クォ・ヴァディス2 006

1-8

 同日深夜、オベル王国。
 前回の動乱で一時期、国王の座を追われたリノ・エン・クルデスは、動乱後に複座して再び王位について国を治めているが、以前のような安定とは程遠い三ヶ月を送っていた。
 リノ・エン・クルデスがラインバッハ二世とグレアム・クレイによって国を追われた後、彼らに利用される形で国王になったのは、リノ・エン・クルデスにとって股肱の臣であるセツであった。
 リノ・エン・クルデスを王子時代から支えてきた彼は、自分が存在することでもたらされた混乱の責任をとるように、戦中に自らその命を絶った。
 動乱後、リノが建立した小さな小さなセツの墓には、墓碑銘も、彼を悼む一文も書かれてはいない。当然だ、彼は、自分の仕えるべき王も国も裏切った「反逆者」であるのだから。
 本来なら、墓を持つことも許されぬ彼の立場を儚んで、あえてリノは無名の墓を建てた。そこに参るのはリノと、やはり幼いころからセツに見守られてきたリノの娘、フレアだけであった。

 先の動乱で、オベル王国は人文的にだけではなく、地理的にも大きな傷跡が残った。
 オベル王宮から少し西に存在した巨大な地下迷宮「オベル遺跡」が、跡形もなく崩れたのだ。オベル遺跡と、その遺跡の地上部分の北西に広がっていた広大な自然を残していた大森林「黒の森」の大部分が、海中に消え去った。
 その原因を知る者は、動乱の最後に遺跡の最深部で死闘を演じたマクスウェルと、彼に付き従った数名だけであるという。
 リノ・エン・クルデスはその戦いの趨勢を大まかには聞いているが、遺跡が崩壊した原因は「真の紋章の崩壊」としか聞いていない。
 リノ・エン・クルデスは真の紋章に対して、そう深い知識があるわけではない。確かに、「罰の紋章」にかかわってきただけ、まったくの素人よりは詳しいだろうが、それも「罰の紋章」に対する知識だけであって、真の紋章という存在そのものにかかわる知識ではなかった。

 ともかくも、先の動乱でオベル王国の領地の四分の一が海中に沈んだ。これは、リノ・エン・クルデスだけではなく、オベル国民の心底に大きな傷を残した。
 この傷跡をリノ・エン・クルデスの政治的成功で補うには、長い長い時間がかかるだろう。それを戦争で補おうとすれば、ラインバッハ二世の二の舞となる。
 そういう思考法は、リノ・エン・クルデスにはなじまなかった。自分と国を守るために予防線を張ることと、見境なく他国に戦争を吹っかけることは、次元が違うことだ。
 リノ・エン・クルデスは戦争を利用すべき政治家であって、戦争を手段とする戦争狂ウォーモンガーではない。

 この日、オベルの夜は冷えた。王宮二階のテラスから遥か水平線をのぞむリノ・エン・クルデスの手には、さきほどミズキが持ってきたマクスウェルの書状が握られている。
 この手紙を読んでから、リノ・エン・クルデスはむっつりと黙り込んだ。とりあえず、マクスウェルには「怒りにまかせて妄動せぬように」と短い手紙を書いてミズキに持たせた。
 ダリオがマクスウェルの集団の一員を殺めた。この報告は、リノ・エン・クルデスにも少なからず衝撃を与えた。
 リノは、ミズキの言葉を思い出す。

「マクスウェル様にとって、仲間とは家族同然。そこに、なんの差も抱いておられません」

 そう、自らの出生も家族の温かみも知らぬマクスウェルにとって、家族と仲間の違いとは、血縁があるかないか、それくらいしかない。
 その「仲間」の命を奪われたのだ。彼が逆上するのも無理からぬことだった。

 ダリオの暴挙によって、マクスウェルは怒っている。ここまでは当然の流れだ。
 では、その波に寄り添って、オベル王国とリノ・エン・クルデスはどのように行動すべきだろうか。
 マクスウェルは、取り急ぎ報告だけを送ってきた。自分の現在の状況だけを言ってきた。
 彼は暴発とは程遠い人間だ。行動を起こすときは、考えて、考え抜いて動くだろう。普段ならば。
 しかし、状況が普通でない現在、彼のような慎重派がどのような決断をするのか、予想するのは難しい。
 すべては、「マクスウェルの怒りの度合い」に拠る。はたして、彼がどの程度冷静さを保っているのか。
 これを、手紙から読み取ることは難しい。

