GOODBYE TO SADNESS

アンチ極限流チーム、その後

(註……この小説には独自解釈とショッキングなシーンが含まれます。ご注意の上でお読みください)

1

 パクス・キョクゲニカ。
 この時代に生きるにおいて、この言葉を実感していない者はいないだろう。「極限流世界の平和」という意味だ。
 元となったのは18世紀のイギリスの学者エドワード・ギボンが著書「ローマ帝国衰亡史」の中で用いた「パクス・ロマーナ」――ローマの平和である。
 当時、人類最大の帝国であったローマが最も幸福であった五人の皇帝(五賢帝)の時代。ギボンはそれを「人類が最も平和な時代」であったと考え「パクス・ロマーナ」という造語を用いた。
 これに類する言葉は世界中に散見される。東西冷戦時代には、ソヴィエト連邦の勢力化で東側諸国に戦争がなかった時代を「パクス・ソヴィエティカ」といったし、その後アメリカ合衆国の軍事力を背景に平和が成立した時代の事を「パクス・アメリカーナ」という。
 また、日本の経済力が裏から世界平和を支えていた、と考えて「パクス・ジャポニカ」という言葉を使う経済人もいるが、これを含めても、「パクス〜」という言葉は世界の限られた地域でのみ成立していたことは明らかだろう。
 ソヴィエティカもアメリカーナも、その国の力の及ぶ地域の中での平和であり、実際に世界から闘争がなくなった時代は存在しない。

 その言葉の意味する理想にもっとも近いのが現在、パクス・キョクゲニカの時代であろう。
 二○○X年、読者既知のとおり、地球は核戦争の時代に入った。「MAD」――「相互確証破壊」の名の下に世界にためこまれた、人類を数回滅ぼしてなお余りある核兵器は、存分にその力を、創造者である人類の頭上に炸裂させた。
 その戦争の原因がなんであったか……それを知るには、残された我々はすでに疲れ果てている。領土問題であったか、金銭問題であったか、はたまた移民問題であったか……そんなことはもうどうでもよい。
 結果的に、戦争を始めた国はその責任をとる形ですべて消え去り、世界の大地は荒野に変わった。かつて八十億をこえ、人口爆発によって地球を滅亡の危機に陥れた人類は、その数を五億弱にまで減らすことになった。自業自得――それが、人類を含めた全生物の見解ではあっただろう。

 だが、人類は滅亡の危機に瀕しても、大絶滅の危機感におののいていたわけではない。
 結局のところ、神は降臨せず、仏陀も再臨せず、預言者たちは空虚な言葉を並べ立てるばかりで、宗教はかつての存在感を著しくなくしてしまったが、救世主が現われなかったわけではない。
 それが北米に拠点を構えていた小さな格闘技の道場だった。「極限流空手」という。
 彼らはかつてアメリカの他、メキシコやブラジル、台湾などに支部を構え、護身術を細々と教えて、何十人かの生徒の身を護ってきたようだ。それが世界戦争の時代になって、世界規模に広がっただけのことだった。
 彼らの用いる魔術のような摩訶不思議な技は、それを習得した者達に、最先端の軍事兵器に並ぶほどの戦闘力を与えた。だが彼らは、それを攻撃のためには決して用いなかった。
 かつて、その屈強な力を破壊に転用した人間はいくらでもいる。歴史表を紐解いてみるがよい、そのような人間の名をすぐに両手の指以上に発見できるだろう。
 だが極限流空手のリーダー、リョウ・サカザキは、その力を破壊に転用することを厳しく禁じた。極限の力は、極限の防御のみに用いられるべきである。彼らはそのモットーを口癖のように言い続け、それを破る身内の者に厳しすぎるほどのペナルティーを与えた。
 コオウケン、リュウゲキケン、ザンレツケン、コオウ、リュウガ……そういった魔法のような奥義を、彼らの弟子の全員が会得したわけではないが、彼らのもつ爆発的な守護の力は、生き残った人間に希望を与えた。
 極限流空手が進んで自らの力を誇示したことは一度もなかった。しかし、その極限の力は心の力となり、乾いた大地に水がしみこんでいくように、乾いた人々の心に希望をしみこませていく。

 そして気づけば、戦争終結時に人類を導いていたのは、実質的な極限流総帥リョウ・サカザキと、彼を補佐する二人の男女だった。
 生き残った五億の人類のうち、極限流空手の門下生、およびその息のかかった者、四億九千七百万。実に全人類の九九・四パーセントに及んでいた。
 極限流が戦争を終結させ、世界を平和に導いた。誰も口にしなかったが、それが全人類の当然の認識であった。それを良くとるか、悪くとるか各自の主張によるが、悪く取る人間はごく一部であった。
 当然のようにリョウ・サカザキは新たに設立される人類の統一政体のリーダー就任を打診された。
 彼は元来、自分の身を衆目に晒し、大手を振って自己主張するような派手さとは無縁な若者である。彼をよく知る者は、彼が人類のトップに立つという決断を即座にするとは思えなかったし、話を受けるにしても、トップの座から一歩引いた立場に立つのではないかと思っていた。

 彼らの予想通り、リョウ・サカザキはかなり迷った。
 普通の精神の持ち主なら、全人類を思いのままに動かせる途方もない権力を手にできると分かれば、一瞬の間もおかず、諸手を挙げて受け入れるだろう。当然、立場にはそれ相応の責任というものが付属してくるものだが、彼らはあまりに強大な恩恵の前に、責任という言葉を簡単に忘れてしまう。
 往々にして、このようにして暗君・暴君というものは誕生する。いや、世界の歴史というものを紐解いてみれば、むしろ名君として名を響かせ、名君のまま消えていく者のほうがはるかに希少である。暗君として生まれ、暗君のままに死んでゆくか、名君として称えられながら最後は暴君として歴史の闇に散っていくか、そうした例のほうが多い。
 なぜか。多くの人間は、「名君」であり続けるための判断の連続に耐えられるほど、精神が潔癖でも頑丈でもないからである。名君という潔癖さを維持するよりも、そこから堕ちる決断のほうが遥かに楽なのだ。
 そうして、権力の大きさに比例するだけの数の人間を巻き添えにしつつ、名君は地に堕ちる。

 リョウ・サカザキが自分の未来のことをそこまで考えていたかどうかは不明である。しかし、彼は一週間ほど周囲を待たせ、ついに人類のトップに立つ決断をした。
 やはり世界中の人間が彼にそれを望んだことが、彼を動かした大きな要因であろう。彼一人の要望と、五億人の統一された要望。彼は日本とアメリカという二つの民主政治体制の下で健康な価値観を育まれてきた。彼は必ずしも「多数決」というものの絶対的な正義と正確さを信じていたわけではないが、「数は力」というのも、民主政治においては一つの正解である。

 塵も積れば山になるように、五億の意思はリョウ・サカザキを動かし、決断させた。
 西暦二○○]+二年。全人類を導く新たなる統一政府が誕生する。「KUG」……「極限流統一政府」。
 新たな人類の歴史が幕開け。パクス・キョクゲニカ。極限流による人類平和。その第一歩を記した人間の名が、リョウ・サカザキであった……。

「力を持つ者が、その力をあえて使わぬことで支配者に転じた、これは極めて稀な例であろう。
 非暴力、不服従。過去、そういったスローガンが歴史を動かした例は皆無ではない。だが、これほどの規模での成功は、人類史上初のことである。
 それを成し遂げた歴史上唯一の人間、リョウ・サカザキが、今後もその精神を維持し続けることができるか否か、我々は歴史とともに見守らなければならない……」
(不破刃・著「自らしたためた忍びの密書」より抜粋)

