ダリオという一中年男性の持つ個人的な正義感というものについて、群島の歴史の第一人者であるターニャは、自著「パニッシュメント・ブリーフィング」の補文の一つを用いて解説しているが、それは他の登場人物に比べれば著しく短い。
それはダリオという人物が、ターニャの歴史上において全く価値がなかったからではなく、ターニャが自著のテーマとしていたものに対してダリオが重きを成さなかったからである。
とにもかくにも、その人生を端的に語ると、自らが守ると決めたものは、どんな手段をもってしても守り抜いた、この一言に尽きるといえよう。たとえばそれは、養子のナレオであったり、絶滅危惧種の人魚であったり、エドガーとキカへの忠誠であった。
繰り返すが、それらは決して誰かからの批難の的になるべき行動ではない。実際に、彼は死ぬまでこの三者を守り続けた。
ではなぜ彼が、後世まで批難の対象にならなければならなかったのか。自己流の矮小な正義感に溺れてしまったことが最大の原因ではあるが、さらに根源をたどれば、その自己流の正義感を磨くことを怠ったからであろう、とターニャは書いている。
例えば、同僚の海賊であったシグルドは、あえていえば戦略家タイプだった。視野が広く、この自分の決断が周囲にどの程度の影響を与えるかを予想することができた。彼に比べれば視野が広いほうではないが、ハーヴェイは戦術家タイプといえる。少なくとも彼は、一戦場において誤った決断をしない自信があったし、それだけ豊富な人生と戦闘の経験を持っていることを彼自身が「知っていた」のである。
ダリオの人生経験、戦闘経験が彼らに劣っていたとは思えない、と書いているのは、ほかならぬシグルドである。シグルドは後世、ターニャの取材に対しこう応えている。
当時私は、ダリオに対して経験において負けているとは全く思わなかった。それは自分の若さゆえの未熟さと、年長のダリオの人生に対する無知と、彼の単純な性格に対する無意識の軽蔑からきたのかもしれない。
彼は私よりも十歳も年長だし、当然当時の私よりも、人生、戦闘、操船指揮のいずれにおいても経験は豊富だったと思われる。
そんな彼が周囲からの敬意を受けられなかったのは、彼自身、自分の人生をどこかで限定して生きてきてしまったからではないか。自分の正義感を限定された狭い視野の中で自分ひとりで磨いてしまったからではないか。
どちらにしろ、その海賊ダリオが自説に拘泥して人魚を守り抜いた結果、彼女らの保護者であるマクスウェルは激怒し、ダリオの保護者であるキカは苦渋の選択を迫られていることは確かだった。
キカから命令を受けてシグルドが苦労して選択した結果、マクスウェルの下にキカの使者として訪れたのは、たまたま海賊島を訪問していた服飾デザイナーのフィルであった。
彼は服飾の専門家ではあるが、マクスウェルとまったく無関係の人間ではない。マクスウェル自身がスカウトし、群島解放戦争にも参戦している。
戦争とは、武器を取って闘う者だけで成り立つものではない。様々なジャンルの
争いというものも子供同士のけんかならともかく、国家間の闘争ともなれば一大経済活動になるのだということを、マクスウェルは改めて思い知ったのだった。
さて、フィルはマクスウェルだけではなく、キカ一家ともそれなりに関係のある人物である。彼は群島解放戦争開戦前のまだ駆け出しの服飾ファンでしかなかった一時、キカ一家に身を寄せていたことがあった。
様々な人間の特徴を見知ることで自分の見聞を広める目的もあったし、単に食い詰めてたまたま行き着いた海賊島で肉体労働の日銭でなんとか食いつないでいた、という事情もあったが、少なくともここで彼は大きなものを幾つも得ていた。
それは何人もの海賊の知己であり、豊富な経験であった。特にキカ一家と顔見知りであるという事実は、彼のその後の人生を大きく助けてくれた。彼はその事実を、時にさりげなく、時に誇大に宣伝し、人生のピンチを難度も切り抜け、わずかなチャンスを掴んだのである。
フィル自身は痩身で気が優しそうな男性で、長いウェーブのかかった髪を首の後ろでまとめ、グラスの小さな丸眼鏡をかけていた。服装をわずかに変えれば、笑顔を絶やさない気の小さな牧師に見えたかもしれない。
