猟奇的な彼女

 ある休日。
 サカザキ家の朝は、いつものように明ける。
 リョウは既に、自分で作った朝食をとり終えていた。今日に限って、ユリが起きてこないのである。
 リョウはちらりと時計を見る。その針は、すでに午前9時40分を差していた。
 そして、その刹那。
 廊下のほうから騒がしいユリの声が聞こえてきた。

「ぎいやああああああっ!」

 これが大慌てというなら、文字通りの意味で大慌てな悲鳴を残しつつ、ユリの声が廊下から洗面室に消える。
 そして。

「はわわわわわわわわっ!」

 数分間の静寂の後、再びドップラー効果で悲鳴を残し、今度は洗面室から自室へと、ユリの足音が響いては消えていく。

『やっぱりな……』

 リョウはダイニングでため息をつきつつも、自分の予想が当ってしまった不幸な現実に、涙した。


 実はこの日、ユリは久しぶりにロバートと出かける約束があったのだ。近所のカフェに、待ち合わせの時間は午前10時。
 しかし、現実とは冷酷なもので、ユリの足音と悲鳴が廊下を賑わしている現在、午前9時52分。
 どう足掻いても、遅刻である。

『だから、あれほど注意しろって言ったろうに』

 普段はわりとしっかりしているくせに、いざという時に大ポカをやらかす妹のことを心配して、リョウは昨晩、それとなしに注意を促したのだが、恐らく世界で一番そのことを理解していないユリ本人は自信満々で頷いた。
 …………そして今朝の悲劇である。

「きゃあきゃあきゃあああああっ!」

 近所の人間が聞かれたら、絶対に無条件で警察に通報されていそうな悲鳴を残しつつ、未だにユリは大慌てである。少しは落ち着いて部屋で準備ができないものか。
 流石にこの悲鳴はどうにかしなくては、と思い、廊下のドアを開けたリョウの目の前を。

 乱れた髪に下着姿という、ある意味MAXIMUM IMPACTな姿のユリが横切り、そして、自室に飛び込んでいった。

「こらユリ、煩いぞ。それと下着で走り回るな!」

「見るなぁ!」

 どきゃっ!

「うぼぁ!」

 リョウの言葉が終わるか終わらないかという瞬間、ほとんど音速で走ってきたユリの、ダッシュが効いた全力のラリアットが、ものの見事にリョウの首筋にヒットした。
 奇妙な呻き声を上げて廊下のフローリングに沈む無敵の龍に見向きもせず、ユリは再び洗面室に消えた。


「痛ぇ……」

 リョウが十数分の失神から意識を戻した時、ユリはきっちりと服装を整え、キッチンで一息ついていた。
 どうやら彼が意識を失っている間に、彼女はロバートと連絡をとったらしく、ロバートに迎えに来てくれるように、手はずを変更したらしい。

「もう、なんで起こしてくれなかったのよ」

 ユリは自分が失神させたにもかかわらず完全に放置していた兄が立ち上がるのを見ると、頬を膨らませて抗議した。これはこれで可愛くはあるものの、そこに兄に対する情け容赦はない。

「お前が自分で起きるって言ったんだろうが。俺は昨日、大丈夫かって聞いたはずだぞ」

 リョウは首筋を押さえながら、ドカッとソファに腰を降ろす。そして、ジロリと対面のユリに視線を向けた。
 ユリはそう派手な化粧はしない。普段からナチュラルなメイクを好んでしている。
 一度、持てる知識をフル動員してメイクをして出かけて、ロバートに微妙な笑顔をされたのが彼女なりに傷ついたらしく、それ以来、抑えるようにしているらしい。
 ユリはやや上目遣いにリョウを睨み返すと、