2

 さて、全人類の九九・四パーセントが統一政府を望もうと、残りの〇・六パーセントがそれに倣うか、といわれれば、必ずしも首肯はできないだろう。
 どのような意見に対しても、その反対側に立つ主張は必ず存在する。二つの意見が平和に共存するか、争いに発展するかは、それを主張する人間の精神に拠るが、全人類の意見が完全に同じ方向に足並みをそろえるなどということは、これまでの歴史上になかったし、もしそのような事実が存在すれば、それはもはや人間の歩む歴史ではない。

「KUG(極限流統一政府)」治世下の人類においても、それは例外ではなかった。彼らの支配を良しとせぬ派閥が、確実に存在したのだ。
 彼らは全人類において圧倒的な少数派であり、賢明にもそれを自覚していた。
 新政府大統領リョウ・サカザキは、自分に逆らうそのような意見を、決して弾圧しようとはしなかった。もちろん、わざわざ優遇したり保護したりするようなことはなかったが、手出しをしようともしなかった。
 多数の人類を支配するには、少数の(支配者がどうとでも操れる程度の数の)反対意見というものは必要である。それはマキャベリズムの初歩だ。
 リョウ・サカザキがそれを知っていたかどうかは定かではない。彼は生粋の武闘家であり、政治家としての研鑽を積んだ経験がないことは、本人が証言している。
 恐らく過酷な幼少期を送ってきた彼は、人間が健康的な精神を維持する為に必要な事柄を、自らの経験則から知っていたのだろう。個人と多数という差はあれ、一つの団体を一つの社会的生命体とみなすのであれば、そこにそれほど大した差はないはずであった。
 現に「KUG」の創設した議会において、極限流一派は常に圧倒的多数を占めたものの、ついに議席獲得率一○○パーセントは達成できなかった。リョウ・サカザキはそれを「健全な民主議会制において、むしろ歓迎しうる現実である」とそれを受け入れるコメントを度々残した。

 リョウ・サカザキは戦争が終結し「KUG」が成立した西暦二○○]+二年を「新世界暦(NW)一年」と定め、正式に西暦(AD)を廃止した。正確には西暦二○○]+二年八月二日が「新世界暦」の開始日である。
 彼は全国民の前で西暦を「戦争と貧困と差別の歴史」と断罪し、「新世界暦こそ新たなる平和の暦となることを望み、そうなるように全人民が忘れることなく前を向いて努力しなければならない」と、四十分にわたる名演説をこなした。この演説は、リョウ・サカザキの最大の名演とされている。
 当然のように人類のほとんどがそれを笑顔で言葉通りに受け止めたが、そうできない事情の人間たちがいたことも事実だった。
 新世界暦一年、藤堂香澄は二十二歳になっていた。

3

 KUGの正式の首都は、旧アメリカ合衆国の東南部の街サウスタウンに定められた。かつてアメリカの一都市にすぎなかったこの街は、現在人口二百万人を数える世界最大の都市となっている。
 この街が首都に定められた理由は簡単で、リョウ・サカザキが人生の大半を過ごした町であり、極限流空手の本部道場があるという、それだけの理由に過ぎない。
 しかし、かつて同じ程度以上の人口を誇った世界の大都市は、その大半が熱核兵器によって焼き払われた。完全な荒野と化した場所も少なからずあり、人の姿を見ることは稀である。
 サウスタウンはそうした惨禍を免れた数少ない都市であり、政治的・経済的に中心となるべき人類に残されたほぼ唯一の選択肢であったのだ。

 この街の様子は、戦前と殆ど代わりがない。西暦の頃に整備された道路やビル、インフラなどがほぼそのまま機能している。
 正式に首都になって以降、新たに整備されたり建築されたりした施設もあるものの、昔のこの街を知る古老たちは、それほど動揺することなく生を送っていた。

 そのメインストリートを、一人の女性が歩いている。
 黒の髪を腰まで伸ばし、それをまとめるでもなく風に流している。切れ長の黒の瞳には強い意思を感じ取れる。
 そのスポーティーないでたちからも、その若く活動的な性格がうかがい知れるようだった。
 名を藤堂香澄という。
 二十二歳のこの女性は、かつて「日本」と呼ばれた極東の国で生まれ、そこで父親から合気道と古武術をミックスした独自の格闘技「藤堂流」を父から伝授された。
 一時期は藤堂流の顔、代表として「あの」極限流空手をライバルとみなして激しく競い合ったが、悲惨な戦争のさなか、その武勇伝も人々の記憶から失われてしまった。
 今やこの国の「公的な」歴史書は、リョウ・サカザキをはじめとするサカザキ家のルーツと、彼らが戦争においてどれほどの重きをなしたか、という記述が大部分を占めており、藤堂流の名は、その中に一言か二言、ぽつんと登場するのみである。
 これでも、かつて極限流のライバルとして名を馳せたものの、歴史書に全く登場しない人間がいることを思えば、そうとうに恵まれているのかもしれない。少なくとも残された人類のうち、香澄に興味を持つ者がいないとも限らないからである。

 快晴の天気に比べて、ストリートを歩く香澄の歩は重かった。小さな花屋のショーウィンドゥを眺めては、その中に飾られている麗しい花々が、果たして「今の」自分に似合うのかどうか自信が持てず、さらに頭が下を向いた。
 香澄の頭の中には、かつての仲間から言われた言葉が渦巻いていた。自分はこれからどうすればいいのか。

(それが簡単に分かれば悩みなんかしない……)

 香澄は口を真一文字に閉じ、スニーカーで道路の小石を蹴りつけた。幸いその小石は誰にも当たることなく、転々としていく。
 そして、一軒の建物の前で止まる。その大き目の建物は飲食店にも見える。かつて香澄が育った「日本」風の看板と「暖簾(のれん)」と呼ばれる店名識別用の布が入り口に掲げられていた。
 かなり大きな店で、暖簾には「繁盛」と漢字で大きく書かれ、その下に小さく「Han-jo」とアルファベットが振られていた。
 かつて日本からサウスタウンに移住した香澄の父「■■■■(資料消失)」が開いた店であるといわれている。

 その店を見上げ、香澄は肺の中の空気を大きく吐き出した。
 自分が難しい立場にいることは、香澄自身が嫌というほど分かっていた。自分になにが求められているかも、理解しているつもりでいる。
 だが。

「この私が戦う……? あの極限流と……?」

 香澄は迷いと疑問とに見事に表情を二分させたまま、「繁盛」の暖簾をくぐった。
 藤堂香澄は二十二歳。彼女は三つの顔を持っていた。
 藤堂流古武術の継承者。和食レストラン「繁盛」の若い経営責任者。
 そして、反政府運動組織「KAGURA(反極限流統一政府運動連合)」の若きリーダーである。
 この店は彼女の三つの立場、すべての本拠地であった。

4

 店の暖簾をくぐると、日本の伝統衣装である着物を身に着けた複数人の若い女性が香澄を出迎えてくれた。この店のウェイトレスとして雇われた女性たちである。
 和食レストランということで、ウェイトレスもシェフも、かつて日本で生まれたものが多く雇われていた。このあたりは、かつて店を開いた香澄の父の伝統を受け継いでいる。
 店内で使用される言語も、公用語である英語ではなく日本語が多い。

