クォ・ヴァディス2 009

雨のち、神語り

2-1

 群島地方の十月は、例年に比して極端に冷えたわけではない。しかし、群島の人々にとってこの時期は、とにかく寒さを感じさせた。身体的な寒さではない。心理的な寒さである。
 群島にその勢力を誇る二つの組織、古株の海賊キカ一家と新興勢力オベリア・インティファーダの対立と確執は深まっている。その心理的な溝の深さに比例するように対立の壁は薪のように積みあがり、あとは着火を待つだけのようにすら人々に感じさせた。

 キカは海賊であり、例えどのような状況にあろうと自らが罪に譲歩して謝罪するようなことはないであろう。だからこそ彼女は海賊なのであり、その中でも生きながらにして伝説に足を踏み入れた存在になりえたのだ。
 しかし、もう一人の当事者であるマクスウェルも群島の大英雄である。彼はある意味で、キカ以上に「立場」というものに足を絡まれていた。
 キカは正義を標榜しているとはいえ、無法者の集団の頭領である。万が一、何か不都合が起こっても、究極のところ「それがどうした」の一言でことは済んでしまうのだ。
 だが、マクスウェルはそうはいかぬ。キカと同じく正義を標榜はしているが、その方向性は異なる。キカの「正義」は状況に応じて外にも内にも向くものだが、マクスウェルの「正義」は辞書どおりの意味のもので、外にしか向かない。小回りというものが効かないのだ。
 だが今回、ダリオが起こした蛮行について、キカが「それがどうした」で片付けることは出来ないだろう。相手は群島の英雄であるのと同時に、仮にも神の力を持つ超越者の一人なのだ。「それがどうした」とすまし顔をしたところで、一瞬のうちに塵に変えられる可能性さえあった。

 この二つの組織の対立に対して、他の島、他の勢力が座視していたわけではない。積極的に動いたのはマクスウェルの師であるガイエン騎士団長カタリナ、そしてオベル国王リノ・エン・クルデスの二人だった。
 特にリノは、マクスウェル、キカの双方と同盟関係にあり、二人のちょうど中間の位置にいる。二人に使者を送り、どうにかこの混乱をおさめようと苦心している。
 群島諸国連合の中心の地位をラズリルに明け渡したとはいえ、オベル王国の存在感の大きさはまだまだ健在である。リノとしては、先のラインバッハ動乱の初期のように、どうにか群島諸国連合内の「小事」として収拾をつけたかった。
 連合に加わったばかりのガイエン公国や旧クールーク皇国の南部の地域に対して「常に混乱を抱えた厄介な大所帯」というイメージを持たせたくなかったし、実際に混乱の種は連合の外にもないわけでもない。ラインバッハ動乱の直後だからこそ、今は連合内をしっかりと纏めておきたかった。

 そして十月二十日、なんとかキカとマクスウェルを説得して表舞台へと引き出し、オベル王宮で「和平交渉」を行う手はずを整えたのである。リノの依頼とあってはマクスウェルも無視を決め込むことも出来ず、出席を決意した。
 マクスウェルはこの事件が起こってから、ずっと不機嫌だが、その誘いの手紙を受け取った時も不満そうな感情が隠しきれていなかった。
 自室でラインバッハ、アグネス、ポーラを同席させ、気難しい表情で手紙と睨みつつ、マクスウェルは自分の向かいの席で優雅に紅茶をたしなむラインバッハに声をかける。

「ラインバッハさん、リノ陛下は俺に「和平交渉の席について欲しい」そうだ。大人の世界では「和平交渉」とはどういう意味なんだろうね」

 ラインバッハはこの日、ややラメの効いた、大きなパフスリーブの袖を持つ真紅の衣装を上下であわせ、彼にしては小ぶりな帽子をやや傾けて黄金の縦ロールの髪の上に乗せている。
 彼は紅茶のカップから指を離し、馬鹿正直にマクスウェルの言葉を頭の中で咀嚼している。彼らのリーダーが言葉に少し酸味をまぶしていることには気づいていたが、それに対して自分も皮肉を返すべきか迷っていた。
 そういう芸当が得意でもないのに、求められれば応じなければならぬと真剣に考えるあたりが、彼の人徳のゆえん・・・なのだろう。
 結局、ラインバッハは自分の不得意なジャンルにわざわざ足を踏み入れなかった。顎に指を当てながら、彼は言った。