(やはり、マクスウェルとキカの両人に、一度は会って話を聞かねばならんな)

 そう考えて、リノはまたも難しい顔をした。
 その思考法は、彼が二つの勢力の仲介をすることが前提になっている。
 彼は自然にその立場に自らを擬して、特に疑問も感じなかった。

 しかし、自分の立場は、動乱前とは違う。
 群島諸国連合は、当初の彼の思惑とはややずれた形を構築しつつある。
 旧クールーク地方やガイエン公国を含めた参加国が増え、オベル王国の地位は低下した。
 もはや、彼が「自分は群島の盟主である」と自らを誇大に喧伝しても、返ってくる視線は冷ややかなものに違いない。
 先の動乱で壊滅的な被害を受けたナ・ナルだけではない。自分も試されているのだ。そういう立場にいることは、忘れてはならなかった。

 ミズキは何も言わなかったが、マクスウェルのことだから、怒ってはいても用意周到に手回しはしているだろう。
 きっと、自分に送ったのと似たような手紙を、ラズリルにも送っているに違いない。
 つまり、マクスウェル自身の立場も流動的なのだ。
 果たして、自分とラズリルに仲裁を求めてくるのか、それともただ傍観してほしいだけなのか。
 今後、状況はどのようにでも変わるだろう。
 深い傷を持つオベル王国は、そのすべてに対応できるようにしておかなければならない。

「やれやれ……」

 特にアカギの真似をしたわけではないが、リノは大きくため息をついて頭をかいた。
 ダリオめ、それにしても厄介な問題を起こしてくれた。
 マクスウェルもそうだが、はたしてキカが、この騒動に対してどのような行動をとってくるのか。
 キカは、政治的な行動を好むほうではない。ダリオに自ら罰を与えて、それで事件を終わらせるだろうか。
 もっとも簡単な終わり方は、マクスウェルの目前でキカがダリオに罰を与え、彼に頭を下げることだが、その可能性が低いこと、自分がいきなり女性に変身することと同じくらいだろう。
 間違っても、キカがマクスウェルに頭を下げることはない。妥協点が見つけようがない。
 キカとマクスウェルの双方が、自分に仲裁を頼んでくれば、いくらでも引き受けてみせるが……。

 リノ・エン・クルデスは、何度目かわからぬため息をついた。
 そして、自分の背後の気配を気にする。彼の背中を見つめる視線がある。
 娘のフレア王女が、父の様子を伺っていた。
 白い髪を持つ父と違い、ややくすんだ金色の髪を長く伸ばし、ポニーテールに纏めている。大きく見開かれたブルーの瞳は、行動的な彼女の意志力を光に変えて顕しているようだ。

 フレアは父の思考の邪魔をしないためか、少し距離を開けて父の背中を見守っていた。
 リノ・エン・クルデスは、自分の娘がマクスウェルに対してどのような想いを抱いているかは知っている。いや、知っているつもりでいる。
 先の動乱が始まる前まで、父娘の会話にはなんの違和感もなくマクスウェルがネタとして俎上に上げられていた。誰に気兼ねすることもなく、二人ともマクスウェルのことを話していた。
 しかし、先の動乱も佳境に入った頃から、フレアがマクスウェルの話をしたがらなくなった。父に話を向けられても、ごまかして流すことが増えた。

(つまりは、そういうこと・・・・・・か)

 リノは、娘の恋愛について口を出す気は、全くない。それは一般世間の人間としては生きられぬ「王族」という立場に生まれついた娘に与えられた最大の「自由」だからである。
 だが娘の結婚を喜んで許可するかどうかは別の話だ。
 もしもフレアが結婚するとして、情熱的な一面のあるフレアのほうから求婚するとしたら、当然、その結婚相手はオベル王国の「共同統治者」ということになる。フレアと共に国を運営していかなければならないのだ。
 フレアの選ぶ男だから、万が一にも誤りはあるまいが、どこの馬の骨ともわからぬ男にこのオベル王国を好き勝手にされるのもまた、たまったものではない。