「女将さん、お帰りなさい。皆さん既にお揃いですよ」

 ウェイトレスの一人がそう言いつつ、香澄のバッグを柔らかな笑顔で受け取った。その笑顔に比例するように、香澄の表情は複雑だった。

「場所は、いつもの?」

「はい、奥座敷でお待ちです」

「分かりました、すぐに行きます。貴方たちも、分かっていますね?」

 香澄が念を押すようにウェイトレスに厳しい視線を向けると、ウェイトレスも分かったもので、笑顔のままお辞儀をした。

「はい、皆様が出られるまで、誰も通しません。ご安心を」

 その言葉を確認して、香澄はかなり広めの店内のテーブルの海をすり抜け、目立たない場所にある扉を開く。
 扉の向こうは、長い廊下が続いていた。一般の客が決して目にすることはない。しかし、決して暗さを感じるものではない。
 多くの窓は日光を集め、明るめの赤を随所に施した流麗な装飾は、白い壁をいっそう華やかにしていた。
 いくつか並んだ扉の列を過ぎて行き、一つの扉の前で立ち止まった。
 扉の上には「孔雀の間」と書かれた小さな看板が捧げられている。香澄は深呼吸を二つすると、小さく覚悟を決めるように二つ頷き、扉をノックし、開いた。
 畳敷きの大きな和室である。この様な部屋を現在のサウスタウンで探すのは難しい。
 部屋の中央に食卓が設置され、その下は四角形の一段低くなっている。掘座卓といって、椅子に座る感覚でテーブルにつけるのだ。日本人以外の客が椅子に座る感覚で和食を楽しむことが出来るようにと、先代が気を利かせた設計であった。
 窓際の障子戸は開け放たれ、ガラス戸から中庭の日本庭園を望むことが出来る。その庭は高い塀に囲まれ、店の外から決して覗き見ることは出来ない。

 その部屋で香澄を待っていたのは一組の男女だった。
 窓際に立っている女性のほうは、香澄と同じくらいの年齢に見える。長い金髪をポニーテールにし、リズムをとるように動く首の動きに合わせて左右に揺れていた。
 表情は香澄よりも少し幼く見えるが、武道家の香澄をしてその動きに隙を見つけることは難しい。
 ジャージのようなデザインのジャケットにミニスカートを身に着けていた。

 一方、男性のほうは女性のほうよりも数段ものものしい。触れなばすぐにでも斬られそうな物騒な空気を身にまとっていた。香澄ほどではないにしろ長めの黒の髪を肩から流し、座卓に腰を下ろして冷えた茶をすすっていた。
 時代錯誤なロングコートを身にまとっているが、それは季節感が麻痺しているわけでもなく、相手の視覚に与える一時的情報を少しでも減らそうという戦術の一環である。
 この男が少なからず闘いの修羅場を潜り抜けてきたであろうことは、初見の人間でも見抜くだろう。それほどまでに一般社会とは隔絶した人生を歩んできた男なのだ。
 わざとらしく高く立てた襟の影に顔の下半分が塗りつぶされ、サイドからは目の部分しか確認できなかった。

 この二人が大戦を自らの力で生き抜いた歴戦の強者であることを、誰よりも香澄が知っていた。
 なによりも、かつて志を同じくしたチームメイトでもある。
 もっとも、気の置けるほど心を開いて語り合えるようになったのは大戦中であった。それまではただ利害が一致するというだけの「集まり」でしかなかったのだ

「ただいま戻りました」

 香澄が挨拶もそこそこに、入り口に最も近い席に腰を下ろした。

「香澄ちゃん、おかえり、まずはお疲れ様!」

 金髪の女性のほうが、満面の笑顔で迎えてくれた。
 名を「まりん」という。姓は誰も知らない。まりんという名が本名かどうかも誰も分からない。
 かつてはその長い髪をバンダナの下にまとめていたので、この姿を初めて見た知人はおどろくかもしれない。
 自分の素性を一切語らないこの女性は、無邪気な性格ながらも暗器(隠し武器)に長け、相手の意表をつく戦術で数々の戦場、戦いを勝ち抜いた。
 KOFという世界的な格闘大会では、「ユリ・サカザキが嫌い!」という子供じみた理由で香澄とともに極限流に挑み、そして派手に敗れ去った過去がある。
 大戦の勃発で極限流との因縁は有耶無耶になってしまったが、現在もその思いは変わってはいない。
 かつてはいずこかの組織に所属していたようだが、まりん本人は「なくなっちゃった!」と一笑にふしてそれ以降、そのことについては語ろうとはしなかった。

「それで、キングとの会見の結果やいかに」

 男性が、香澄のほうに視線も向けずに口を開いた。

「もー、如月さん、いつもながら淡白すぎるよ。少しはねぎらってあげたら?」

 まりんが香澄に抱きつきつつ、男性を責めるように唇を尖らせたが、男性は気にした風でもない。
 如月影二。それが男性の名だった。日本において如月流忍術を極めた、現代のニンジャである。
 ただまりんと同様、香澄もその素性については詳しくはない。日本で厳しい修行を積み、自分を越える強さの者を打ち倒す為にひたすら戦い続けた求道者。それが香澄が如月について知っているすべてである。
 それでも、如月影二の人生はその一言で説明がついた。彼は常に最強を目指し、己の全身全霊、全体術、全知全能を尽くして強者に挑み続けた。
 日本での相手がいなくなったところで全米格闘技界隈を席巻していた極限流空手を次なる目標に定め……、そして敗れた。
 彼が求めたのは常に極限流最強の男、リョウ・サカザキであったが、チームとして、そして個人として三度挑み、そして三度敗れた。そして次なる挑戦を企図しているところに大戦が勃発し……、リョウ・サカザキは彼の手の届かぬところに行ってしまった。

 この三人は、かつて「アンチ極限流チーム」として極限流に挑み続けた猛者たちである。
 場が格闘の試合場であればそれでよかった。なんの気兼ねもなく、彼らは全力で極限流に挑むことが出来た。
 だが、今や歴史は、そして世界は変わってしまった。かつてライバルだった極限流の猛者たちは政府の要人として違う世界の住人になってしまったのである。
 今や彼女らは「一流派をライバル視」という立場から、「政府にたてつく人間たち」になってしまったのだ。
 ここ数年の間にまるで地球の物理法則が変化して、天地が真逆になってしまったような違和感さえ、香澄は覚えてしまう。袴を身につけ、リョウを挑発していればよかった時代は、遠い昔なのだ……。

 香澄は首を振って、思考を現実に戻した。彼女は過去しか持たぬ老人ではない。未来ある若者だ。しかも、自分だけではない多数の人間の未来を背負わなければならぬ立場だった。
 さきほどまでの自分の行為の結末を二人に語りだした。

「今朝方、キングさんとの会見の時間を頂きました。そして、現在の反極限流政府運動をめぐる現状について、意見を交わし、キングさんの意思を確認しました」

 まりんが香澄の体から離れ、表情を真剣なものに入れ替えた。
 キングという名も、反極限流の者たちは避けて通れぬものだった。
 現在こそ一バーのマスターに過ぎないが、誰よりも極限流に深くかかわり、極限流の内外の情報に詳しい。かつてリョウ・サカザキをして最大のライバルと言わしめた女性ムエタイファイター。
 彼女の名をしたい、その周囲に集まる反政府の人間たちは多い。彼らは期待していた。キングが反極限流の急先鋒として立ち上がることを。
 かつて彼女が駆使した切れ味抜群の蹴り技のように、鋭い舌鋒でもって彼らの先頭に立ち、極限流政府と戦ってくれると期待していたのだ。
 だが、キングはなかなか本心を表さなかった。自分の店に来る者は、ただの客として遇し、それ以上の歓待は決してしなかった。キングの私生活は、あくまでビジネスライクに徹していた。
 香澄はそのキングの本心を聞き出すために、わざわざその目的を前もって伝えて会談したのである。
 まりんが顔全体に緊張をめぐらせ、影二は切れ長の視線だけを香澄に向けた。香澄は心ならず、失望の要素を視線の端に乗せてしまった。

