齟齬と咀嚼とおにぎりと

 PPPPPPPPPP……。

 朝。
 それは、万人に等しく訪れる。

 柔らか、というにはいささかきつめの陽光がカーテン越しに部屋に入り、少女の顔を撫でた。

 PPPPPPPPPP……。

「う〜ん……。むぅー……」

 けたたましい音と、無駄に明るい陽光に眠りを遮られ、少女はそれでももぞもぞと頭を掛け布団の中に埋没させていく。
 しかし、一度意識が夢の世界から片足でも出てしまうと、僅かながら脳が醒めてしまうのが人間のと言うものである。

 少女―ユリ・サカザキ―は、94%夢の世界に入ったまま布団からぎくしゃくと起きだすと、顎が外れるのではないかと思えるほど大きな欠伸をし、やかましく吼え続ける目覚まし時計を沈黙させた。

 午前6時。
 いつもどおり、朝食を作りに起きねばならない時間だった。


「ふあ〜〜〜、……ん……」

 ユリはベッドから起き上がってもう一度大あくびをすると、パジャマからTシャツとハーフパンツに着替える。
 この辺、まだ92%夢の中に居るユリは、殆ど慣性で動いていると言って過言ではない。

 いつもと全く同じ時間、全く同じ行動なので、身体が覚えてしまっているのだ。

 やはり昨夜(というか今朝)4時まで、寝転がったまま本を熱心に読み耽ったのがまずかったらしい。
 ……と、ユリが思ったのは、完全に目が醒めた午後のことである。

 ユリは、もう起きているであろう兄と自分の朝食を作るため、夢遊病者のような足取りでキッチンに向かう。

 因みに、起きたままで三つ編みを解いているユリの頭には、豪快な寝癖がついているが、もう18年も一緒に暮らしている兄しか見る者がいないのだから、ちっとも気にしてはいない。
 ……と、ユリが思うのは、完全にいつものことである。


 キッチンは、晴れた朝特有の、爽やかな空気と暖かな光に満ちている。
 そして、さっきまで兄が読んでいたであろう新聞が、テーブルの上に投げ出されていた。

 今、兄の姿は無い。
 恐らく、道場のほうで軽く汗でも流しているのであろう。

 ……と、いうことを、まだ90%夢の中に居るユリは気付くはずも無く。

「ん〜〜〜……」

 もう人間なんだかロボットなんだかわからない動きでキッチンに立つユリ。

 朝ごはんのメニューは、おにぎりだ。
 目が醒めている時は、ご飯にお吸い物か味噌汁、それに更に一品つくのだが、目が醒めていない時や疲れが取れていないときは、専らおにぎりのみである。

 これも、もう長年身体に染み付いた「癖」のようなものであり、ユリの身体はキッチンに立つと自然に動くようになっていた。

「ん〜〜〜……」

 やや緩慢ながら、工業機械のような正確な動きでジャーを開け、商業機械のような正確さで程よい分量のご飯を分け、てきぱきと塩や水、ごまや海苔を用意する。

 ちなみに、毎朝米を研ぎ、炊飯をセットするのは、兄の仕事である。

 ユリは冷蔵庫を開ける。
 おにぎりの中に入れるものをとり出すためだ。
 これまた、ユリはずっと台所の管理を任されており、そのどこに何が入っているか、というのは、わざわざ中身を見なくても解るくらい完璧につかんでいる。

 それは、ユリがまだ89%夢の中に居ようと変わる事はなく、殆ど目を閉じてうつらうつらしたまま、ユリは鮭の切り身や自家製の梅干を取り出した。
 ……つもりだった。


 例えそれがおにぎりと言えど、ユリの手さばきは見事なものである。
 それは、パオパオカフェを経営するリチャード・マイヤや、イリュージョンを経営するキングが、料理の専門家として、秘かに彼女をスカウトしようとしていた事実ひとつでも明らかだった。

 完璧な手さばきで、黄金比といっても良い完璧な三角形のおにぎりを三つ作り終えると、ユリは兄のためにそれにラップをかけ、テーブルに置いた。
 自分のぶんも作るはずだったのだが、一時14%まで覚醒していた意識は、再び眠りの神の誘惑に乗ろうとしていた。
 そしてそれは、ユリ本人ではあがらえないほど甘美なものであった。

 ユリはテーブルに突っ伏すと、そのまま眠りのきざはしを昇り、再び静かに寝息をたて始めた。


 兄のリョウが軽く汗を流し、シャワーを浴びてダイニング・キッチンに入ってきたのは、その直後のことである。

 リョウは何かを言おうとして、幸せそうな寝顔で寝入っているユリを見つけると、卸したての新しいタオルケットを、ユリの肩からかけてやった。
 そして妹を起こさぬよう、静かに席に着くと、静かにおにぎりのラップを剥ぎ取り、それに豪快にかぶりつく。

