傍にいてくれる人

 ──────風邪をひいた。
 情けないことに。

「げほ」

 いがる咽喉と咳を連発する口を抑えながら、脇に挟んだ体温計をとりだす。

「うわちゃ」

 38度4分。
 どこに出しても恥ずかしくない高熱。
 確かにここ二三日、ちょっと身体がだるかった。
 昼間は暖かくなってきているけれど、まだまだ朝晩は冷える、中途半端な季節の変わり目。
 その季節の移り変わりの洗礼を、受け取ったのだろうか。


 私は、身体をベッドに横たえている。
 立って歩こうにも、身体が重くて上手くバランスがとれないのだ。
 普段、明るいうちに見る機会の少ない、白い天井の壁紙が目に入る。
 だからと言って、べつに思うところも無いけれど。

「はぁ……」

 情けないため息を、布団のなかでつく。
 風邪なんてひいたの、何年ぶりだろう? 頑丈さだけが取り柄の私なのに。

「……む」

 自分で考えたことに、自分で腹を立てる。
 私のことを「頑丈さだけが取り柄」なんて言ったのは、お兄ちゃんだ。
 いーだ。
 私だって、もっと取り柄くらいありますよーだ。
 明るいし、友達多いし、強いしさ。
 ま、あんまり自分で言っちゃうことでもないけどね。
 兄妹なんだし、私を女としてみろ、なんて馬鹿なことは言わないけど、私のことをもっと正当に評価してくれるのは、いつの日になるやら。

 本格的に調子がおかしくなったのは、今朝だ。
 朝、頭と咽喉と身体が重くて、起き上がれなかった。
 はっきりと発熱を意識してから、無駄な足掻あがきをやめた。
 調子が悪いときは、寝るに限る。
 ごはんと掃除は、お兄ちゃんに任せた。
 ……けど、期待はしてない。
 お兄ちゃんは、簡単な朝食くらいなら作れるけど、味付けはデタラメの男料理。
 掃除だって、細かいところに気がつく几帳面さがあるのに、掃除そのものは雑、という、わけのわからないバランスの悪さ。
 ま、材料はあるし、自分の食事の世話くらいはできるかな、と思って、放ってる。
 掃除は、明日まとめてやろう。

「ぬ……」

 ヘンな気分だ。
 頭がぐらついて、逆に眠れない。
 こんなとき横になってると、思わなくてもいいようなことを思わず考えてしまう。

「ん」

 ちょっといやなことを思い出しそうになって、軽く頭を振った。
 ……お馬鹿だ、私は。
 頭が痛いときに振っちゃうとどうなるか、考えてなかった。
 ぐらんぐらん揺れる視界と意識にしばらく振り回されて、ちょっと気分が悪くなる。

 あー、自分がこうしている間、他の人はどうしてるんだろ、などと考えてみる。
 お父さんは、いつもの山篭り中だ。
 行方不明で連絡も取れない。
 まぁ、そのうちひょっこり帰ってくるだろうし、死んだら死んだで、新聞くらいには載るだろう。
 ロバートさんはイタリアだ。
 最近、仕事のほうが忙しくて、なかなか会える機会が無い。
 こういうときに傍にいてくれると、嬉しいんだけどな。
 言えば飛んできてくれるかもしれないけど、たかだか風邪をひいただけで、海を渡らせるのも悪い。
 飛行機代だって高いし。

 結局、一番そばにいてくれるのは、お兄ちゃんか。
 お兄ちゃんは今、階下の道場で、いつものように弟子たちの稽古をつけている。
 道場を任された頃は、厳しすぎる熱血特訓で、ついていける人っていったら私くらいしかいなかったけど、最近になって、ようやく師範として慣れてきたみたい。
 弟子たちとコミュニケーションをとりながら、うまく厳しさを調整している。
 一時期減りかけていた弟子たちの数も、また増えてきている。
 このへん、厳しさ一辺倒のお父さんが続けていたら、道場はとうに潰れてる。
 指導者としてはともかく、経営者としての才能は、お父さんよりお兄ちゃんのほうが上なんだ。

「うーん……」

 そう考えて、ちょっとヘンな気分になった。
 経営者か。
 あのお兄ちゃんがねえ?
 いつも傍にいたから、違和感が抜けないのかもしれない。
 昔から強かったけど、自分と私のことにいっぱいいっぱいで、人を率いるような柄じゃなかった。
 そんな人が、ロバートさんより先に経営のトップに立ったのか。
 わからないものだ。
 もっとも、経済とか経理とか、そんな細々したことは、お兄ちゃんの念頭にはない。
 必要な部門は、ちゃんと人を雇って整理している。
 自分のわからないことは、ちゃんと人に聞いたり任せたりできる。
 そんな柔軟さが、頑固一徹のお父さんには無い、お兄ちゃんの取り柄だ。
 お兄ちゃんはただ、どっしりと構えているだけ。
 それだけで、人を安心させることができる、あの人の大きさ。
 私も、何度となく、あの大きな背中に守られてきたんだ……。

「うんん」

 思いかけて、慌てて首を振った。
 どうして私が、お兄ちゃんを褒めなきゃいけないのか。
 あの、女心もわからないトウヘンボク。
 懐が広いだの、剛直だのと人は言うけれど、私に言わせれば、ただデリカシーがないだけだ。
 キングさんも香澄も、将来、苦労するよ、アレとくっついたら。
 今の今まで、妹の私が苦労しているから、わかるんだから。
 今のうちに忠告してあげておこうか。

