Alternative

 ユリは最近、自室に篭ることが多くなった。
 別に、兄のリョウとケンカをしたわけじゃない。リョウに原因があることは間違いないのだが、別に彼が悪いことをしたわけじゃない。
 だが、普段は色々と賑やかなユリがここのところ静かなので、リョウだけでなく、ロバートや極限流の弟子たちまで心配している。ロバート以外は言葉には出さないが、心配と驚きの視線を交し合った。
 当のユリは、心配したロバートの言葉にも生返事を返すばかりで、心ここにあらずといった感じだ。
 ユリは、考えていたのだ。自分の将来のことを、彼女なりに、真剣に。


 事の発端は、一週間前だ。
 8月2日、リョウの22歳の誕生日である。実は、リョウはこの時までに、ある重大な決断を下していた。

 日本人の父と、アメリカ人の母を持つリョウとユリは、当然ながら日米のハーフである。
 これはこれで、別に何も言うべきことは無いのだが、両親の何れかが日本人である場合、その子供にはちょっと困った問題が、成人した直後に起こる。

 それは、国籍の選択である。

 どういうわけか、日本の憲法によると、片親が外国人の子供は、22歳になると両親の国籍のどちらか片方を選択しないといけないのだ。

「馬鹿馬鹿しい」

 と、リョウは一言だけ呟き、ユリもそれに賛同した。なぜ両親の祖国の、どちらか一方を選択し、どちらか一方を捨てなければいけないのか。
 先進国の中で、こんな馬鹿げた法律があるのは日本だけだ。そこにどんな事情や利点があるのかは、ユリは知らないが、自分が生まれた日本と、自分が育ったアメリカのどちらかの国民ではいられなくなる、という事実は、ユリにとっては、少しショックだった。
 もちろん、自分が現在生活しているアメリカは大切な国だ。極限流の本拠地があるのはもちろん、思い出も、家族も、友人も、ユリにとって大切なもの全てがこの国にはあるのだ。
 だからといって、日本が大切でないわけでもない。父・タクマの実家や祖父母の墓は日本にあるし、アメリカに負けないくらい大切な友人がたくさんいる。彼女たちに会うのに制約ができる、そして友達と違う国の人間になる、ということは、ユリにとっても重大な問題だった。

 そして、当のリョウである。
 ユリは、リョウが少しは悩んでいるのかと思っていたが、ユリから見れば、リョウはわりとあっさりと国籍を選択してしまったのだ。
 リョウの選択は、アメリカ、だった。父と自分の祖国を切っても、今自分がいる国を選んだのだ。
 ユリは、リョウが一言も自分に相談してくれなかったことにちょっとショックを受けながらも、数年後には自分が選択をしなければいけない境遇であることに、平成でいられなかったのである。

 若さゆえの焦りもあってか、現在18歳のユリにとって、残りの4年間が、決して長い時間であるとは思えなかった。


「ん……」

 小さく声を上げると、ユリはゆっくり顔を上げ、小さく欠伸をした。
 どうやら、考えがまとまらないまま、デスクで眠ってしまったらしい。

(いけない、いけない)

 ユリは慌てて鏡を見る。
 クマはできていないが、頬には見事に、枕代わりしたのであろう腕のあとが、くっきりと残っていた。

(あっちゃー……)

 ユリは慌てて頬をマッサージしてみたが、だからといって、自らの行為のあとがすぐに消えてくれるわけでもない。
 逆に慌てるあまり眉間にしわが寄ってしまいそうだった。

(あうー……)

 ユリは、自分の浅慮を呪いながら、デスクに突っ伏す。

 最近、この手の居眠りが増えた。ユリにとっては、殆ど初めての経験だ。
 もちろん、ユリだって年頃の女の子だから、他に悩みが無いはずがない。
 しかし、生来前向きで楽天的なユリは、あまりくよくよ悩む、ということとは縁がない。
 (ま、どーにかなるさ)と、大物振りを発揮して、どんと構えていることが多い。
 もっとも、リョウに言わせれば「なにも考えていないだけ」と一刀両断である。
 もちろん、両親の代わりにユリを育てたリョウは、なにもかもを解って言っているのだが、ユリにしてみれば「ちょっと待て」と文句の一つも言いたくなるのだ。リョウにデリカシーが無いのはいつものことだから、いちいち文句を言っていてはキリがないのだが、それでも年頃の女である妹の心情をちょっとは察してくれないと困るのである。