ファッションデザイナーといっても、彼自身はそんなに派手な服装は好んでしなかった。ブラウン傾向で纏めた地味めの服装を好んだが、機能的でしかも一切の下品さを省いた結果、彼の印象を一段上品にすることに成功していた。
「人の印象は、最初の見た目が九九パーセントだよ。いかに無頓着でも、身だしなみをおろそかにして対等の人間関係を築くことはできないさ」
これは彼の口癖であった。
とにもかくにも、そのフィルがキカの手紙を持ってマクスウェルの下を訪れたのは一〇月一〇日である。マクスウェルがビッキーの力を借りて先手先手を打っている中で、行動としては一週間遅れているが、これはマクスウェルの側が異常なのであって、海賊島から無人島まで四日で訪れるのは、当時としては偉業といってよい。
フィルは海賊島を訪れたとたんにシグルドに頭を下げられ、事情を説明され、手紙を渡された。まったくとりつくしまもないほどの勢いであり、あげくに、
「ここまで知ったからには、何もしないで帰れるとは思わないで頂こう」
……などと、恐喝されるありさまであった。
シグルドとしてはフィルに全く恨みはないのだが、とにかく彼らの側には最初から選択肢もなかったのだ。
自分はキカの傍を離れるなとキカから厳命されている。ハーヴェイも同様だ。ナレオはマクスウェルには敵対しないが、最終的に養父ダリオの擁護に回るだろう。
他のメンバーには、戦闘力はともかく政治力は期待できなかった。キカの手紙を高圧的に手渡し、まるで野獣がエサの小動物に対するようにマクスウェルに対するだろう。
この時、彼らとマクスウェルの能力差はまったく無関係である。海賊とは下っ端になるほどそういうものなのだ。たとえマクスウェルが彼らを一瞬に塵に変えられる力の持ち主でも、マクスウェルを「小僧」と呼び、その頭を小突いただろう。この場合、死ぬのは彼だけではない、キカ一家が全滅することになる。
シグルドとしては、マクスウェルが本気でキカ一家と戦争をしたがっているわけでないことを知っていた。知っていると自分に言い聞かせていた。
今のところ、彼は怒り狂っているだろうが、狂乱しながらも話の「落としどころ」を探しているはずである。今回、それさえできれば、心情的にも体裁としても解決する事件だからである。
事件が解決さえすれば、時間さえかければキカ一家とオベリア・インティファーダの関係修復は難しくない。ただ、「誰か」の命は失われるだろうが……。
シグルドは人道家でなかったから、自分の環境を守るためになんの犠牲も出してはいけない、などという戒律を自分に押し付けてはいなかった。自分とその周囲を守るためなら、得意ではないが少しばかり策も網も張る。
今回は特に、マクスウェルの側に死者が出ている。その事件の当事者、少なくとも一人が、犠牲の祭壇に捧げられなくてはならないだろう。彼とキカ一家を守るために……。
とにもかくにも、そのような事情を背に、フィルはオベリア・インティファーダの本拠地である無人島に上陸した。島を占有するネコボルト特有の猫型の建築物に一瞬でも興味は引かれたが、それらの包む緊張感が、その愛らしさに似合わぬものと気づいてからフィルは心境を入れ換えた。
自分は今、「戦地」にいるのだと。無精ひげに包まれた口元を引き締めなおし、自分の着込んでいるブラウンのロングコートの襟元を無意識に正した。
そんなフィルを、四人の海賊が海賊島から彼を守護している。シグルドから彼らに与えられた命令は苛烈だった。
「島についたら、フィル殿以外は一言も喋るな。一言でも喋った者がいたら、他の者がその者を殺せ」……と。
シグルドも、マクスウェルを逆上させない為に必死なのだ。彼らは海賊島の中でも落ち着いた者たちだが、それでも荒々しい海賊には違いないのだから……。
そんな覚悟とは裏腹に、彼らは意外に静かに迎えられた。常識的な挨拶でフィルはマクスウェルの前に通された。さすがに、護衛の四人の海賊はそこまでは入れなかったが、彼らも手荒なことをされることはなかった。
これは、マクスウェルの指揮が、彼のグループの末端にまで行き届いていることの証拠でもあったのだが。
フィルが円形の建物の一室に通されると、そこにはマクスウェルの他、見知った顔がいくつか並んでいた。ミツバ、アグネス、ポーラ、ラインバッハ、アカギ、ミズキ。そしてその端にトロイの姿があったが、フィルは彼の名前を聞いたことはあっても顔までは知らなかったので、トロイとその右側に座るコルトンの二子フェルテンのことは分からなかった。