「キングさんは自分も戦うと仰いました。極限流と。
 ただし、それは武力を用いた戦いではない。政党を組織し、選挙を勝ち抜き、議会に一角を占めてリョウ・サカザキのありようを追求すると。
 私のムエタイはテロリズムで無辜の民を害するために鍛え上げたわけではない……と」

 武力革命の全否定。それがキングの回答だった。よく考えれば、いかにもキングらしい結論ではあった。
 キングのムエタイの存在意義は、あくまでも家族を支えるためのものだった。他人の生殺与奪などまったく利害の範疇だった。
 そして、それはリョウ・サカザキが極限流空手を得た理由と完全に一致するものであったのだ。
 だからキングは、リョウがどのような立場になろうとも、決して彼を責めなかったし、軽蔑もしなかった。ただ「あいつが大統領ね、苦労性の男がさらに苦労を背負うか」と、苦笑しただけである。

「なんと迂遠な……。所詮は極限流の腰巾着よ」

 如月が、言葉を荒くして吐き出した。手にした湯飲みが、今に割れそうに震えている。
 香澄には如月の言っている意味がわかる。キングはKOFというチーム制の格闘大会において、何度かリョウ・サカザキと同じチームで参加したことがあるのである。
 そして周囲の余計な詮索ではあったが、一時期はリョウの結婚相手になるのではないか、という噂すらたったのだ。
 結局、それは噂の域を出なかったが、キングと極限流一派が強い絆で繋がった、自分たちとは種類の異なる「ライバル関係」であることが知れたのは如月をよほど落胆させたのであろう。

 反政府、といっても行動は様々である。キングのように巨大な与党に対して野党を結成・糾合し、公の場で彼らの不正(というものがKUGにあるのなら)を糾弾するか。
 一活動家として下野して地道に自分の思想を民草たちに広げ、ついにはくるであろう変革の波に期待するか。
 それとも、直接的な武力でもって政府と抗争という形で争っていくか。
 どの手法をとるにしても問題は山積している。
 まず第一の手法をとるにしても、現在のKUGは巨大すぎる。安定という言葉を絵に描いたような、長期の安定を約束された巨大な政府であり、野党を糾合するにしても、所詮はアリが象に反抗するようなものだ。
 第二の手法はなんといっても時間がかかる。上記のようにKUGは人類の大多数の支持を得ているである。地道に草の根運動を続けるにしても、結果を見るには数世代を経なければならないだろう。リョウが死に、香澄がこの世から退場し、さらに数世代後にKUGの腐敗が目に余る時期にかかった時、はじめて巨大なムーブメントとして結果が見えるかもしれない。

 そこで叫ばれるのが第三の手法である。直接的な武力でもって巨大な権力に抵抗するのだ。
 現在、香澄たちKAGURAの中にあって、実にこの手法を求める声が最も大きい。香澄自身が態度をはっきりさせていない現状では、急進派の声が大きくなることは致し方ないことであり、その先頭に立っているのが如月なのであった。
 香澄自身は第二の手法、すなわち語り部として世界に散り、いつの日か反極限流統一政府の芽がまとまって萌芽することに期待する道を望んでいた。
 そして、如月もそのことを理解していた。如月が香澄をリーダーとして立てているのは、自分が歴史の闇に生きてきた人種であることをもっとも理解していることと、香澄のような中道派が先頭に立つことで、政府からの急進的な敵視を避ける意味合いもあった。
 実際、極限流空手との昔のよしみということもあるだろうが、KUGとリョウ・サカザキは、藤堂香澄を重要な監視ターゲットとはしていない。その裏に何らかの動きがあることは掴んでいるのかもしれないが、表立ってそれを規制しようという動きは見せていないのだった。

 香澄自身、自分が武力を持って立ち上がれば相当数の人間が付き従ってくれるだろうとは思っている。
「アンチ極限流チーム」を結成していたという過去、そしてその格闘能力のみで大戦を生き抜いてきた彼女らの能力は、ある種の「カリスマ」として反KUG勢力の脳髄に打ち込まれた。
 そして、香澄たちの下に参集せしめたのである。
 現在、彼らは世界中に散り、自らの鍛錬に余念がない。それは香澄がサウスタウンに集まらぬようにと厳命しているからである。
 いくら戦闘能力の高い人間が集まっても、一箇所に集まって一網打尽にされては元も子もないからである。
 果たして、自分たちを見込んで集まってくれた人間たちに武器を集めさせるか否か。香澄は迷っていた。

 その香澄の迷いを邪魔するかのように、まりんが声を挟んだ。

「キングさんが私たちの味方にならないのなら、前から誘いにあったギースたちのグループと協力するの?」

 香澄の表情に、さらに迷いの成分が増えた。
 この世界で、反KUG勢力の重要人物とみなされる最大の人物は三人いる。藤堂香澄、キング、そしてギース・ハワードである。
 ギースは何の迷いもなくかつての「黒服」と呼ばれる部下たちを集め、鍛錬し、そして武器を集めさせている。この世界でもっとも急進的な反政府組織となりつつある。
 藤堂香澄とギース・ハワードは、生き様においても美的感覚においても、もっとも縁遠い人種に思えた。しかし「反極限流」というわずかな一致点がある限り妥協点を見出せるのではないか。それがギースの言い分だった。
 香澄は素直に首肯する気にはなれない。ギースはただひたすら我欲のために動く人間だ。自分のことも、ただ利用するだけ利用して、都合が悪くなれば捨てるに違いない。
 そんな未来を唯々として受け入れるわけには行かなかった。

 香澄は大きなため息を一つすると、冷たいお茶を一気に飲み干した。

「私たちは武道家です。テロリストではない。
 KUGに未だ失政がない以上、武力蜂起は私たち以外の誰の共感も得ることは出来ないでしょう。
 彼らに巨大なミスと腐敗があれば、武道家として極限流に挑戦し、武道家として勝利し、極限流に猛省を促します。
 それでよくはありませんか」

 隣で鼻で笑う声が聞こえたような気がした。それは果たして風のイタズラか。しかし、如月が香澄のほうに厳しい視線を向けたのは事実だった。

「そうしてことを有耶無耶にし、末代まで敗北の歴史を塗り続けるつもりか。
 藤堂流の凛たる誇りはどこに消えたか!」

 明らかな挑発であった。香澄も頬を吊り上げ、如月をにらみつける。

「KUG、極限流空手の規模は最大で五億、比較して私たちはギースと手を組んだとしても最大七百です。
 それで勝ち目があるというなら、あなたの脳内はよほど精緻な勝利の方程式で彩られているのでしょうね」

 二人の間に沈黙が流れた。しかしその空気は可燃性ガスで満たされているようであり、少しの着火ですぐにでも爆発しそうであった。
 慌ててまりんが二人の間に飛び込むように身を躍らせた。