 それでも、ユリにとっては、今回の出来事は大きい。
 兄は、日本ではなく、アメリカを選択した。ならば自分はどうするべきなのか。
 もちろん、リョウにはリョウの考えがあったには違いない。しかし、自分の決断についてリョウは普段からあまり多弁ではない。この辺、まだユリの幼さが、彼女の想像の翼の届く範囲の限界を狭めていた。
 あまり語らないリョウの考えが、ユリには解らなかったのだ。

 確かに、ユリは格闘家として、「無敵の龍」と言われる兄も認める、豊かな才能に恵まれている。その屈託のない明るさをさして、将来の大物振りを予言する大人もいる。
 しかし、その実、ユリはまだ18歳の女の子である。社会的な視野は、まだまだ狭い。
 一人で悩んでいる自分。実はことの重大さの全てを理解しきれていないとわかっているのに、一人で慌てている自分。そして兄の考えが理解しきれない自分。すべてが、ユリにはもどかしかった。

 ユリは、デスクに顔を突っ伏したまま、視線を横にずらす。
 そこには12年前、自分と兄、そして両親の四人で撮った最後の写真が、大切に写真立てに入れられている。中では、今は亡き母・ロネットが、優しい笑顔で子供達の肩を抱いていた。しかしその笑顔は今、ユリの悩みを聞いてはくれない。

 一つため息をついて、顔を逆に向けると、ユリの目に午後8時をさしたデジタル時計が飛び込んだ。

「いっけない! ご飯作らなきゃ!」

 ユリはそれまで脱力していたのが嘘のように、勢いよく立ち上がる。……立ち上がって、もう一度鏡を見る。
 顔には、腕のあとがはっきりと残っている。

「…………………………………………」

 ユリはちょっと顔をしかめると、引き出しからコンパクトを取り出し、頬に軽くファウンデーションを塗ってから部屋を飛び出した。


 さて、今晩のメニューは、あさりのピラフ、ひらめのボンファム、さやいんげんのベーコン巻き焼き、そしてレタスのコンビネーションサラダである。
 ユリ本人にも、ややバランスがとれていないように思えたのだが、冷蔵庫の余り物を吐き出して作ったにしては上出来だったので、満足はしていた。
 いくら自分が落ち込んでいても、近所のファミリーレストランに行って、長時間待たされた挙句に、安価チープ不味まず料理ディナーを食べることを思えば、片時の手間如き、惜しむべきではなかった。

 リョウはどちらかといえば日本食びいき、ユリは洋食好きと言うことで、サカザキ家の夕食は、一日おきで和洋が続き、たまに和洋折衷になるのがお決まりである。
 もっとも、リョウは基本的に出されたものは何でも平らげるし、このジャンルにかけてはある意味、格闘以上にプロ魂を持つユリも妥協しないので、食事のことでサカザキ兄妹が揉めることは殆ど無いと言っていい。
 唯一の例外が、甘口のカレーであるが。

 夕食を終え、一息ついたとき、ユリは思い切ってリョウに質問をぶつけてみる事にした。
 やはり、答えの出ない思考の迷宮をうろつくことに、ユリは自分でも不毛さを感じていたのである。

「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」

 テーブルの対面に座るリョウは、読んでいた新聞から目を離し、ユリにその目を向けた。

「なんで……、こっちアメリカだったの?」

 ぽつりと漏らすような声の質問に、リョウの視線に、やや訝しげな光が入り込んだ。

(なにか、問題でもあったか?)