「はぁ……」

 なんだか、頭の中がこんがらがっている。
 熱のせいだろうか。
 いつも考えないようなことを考えたから、思考がショートしたのだろうか?
 そんなことを考えていると、また思い浮かぶのはお兄ちゃんの顔。

『めったにしないようなことをするから、知恵熱が出たんだよ』

 ちがうわぁー! 誰が知恵熱かーっ!
 思わず起き上がって、ぶんぶんと頭を振る。
 ……お馬鹿は私。
 こんなときにそんなことをすると、どうなるか。

「きゅー……」

 ベッドに倒れこんで、目を回した。
 ああう。
 揺れる意識と視界。
 したくもないベッドとの抱擁を、見えない誰かに強制されながら、私はそのまま夢の世界へ旅立った。


 目が覚めたとき、ちょっと違和感があった。
 その正体を探って、手を顔の上にもってきてわかった。
 おでこに、タオルが乗せられている。
 それは、ちょっとぬるかった。
 私の熱を吸い取ってくれたんだね。
 誰かが乗せてくれたのか。
 ──誰かと言ったって、この家には私とお兄ちゃんしかいないんだけど。
 私が眠っている間に、お兄ちゃんが見にきてくれたんだ。
 そういえば、さっきよりはちょっと調子がいい。
 体温が下がっているのが、自分でもわかった。
 もうちょっと咽喉は痛いけど。
 ふと脇を見ると、机の上にお盆と、小さめの鍋が一つ置いてある。
 手を伸ばしてそれをとった。
 ──お粥だ。
 お兄ちゃんが作ってくれたのかな?
 でも、もの凄い量だぞ、これ。
 誰が食うんだよ、こんなに。
 タツマキに食べさせるのと間違えたんじゃないの?
 あ、タツマキっていうのは、お兄ちゃんが飼っている馬のことね。
 バイクとか馬とか、大きなものに乗るのが好きな人なんだな。

「……まあ」

 お兄ちゃんらしい、といえば、お兄ちゃんらしい。
 細かいことに気がつくけど、細かいことは気にしない。
 ……いいんだか、悪いんだか。
 でもま、せっかく作ってくれたんだし、食べれるだけ食べておこう。
 食欲はなくても、なにかお腹に入れておいたほうがいい。
 お兄ちゃんには、あとでお礼を言っておこう。

「いただきます」

 きちんと言う。
 お兄ちゃんもお父さんも、こういう礼儀にはやけに厳しい。
 そして、これまた大きなスプーンですくって、一口、食した。

「むー……」

 ……しょっぱい……。
 お兄ちゃん、塩の入れすぎだよ……。
 思わず、涙目。
 私が、辛いものと酸っぱいものが苦手だって、知ってるくせに……。
 恨んでやる……。

 食欲もまだ無いし、そのしょっぱいお粥を、とりあえず四口だけ食べて、また横になった。
 ……お兄ちゃんには、お粥くらいまともに作れるように、明日にでもスパルタで仕込んで上げなきゃ。
 いまどき、軽食の一つも作れないようでは、生活力のある男とは言えないのだ。

 ただ、良い効果もある。
 昔からそうなんだけど、滅多に食べないお兄ちゃんのつくった御飯は、なぜか私を元気にしてくれるのだ。
 今もそう。
 決して美味しいとは言えないものだけど、不思議と頭痛やだるさが消えつつある。
 たぶん私にしかわからない、お兄ちゃんの魔法の調味料だ。
 ま、お兄ちゃんが普段から元気に空手をやっていられるのは、私が作った御飯をたべているからなのだから、これでイコールかな。


 窓から入る陽光は、もう紅くなりつつある。
 結局、丸一日、寝て潰しちゃった。
 こんなこと、何年ぶりだろう。
 思い出せないくらい久しぶり。

 けれど、これで終わり。
 もう一度眠ったら、またいつもの忙しい一日が始まるに違いない。
 私は、ベッドの中で伸びをした。
 まだ身体がダルいし、咽喉の痛みもあるけど、不思議と頭痛はなくなり、熱も下がってる。
 あとは寝れば直るレベル。
 だから、寝る。
 この権利を行使しない必要は、どこにもないのだ。

 明日起きたら、お兄ちゃんにお礼を言って、今日さぼったぶん、念入りに掃除をして、道場のほうにも顔を出して……。
 あ、舞さんが顔を出すとか言ってたっけ。
 また、のろけ話を聞かされるのかなあ。
 うらやましい限りですけど。
 つまり、いつもどおりの忙しい一日なわけだ。
 そして、とびっきり充実した毎日の、何十分かの一日。
 そう、いつもどおり、私は元気です。
 明日はきっと、ね。

 その明日を迎えるために、私は、もぞもぞと布団にもぐりこむのだった。

「おやすみなさい……」

(To be continude...)

COMMENT

うわっちゃー(笑)。
 もう何年ぶりかわからないくらい久しぶりの、一人称短編です。
 慣れないことやるもんじゃないですね(笑)。

(初稿:08.05.10)