「やめなよ二人とも! 私たちは仲間でしょ!
 極限流を倒すか、それとも妥協するのか、まだその結論すらでてないじゃない!
 今から仲違いしてどうするのさ!」

 数秒のいがみ合いを経て、少なくとも室内の温度は下がったように思えた。
 香澄は浮きかけた腰を床に落とし、如月は無音で立ち上がると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 香澄はテーブルに肘を着き、その間に顔をうずめた。
 如月は確かに剣呑な男だったが、少し前まではこのような何もかも喧嘩腰な表現をすることはなかった。
 香澄にはその原因は分かっていた。

(すべては私の優柔不断が原因だ……)

 肺の中の空気をすべて吐き出しながら、香澄は一人ごちた。立つなら立つ、立たないなら立たない。さっさと決断すれば、如月は(自分の深奥はどうあれ)香澄を立ててくれるだろう。
 如月のいらつきは、すなわち香澄たちを慕ってついてきてくれている者たちのいらつきだった。
 まりんが心配そうに見つめる中、香澄は顔を上げた。

「……さっきね、キングさんに言われたんだ。お前はテロリストになるために武道を学んだのか……と」

「……なんて応えたの?」

「もちろん違うって言ったよ。そうしたら、じゃあ私たちの名前の元に集まっている若者たちをどうするつもりなのかって聞かれた」

 極限流とすぐに戦うのなら、その若者たちを全員死なせることになる。誰一人として生き残れないだろう。
 では戦わせないのなら、影で鍛錬させる意味はない。語り部となるための教育をしっかりとほどこし、改めて各地に散らすべきである。
 散らしたうえで鍛錬させる意味はまったくない。よそ様の事情でありながら、キングは恐るべき洞察力でそれを見抜いていたのである。

「どうして……こうなっちゃったんだろう。私は、ただ父様のかたきのリョウ・サカザキに勝ちたかった。
 個人的に尊敬する武道家のリョウ・サカザキに勝ちたかった……。ただ、それだけだったのに……」

 うずくまった香澄の肩が少し震えた。泣いているのだと、まりんには分かった。

「じゃあ、香澄ちゃんはすぐには戦いたくないんだね」

 こくりと、香澄の首が縦に振られた。それは肯定の意思表示だった。
 だが次の瞬間、香澄の身に思いもよらぬ変化が訪れた。
 自分の胸に激しい痛みが走ったのを理解した。そして、自分の心臓の上から、忍じゃ道具で言う「くない」のようなものがつきたてられていることに気づいたのである。
 香澄のスーツが、徐々に真紅に染まっていく。元々の色ではなく、香澄の体内から流れ出る血液で染まりつつあったのだ。
 自分に何が起こったのか全く理解できず、香澄はとなりのまりんを見つめた。
 そこには、恐ろしく冷静な微笑を浮かべたまりんがいた。このようなまりんの表情は、香澄には見覚えがない。
 いつも子供っぽく感情を発露していた彼女が、悪い意味で大人の一面を見せていた。

「……ま、まり……ん、ちゃん……こ、これは……」

 震える右手をまりんに差し出す香澄をいやな笑顔で見つめながら、まりんは「くない」を器用に左手で弄んだ。

「ごめんね、香澄ちゃん。私もね、実は如月さんと同意見なんだ。
 いますぐリョウを倒して、ユリを倒して、サカザキ家を根絶するつもりなんだよ。
 香澄ちゃんが迷うだけだったら、もうちょっと様子を見たんだけど、先に【上】のほうから命令がきちゃった。ごめんね」

「……だって、あなたは……味方……」

「私はいつでも香澄ちゃんの味方だよ。優先順位があるけどね」

 それが絶望のトリガーだった。香澄の体内から全ての希望が抜けていくのと同時に、全ての感覚が抜けた。
 誇り高き藤堂流の後継者は、新世界においてその存在感を発揮するまえに、不本意な退場を強制されてしまった。
 右手が落ちた。同時に、香澄の中から全ての感覚が抜け……二度と戻ってくることはなかった。
 まりんは香澄の身体を優しく横たえると、その目を閉じた。

「さよなら、香澄ちゃん。友達だったのは本当だよ。私の、最後の……」


 新世界暦一年十一月、反KUG急進派の堤防の役目を一人で担っていた藤堂香澄の「病死」が発表された。
 これを期に、極限流統一政府と如月影二・まりんを代表とする反政府グループの争いは激化の一途を辿っていく。
「新世界暦」の理念に反し、「戦争と差別の歴史」とされた西暦の闇は、いまだその帳を下ろそうとはしていないかのようだった。

5

 十一月の朝、リョウはいつものように午前五時に目覚めた。
 政権を握り全人類の頂点に立っても、彼の日常は以前とほとんど変わらない。ただ己を高め、彼の大切な弟子たちを高めるために時間を費やす。
 住んでいる部屋も、おそらくはかつて人類に君臨した権力者の中でもっとも質素であっただろう。広さはあるが、個人の生活に必要な最低限のものがそろっているだけだ。
 リョウは現在の立場を甘んじて受け入れた。葛藤はあったが、誰かが自分を望むのならそれもいいだろう、と割り切った。
 ただ、リョウには快いとは思えない人間関係も増えつつあった。
 彼の周囲の誰も彼もが、好意だけで彼に近づいてくるわけではなかった。
 彼は一日に会う人数を制限したが、それでも彼にとって不快な人種を完全にとりのぞくことはできなかった。

 その日、リョウは嫌な予感で目覚めた。
 意識が傾くほどの痛みではない。ただ、意識の片隅をちくちくとつつくような、そんな不快さを伴う痛みである。
 完全に無視することもできないそれは、その日一日を不快なものとしてしまうのではないか。
 ベッドからて金色の髪を梳きながら、そう思っていたところに。

 午前五時十分、リョウの部屋の扉が乱暴にノックされた。
 ノックというより、すでに殴っている風で、リョウがドアを開けなければそのまま破壊されてしまったかもしれない。

 いったい何事かと、警戒心をためられるだけためてリョウがドアに近づくと、外から荒れた呼吸とともに大声が聞こえた。

「お兄ちゃん! お兄ちゃん、起きてる!? 起きてなくてもいいから、すぐ開けて!」

 ドアを殴りつつ、リョウの聞きなじみのある声が響く。リョウがすぐにドアを開けると、そこには彼の妹が立っていた。
 一七〇センチはあろうかと言う長身の女性だ。黒のロングヘアをこの朝はポニーテールにまとめ、早朝だというのにすでにスーツを完全に着こなしている。
 その顔は兄と同じく母の面影を強く引き継いでいるが、今は怒り、焦り、驚き、さまざまな表情で支配されていた。
 人類の統治者リョウ・サカザキの妹であり、いまや「KUG(極限流統一政府)」第二副大統領の座にある統治者の一人、ユリ・サカザキである。

 開けられたドアに滑るように入り込みながら、ユリは背後に立っている者たちにめくばせをした。  サカザキ家の人間は単体でも屈強であり、世界最強クラスの技の使い手しかいないが、それでも立場と言う要素は強大である。  どうしても、彼らの身辺を守る護衛と言うものは必要だった。彼らの存在が歴史のパズルから欠ければ、即座に歴史は再び狂い始めるであろうから。
 二十六歳になるユリ・サカザキは、格闘家として活躍していた頃の瑞々しさをまったく失っていない。加えて、人類の頂点に立つ兄のサポートという重責が、ユリの持ち前の能力をさらに高めているようにすら、周囲には映る。
 与えられる壁が高ければ高いほど、ユリは生き生きと輝いた。もちろん失敗は一度ならずあり、少なからず批判にさらされたこともある。
 だが、その全てを糧にするように、ユリの生命力はこの瞬間も輝いており、リョウはそれを誇りとし、微笑ましく見守っている。  その性格的な明るさも一欠けらも失われてはいない。時に「兄妹漫才」とも言われる大統領と副大統領のやりとりは、市民たちの間で、ささやかな批判と大いなる笑いの種となっていた。

