午前1時。キングのバー、イリュージョンは、すでにメインタイムを過ぎ、客の姿もまばらになっている。
その残った数少ない客は、すべてマスター、キングの古い知己である。
そのためか、もう閉店も近いというのに、カウンターでカクテルをビルドするキングの動きは、まだ軽い。
動きが重いのは、むしろ客のほうであった。
ユリ・サカザキはいつものように、カウンターに突っ伏して眠ってしまっている。
キングはユリを可愛がりつつも、その酒癖の悪さには相当悩まされており、ユリが自分のバーに遊びに来るのは歓迎するが、酒だけは飲ませないようにしていた。
……のだが、いつも誰かが悪戯半分に、ユリのジュースに酒を混ぜてみたり、グラスそのものをカクテルと入れ替えてしまったりするので、キングの配慮は毎回、徒労に終わることが多い。
だが、今日は騒ぎ立てるほどストレスはたまっていなかったのか、酒が入るのとほとんど同時に寝息を立ててしまっていた。アルコールへの耐性が極端に低いことだけは確かなようである。
そのユリに酒を飲ませたのは誰か? と、この中で問われれば、おそらく満場一致で犯人にされるのは不知火舞だろう。
舞はユリの一歳年長でしかないが、アルコール耐性は確実にユリの十倍はあるはずである。
酒の強さだけはない。この日も、舞は長い漆黒のポニーテールに赤のミニワンピースドレスを合わせており、いつもスニーカーにジーンズかレギンスというスポーティーないでたちで現れるユリとは対照的な雰囲気を醸し出していた。
酒の嗜み方も対照的である。一気に煽って一気に眠りに落ちるユリとは違い、舞はグラス一杯のカクテルを、時間をかけて楽しむタイプだった。
そんな女性陣の極端なスタイルに驚きつつ、ユリの隣で、金髪の男性が静かにグラスを傾けている。ユリの兄、リョウである。
リョウは妹ほど訪れる機会は多くないとはいえ、それでもイリュージョンの常連の一人だったが、ユリと一緒に飲みに来ることはほとんどない。
ユリの酒癖の悪さを最も知っているのは彼のはずで、わざわざ自ら虎口にとびこむような真似はしないのだろう、とキングは読んでいるが、単に妹と飲みに来るという行為が気恥ずかしいのかもしれない。
そのリョウは、妹と違い、アルコールには強かった。このあたりは父譲りなのかもしれないが、長時間居座ることも多い割りに、キングは彼が明らかに酔ったところを見たことがない。
さて、二人のウェイトレスも早々に帰し、キングは舞との会話を楽しみながら閉店のための準備にとりかかっており、リョウは二人の会話にたまに入る程度で、基本的に静かに杯を重ねている。
ユリは静かに寝息をたてていたが、そのユリの妙な動きに最初に気付いたのは舞である。
いったんグラスを口に運んださいに、カウンターの上に投げ出されたユリの右手が、何かを握ろうとしているように、何度も開いては閉じ、開いては閉じ、を繰り返していた。
「?」
舞が不思議そうにユリを見ているのに、キングも気付き、その指の動きに注目する。
キングが直感的に悟ったのは、それが何かを探しているのではないか、ということだ。
「?」
眠っているユリを刺激しないように、キングは視線でリョウに合図をしてみたが、リョウにも、ユリのこのような癖には心当たりが無い。
なにか夢でも見ているのだろうか。
とにかく、ユリは何かを探しているのは間違いないようだ。微妙だが寝顔の眉間も険しくなっている。
キングは咄嗟に、小さなスプーンを取り出し、ユリの手に握らせてみた。
眠ったままのユリの手が素早く反応し、それを握り締める。
「?」
眠っているというのに、ユリの表情は豊かだ。
握らされたものがなんなのか、しばらく確かめるように握りこんでいたか、
「ん」
どうやらお目当てのものではなかったらしく、スプーンを放してしまった。
これに、どうやら舞が興味を惹かれたらしい。
とりあえず手の届くところにある小物を、色々と自分の目の前に並べてみる。
ボールペン、砂糖のスティック、口紅、イヤリング、携帯電話、グラス、etc、etc……。
片っ端からユリに握らせて反応を見てみようというのだ。
兄のリョウはちょっとだけ眉をしかめたが、とくに何もいわなかった。
まずはボールペンである。これは、ユリは握ってはみたものの、とくに興味を示さずに放してしまった。
砂糖のスティックにも興味を示さない。
次に口紅。
舞はメイクも念入りにこなすので、口紅にはこだわりがある。今日持っていたのも、有名なメーカーの、それなりに高価なものであった。
そのせいか、ユリがまったく興味を示さすに放してしまったとき、舞が自分の口紅を見つめながら、なんとなく悔しそうな表情を浮かべたのは、キングの見間違いではないだろう。
携帯電話にはわずかに反応を示した。少し長い間握りこんでいたが、
「……?」
自分の携帯電話ではないことを悟ったのか、それも放してしまった。
結局、舞が用意した小物の中には、ユリが求めるものはなかったようである。
それからしばらく、ユリは色々と握らされた(遊ばれた)が、どれもユリを満足させることはできなかった。
夢の中では果たしてどういう状況になっているのか、ユリの寝顔の眉間には、徐々にしわが刻まれている。
キングは腕を組んで考える。
ユリが何かを探しているのは間違いないが、それは何なのだろう?