「和平交渉とは、紛争地にある二者、あるいはそれ以上の数の勢力が同じテーブルに列席し、平和のために歩み寄り、ことの妥協点、あるいは「落としどころ」を探すことではありますまいか。私はそう理解していますが、友よ」

 マクスウェルは、自分が期待していた回答を得て、とりあえず満足したようだ。彼も、この誠実な元貴族の青年に、回りくどい話芸など期待していない。
 リノからの手紙をアグネスに渡し、自分のカップに手をつけた。

「俺もそう思う。だがその論法から言えば、今回の事件では、俺たちにも譲歩する余地があるとリノさん思っている、そういうことになる」

 明らかに不満そうに、マクスウェルはカップの中身を飲み干し、それを丁寧とはいえぬ動作でテーブルに戻した。
 普段はむしろ感情を激しく表すことが少ないことで知られるこのリーダーが、不機嫌さを隠そうともしない。意外ではあったが、その理由が納得できないものではないだけに、彼の周辺にいる者たちはより対応に苦慮していた。
 マクスウェルとしては、それらを理解したうえでも、自分の不満を隠し切ることが出来ない。

「俺たちは一方的な被害者だぞ。なぜ無法に仲間を殺されたほうが、加害者に対して譲歩しなければならない?
 同じことを繰り返して申し訳ないが、俺は何か間違ったことを言っているか?」

 マクスウェルとて自分の発言が、いわゆる「大人の世界の論拠」から少し外れていることは自覚している。アグネスやリノが言うとおり、今群島で騒ぎを起こすべきではないのだ。特に、自分達の「真の目的」のためには、この「オベリア・インティファーダ」という組織は温存しておかねばならない。
 だが、その温存すべき組織が無法に傷つけられた場合は、余計に声を大にして相手を糾弾すべきではないのか。マクスウェルとキカは同じ双剣の使い手であり、お互いの人格に対しても、経歴に対しても、敬意を持ち合っている。
 だが、そういう関係だからこそ、馴れ合うことなく糾弾すべきは糾弾してしかるべきではないのか。敬意とは、互いの不都合を見てみぬふりをすることで保たれる関係ではないはずだった。
 マクスウェルは肺の中の空気を大きく吐き出し、気だるげに椅子の背もたれに体重を預けた。

「なあ、ラインバッハさん。俺は子供っぽいことを言っているのかな。組織のリーダーとして不適格だと思うかい」

 その質問に対して、ラインバッハは先ほどのわずかな逡巡とはかけはなれた俊敏さで言葉を紡ぎだした。

「この組織はあなたが必要とし、あなたが作り上げたもの。ゆえに道に沿おうが道から外れようが、あなたの思想のままに君臨すべきです。着いて行けない者は自然と脱落し、必要な部分だけが精鋭として残るでしょう。
 友よ、私はあなたに選ばれたその光栄を背に、ただあなたに従うのみ。あなたが例え神に逆らうことになろうとも」

 オベリア・インティファーダという「組織」にではなく、マクスウェルという「個人」にひたすら無私な忠誠を捧げるこの青年貴族の精神は、他の組織幹部とは一線を画している。
 マクスウェルの軍師であるアグネスは、彼と組織全体の利益を考えなければならない立場上、マクスウェルの言動に反対しなければならない時もあった。かつては第一級の指導者として名を知られたトロイも、思考はアグネスに近い。
 逆に、ずっと組織に属することなく活動してきたミツバやラインホルトなどは、まず自分の利益を最優先に考慮し、行動する。ミツバなどはそのもっとも極端な例ではあるが、その思考法が間違っているわけではない。たまたまアグネスやトロイとは立場を異にしただけで、自分の価値観を正しいと信じ、これまでそれを通してきた。
 これらのメンバーとはまた違う価値観を持つラインバッハの存在は、マクスウェルにとっては新鮮ではあったが、その彼の忠誠と考え方が自分自身を増長させる可能性も考えなければならなかった。
 この誠実な青年貴族を、単なるイエスマンにしてしまうようなことがあれば、それは自分の滅亡の時だ。彼はそれを理解しており、そうならぬように自分の未来を操作しなければならない。
 そしてリノの手紙は、その未来に関わる最重要の一項目であった。