 その相手がマクスウェルである可能性が少なくない、というのも、リノ・エン・クルデスには複雑な思いがある。
 彼ならば、能力的にも思想的にも問題はないだろう。娘のことも国のことも、我がことの様に大事にしてくれるに違いない。
 そう、彼ならば問題はないだろう。たった一つ、彼の意思に関係ない彼自身の問題を除いては。
「罰の紋章」。この一点において、彼はそこらの市民とも王族とも別のカテゴリーに存在する人物だった。
 自分もフレアも、そしてたいていのオベル国民も健康で健全だが、いつかは死ぬ。それは人間という存在に与えられた時間の限界なのだ。だから人間は子を作り、家を、そして国を次代へと継がせていく。
 だが、マクスウェルにはその「時間の限界」がないのだ。何事かが起こらない限り、今の姿のまま永遠に生きるのである。
 果たして人間というものは、無限の時間を与えられた時、どのように変化していくのであろうか。そしてその過程で、無限に生きる男が自分の国をどうしていくのか、リノ・エン・クルデスの想像の翼はそこまで広がらない。
 しかし、彼は知っているのだ。実際に、永遠に生きる男が治める国が、この世にはあるのだということを。

 無論、すべては自分の死後のことであろう。今から心配するのも性急かもしれない。
 それに、なんらかの奇跡が起きてマクスウェルが「罰の紋章」を手放さないとも限らない。そのような例が歴史上にあるかどうかはリノは知らないが、希望的観測が許されるのならば、そう願わざるを得ない。
 彼とてマクスウェルを嫌っているわけではない。彼が嫌っているのは、マクスウェルの左手に宿るもの、彼のごく一部に過ぎないのだから。

1-9

 それは奇妙な島だった。群島の政治や軍事にかかわるものならば、誰でもその名を聞いたことがあるはずなのに、その正確な位置を知っているものはあまりに少なかった。
 そこを訪れた経験のある者はといえば、その数はさらに半減する。

 海賊島という。
 群島最大の海賊一家の本拠地であり、それを束ねる女海賊キカのねぐら・・・である。
 海賊の島、と言っても、その島の状況は通常の海賊の本拠地の姿とは一線を画している。
 それは「基地」であり、「要塞」だった。海賊たちの駆る船は、島に整備された専用のドックで常に万全のチェックが行われている。
 海賊たちが騒ぐ酒場や宿も、彼らが寝起きする住居も、概観からはわかりづらいように、洞窟内に慎重に設計されている。彼らの頭領であるキカの自室は、さらにその奥、島の最奥部に設けられていた。
 千人を越す海賊島の人口の半分近くは、常日頃、こうしたドックや酒場などの産業に関わる者たちであった。無論、非常事態にもなれば、彼らも剣をとり、戦列に加わるべく訓練を受けている。

 そして、その非常事態にならぬように島を守るのは、島の南半分を大きく囲む壁のように巨大な「岩礁」だった。
 その岩礁に守られるように港が開発され、島の北半分は高い山々に囲まれている。どの方向から見ても、島の状況が分からないようになっているのである。

 この天然の要害を選んで自ら開発したのは、キカの先代の頭領であるエドガーだった。
 双剣の達人であるのと同時に、冷静沈着な人物として知られたエドガーは、自分たちの本拠地を選ぶのに、まずその才能を発揮した。
 誰の目にも触れてはいけない職業の本拠地であるから、プライベートが丸見えになるようではなんの意味もない。
 そこから逆に考えを進めていき、この島を選んだのである。
 その開発には、エドガーの生来の秘密主義思想が遺憾なく発揮された。
「完全秘密基地」。
 エドガー少年の夢見たその言葉は、二十五年の時を経てこの島に結実したのだった。

 その先代の秘密主義を受け継いだわけではないのだろうが、キカもまた秘密主義的傾向の強い人物だった。
 なにせ、自分のことを周囲にまったく話すことがないので、彼女の情報を持っている者は驚くほど少ない。腹心のシグルドやハーヴェイにしても例外ではない。
 家族構成や出生地はもちろん、本名すら誰も知らない。
 キカを表す情報といえば、断片的な「単語」でしかない。「双剣の達人」「正義を標榜する」「だが敵には容赦しない」「エドガーの恋人」……そのような一種の「状況証拠」のみが、彼女を語るときの「要素」だったのである。
 無論、キカ一家の構成員がみなこのような人物であるわけではない。海賊の典型のようなダリオなどは、自分の成功と名前とを周囲に大声で喧伝せずには気がすまなかった。

