熱い。普段とは違い、どうも今日は湿気が高いようだ。天気予報を確認してこなかった自分を呪う。
 アッパー・サウスタウン・ベイからの海風が、林立する高層ビルの間を抜けて、暑さを街中に運んでくる。太陽はそんな様子を咎めもせず、ただ万民を平等に照らし続けていた。
 午前11時、彼女は動きやすいスポーティーな衣装で、身軽に街を闊歩しながら、顔の汗を拭いた。それでも、他の市民に比べればその歩幅が活動的に見えるのは、彼女のアクティブな職業柄だろうか。
 それとも、腰まで届く長い髪を一本に編み上げた、三つ編みが風に揺れる姿があまりに魅力的だからだろうか。
 今は確かに熱いが、彼女の目的地に着きさえすれば、嫌でも涼しくなるはずだ。その場所の「主」が、しっかりと冷房を効かせてくれているはずだから。
 その期待感が、彼女の体内の温度を少し下げていたのかもしれない。

 7月29日午前11時、こうして彼女は自宅から30分ほど歩き、目的地の前にやってきた。
 彼女にとっては、懐かしさと未来、期待と不安、喜びと涙、喜びと悲しみ、敵と仲間……。
 すべてを内包している店である。

「イリュージョン」

 彼女、ユリ・サカザキは、ゆっくりとそのシックな木目の扉を開いた。

Days of True Memories 01

KEEF

 イリュージョンはサウスタウンに近年設立されたバーである。イギリスのロンドンの郊外に一号店があり、海を越えてこの街に二号店として開店した。
 店主の趣味か、派手な要素を極力抑えたシックな雰囲気で、夕方から酒と軽食を提供するが、店主の気まぐれで知り合いのために昼から軽食を提供する為に開けていることもある。
 すべては店主の気の向くまま。そんなオールド・ロンドンの空気を感じていると、店主が実はフランス人の、しかも女性だという事実に、何も知らない客は驚くかもしれない。
 この女性店主がバーテンダーも兼ね、店を切り盛りしている。女店主がロンドン一号店にいるか、このサウスタウン二号店にいるか、それを知る者はいない。

 すべては店主の気の向くままに。「イリュージョン」はそういう店である。
 彼女ユリ・サカザキが今日、この店を訪れたのは、きっと今日なら店主がいると確かな予感があったからだ。
 そしてユリは三つ編みをエアコンの風になびかせながら、その静かな店内に声をかけた。

「キングさん、こんにちわ! 今日はいると思ったんだ!」

 場違いなほど明るい声を上げて、ユリは店内に一歩を踏み出した。
 そこにはマスターのキング以外にも、意外な面々が揃っていた。

「ユリ、あまり気安く騒ぐんじゃないよ、ここはバーなんだから」

 カウンターの中でグラスを磨きつつ胡乱な表情で見つめた金髪の長身の女性は、キングだ。この店を切り盛りするマスターで、バーテンダーも兼ねているが、本業はれっきとしたファイターである。
 いつも正装のスーツ姿でいるキリッとした女性で、彼女の私服姿というものをユリは見たことがない。
 戦いとなれば敵にも味方にも容赦しないナイフのような一面があるが、同時に彼女の存在そのものが強大な説得力を持っている。
 サウスタウンにおける若い女性ファイターたちの教師役、まとめ役にいる、といわれれば、キング自身が納得しづらい表情をするかもしれない。
 キング自身、まだ20代半ばにも届かないのだから。

「まったく、こんな店で大きな声を出すなんて、やはり極限流には品位がありません!」

 カウンターでそう呟きつつグラスのストローをつついているのは、藤堂香澄だ。ユリと同じく腰まで届く黒髪をそのまま伸ばしているが、日米のハーフのユリと違い、香澄は純血の日本人である。
 ユリの所属する空手団体(というよりも総合格闘技に近いが)の極限流空手と二代にわたって因縁がある。
 香澄も一時期は、休暇を利用してはわざわざ日本からサウスタウンを訪れ、極限流に道場破りに来ていた。

「今日もミス・カスミ・トードーが道場破りに来たそうな」

「そういえば、もう秋だな」

 などと、極限流の道場の中で時候の挨拶のように言われていたなどと知ったら、香澄は怒るかもしれない。
 現極限流空手総帥代行で、ユリの兄でもあるリョウ・サカザキが、またクソまじめに道場破りの相手をするものだから、香澄の対抗心を煽ってしまった一面もあるらしい。
 香澄にとっては極限流というよりも、すでにリョウ・サカザキ個人に挑戦しに来ているようなものだったのかもしれない。香澄に大して彼はいつでも高く、そして巨大な壁だった。