「久しぶりだな、フィル。意外なことで会うものだが、元気そうでなによりだ」
マクスウェルは笑顔でフィルに右手を差し出した。今日は体調も良いのか顔の左側を隠してはいないが、わずかにタトゥーのように浮き出た赤黒い螺旋の文様には、フィルは息を飲む。しかし、その手はしっかりと握り返した。
マクスウェルは幹部達を長テーブルに着席させたまま、親しげにフィルを隣に座らせる。
「久闊を叙して食事でも囲みたい気分だが、どうやらそういう状況でもないようだね。意外な人たちを連れていたが、さて今日はどのような御用かな」
とうに知っているであろうに、マクスウェルの意地悪な言いよう苦笑を閃かせながらも、フィルは懐からしっかりと封をされた手紙を差し出した。シグルドから預かった、キカの手紙である。
「ボクの頼まれた用は、君にその手紙を渡す、それだけさ。返事を持って来いとは言われてはいないが、ここまで関わってしまった以上、君にそういわれれば断る勇気もない」
弱気な発言をしながらも、フィルの表情は苦笑に満たされているだけだ。べつに、この部屋のメンバーの戦闘力を警戒しているふうもなければ、マクスウェルの罰の紋章を恐れている様子もない。
足や言葉を震わせるわけでもなく、淡々と自分の用事を済ませようとしている。自分はこの服飾デザイナーの真価を正確には知らないのではないか。マクスウェルは、口の端で驚嘆しながら手紙を受け取った。
その手紙を彼の前で開くことはなく、マクスウェルはフィルに正対する。
「さてフィル、こんな役割を請け負わされたわけだが、キカさんからは一連の事件についてはどう聞いている?」
「あらましはおおかた聞いていると思うよ」
「キカさんは事件について、どう言っているのかな」
「さぁ、そこまではボクは聞いていない。ボクが託されたのはメッセンジャーとしての役割であって、君を説得するためのネゴシエイターではないと思う」
「まぁそうだろうな……」
フィルに続いてマクスウェルも苦笑を閃かせ、テーブルに手紙を置いたが、それを開こうとはしない。
指を数秒、テーブルの上で遊ばせた後、表情を真剣に入れ換えてフィルに再び正対した。
「フィル、あなたはこの事件についてどう思う?」
「ボクは突飛な意見は言えないよ。ボクなりの常識論しか言えないけど、それでいいかい」
「それでいい、聞かせて欲しい」
フィルは長い足を組みなおして、左手の指で口元を覆った。少し考えるしぐさを見せてから、口を開いた。
「責任を取るべきなのはどちらか、それははっきりしている。問題は、どう責任をとらせるか、だろう。
もしも争うことになれば、それを嬉しそうに見ている肉食獣もいるかもしれないね」
マクスウェルは、しばらく目を閉じてその言葉を反芻した。なるほど、彼の言葉には一般的な真実は含まれているだろう。しかし……。
マクスウェルはテーブルに置いた手紙を一度指で叩いた。
「わかった。この手紙への返事は、後に独自にこちらから届ける。フィル、君は自由にしてもらって構わない」
「それは嬉しいけど、ボクを守ってくれていた海賊達はどうなるのかな?」
「このまま海賊島へご帰還願うよ。傷一つつけない。それは俺の矜持にかけて約束しよう」
フィルが一礼して退出した後、マクスウェルは幹部達の前で初めてキカの手紙の封をといた。
その手紙はキカらしい誇り高い文体で、部下の起こした事件への遺憾の意が示され、マクスウェルがこの事件の幕引きについてどのような結末を望んでいるのか問うていた。
それだけである。犠牲者への追悼の一言もなければ、ダリオの非をわびる一文もない。争うことは望まないが、自分から屈服することなど考えてもいない。
あくまで強硬、あくまで海賊。
「まったく、キカさんらしい」
吐き捨てるように言ってから、マクスウェルはその短文の手紙を隣のアグネスに渡した。アグネスがさっと目を通し、次々とメンバー内に回されていく。
珍しく、トロイが口を開いた。
「それで卿はどうするのだ、マクスウェル提督。まだこちらから扉を閉じてしまう段階ではないと思うが?」
「だが、こちらの要望は強く出しておくべきでしょう。弱気な手を見せるつもりはありませんよ」
「では、卿はキカになにを望む?」