 そのユリが、複雑な表情を隠そうともせず、リョウの前に正対した。
 これはただごとではない。即座にそれを察したリョウは、ナイトウェアのまま挨拶もそこそこにユリを凝視した。
 ユリは一瞬、兄にしか悟れないであろうわずかな時間、目を悲しみに伏せたあと、手にしていた小型のディスプレイモニタの電源を入れ、リョウに手渡した。
 リョウはそれとユリの表情を順に見た後、そのディスプレイに視線を落とした。そして、表情を固まらせ、言葉を失った。
 ユリが今度は悲しみを隠そうとせず、床に視線を落として、何かを呪うかのように低い声でつぶやいた。

「……KUG国家保安委員会、調査部最高責任者、カーマン・コールからの報告です」

 そこまでは、まだユリの声は公人の中にいた。その瞬間まで、ユリは副大統領だった。
 だが、事実を告げなければならない瞬間、その声は「私人」となった。
 涙と声が重なるように、その事実を悲しみとともにたたきつけた。

「……香澄が、死んじゃった……」

 ユリはその事実だけを告げると、糸を失った人形のようにリョウの逞しい肉体に倒れこんだ。
 そして、これまで我慢してきたであろう悲しみを、いっせいに放出した。
 リョウはユリの身体と悲しみを受け止めながら、カーマンからの報告をゆっくりと読んでいた。
 死因は鋭利な刃物による刺殺。凶器となった刃物からは指紋など証拠につながるものは一切発見されていないが、当日被害者と同席していた男女二人の存在が確認されている。
 男女とも氏名を名乗っているが偽名の可能性が高く、警察は被害者と強いつながりを持っている「まりん」「如月影二」なる二人を重要参考人として追っている……。
 資料を一読してから、リョウは肺の中の空気を一度に吐き出した。
「反体制勢力の仲間割れ」。カーマンの報告書はそう指摘している。
 言ってはならぬことだが、戦争がなければ、決してこんな死に方をする娘ではなかった。もっと別の生き方があったはずである。
 サカザキと藤堂は、お互いに切磋琢磨を続けた、ライバルともいってよい関係にあった。個人的にもリョウは香澄の真っ直ぐな武道に憧れを持ち、香澄はリョウの強さと人生そのものに敬意を払い、ライバル関係とは言っても、「敵対」とは違った間柄だったのだ。
 香澄とユリとは、ライバルのような親友のような不思議な関係だったが、やはり悪意ある険悪さとは無縁だった。少なくともサカザキ家の人間はそう思っている。

 リョウが大統領に就任したとき、香澄は大統領就任式への出席は拒絶したが、丁寧な祝い状をよこしていた。
 決してサカザキと藤堂のライバル関係が険悪なものになったわけではない。リョウはそう思って安心していたのだが、果たしてそのとき、香澄はどのような環境で、どのような心境で就任式を見ていたのであろうか。

(マリア……。俺はまた、大切な人間を一人失った。守ることができなかった……)

 泣きじゃくるユリの身体を抱きしめるリョウの瞳からも、一筋の涙が零れ落ちた。

6

 その男はマホガニーの事務机に、その屈強な肉体を落ち着かせていた。
 身長は180cmを越える。黒のスーツに金のネクタイを締め、やや白みがかった金髪を丁寧に撫で付けている。その瞳は肉食獣のごとき獰猛さを秘めていたが、それ以上にその獣性を制御する高い知性と理性の輝きを放っている。
 だが、それがこの男を善人と判定する材料にはならぬ。その視線、その表情は、幾度もの死線、死闘を繰り広げ、かいくぐり、生き延びてきた人間のそれであった。
 その同じ部屋の壁際、入り口などに、何人かの黒服の男たち立っている。その背筋の伸び方が、忠誠心の表れでもあるように。
 だが、その男たちとこの男は、文字通り「格の違い」を思わせた。人生経験で身に着けたものではない、生まれ持った「王者の格」が、その男をして他人への睥睨も当然のように受け入れさせた。
 支配する側とされる側、一般には政治体制によって決められるこれらの法則は、この男の下にあっては一切関係がなかった。男は「支配する側」であり、それ以外の人間は「支配される側」であった。

 ビルの一室であろう、広い執務室であり、男のテーブルの背後は一面、防弾の展望ガラスで覆われている。空は灰色の雲に覆われており、それがいま、この一室にいる人間たちの心模様を表しているかのようだったが、部屋の支配者の顔だけは興味の色にゆれていた。
 その視線の先、執務室の中央にすえつけられた応接用のテーブルとソファ。これも戦前の高級のブランド物であり、現在でも一般民衆が軽く手を出せる種類のものではない。
 そのソファに、一人の女性が腰を下ろしていた。背は小柄だが、この複数の視線に囲まれても狼狽の動きは見せていないところを見ると、こういう場には慣れているのかもしれない。
 ややウェーブのかかった銀の髪を長く伸ばし、腰の両脇で二つ結わえている。体格はスレンダーのようだが、毛髪の量が身体のサイドラインを覆い隠すほど多いため、それも推察に過ぎない。
 二十代前半であろう、女性は出されたコーヒーに手をつけることもなく、動きも表情も少ない。
 男と女、双方が互いの発言を引き出そうと、無言のうちに牽制しあっていた。部屋にいる何人かの黒服のほうが、緊張感に押しつぶされそうな苦渋の表情を見せていた。

 そのまま何分が経過したか、二人とも正確に理解していた。八分半。ようやく女性のほうが折れて口を開いた。

「まさか、あなたが私との接触を望んでいるとは思いませんでした」

 女性は無表情のまま、窓際の男に目を向ける。男は相手を値踏みするかのような視線を向け、威厳を湛えた口許を上向きにカーブさせていた。女性が男の顔を見て続ける。

「かつてのサウスタウンの支配者、裏世界の顔役、ギース・ハワード。
 戦前に死亡したと聞いていましたが、まさか大戦を生き残っていて、さらにこうして謁見の栄に預かる機会があろうとは」

 男――ギースは、ややしわの深くなった顔に不敵な笑みを浮かべると立ち上がり、女性の対面のソファに腰を落とした。その動作には豪勢にしてスマート。演じているわけでもないのに、なにかシェークスピアの悲劇の王のような威厳を感じさせる。

「それは感激してくれていると理解して良いのかな?」

 ギースの言葉は女性を試している。言うほうも聞くほうも、それを理解していた。
 だが女性には別の予感もあった。
 今日、自分がここに招かれた――他に選択の余地を与えられない、丁寧な誘拐のような出迎えだったが――ことは彼女にとって災難ではあったが、それでも今日、自分が殺されることはないだろう、という予感――確信といってもいい。
 だが、この予感を確信にするために、彼女は自分の全てを前面に座る男に向けた。この男が指を一回鳴らせば、その瞬間に銃弾が飛んできて自分を貫くだろう。
 そして、それを防ぐ手段は存在しないのだ。「この世界」では。