 そんな香澄を脇の円形テーブルから一目見て微笑んだのは、二人の女性だった。
 二人とも香澄と同じくらい髪を美しく伸ばしているが、一人は長身で黒髪をポニーテールにしている。もう一人はけぶるような金髪をストレートに流していた。
 黒髪のほう、不知火舞は、ユリにとってキングとともに最も親しい友人の一人だ。
 突然の出会いだったとはいえ、世界的な格闘技の祭典「キング・オブ・ファイターズ」に最初にチームを組んで出場した間柄であり、現在まで流動的ながらも続く「女性格闘家チーム」の礎をユリ、キングとともに築いた。
 艶やかな衣装、艶やかな容姿、艶やかな性格、そして艶やかなファイトスタイルは、異性も同性も魅きつけてやまず、すでに「女性格闘家」という範疇に収まらない「不知火舞」という一ジャンル、一ブランドを構築していると言えた。

 そして、もう少し小柄な金髪の女性は、どこかのハイスクールの制服にも見える紫紺のワンピーススカートを着ており、舞よりも少し幼い表情に、絶えない微笑を浮かべている。
 四条雛子というその女性は、年齢的には香澄と同年の高校一年生であった。四条家という由緒正しい富豪の娘であるらしいが、詳細なことは本人が語らないので、ユリたちと同じく格闘技をたしなみ、しかもそれが「相撲」であるという彼女の事情を深く知っている者はあまりいない。
 決して好んで秘密主義を採用しているわけではなく、訊かれていないから答えていない、というだけのことらしい。
 むしろ雛子本人は、不思議な精神世界の住人ではあるものの、コミュニケーション能力はかなり高いほうである。相手がいつも雛子のペースに巻き込まれて、話をうやむやにされるだけなのだ。
 この四条雛子も、ユリとは親しい「女性格闘家」であった。

 ユリは舞と雛子に一礼すると、香澄の許可もとらずに彼女の隣のカウンター席に腰を下ろした。香澄が、ややムッとした表情を見せたが、ここで騒ぐのも大人気ないと思ったのだろう、なにも言わずにまだ十分に中身のあるグラスのストローをもてあそんでいる。

「そういえば最近、香澄ちゃんが道場破りに来ないって、お兄ちゃんがさびしがってたよ」

 その一言がわずかに香澄の動きを止め、その瞳を少しだけ開かせたが、その香澄の微妙な変化にキングもユリも気づかなかった。
 キングが三角形の長足のグラスに、オレンジ色の液体を注いでユリの前に差し出した。
「シンデレラ」。おそらく、世界で最も有名なノンアルコールの「カクテル」である。
 オレンジジュース、パイナップルジュース、レモンジュースをそれぞれ1:1:1の割合でビルドしてあり、レモンとパイナップルの酸味が、オレンジの甘みを程よく抑えている。
 未成年のくせに子供扱いを嫌うユリの性格を読んで、キングがユリが来た時に毎回出しているものであった。

 出されたグラスを一気にあおって体内の温度を強制的に下げると、ユリは改めて周囲を見渡した。このあたりの動作にはまだまだ子供っぽい大きさ、大げささが残っている。キングや舞がユリを放っておけない理由の一つかもしれない。

「それにしても、夏休みのシーズンとはいえ、平日の昼にしては珍しい組み合わせだね。
 香澄ちゃんと雛子ちゃんはいっしょに日本から来たの? まさか、なにかの計画の相談とか?」

 ユリの一言に、香澄とキングの動きが一瞬止まり、舞は明らかに苦笑した。雛子は相変わらず変わらぬ微笑を浮かべている。
 自分の一言が最初からことの真相をえぐっているとは、さすがにユリも思わなかったが、このときはそこまで理解する術もない。
 キングはすぐに元の表情と動きに戻ったが、香澄はわざとらしく咳を一つして見せた。
 舞が苦笑したまま赤と白の派手な扇子を大きく上下させ、ユリにヒントを出した。

「ユリちゃん、今日は何月何日?」

「え、7月28日でしょ?」

 ユリは言ってから気づいたが、日本の高校では7月の末から夏休みのはずである。とすると、香澄も雛子も、夏休みに入ると同時にわざわざアメリカに来たのだろうか。
 舞のヒントは続く。

「そ、もうすぐ8月ね。じゃあ、このメンバーの共通の知り合いで、8月の最初にイベントがある人がいます。誰でしょうか?」

「舞!」

 軽々しく口を開く舞をけん制しようとしたのか、キングが低い抗議の声をあげたが、残念ながらそれには彼女の足技ほどのキレがない。
 香澄も無言の抗議を舞いに向けているが、彼女は日本の旧来の常識を母親から叩き込まれているから、一歳でも年長なら相手に粗雑な声をあげたりはしない。敵ならば別だが。
 ユリは非常に勘の鋭い娘である。舞のヒントが二つも続けば、カウンターのあちらとこちらの二人の百面相を他所に、真実にたどり着くのは難しいことではない。

「あー、まさかお兄ちゃんの誕生日!?」

 最初は純粋に驚きの表情を浮かべ、二瞬ほどの間をおいてユリは目元に少し意地悪な要素を乗せた。
 8月2日、それはユリの兄、リョウの誕生日である。

(To be continude ...)

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(初稿:18.11.22)