自分のために戦場へと出るリョウの背中を悲しげに見送り、ユリはその目を天に向けた。
兄のために何もできない自分。
そんな無力感に包まれた気持ちを反映しているかのように、どんよりと曇った空もユリ自身も、今にも涙を流しそうになっていた。
午前七時過ぎ、ユリはアパートメントから近いバス停に立っていた。
そこからさして遠くない
バスの中で仲の良い友人たちと談笑しながら、時折、窓の外を流れる景色に目を向ける。
家庭においては、リョウに心配をかけまいと、ユリは勤めて真面目に、健気に振舞う。
兄の日常を思えばそれが当然であったし、一面においては、心配をかけないためには弱みを見せてはいけないという事実もあった。
ユリの存在そのものがリョウの弱点であることは、幼いユリにもなんとなくわかっていることだった。
その「弱点」が、自ら弱みを見せるわけにもいかなかったのだ。
それは、リョウとの8年に及ぶ極貧生活、そして現在も続いている苦しい生活の中で、未熟ながらもユリが身につけた処世術であった。
貧しいだけならば、耐えられないことも無い。
だが、外からの脅威が少なからずある以上、話は別である。
自分の両親がどうしていなくなってしまったのか、ということも、ストリートファイトで生計を立てているリョウが、アンダーグラウンドな世界に片足を突っ込んでいることも、理解していないわけではなかった。
ユリは、自分のためにも兄のためにも、意識して目立たない生活を送るように心がけている。
もともと、ユリの血は、半分がアメリカ人であり、半分が日本人である。
アメリカ人である母の面影を印象に残しているとはいえ、
実に愚かなことではあるが、「人種による思想と思考の壁」の存在を本気で信じており、そしてそれを認めることのできない愚かな人間は、どこにでもいるものだった。
リョウは妹の安全を考えて、住居の位置を選別するにも慎重に慎重を期したが、何事にも完璧ということはありえない。
特に、犯罪都市とも呼ばれるこのサウスタウンにあっては。
だがそれでも、学校に来てしまえばユリ本来の性格が幾分でも顔をもたげてしまうのは仕方がないことではある。
家では意識して抑えられている活発さが、友人に影響されて出てきてしまう。
それは、健康的なことだった。
今日も、午前中の授業を終え、ユリは五人の友人と食堂で昼ごはんを囲んでいる。
生意気な男子への文句だとか、理不尽な教師への文句だとか、人気ドラマのこと、ブランドものの化粧品のこと、そしてセックスやドラッグのこと。
どこの国でも、この年代の少女たちの間で話題になるネタというのは、あまり変わらないものであるらしい。
「誰か昨日の「セックス・アンド・ハウリング」見た?」
「悪い、昨日は「ミュージッククェイク」見てた」
「あたしも見てないなー」
「なんで見ないんだよ。
昨日のトライハルト、カッコよかった」
言いだしっぺの友人が、昨夜のトライハルトとやらの雄姿を思い出したように、視線を空中に投げ出して頬を上気させる。
昨夜はニュースしか見ていないユリは、深入りを避けるようにだんまりを決め込んだ。
すぐ に反論が向けられた。
「アレのどこがカッコいいの? ただの女タラシじゃん」
思わぬ強烈な反論に怯みながらも、トライハルト好きの血が燃えるのか、真っ向からそれに反論が飛んだ。
「そりゃ、男とつきあったことがなけりゃ、トライハルトだけじゃなく、男のよさはわからないだろうけど」
「あにおう?」
空気がややギスギスし始めたところで、ユリが苦言を呈した。
「やめてよ、まだご飯食べてるんだから。
どうだっていいじゃん、男の好みなんて人それぞれだし」
やや呆れたように言ってみたが、意外と生ぬるい視線が返ってきて、ややたじろいだ。
「な、何よ」
「ユリ、ブラコンのあんたが男についてどうこう言ったって、説得力ないって」
「誰がブラコンよ、誰が!」
『You!』
勢いよく立ち上がってみたものの、一斉につっこまれて、ユリはすごすごと座り込んだ。
それでも、反撃だけはしてみる。
「あたしはべつに、ブラコンじゃないもん。
