく過程に、香澄を含めた視聴者はすべての感情を完全に麻痺させられる。
そして、あまりにもリアルで残虐な殺害方法に、突然恐怖感のみを刺激されて、視聴者は震えるのだ。
どちらかといえば、筋書きのあるスナッフムービー(報道「以外の」目的で、殺人の過程や事故現場、無残な遺体等をノーカットで延々と撮影したもの。
主にインターネットのアンダーグラウンド・サイトで多く公開された)に近いかもしれない。
画面では、これまで重要な役割を果たしてきた人物が最大のピンチを迎えていた。
正確には、迎えたことをその人物は知らなかった。
心理的にも肉体的にも無防備な状況にその人物がいるときに、今まで一度も画面に登場していないにもかかわらず恐怖を演出してきた猟奇殺人者が迫っていた。
このとき、香澄もその人物とほぼ同じ状況にあった。
テレビ画面に集中しすぎるあまり、心理的にも肉体的も無防備となってしまっていた。
だから、この後起こる真の恐怖に、対応できなかったのは、無理からぬ話ではあったのだ。
そして、最大の見せ場、その人物の頭の上に、殺人者の大型のナイフが突き刺さろうとした時。
香澄が息を止めた一瞬。
何かが、香澄の背中から激しく覆いかぶさった。
完全な不意打ちだった。
香澄は、何が起こったのかわからず、全身の感覚と思考と呼吸が完全にストップしてしまった。
鳥肌が全身を這い回り、体温が急激に下がった。
頭の機能が瞬間的にシャットダウンしてしまった香澄は、咄嗟に行いえる行動に、持てる全力を込めた。
「きゃあああああ――――――――――――――っっ!!!!」
ちょうど、リョウはトイレから出たときだった。
今日も忙しかったが、明日も早い。
せめて早く眠りについて、暫しの安息に身を委ねたかった。
しかし、彼のささやかな願望は、そんな時に限って打ち壊される運命であるらしい。
「きゃあああああ――――――――――――――っっ!!!!」
午前3時の深夜に響き渡った女性の叫び声に、思わず何者かに心臓を握りつぶされたかのごとく背筋を伸ばしてしまったリョウだが、それが香澄の叫び声であることを一瞬の後に理解すると、一切の迷いを振り切って、声のしたリビングへと急いだ。
あの香澄が、なにもないのに悲鳴を上げるはずがない。
それも、断末魔といっていいほど激しい悲鳴を。
最悪の状況さえ頭に閃かせながら、リョウは乱暴にリビングのドアを開けた。
そこは真っ暗で、ただテレビのCM画面だけが煌々と光を放っている。
その中から、女の子のすすり泣く声と、それを介抱するようなもう一人の声が聞こえてくる。
リョウはわずかな光を頼りに、電気のスイッチを入れた。
そこには、クッションを抱きかかえたまま、体育座りで顔を涙でしわくちゃにした香澄と、その背中を心配そうな顔でさすってやるユリの姿があった。
「何があったんだ、いったい?」
どうやら最悪の事態ではないらしいことに安心してリョウが二人に近づくと、香澄はクッションとユリの手を放り出して、リョウに抱きついてしまった。
まだショックが残っているのか、涙目で鼻をすすっている。
普段の強気な香澄を知っているだけに、リョウはその驚きを三倍にして、とりあえず香澄を受け止める。
「リョウさ〜ん……」
香澄の様子を見て、リョウはとりあえず自分に抱きついたままの香澄の頭を撫でながら、ソファに腰を下ろした。
そして、隣で気まずそ〜に目をそらすユリを見据える。
「……おまえか?」
「えへへへ、え〜とぉ〜……」
ユリは、リョウから目をそらしたまま、話し出した。
深夜、まだ起きていたユリは、咽喉がかわいてキッチンまで水を飲みに来た。
そのとき、リビングから僅かな光が漏れているのを、発見して「しまった」のである。
何事かと覗いてみると、暗い中で香澄がテレビを見ていた。
よく見ると、それはホラー映画らしく、香澄はびくびくしながらも、画面から目を離さない。
そこで、ユリの悪戯心が始動しなくてもいいのに立ち上がってしまう。
決してユリは非常識な女の子ではないのだが、唯一、好奇心や悪戯心を抑制するための壁だけは、常人よりもちょっとだけ低いという、恐らく誰にとっても幸福を齎しそうにない弱点があった。
その悪戯心が全開になってしまったユリは、非常に子供じみたことを考えてしまう。
気配を消して香澄の背後に仁王立ちすると、彼女はそのまま……。
「香澄に襲い掛かったと、そんなとこか」
「……はい」
深刻な事態でないことがわかったせいか、がっくりと肩を落としてリョウはため息をつく。
ユリは、それを兄に呆れられてしまったのかと勘違いし、ちょっとだけ俯いた。
「まさか、香澄がこんなに驚くとは思わなかったから……」
香澄が大泣きし始めて、さすがにユリも悪いと思ったのか、謝りながら背中をさすってやった。
リョウがきたときに、やっと落ち着きだしたところだったのだ。
「香澄、大丈夫か?」
「はい……なんとか……ぐす」
香澄はリョウに抱きついたまま頭をなでられて、落ち着きを取り戻していたが、もう少し目には涙がたまっている。
「香澄、ごめん……」
香澄は申し訳なさそうに頭を下げるユリに、恨みがましそうな白眼を向けた。
彼女のせいで、死ぬような思いをしたばかりか、映画のクライマックスシーンまで見逃してしまったのだ。
「……大嫌いです……」
「はうっ」
リョウの背中に隠れながらぼそっと呟いた香澄に、ユリはかくっと頭を下げる。
香澄の怒りは、彼女が思うよりもはるかに大きいらしい。
もともと怒りを前面に出すタイプではないので、怒らせると怖いのだ。
そういうところは、なんとなくリョウに似ている。
「まったく……」
リョウは少し頭をかいた。
ユリを怒るようなことでもないのだが、このまま二人をケンカさせたままでいるわけにもいかず、なんとか解決はしておかなければいけないだろう。
「ユリ、お前ももう二十歳も近いんだから、少しは大人になれ」
「は〜い……」
長いこと家族を放り出していた父と違い、自分を育ててくれた兄に怒られると、ユリも弱い。
さすがにしょげ返ってしまう。
「香澄も、あまり泣くな。親父さんに笑われるぞ?」
「はい……」
香澄も完全に落ち着きを取り戻して、リョウに対して一礼した。
どうも、リョウに泣き顔を見られて抱きついてしまうことが多い。
そのことに、少しだけ恥ずかしさを覚えてしまった。
「それじゃ、明日、ユリは香澄の言うことをなにか一つ聞く。
それで解決だ。どうだ?」
ユリは、まだすまなそうな顔で、一つ頷いた。
香澄も、リョウの言葉に頷く。
悪い条件ではないように思われた。
結局、香澄の出した条件は、翌日の昼食をユリのおごりで外食にすること(メニューは香澄指定)だった。
ユリも、それぐらいならと二つ返事で引き受けた。
だが、このとき、ユリはまだ、怒った香澄の恐ろしさを理解していなかった。
わざわざ自分の払いで、自分の大嫌いなタコ料理のフルコースを涙ながらに食わされるはめになろうとは、ユリはまだ、想像すらできずにいる。
(FIN)
これ、香澄じゃないな(笑)。
(07.02.27)