 その海賊の一典型が、問題を起こしている。
 マクスウェルがラズリルとオベルに手紙を送った翌日の晩、ダリオの指揮する「チャンピオン号」は、意気揚々と島に凱旋してきた。
 なにせ、無法な人魚の密漁船に鉄槌を下してきたのだ。ダリオとしては、花吹雪で迎えてもらいたいほどに得意げになっていた。
 普段は気難しいこの男が、自分の財布で部下に酒を提供するなど、滅多にないことであった。ダリオとしては、すぐにその酒代は元をとれる計算だった。
 この「善行」を報告すれば、キカはお褒めの言葉とともに特別ボーナスを支給してくれるだろう。
 キカは決して吝嗇けちではない。与えるべきものは、派手に与える。ダリオの酒代は、すぐに倍以上になって彼の財布に返ってくるに違いないのだった。
 ダリオは、謹直な表情をつくりつつ、だが薔薇色の未来を予想して口元を喜びで痙攣させつつ、キカの部屋の扉をたたいた。

 そこに、ダリオにとって面白くない人間が二人、同席していた。キカの腹心であるシグルドとハーヴェイである。
 この年、シグルドとハーヴェイはそろって二十七歳になる。ダリオにとっては、子供とまではいかないまでも、弟よりも年下の年代である。
 その二人が腹心として、自分よりもキカの傍にあることが、この男にとって面白かろうはずもない。
 それが抑えられなかったのか、ダリオは思い切り渋い顔をしたが、シグルドとハーヴェイも負けないくらいに面白くない顔をしていた。

 シグルドは、血の温度の高い者の多いキカ一家の中でも、理性で感情を制御できる珍しいタイプの人間だった。この男はミドルポートの官僚出身という異色の経歴の持ち主で、キカを政治的な面からサポートできる唯一無二の男である。
 その見識を見込んでキカがガイエン公国に潜伏させていたが、先の動乱が収束を見たこともあり、海賊島に呼び戻されたばかりであった。
 自分の血の温度の高さを標準に行動し、しかもそれを誇りとしているダリオにとっては、もっとも理解不能な人物の一人でもある。

 思えば、ダリオはキカの先代のエドガーの時代から仕えているにも関わらず、エドガーにもキカにもさほど重用されなかった。むしろ時間で言えば、船長に上り詰めるまでも、ハーヴェイよりも長くかかったほどである。
 この男はそれを理解していながら、身を慎むということをしなかったのが、昨今の状況につながったのかも知れない。キカ姉によく見てもらうためには、もっと自分なりの正義を行わなくてはならない。その一心で、その粗雑な理論を乱暴に行使し続けた。

 キカは自分のテーブルでラム酒のグラスを傾けたまま、ダリオに一瞥をくれた。

「キカ姉、ただいま戻りました!」

 ダリオの声が高揚している。自分の功績に背中を押されているかのようだった。
 だから、キカの目が厄介ものを見ているかのような視線を自分を突き刺していることなど、彼は気づきはしなかった。
 キカの第一声は、普段よりも一段と低かった。

「ダリオ、チャンピオン号を降りろ」

 キカの表情は変わらない。というよりも、無表情だった。
 ダリオは、自分の体温の高さのせいで、室内の冷え切った空気に気づかなかったのだ。

「え……?」

 ダリオは、突然冷や水を頭からかけられたような冷たさを覚えた。
 冷え切ったキカの視線にようやく気づき、精神の温度が一気に下がった。

「聞こえなかったか? 船をナレオにまかせて、お前は自室で謹慎していろ」

 キカの温度のない言葉は、氷柱つららとなってダリオの肺腑をえぐった。まさかこのようなことを言われるとは、一秒前まで予想もしなかった彼である。

「あ、あの……なんで……」

 ようやく搾り出したダリオの声にも、キカは冷淡だった。

「言う気はない。去れ」

 魂を抜かれた顔、というのはこういうことを言うのであろう。
 ダリオは呆然としたまま、肩を落とし、すごすごと部屋を後にした。
 キカに反論しようなどとは、ダリオは思わない。どのような勝手なものであろうとも、彼の正義がキカのために発揮されているのは(ダリオにとっては)事実だったし、キカに対するダリオの忠誠は嘘偽りのない純粋なものだったからである。

 ダリオの後姿を見ながら、扉が閉じられた後、ハーヴェイがため息をもらした。

「しかし、厄介なことをやらかしてくれた。よりによって、マクスウェルのとこの船を沈めにかかるとはな……」

 ダリオが騒動を起こしたそのとき、偶然だが、同じ海域で活動していたキカ一家の船があったのだ。
 彼らは攻撃された船の後を追い、マクスウェル一派の船であることを確認すると、チャンピオン号がもたもたしている隙に事件のすべてをキカに報告したのである。
 どうやら死者が出ているらしい、という事実とともに。
 ハーヴェイのため息を、シグルドが受け継いだ。