カッコいいと思う男くらいいるよ」
ユリの隣の少女が、ジュースのストローから口を離しながら呟く。
「ユリのお兄さんって、今はフリーだよね。
じゃあ、私がお兄さんに告白するよ? 好みだし」
「それは、ダメ!」
思わず真顔でダメだしをしてしまうユリを見て、ため息をつく友人たちだった。
果たしてユリがブラザーコンプレックスか否かという、友人たちにとっては興味はあるが、ユリにとってはシャレにならない談義は、「ブラコンの素養は大きいが、普通の感性も持ち合わせている」という、玉虫色だかそうでないのかよくわからない決着がついた。
ユリとしてはやや不本意ではあったが、それでもジョークの範疇で済んだことは幸いだった。
確かに、外面的にユリが兄を慕っているというのも事実ではあり、友人の間でも有名な話であるから、友人たちとしては、それを少しつついて、ユリの反応を楽しんだ、という程度のことだった。
だが、ユリが内側に抱えている想いはジョークなどではなく、どこまでも真剣なものであったから、友人たちがこのネタを出してくるたびに、ユリとしては冷や冷やせざるをえなかったのだ。
そして、ユリにとって冷や汗ものだった昼の休憩が終わる頃から、雨が降り出していた。
午前中の明るさが嘘のように、午後のユリは憂鬱な表情を崩さなかった。
授業中も、腕を組んでその中に顔をうずめながら、窓の外を降る雨に目をむけ、小さなため息を何度もついていた。
友人たちが心配して声をかけたが、ユリは生返事を返すだけで、心ここにあらず、といった風だった。
その理由を知っているのは、昼のブラコン談義にも参加していた友人のタミカだけだった。
帰りのバスの中で、ユリの隣に、そのタミカ・クラウゼが腰を下ろす。
タミカは金褐色の髪をセミロングにした細身の少女で、やや目元に厳しさを感じさせる以外はまず美人といい顔立ちをしていた。
ユリと一日違いの12月8日生まれということもあり、ユリとは特に仲が良かった。
そのタミカが、腰を下ろして一息ついてから、窓側に座るユリと窓の外とに、順に視線を移した。
ユリはどこか憂鬱そうな、そして心配そうな表情を崩していない。
「お兄さんのこと?」
タミカは回り道を全くせず、一気に真相を突いたが、ユリは特に目だった反応は示さなかった。
タミカが自分の憂悶の原因を理解していることを、ユリも理解していたから。
「うん……」
一言、消え入るように呟いて、ユリは大きくため息をついて肩を落とした。
心ここにあらず。
その言葉を、全身で体現しながら。
「心配だね」
「うん……」
「今日も、独りで?」
「うん……」
静かな短いやり取りが、二三、続いた。
タミカには本気で追及する意思は無く、ユリにも真剣に応えるだけの集中力が無い。
タミカは知っていた。
ユリはただ、兄のリョウのことを心配しているのだ。
この雨の中を、たった独りで、自分のために戦っているであろう、兄のことを。
タミカは、ユリとリョウの兄妹が現在の境遇にある理由までは知らなかったが、リョウがユリのために戦い続けていることは知っていて、彼のことを尊敬しているのだった。
そして、恐らくは心を切り裂かれるような不安と戦いながら、何も言わずに彼のことを待ち続けているユリのことも。
タミカは、自分がユリにかなわないことを知っていたから、賢しげなことは言わなかった。
ただ、ユリが不安に押しつぶされそうになっている瞬間を見抜いて、常に傍にいることだけを心がけていた。
微妙に湿気を帯びたユリの長い髪を指ですきながら、タミカはつとめて優しく言った。
「今日は寒いから、うんと温かくて美味しいものを食べてもらわないとね」
「………………………………」
少しのあいだ、二人のあいだを沈黙が支配した。
古いバスの無骨なエンジン音と、窓の外の雨の音だけが鼓膜を刺激したが、それも数秒だった。
「うん……」
ユリは再び、それだけを応えた。
だがその表情は、先ほどよりも幾分、安心と優しさの成分を含んでいた。
(To be continude...)
(初稿:09.03.25)