「それで、交渉の席に着くとして、誰を連れて行かれます?
 オベル国王は、オブザーバー二名、護衛二名の計四名の同伴を認めていますが」

 アグネスが手紙をテーブルに置くと、マクスウェルと視線を交わした。彼女は自分の意見はしつこいくらいにマクスウェルに聞かせてきたので、必要以上に重ねて言及したりはしない。マクスウェルも、それを承知の上でぼやいている。
 マクスウェルは少し考えた。

「護衛はポーラ、そしてラインバッハさんの二人に頼む。ミツバやトロイ提督に頼んでもいいが、ミツバの好戦的なところは交渉の席には向かないだろうし、トロイ提督は存在そのものが相手方を刺激する。
 オブザーバーはアグネス、君と小さいほうのビッキーに頼もうと思う」

「ビッキーさんですか」

 少し意外さを感じたのだろう、アグネスは目を少し丸くしてその名を繰り返した。

「ああ、彼女は幼く見えるが俺たちよりはよほど冷静だし、もしもだが、話が真の紋章のことに向いた時の解説役になってもらおうと思う。
 それに彼女の明快さは、話が絡まった時にそれを快刀乱麻に断ち切るのに向いている。話を一方的に相手のペースにしないためにも、そういう役のできる人を一人は連れて行きたい」

 なるほど、と頷いたが、まだ疑問のあるアグネスが問う。

「アカギさんとミズキさんは連れて行かないのですか? いざという時に最も俊敏に動けるのは彼らだと思うのですが」

「ああ、今回は連れて行かない。彼らには別の仕事を頼むつもりだ」

「…………」

 テーブルに両肘を落ち着け、沈黙を保ったまま、胡乱な表情で軍師は自分のリーダーを見つめた。

「今は冷静さこそが重要です。話をややこしくしないでくださいよ?」

「分かっている、非常時の保険みたいなものさ」

 この期に及んで、まだ自分が信頼されていないと思ったのだろう、マクスウェルは苦笑して両手を振った。

2-2

 さて、キカの側としては、最初から他の選択肢はない。もはや戦いあるのみ、結果はボロボロの勝利か全員消滅の敗亡か、という究極の二者択一に、新たに希望の選択肢が登場したのだ。蜘蛛の糸のような淡く脆い希望でも、それにすがりつかなければ無傷で助かるすべはない。
 もちろん、こちらも全員が納得しているわけではない。頭領のキカはわずかに口元を歪ませたし、ハーヴェイのような主戦論者はあからさまに不満げな顔をした。彼らにすれば、自分達よりも格下の連中が一方的な謝罪を求めている、というだけで勘に触ったであろう。
 これを説得したのは、キカ一家唯一の慎重派であり、ただ一人現実が見えているシグルドである。彼は「売られたケンカは例え殺されることが分かっていても買う」という海賊特有の浪漫主義から自由であったから、こんな無意味なケンカで死んでしまうことの愚かさを仲間達に必死で説いた。
 正面からマクスウェルにケンカを売ったところで得るものより失うものの方が圧倒的に多く、しかも今回の仲違いの原因は自陣の過失である。正義を標榜しているキカ一家が、無差別の虐殺を起こしたうえに無意味な戦いで全滅したとあっては、群島の歴史書に永遠の汚点として名を残すだろう。
「エドガーが築き上げた盛名を、キカの代で汚してよいのか」というシグルドの論法は、荒々しい海賊達を黙らせた。エドガーの名を出されては反抗のしようがない。
 こうして、キカも出席を決意した。シグルドとハーヴェイを同席させ、なぜか顔に包帯を巻いたダリオを船内の牢に拘束してグリシェンデ号は海賊島を出港する。
 シグルドは、無意味な争いで一家が全滅する可能性が少しでも下がることに、期待と不安を持っていた。だが、彼らの忘れていることが一つだけあった。
 事件の最大の当事者であるダリオの感情である。

2-3

COMMENT

(初:19.02.09(前半))
(改:19.02.10(前半))