 そう言われたように感じて、ユリは大慌てで両手を振った。

「ああ、いやいやいや。深い意味はないんだけどね。ただ、なんでなのかなって、ちょっと気になったから……」

「そうか」

 リョウは何か思っているようではあったが、一度視線を下げ、新聞を適当に畳みながら、こちらも大きいとは言えない声で、一言だけ答えた。

ここアメリカには、母親おふくろの墓があるからな……」

 そのたった一言が。
 ユリの重かった心の、少なくとも欠片の一つを、落としたように感じた。

 ああ、そうか。
 お兄ちゃんにとって、これは選択肢(オルタナティヴ)じゃなかったんだ。
 たぶん、ずっと昔からの、お兄ちゃんの決意(デターミネーション)……。今になっては、事実の追認でしかなかった。
 だから、相談するとか悩むとか、そう言った次元の話じゃなかったんだ……。

 それは、普段からユリ自身も理解していると思っていたことだった。何故、気付かなかったのだろう?
 そんなことも忘れるほど、視野が狭くなっていたのだろうか。

 リョウは続ける。

「俺は、お袋の事故を間近で見て、騒動の最初から最後までを憶えてる、多分唯一の人間だ。その俺が、お袋の墓の傍を離れちゃ、親不孝だと思ってな。
 ただ、それだけだよ」

 その時、同じ場所にいながら、事故のことも母のことも記憶していないユリに気を使うように、静かな物言いながらも、リョウははっきりと言い切った。

「そっか……。そうだったんだね……」

 言いながら、ユリは安心したように、小さなため息を吐き出した。
 まだ、自分の考えが纏まったわけじゃない。けれど、リョウの「決断」の理由と真意とが、その絡まった思考のほつれを解くのに、一定の方向性を与えてくれたことも、確かな事実だった。

 わからなかったリョウの考えはわかった。あとは、ユリ自身が考えることだった。

「少しは、参考になったか? ユリ」

「え??」

 突然言われて、ユリは目を白黒させて、視線を兄に向けた。

「えーとぉ……、ひょっとして、ばれてた?」

「当たり前だ」

 リョウは苦笑気味に顔を綻ばせながら、軽く頭をかいた。

「お前が悩んでいたのは、俺だけでなく皆知ってた。ただ、その時期を遡って考えて、これが原因じゃないかとは思ってたよ。
 もっとも、ロバートも、薄々は感づいてたみたいではあるけどな」

「そっか……」

 なーんだ、と、ユリは少しだけ損した気分になった。
 こんなことなら、やっぱり最初から、リョウかロバートに相談でもしていればよかったんだ。悩んだことが時間の無駄、とまでは思わないけど、あんなに自分に惨めな気持ちを持たずにすんだのに。

「まぁ、ちょっと真面目な話をするとな」

「うん」

 ちょっと取り澄ましたリョウの物言いに、ユリも自然と姿勢を正す。

「このことに限った話じゃないが、お前が色んなことで悩み、それを解決しようとした時、色んな知識や意見が、お前の耳に入ってくるだろう。
 俺は、それらを全部取り込めとも、全部無視しろとも言わん」

「わかってるよ、お兄ちゃん。自分で考えて、自分で決めるんだよね」

 それは、幼い頃より、リョウがユリに言い聞かせてきたことだった。
 自分に関わることを最終的に決めるのは、自分自身に他ならない。だから、そんな時に迷わないために、真面目に勉強して、多くの知識を得るように、と。

「そうだ。俺は昔に、自分で自分の道を決めて、そのことに後悔はしていない。
 お前には、まだ時間がたくさんあるし、たくさんの道がある。それまでに、決断する時に困らないだけの知識と、それを取捨選択する力を磨いておけばいい。
 今はまだ、慌てることは無い」

「うん」

「だけどな……」

 言うと、リョウは少し身を乗り出して、いきなりユリのおでこに軽めのデコピンをかました。
 ぽこっ、という実にいい音が響く。
 いきなりのことに、ユリは防御することができず、まともにそれを受けて、思わずおでこを押さえた。

「痛ーい! なにするのよ、いきなり!」

 けれど、リョウはそ知らぬ顔でユリの抗議を聞き流すと、平然と座りなおす。

「おまえな、自分で解決できそうにないと思ったときは、迷わず周囲に相談しろよ。
 お前がふさぎこんでる時、俺もそうだが、ロバートも門下生のみんなも、けっこう心配してたんだぞ」