「む……、それはそうだけど、TPOってものがあるでしょう」

「そういうのは、まず自分で実践してから言うものだ。自分で意思で時間通りに起きてから言え」

「むう……」

 ちょっと悔しげに、ユリは腕を組む。
 リョウの言っていることは解る。解るけれども、いまいちしっくり来ない。なにより、些事に拘らない性格のリョウにそういうことを言われているという事実が、なんとなく癪に障る。
 リョウにしてみれば、ユリの失敗に巻き込まれた挙句、無意味にラリアットを食らって失神させられるという醜態を演じてしまったものだから、自然に口調もきつくなろうというものだ。

「まったく、信じられない。【ミニモニ】に入っててもおかしくない可愛い妹が困ってるっていうのに、哀れだとは思わないの?」

「いや【ミニモニ】ってな、微妙に古いよ、お前。それに168も身長タッパがあって、なにがミニモニだ。どっちかっていうと【ぱにぽに】みたいな顔してるくせに」

「むっ!」

 さりげない兄の反撃にカチンときたのか、ユリはちょっと目を吊り上げて言い放つ。

「いいじゃん【ぱにぽに】、可愛いじゃん【ぱにぽに】。作者の【氷川へきる】さんに綾かって、あたしがアニメに登場するときは、声優は【椎名へきる】さんにしてもらお」

「おうおう、どっちもマニアックに人気でそうだな。ついでにKOFのプロフィールも、【出身地:へきる星】とかにしてもらえ。お前にぴったりじゃないか」

「むむっ!」

 再びカチンときたのか、ユリはゆっくりと立ち上がる。
 リョウの気付かぬ間に、惨劇の幕は切って上げられていた。


 午前10時20分、真紅の塗装も眩しいフェラーリが、サカザキ家の脇に停まった。
 口笛を吹きながら降りてきたのは、上質のスーツを着こなし、長髪を首の後ろで纏めたロバート・ガルシアである。
 ロバートは、一応チャイムを鳴らしはしたものの、そのまま玄関のドアを開け、ずかずかと中に入り込む。 『勝手知ったる』とはよく言ったもので、ロバートにとってはサカザキ家は我が家も同然なのだ。

「おーい、ユリちゃーん、迎えに来たでぇ」

 玄関からダイニングに行くかユリの部屋に行くか考えながら、彼が廊下に踏み出した時。
 ダイニングの方から、派手な音がした。何かが落ちたとか、そんなかわいい音ではない。明らかに何かが暴れている音だ。

「!?」

 ロバートは思わず、廊下の壁に背中をつけ警戒する。

────この時間なら、まだリョウはいるはず。それを考えれば、ユリの身に心配など無いが、この騒ぎはなんだ。なにかが侵入したのか?
────まさか、BIGの!?

 様々な思考と可能性を一瞬のうちに組み上げ検討しながらも、ロバートはダイニングのドアの前に張り付いた。騒音は一層大きく、怒号は響き渡っている。
 ロバートは万一の可能性も視野に入れて、腰の銃把に指をかけ、耳を済ませる。

────はーっはっはっはっ! でかい図体しやがって、がたがた震えてんじゃねぇ!
────きゃあああああっ!
────ふほっ、私の下着にはぴくりとも反応しやがらねぇくせに、けっこういいモノもってんじゃねぇか!
────いやあああ、犯されるぅっ!
────とんでもねぇことほざくな! 耳から指つっこんで、奥歯がたがた言わすぞワレッ!
────NOoooooooッ!

 …………ちなみに、加害者側が少女の声、被害者側が野太い男性の声である。

「───────???」

 ロバートは目と耳を点にしながら、その場で硬直していると。

────…………………………。

 それまでの喧騒が嘘のように、ぴたりと声が止んだ。
 そして、ダイニングのドアが開き、中から服装とメイクを整えた、いつも通りのユリが出てきた。
 ユリは呆気にとられているロバートに気付くと、その懐に駆け寄ってくる。