「???」

 奇妙な感覚がリョウの舌を直撃したのは、次の瞬間である。

 確かに、味はある。
 味があるのだが、それを包むご飯の歯触り舌触りと、感覚として殆ど違わない。
 決して不味いわけでないが、少なくとも、いつもユリが作ってくれるおにぎりとは、明らかに似て非なるものであった。

 なんだろう、これは?
 リョウは、とりあえず口に含んだ一口をよく咀嚼して飲み込むと、自分がかぶりついたおにぎりの断面に視線を移した。

 そして、リョウの目に飛び込んできたのは。

 程よい力で、完璧な三角形にかたどられたご飯の中に入った。

 ……………………赤飯だった。

(………………。「米・イン・ザ・米」か)

 リョウは思わず、革新性とも芸術性とも無縁な感想を思い浮かべた。
 そして、首を傾げた。

 確かにユリは、普段から各種料理を大変上手に作るが、同時に新しい料理の研究も行っている。
 それはリョウも知っているし、新レシピの試食に付き合うこともしばしばある。
 だが、それらは少なくとも、真面目に料理として研究・製作されたものであり、「なんでも食えればOK」という雑食性極まったリョウにも「美味い!」と太鼓判を押される程のものである。

 ……その評価基準が果たして自慢になるかどうかは、リョウ自信も疑問だが。

 では、実際の産物として今、彼の手中にあるものはどうか?
『米料理を米で包む』という発想は、少なくともリョウの想像力の範疇を超えている。
 だが、ユリの想像力と発想力は、時に兄の想像を軽く超える。
 こと自分の専門分野のカラテにおいて、ユリは幾度もリョウを驚かせてきた。
 また、重要な事実として、リョウには料理の知識は余り無い。
 だとすれば、これはリョウには解らなくても、ユリの知識と能力との双方をもって真摯に編み出された、新たな産物ではないのか?
 そこまで考え、リョウは居住まいを正した。

 そして、恐らくはユリの新たなレシピであろうそのおにぎりを、真摯な気持ちで口に運んだ。
 彼には、妹の新レシピに対して、感想を述べねばならないという、重要な役割があったからだ。
 ちなみに、残りの二つに入っていたのは、赤飯と焼きリゾットだった。
 後者は恐らく、昨晩の残り物であろうと思われた。


「ふぁ〜〜〜あ…………んん…………」

 ユリが大きく伸びをし、何とか目を覚ましたのは、それから3時間ほど経ったあとである。

 ユリは、まだ幾分ぼ〜っとする視界で辺りを見回す。
 ここがキッチンであることに気付くのに10秒かかった。
 そして、時計が午前10時を指しているのに気付くのに、更に10秒が必要だった。
 そして、現在の時刻を脳内思考で幾度か咀嚼して、ようやく、今自分がどういう状況にいるのか気付いたのである。

『もう10時か……。
 掃除して買い物して、道場を手伝って……。
 今日も忙しくなるな』

 ユリは一つ背伸びをして肩に手を回し、自分にタオルケットがかけられていたことにも気付く。
 それは、兄がかけてくれたものであることは、一目瞭然だった。
 ユリは、こうしたリョウの何気ない優しさを好いていたから、自分が家族のために行う家事の仕事を辛いと思ったことは、余り無かった。


「さて、それじゃ、今日も頑張りますか!」

 気合を入れ、ユリは勢いよく立ち上がり。

 そして、自分の目の前に置かれていたメモに気付いた。

「?」

 手に取って、ざっと視線を走らせる。
 それはリョウの筆跡によるものだった。


【 Although the new way of thinking of this rice ball is brilliant, it will still be able to improve surely. It will become still better if the balance of the taste etc. is considered well. 】

【日本語訳】
『このおにぎりの斬新な発想は買うが、まだ発展の余地がある。味のバランスなどを、よく吟味すれば、更に良いものになるだろう』


「????????」

 ユリは、呆然としてそのメモを読み返した。

 斬新な発想? 発展の余地? 味のバランス?
 ユリが作ったおにぎりは、本人の記憶では鮭と梅干のおにぎりのはずである。
 それに対して『 this rice-ball is brilliant 』などと反応を返す兄は、どう考えても常軌を逸しているとしか思えない。

『あたしの知らないところで、ヘンなものを拾い食いでもしてるんじゃないでしょうね……』

 なんとなく背筋にウスラ寒さを覚えながら、ユリは身支度のため、自分の部屋に戻った。


 ユリが、冷蔵庫を見て自分のミスに気付いたのは、買い物から帰った昼過ぎのことである。

(Fin)

COMMENT

 ただ「米・イン・ザ・米」「this rice-ball is brilliant」の一言が書きたかっただけでできたという。

(初稿:06.06.21)