「ダリオは狂犬です。誰彼構わず噛みつきますが、その時に噛みついてはいけない相手をわざわざ噛んでしまう間の悪さがあります。
 彼の獰猛さは、はっきりとした敵のあるときにこそ、発揮されるものなのでしょう」

 シグルドの分析を聞きながら、キカの表情は変わらない。もともと感情の起伏の乏しい女ではあるが、このときは意識的に感情を殺しているように、ハーヴェイには見える。

「なるほどな。誰かが手綱をしっかり握って調教しないといけない種類の狂犬なわけだ。
 群島解放戦争のときも、ラマダの金にたぶらかされて、罰の紋章の危険性を軽く見たままラズリルにケンカを売っている。
 もう四十も超えるから、敵味方を判断するくらいの分別は期待していたのだがな……」

 その期待を裏切られた。ダリオとて、マクスウェルが人魚の保護活動をしていたことは知っていたはずである。
 そして、船上の人魚を見て、その人魚が捕獲されたと思い込み、無差別に砲撃した。
 これが「正義」と言えるのか。
 とりあえず自分の思いを酒とともに飲み込み、キカはセミロングの髪を揺らしてシグルドに正す。

「それで、マクスウェルはこちらにどのような要求を突きつけてくると思うか」

「最小限ならば、ことの説明と賠償金を求めてくる程度で終わるでしょうが……。
 ダリオの首、あるいは最悪の場合、戦端を開いてくる可能性もゼロであるとはいえません」

「あの坊主が、そんな大それたことをやらかすかな」

 ハーヴェイのいぶかしげな言葉に、シグルドが余裕の一要素もない視線を向けた。

「確かに、マクスウェル様は争いを好まないだろう。だが、彼は今や一軍を束ねるリーダーであり、同時に政治家でもある。
 踏み外すことのできない一定のラインというものが、立場には付属する。
 オベリア・インティファーダは、まだマクスウェル様の盛名によりかかった組織だ。組織を維持しようとすれば、余計に後ろに下がる決断はできまい」

 シグルドの言葉が事件の今後を予言しているようにも、キカは思える。
 キカは、決してマクスウェルなど恐れはしない。だが、彼が宿している「真の紋章」を敵に回して、どの程度の確率で生き残れるか、それはまた別の話だ。

 シグルドが、深刻な話を続ける。

「キカ様、あえて進言をいたします。この際、これを契機にダリオを見限るべきです。
 いかに一戦力にはなりえても、それ以上のトラブルを招いてくるならば、その存在はマイナスにしかなりません。
 俺が言うのも差し出がましいながら、ダリオのかわりはナレオが十分に果たしましょう」

 キカは、酒の成分の濃い息を吐き出した。

「私に、エドガーから受け継いだものを捨てろ、というのか」

「この俺も、エドガー様には命を救われました。彼には恩も敬意もあります。
 ですが、ここはすでにエドガー一家ではありません。キカ一家です。
 キカ様のお考えは分かりますが、受け継ぐだけでは組織は先細りするだけです。
 新しい血を、新しい制度を、新しい傾向を入れ続けなければ、いつ死ぬかわからぬ海賊という立場柄、組織の維持は不可能です」

 シグルドには珍しい熱弁であり、珍しい意思の表明だった。常日頃キカをたて、彼女の後ろに静かに佇んでいる彼である。
 似たような立場にあるハーヴェイが、シグルドの言葉を息を呑んで聞いている。
 シグルドの熱弁に、キカはしばらく口を開かなかった。しかし時間をかけてエールを飲み干すと、シグルドに厳しい視線を向けた。

「シグルド、マクスウェルの下に使者を送れ。その腹の内を探って来い。
 ケンカを売ってくるならいくらでも買ってやるが、まだこちらから手を出す時ではない。
 下手に出ることはないが、くれぐれもマクスウェルを激発させるな。とにかく今は、熟考よりも拙速こそ尊し、だ」

「はっ!」

 シグルドが一礼し、キカの部屋を退出する。さっそく使者の人選に入るのだろう。
 どの組織も、難しい立場に立たされていた。
 誰もが、わかっていて口に出さなかった群島全体をとりまく状況の「脆さ」が、一人の男の暴挙によって、白日のもとにさらされようとしていた。

COMMENT

(初:18.01.02/前半部)
(改:18.01.03/後半部)
(改:18.01.04/後半部)
(改:18.10.30/後半部)