トロイの低い一言がきっかけになったように、全員の視線がマクスウェルに向く。それを受け止めて、彼は静かに言った。
「ダリオの身柄の引渡し。そして「自分の側に非があった」というキカさん直筆の一文が欲しい」
この発言に眉をひそめたのは、アグネスとトロイだった。その言葉の意味するところを正確に理解したのだ。
不可能だ、とアグネスは思わざるを得ない。先ほどの手紙からも分かるとおり、キカはまだ対応を決めかねているようだが、自分の非を認める発言は一切していない。
マクスウェルは、キカに非を認めたうえで、それを歴史に残るように形としてもってこい、と言っている。あの女傑に頭を下げろといっているのだ。不可能に決まっている。
アグネスの心を代読するように、トロイが問う。
「それが不可能なことであるのを、卿が最も理解しているのではないか?」
マクスウェルは両手を広げ、首を横に振った。
「彼らが無法を通すなら、俺たちは法を通す。彼らが無理を通すなら、俺たちは道理を通す。
それだけのことです。なにを恥じることがあるのか」
トロイはあわてもしないし、逆上もしない。大人の態度で、ただマクスウェルに意見した。
「力で押し通す法と道理に、どれだけの説得力と正当性を持たせられると思っているのだ?」
「力こそが正義だとは思わない。だが、力なき正義はまったくの無力で無意味じゃないですか」
(意固地になっているな……)
トロイは、訝しげな表情を隠しもせず、彼らのリーダーを見つめた。その剣呑な視線に対して、マクスウェルは無視を貫いた。今の彼に、薮から蛇を出す気はない。
恐らくトロイには、今のマクスウェルの絶望を理解することはできないだろう。決して好いていたわけではないが、仲間だと思っていた人間に、自分の庇護していた仲間を無惨にも殺されたのだ。
いかに幼稚と言われようと、彼が逆上するには十分な理由であった。仲間というコミュニティが人生においてすべてであった彼にとっては。
次に発言したのは、アカギだった。
「そりゃな大将、あんたが戦えってんなら、オレたちゃいつでも命かけて戦うさ。
しかしこりゃあ、マクスウェルとオベリア・インティファーダの戦い方じゃねえな。
それに、オベル王国からもラズリル騎士団からも、頭を冷やして落ち着けって手紙が来てるんだろ。
その意見を無視していいのかい」
私闘のために部下を死なせるのは、マクスウェルのやり方ではない。アカギがそう言いたいのを、マクスウェルは汲み取った。
無礼といえば無礼な発言だが、マクスウェルは咎めない。部下の自由で闊達な意見の交換を彼は好んだが、そのためなら上司と部下の間の壁など、彼にとっては必要なものではなかった。
あまり興奮している様子もなく、アカギに顔を向ける。
「アカギ、君とミズキさんにとって、ラマダは命の恩人なんだろう?」
「?」
突然、想定しなかった話題を振られて、アカギが不思議そうな顔をした。
「まぁそうだな。俺たちにとってラマダさんは命の恩人どころか、神様みたいな人だぜ」
とある大国の陰謀によってアカギとミズキの忍びの里が壊滅に追いやられた時、まだ幼かったアカギとミズキは、人買いの手によって、大国の富豪に売られるところだったのだ。そこを助けてくれたのがラマダだった。
それ以来、彼らはラマダのために、教え込まれた忍びの技を使ってきたのだ。
「だが、それがどうした?」
「俺にとっては、リノ陛下がその一人にあたるのさ。彼が表の世界に出してくれたから、俺はこうして英雄なんて似合わない服を着てふんぞりかえっていられる。
だが、彼は、俺の夢を思い直せと言っている。仲間とともに生き、仲間とともに笑い、仲間の死を悲しむという俺のささやかな夢を諦めろといっている」
「……………………」
ごくり、という音がした。メンバーの誰かが、息を呑んだのだ。あるいは、全員がそうなのかもしれない。
ただ部屋の温度が不自然に下がっていることは、全員が理解した。
マクスウェルが立ち上がり、テーブルを両手で叩きつける。その左手の甲がわずかに赤い光を発しているのを、数人が目撃した。
「神が夢を諦めろというのなら……。俺は、悪魔にすがってでも夢を見る」
その瞳に宿っている光は、果たして正気か、狂気か。誰もが理解せぬまま、発言できなかった。
なにかが屋根を叩く音がする。
雨が、降っていた。
(初:18.11.18)