色々と思考をめぐらせた上で、キングはユリに近づいた。
そして、自分の人差し指を、そっとユリの手のひらに触れさせてみる。
「!」
ユリの表情が明らかに変わった。
それまでの怪訝さを含んだ寝顔から、妙に安心したように目じりが緩んだのである。
ユリはしばらくキングの人差し指を握り締めていたが、
「……?」
なにか違和感を感じたのか、不思議そうにキングの指を何度も握りなおすと、少し首をかしげ、結局は放してしまった。
だが、これでキングにはめぼしがついたようである。
「。」
キングが手招きをして、舞に手を出すように指示する。
「?」
舞はキングがしたように、ゆっくりと人差し指をユリの手のひらに触れさせた。
「!」
ユリの表情がまた変わった。
だが、少し警戒しているのか、眉を強張らせ、念入りに舞の指を確認する。
結果が出るのは早かった。
「ん〜!」
なぜか猛烈に嫌そうな顔をしながら、ユリは舞の指を振りほどいてしまったのだ。
「…………」
さきほどの口紅と同じように、自分の指先を不満そうに見つめる舞を見ながら、キングは笑いをかみ殺すのに失敗し、客に背を向けて背後の棚に体重を預けると、しばらく腹を押さえて肩を揺らしていた。
この間、リョウは興味深く女性三人の無言劇を眺めていたが、彼も、いつまでも特等席で眺めているわけにはいかなかった。
「。」
キングが今度はリョウに手招きした。指を出せ、というのだろう。
「…………」
リョウはしばらく間をあけて、首を横に振った。
ユリごしに頬を膨らませた顔を向けている舞が怖かったのもあるが、なんとなく気恥ずかしさもあった。
彼はもう一度首を横に振った……が、彼のささやかな抵抗など、女性陣の前では木っ端微塵である。
「!」
グラスを置いたわずかな隙に、キングはリョウの手を強引にとった。
そして、眠っているユリに、その手を握らせたのだ。
「!」
ユリの表情が三度、反応した。そして、兄の手を強く握り締める。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
誰の手なのかを確かめているユリの表情を、キングと舞が興味深げに覗き込み、リョウはばつが悪そうに顔を背けていた。
四つの沈黙が、深夜の店内を支配する。
そして、ユリの表情が変わった。
「えへへへ……」
心底安心しきったような、緩んだ笑顔で、リョウの手を握りしめていた。
だが右手だけでは安心しきれなかったのか、しばらくすると、リョウの手を、眠ったままの両手でぎゅっと包み込んでいた。
放っておけば、そのまま頬ずりでもしそうなほどの愛着振りである。
「…………」
リョウはしばらくは妹の好きにさせていたが、さすがに気まずそうに目をそらし、ユリの手から自分の手を引っ張りぬいてしまった。
「あ……」
突然、抱えていたものを見失ったユリが、眉間にしわを寄せ、カウンターの上でせわしなく右手を動かした。リョウの手を探しているようだ。
リョウが手を引っ込めてしまったので、リベンジとばかりに、舞が自分の手を握らせてみる。
「あ……」
一瞬、ユリの寝顔が先ほどのように安心しきったものに変わり、舞も思わず勝ち誇りそうになった。
だが、それも長くはもたなかった。
「????」
何度も舞の手を握りなおしながら、ユリの表情が徐々に曇る。そして、
「ん〜!」
これ、違う! ……といわんばかりに、手を放してしまった。
「…………」
手を放された舞のほうは、はんぶん泣きそうな表情で自分の指を見つめている。
ユリのほうも段々不安になってきたのか、情けない寝顔でリョウの手を探していた。
さすがにキングは、この妹のような友人がかわいそうになったのか、リョウに顔を向けて一つ頷いた。
リョウは妹がどんな夢を見ているのか、だいたいわかっているようだ。
やれやれ、と肩をすくめると、今度は自分から、夢の世界で自分を探しているであろう妹に、手をさしのべてやった。
「!」
ユリは、差し伸べられた手を、また念入りに握りしめる。そして、
「えへへへ……」
先ほどと同じ、子供のような笑顔で、リョウの手を両手で握り締め、今度は胸元に抱え込んで丸まってしまった。
二度と放すまいとしているようだ。
おかげで、リョウが引っ張られ、少し妹のほうにつんのめってしまう。
だが今度は、妹の胸元から手を引っ張りぬこうとはしなかった。
その様を、キングは微笑ましく、舞は少し拗ねたような顔で眺めている。
ユリがどんな夢を見ているのか、二人にも理解できた。
ユリの世界が、まだ自分と兄との二人だけのものだった、10年前へのタイムスリップ。
―――― It's a small world.
兄の手を抱え込んで幸せそうに眠るユリを見ていると、舞も怒るのがばかばかしくなってきたらしい。
肩をすくめてひとつ微笑むと、舞はこの日最後のカクテルを注文した。
時間は午前2時。バー、イリュージョンの一日は、静かにふけていく。
(Fin)
この話には、実は元ネタになったエピソードがあります。
どこで見た話かは忘れてしまったんだけど(失礼な)、眠っている嫁に旦那の指を握らせてみたら、物凄く嬉しそうに握り返した、という話。
余りにも萌えてしまったので、思わずユリでやってしまいました。
殆ど無言劇にしたのは、情景だけで見せる、セリフのない漫画のようなイメージでやりたかったから。
できるだけ説明調にならないように気をつけたつもりですが、なかなか難しいですね。
(初稿:11.04.09)