「う……、ごめん……」

 ちょっと小さくなって、ユリは俯いた。
 おでこには、しっかりとデコピンのあとがついている。指先で軽め、とはいっても、「無敵の龍」と呼ばれる格闘家の腕力である。そりゃあ、あとだってつこうというものだ。

「男に相談しにくけりゃ、キングや舞ちゃんだって、周りにはいるんだ。自分で決断することも勿論大切だが、周囲に心配をかけさせない、というのも、大切なことだぞ?」

「はぁい……」

 しゅん、とすっかり小さくなってしまったユリを見て、「言い過ぎたかな?」と、リョウは思う。
 ユリにとって、リョウの言葉が常に重い意味を持つのは、ユリ自身が自覚している以上に、彼女が兄に対して信頼と尊敬の念を抱いているからだが、当のリョウ自身は、これまた自分が思っている以上に、ユリに対しては甘いのだった。
 リョウは静かに立ち上がり、ユリの隣をすれ違いざま、その頭を軽く撫でてやった。

「ま、今回のことはもういいさ。晩メシの後始末は俺がしとくから、今日は早く寝て、明日、道場のみんなに、明るい顔を見せてやれ。
 お前が暗いと、どうも道場も暗くなるし、ロバートにも覇気が無くて困る」

「うん、わかった」

 ちょっと微笑んで、ユリは頭を撫でていたリョウの手に自分の手を合わせ、そして……。

 勢いよく立ち上がりながら、ユリは掴んだリョウの腕を引き込んだ。
 リョウは思わず、ユリのほうにつんのめる。

「デコピン、おかえしぃ!」

 自分のほうに倒れてきたリョウのおでこに、逆の手で、思いっきり引き絞った弓の如きデコピンを、躊躇無く弾いた。
 ぽこっ、ではなく、ばちん!という、すごい音がダイニングに響く。

「ぐぼぁ!」

 リョウは思わずおでこを押さえながらも、なんとか倒れずに体勢を立て直すが、その隙に、ユリは軽い足取りで、ダイニングのドアのところまで離れてしまっていた。

「ユリ、お前な!」

 なんと言っていいかわからず、でもとりあえず何か言ってやろうと、リョウがユリに視線を向けると。

「お兄ちゃん、ありがとー! 後片付け、よろしくー!」

 実に楽しそうな声を響かせて、ユリは既に走り去っていた。

 リョウはおでこを押さえたまま、呆然とした後。思わず、苦笑した。

「まったく、あいつは……」

 ま、ある程度元気を取り戻したんなら、良しとするか。

 そして夕食の後片付けをするために、システムキッチンのほうに足を向けるのだった。


 翌日、道場には、元気なユリの姿と、それを安堵するようなロバートと門下生と姿があった。

 ユリの悩みが消えたわけじゃない。しかし、その意味と、重さは変わった。
 いつか決断の時は来るし、それまでに考えなければいけないこと、知らなければいけないことは、沢山ある。
 ロバートとのこと、リョウのこと、両親のこと、そして、友達のこと。
 でも、それまでの心の持ちようが解っただけでも、今回ふさぎこんでいたことが無駄ではなかったと、ユリには思えるのだった。
 ユリは、孤独ひとりではないのだから。

 もっとも、おでこについたデコピンのあとのことまでは、ロバートにしか語らなかったけれども。

(Fin)

COMMENT

 さて、今回は、KOFでのユリやリョウのプロフィールに「国籍:日本」とあるのがちょっとだけ違和感を感じて、書いてみたものです。
 ユリはまだ決断していませんが、どちらを選ぶのでしょうね?

(最も、リョウもユリも生まれは日本なので、「国籍:日本」で何もおかしくはないのですが)

(初稿:05.06.23)

追記

 ちなみに、この小説から五年後に出た「KOF13」の女性格闘家チームのストーリーで、ユリがアメリカ国籍を取得しているらしいことが、ユリ自身の口から示唆されてます。
 そんなわけは無いと思いつつも、個人的にこの小説に対するアンサーが公式に示された気分で、なんとなく嬉しかったです。

(追加:10.08.22)