「………………」

 女性が口を閉ざしても、ギースは気にした風もなく、コーヒーを口につけた。
 誰も彼も、自分の前ではこのような態度をとる。肉食獣を前にした、草食獣のそれ。支配者たるギースには、慣れた光景であった。

「アインと言ったな、君は。私を支配者と言うが、君とてそのうちの一人ではないのかな?
 もっとも、私の支配していたこの世界とは、なにもかもが異なる「世界」ではあるがな」

 アインは、その金色の瞳を厳しめに細めてギースを貫くように視線で刺した。口許が厳しくゆがむ。
 やはり、この男は知っている。自分のことを徹底的に調べ上げて、そのうえで自分を利用するためにここに呼んだのだ。
 アインの表情が剣呑になっていくのを、ギースは楽しんでいるかのようであった。アインはそれが癪には障ったが、口に出すことはしない。
 もともと多弁ではないし、感情を強く出すことにも慣れているわけではなかった。
 アインは隠すのを止めた。下手に隠し立てをすれば、余計な疑惑を招く。そういう場であることは、自分にも分かるつもりだった。

「確かに私は過去、ある一ジャンルでそのような立場にはいました。
 しかし「支配者」ではない。むしろ、複数の人間の間に立ち入いる立場、あえて言うなら「調停者」です」

「【人間】、ふふ、【人間】か」

 ギースは来客の前で長い足を組んだ。遠慮とかそういう類の感情は、この男の辞書にはない。この男はただ自分の価値観のために生きており、自分以外の要素はその「勝利」を彩る餌に過ぎなかった。

「あれらを【人間】と呼ぶからには、よほど【あの世界】に愛着があるのだな。
 分からぬでもないが、君たちがかつて【調整】していたのは電子の世界だ。
「KOFオールスター」……1と0で構築され電流の流れを命とする世界からこの現実世界を改変しようとは、なかなか大胆な思い付きだな」

 アインは黙り込んだ。
 ギースが口にした「KOFオールスター」という言葉は、大戦中に人気が出たゲームのタイトルだ。
 かつて「キング・オブ・ファイターズ(KOF)」という世界的に著名な格闘技の大会があった。著名な格闘家がこぞって参加し、一流の技をぶつけあって、一流の賞金と名誉を争った。開催地の経済に多大な影響を与えるほどの盛り上がりを見せた。
 大戦の勃発によって大会そのものは中断を余儀なくされたが、「KOFオールスター」はその大会を仮想空間で再現し、RVVDシステムによってプレイヤーの精神を仮想空間にダイブさせて、正確に再現されたかつての名選手たちと夢のバトルを繰り広げる、という内容だった。
 大戦の渦中にあって、ゲームに熱中できるほど生活に余裕のある者はそうそういなかったが、それでも80万人近いプレイヤーを獲得し、日々仮想空間で仮想選手とのバトルが繰り広げられた。
 誰も、その開発者も、開発会社も、運営会社も、著作権者もわからぬままに……。

 アインはそのゲームの、巨大サーバーを管理する立場にいた。複数の部下を用い、プログラムに修正を加え、必要とあらば自分自身がゲーム内にダイブしてトラブルを解決した。それゆえに彼女らは「調停者」と呼ばれていたのである。
 アインは自分の立場に誇りは持っていたが、疑念は持っていなかった。というよりも、目を回すような日々の業務の中で、疑念など持つ暇も与えられなかった。小柄の彼女の両手の届く範囲はさして広くないが、業務中は目前の数センチで手いっぱいだったのである。

「先日、反政府運動の重要人物と目されていた藤堂香澄という女性の死去が発表されました」

「ほう、それで?」

「最近、反政府グループの合流・分散が活発になっている。人材が「選択」される時代が始まったのです。
 ミスター・ハワード、私はあなたが藤堂香澄を抹殺した本人ではないかと思っています」

 突然の誹謗に、ギースの周囲の数名の黒服が身体をゆすった。おそらく銃をホルスターから抜こうとしたのだろうが、ギースが片腕をゆっくりと上げると、黒服たちはクローンのように背筋を伸ばしなおして直立した。

「面白い推論だが、証拠があるのかね? 私にはアリバイもあるのだが」

 ギースは言った。なにか心癒す小動物を観察しているような口調。
 アインには分かっていた。自分は弄ばれている。

「証拠はなにもありません。私の推論……というより、半ば願望のようなものです。
 たとえ電子の世界の中とはいえ、私も藤堂香澄を見守ってきた身です。愛着も、友好も感じている」

 ギースはコーヒーカップを口に運びながら、せせら笑うような表情を見せた。1と0の世界を見てきた人間が、現実の人間の死に感情を持っているという。

(どうせ愛用のステレオが壊れたとか、それと同レベルのものであろう。喪失感ではあっても悲嘆ではない)

 ギースはアインの無表情な様を観察していたが、藤堂香澄についてはそれ以上言及しなかった。
 なんの興味も得ることができないと判断したのか、スーツの内ポケットから二枚の画像と思わしき紙片を取り出し、アインのコーヒーカップの脇に音立てずに置いた。

(……見ろ、ということか)

 数瞬の迷いはあったが、自分には選択肢は与えられていない。アインはその二枚を手に取った。
 それは一瞬写真に見えたが、どこか不自然な輪郭をしていた。過去の仕事経験から、アインはそれをすぐの高度な技術で構築されたコンピューターグラフィックだと看破した。
 一枚は、まるでロケットの発射台の上からのようだった。左右・下にも鉄板の床だが、2メートルほど先で行き止まりなのだろう、鉄柵が巡らされ、その向こうが吹き抜けになっていることがわかる。
 目の前にはロケットのような細長い装置が、吹き抜けの下からせり立っている。開いているいる小さなドアの向こうはコクピットだろうか?
 もう一枚の写真は、その「コクピット」の中のようだ。全体的に黒めの色彩に、時代を感じさせるボタンやレバー、観測機などが多数設置されている。はいれる人間はせいぜい一人。

(ロケット……ではない、なにかの増幅装置? バーチャル神経系のマシンにしては随分形式が古いが……)

 画像を観察しているアインを、ギースは観察している。小さな表情の動き一つも見逃すまいとしているようだが、考えに集中しているアインは気づかない。

「どうだ、その画像のものに関して、なにか知らないかね? これは、君の興味の世界だ」

 画像から顔を上げたアインは、ギースの顔を凝視した。

「私はこれに関するなんらの知識も持っていません。詳細を要求します」

 ギースは腕を組んでしばらく黙してから、口を開いた。

「これは「グランマー」と呼ばれる装置だ。大戦の約十年前、キューリッチ博士という俗物が作り上げた。
 この装置のおかげでサウスタウン、隣接するグラスヒルヴァレイやクイズシティーが、人的にも環境的にも大損害を被った。大ニュースになったものだ」

 アインは自分の知識を総動員してみるが、彼女はその当時サウスタウンには縁もゆかりもなく、残念ながらそのニュースは脳にインプットされていなかった。
 アインが二枚の画像をテーブルに置いた。

「やはり何も感じぬ……か?」

「はい、私はこの装置のことも、キューリッチ博士のことも初耳です。何も言えることはありません」

「では、これについて何かを知っていると思われる人物は?」

 ギースに言われて、アインは少し小首をかしげた。そして、何度か大きく瞬きする。
 これが、ギースの待っていた反応だった。アインがこういう反応を示すということは、少なくとも心当たりがある人物がいる、ということである。

(リューゴなら……)

 気難しそうな表情で、気難しい言葉で放つ同僚。その眼鏡の少年を姿を一瞬、アインは思い浮かべた。
 リューゴは自分たちのシステムについてある程度、他のメンバーが持たない情報・知識を持っていたはずだ。
 そのリューゴなら、あるいは。

 しかし、そこまで考えてアインは目を伏せた。自分がギースに呼ばれた、というこの異常時点で、これ以上誰かを巻き込むべきではない。

「分かりません。私の知人に、これをわかる人間はいないでしょう」

 ギースは画像をスーツ内のポケットに戻しながら、足を組み替えた。その表情は、なにか満足しているようにも見えるし、深く考えているようにも見える。そもそも、この男が「何かに満足する」という人間的な感情の限界を持っているのだろうか?