「あ、ロバートさん、来てたんだ。ごめんね、今日は。ちょっと起きれなくて」

「い、いや……、それはええねんけど……、いま、凄い声がしてへんかった?」

「いやねぇ、ロバートさん。空耳かなにかじゃない? お父さんも帰ってきてないし、静かなものよ」

「え? せ、せやかて……」

 ロバートが、ユリが出てきたドアの方に視線を向けると。

 そのドアは、いつの間にか少しだけ開いていた。
 そして、そこからどこかで見覚えのある筋肉のつき方をした逞しい、血みどろの腕が、何かを求めるようにその指先を浮遊させていた。

「おわあああ、ユリちゃん、あれ、あれ腕がっ!」

 思わず慌てふためくロバートに視線を向けたまま、ユリは後ろ蹴りでその腕を(身体ごと)乱暴にダイニングに蹴りこむ。

「そらっ!」

 どきゃっ、という大きな音と、「ぺぎゅう」という トウキョウダルマガエルをひき潰したような奇妙な悲鳴 を、ロバートの聴覚は確かに感知していた。
 しかし、ユリは完全にそれを無視すると、同じく後ろ蹴りで、乱暴にドアを蹴り閉じた。

「え? なにかいた?」

「────────」

 まるで天使のような笑顔で首を傾げるユリに、ロバートの目が釘付けになる。引きつった顔でだらだらと脂汗を流す恋人の耳元に、ユリはそっと顔を近づけた。

「なにもいないよね、ロバートさん? そう、あなたは何も見ていないの。解る? 何も聞いてはいないのよ、ロバート……

 ユリが、ロバートの耳元で囁く。
 それは、天使の声をした悪魔の囁きだった。直接脊髄から駆け上がり、脳髄に語りかけてくるような声。
 その声に導かれるように、ロバートの表情が段々と呆けてくる。
 そう、彼はなにも見ていなかったし、なにも聞いていなかった。彼は今、ここに来たばかりなのだ。そして、いつものように彼の元に駆けてきたユリを、彼は抱きしめているのである。

あなたは今、ここに来たの……。そうよね、ロバート?

「あ、嗚呼……、ワイは今……ここに来て……」

ふふ……

 ユリはロバートの耳元から満足げな表情で顔を離すと、呆けたままの彼の目の前で、一つ拍手かしわでをうった。

 ぱんっ。

 その音に反応するかのように、びくっとロバートの身体が痙攣し、空ろだった彼の瞳に生気が再び宿った。

「え? あ、あれ?」

「ロバートさん、お・は・よ♪」

「お、おう?」

 何があったのか憶えていないのか、ロバートは呆気にとられたように、ユリの顔と自分の手と周辺を、順番に見渡している。
 そんな彼に間髪を入れぬように、ユリがその逞しい胸元に抱きついた。

「ロバートさん、今日はごめんね。起きれなくて」

「あ、ああ、それはええねん。…………???」

 なにやら、まだロバートは不思議そうに辺りの廊下やドアの辺りを見ている。

…………ちっ、術のかかりが浅かったか……?

 ユリは、笑顔の下でそんなことを憂慮したりもしたが、どうやらそれは杞憂であるようだった。

「ううん……、まぁええか」

「どうしたの?」

「いや、なんかえろうエゲツないモンを見たような気ィしたんやけど、気のせいみたいやな」

「それは気のせいよ。ここでえげつないものって言ったらお父さんくらいだもん

そやな。じゃ、出かけようか。どこから行きたい?」

 ロバートが言うと、ユリが嬉しそうに彼の腕に抱きつく。

「あたし、ご飯食べたい」

「ええで、フランス料理でもトルコ料理でも、ユリちゃんの好きなとこに連れてってあげるがな」

「わーい♪」

 そうして、うら若き二人は、サカザキ家を後にした。

 ダイニングで忘れ去られた(かつての)無敵の龍リョウ・サカザキ(22)は、絶命の淵にあったが……。


「ところでロバートさん」

「ん?」

「あたしって、【ミニモニ】と【ぱにぽに】のどっちだと思う?」

「はぁ?」

(Fin)

COMMENT

なんだ、こりゃ(笑)。

(初稿:08.05.10)