「そうか、それは残念だ。今日、お招きした要件は、それが聞きたかった。
 今日はもうお引き取り頂いて結構だ。ご苦労だった」

 ギースが立ち上がり、来客用のソファから自分のテーブルに座を変えたことで、この「出来事」は終幕した。
 少なくともアインはそう思った。何かを奪われるわけでもなく、自分の命が無事ならこれが最上だろう。
 アインはゆっくり立ち上がると、頭を下げた。大量の髪の毛が彼女の上半身全体を覆うように見えたが、それもすぐだった。
 アインは黒服たちの視線の中を、体面上は心のすくみなどおくびにも見せずに部屋を後にした。
 そのドアが閉められると、すぐにテーブルに設置されている電話のボタンの一つを押す。

「私だ。女の監視はできそうか?」

「はい、GPSは正常に機能しています。20km半径で問題なく捕捉可能です」

「よし、女の監視を続けよ。特に交友範囲は詳細にな」

 ギースは口の端を吊り上げて笑った。そして、胸ポケットから例の二枚の画像を出してみる。
「グランマー」と呼ばれる機械だった。それは危険なほどに効果の強い「洗脳装置」だった。
 十五年前だ。キューリッチ博士――ギースから見れば俗物の塊でしかない男だが――この男がこの危険な洗脳装置を作り上げた。
 キューリッチは未知の格闘大会を開く、という名目で集めた著名な格闘家を片端から洗脳し、自らを頂点とする強力な組織を構築した。
 この事件はある男たちによってあっけなく解決したが、問題なのはこの事件の最後に、この「グランマー」について異なるいくつもの情報が流れたことだ。
 跡かたもなく破壊された、事件後に誰かが持ち去った、海中に投棄された、などいくつかの情報が流れたものの、結局「グランマー」自体は発見されなかった。

 ギースがアインという女性に近づいたのは、彼女が管轄・調整していた「KOFオールスター」というゲームのシステムに、この洗脳装置「グランマー」とのあいだに僅かな関連性を見出したからである。
「洗脳」と「精神ダイヴ」、この関連性は最初は小石のような小さな感覚だったが、この「KOFオールスター」の関係者の中に「リューゴ」という少年を見つけて、ギースは両システムの関連を確信したのだった。

 リューゴ・キューリッチ。かつて「グランマー」を作り上げたキューリッチ博士の孫であり、自らもコンピュータ関連工学、精神医学に深い知識を持つ。
 リューゴが「グランマー」と「KOFオールスター」をつなぐ橋であれば、「KOFオールスター」は「グランマー」の発展形洗脳装置……といえる可能性さえある。
 洗脳という下衆な物自体にギースは興味はない。だが、その最先端のシステムは使いようによって無限の可能性がある。

 ふと、我に返ってギースは窓から視線を外し、屋内に向けた。
 一瞬前まで陽光がさしこんでいたはずの部屋は、まるで「黒い霧」に覆われたように薄暗くなっていた。
 視界が狭くなっているわけではないが、微妙に物体の輪郭を朧にさせている。不愉快な状態だった。
 ギースは「ふん!」とひとつため息をついて、執務椅子にその身体を落とすように乱暴に座った。そして忌々しげに葉巻に火をつける。
 その時、室内に体を向けた背面。窓ガラスの前、自分の背中にギースは気配を感じた。
 間違いなくなんらかの実体化である。大きさは先ほどまでここにいたアインと大して変わるまい。
 ギースの後ろには、女性が立っていた。黒のセミロングの髪と、薄いブルーの瞳を持っているが、その顔にはなにか楽しそうに口の端が上がっていた。

「自己紹介はいらないよね」

 鼻息を一つ荒く出して、ギースも笑った。

「……ふん、ノアといったか。自ら物の怪の類に身を落とした者の相手をしているほど、私は暇ではない」

「あら、残念。あなたたちが追っているリューゴ先輩について、い〜い情報があるんだけど」

「いらん」

 ギースはノアの姿を見ることもなく一喝した。いま、この部屋にギース自身とノア以外の気配が感じられない。部下の黒服たちがどうなったか、今は知ることはできないだろう。
 ノアの言葉は挑発的だった。

「あら、ボクの行為を袖にしていいのかな? ボクがどんな力を持っているか……」

「いらぬわ、愚か者!」

 ギースはノアの言葉の途中で豪笑し、そして一喝した。

「貴様がどんな力を持っているか、私が知らんと思っているのか」

「……………」

「KOFオールスターの参加者をモルモットに、KOFを追体験させてから【電子】に置き換えて盗み得た【オロチの力】。貴様が持っているのはそのごく一部だがな」

「……………」

 あれだけ調子よく喋っていたがノアが無言になった。いっさいの逃げ道も許さず、ギースは確信をついたのだ。
 ノアは、アインとはまた違う形で「KOFオールスター」にかつてかかわっていたのである。ある目的を胸にして。

「貴様の力がどれほどのものか知らぬが、せっかくの【オロチの力】をこうした脅迫や手品にしか使えぬようでは、たかが知れている。私の役になど立たぬ」

「…………」

 ギースは相手を圧倒したまま、ぐるりと黒い霧に包まれたままの室内を見渡した。相変わらず、物体の境界が判然としない。

「それにこの演出は、私には逆効果だったな。私は神仏・悪魔の類を信じもせぬ、すがりもせぬ。
 その私に、このお化け屋敷じみた稚拙な演出、それだけで私に殺されても文句は言えぬ重罪だ」

 ごくり、と固唾をのむ音がはっきりと聞こえた。この瞬間、二人の上下関係は暴かれた。ノアではまだまだギースを脅すなど早すぎたのだ。

「まぁいいわ。今回はボクの負け」

 あっさりとノアが折れた。ノアも合理主義者である。不可能なことにいつまでも固執するようなことはしない。

「でも、香澄ちゃんの死によって、様々な反政府組織がけたたましく動き出す。それは事実。「あの時ボクと組んでおけばよかった」……と、ほえ面を書かせてあげるよ、ギース・ハワード」

 ギースは指の一つも動かさない。ただ、侮蔑的に鼻息を噴出しただけだ。
 徐々に、部屋が色彩を取り戻していく。そのさい、「チッ!」という舌打ちが一つ聞こえたが、それも数瞬で、ノアの気配も徐々に消えていった。
 色彩を取り戻した室内では、四人の黒服が意識を失って倒れている。
 ギースは葉巻を口にすると、笑った。それまでとは種類の違う笑いだった。全てへの蔑みを濃縮したような、邪悪なほほえみ。

「人の悪意の使い方すら分からぬ餓鬼め……。その世間知らずぶりを後悔させてやらねばな……」

(To be continude...)

COMMENT

(初稿:19.08.25)
(改稿:19.09.20)
(改稿:19.12.31)