「このたびはご迷惑をおかけいたしました」
青年は、ベッドに横になる婦人に対して、丁寧に頭を下げた。
婦人は微笑んで手を振り、青年の誠実さに応えた。
青年はゆっくりと頭を上げる。中肉中背の青年はフードを深くかぶっていたが、その顔面の左半分を覆う禍々しい文様は隠しようがなかった。
マクスウェルである。
彼は二ヶ月前の動乱でナ・ナルから誘拐され、その後、オベルの地下から救出されたリキエを訪問していた。
リキエは衰弱はしていたものの、リノ・エン・クルデスの命令によって丁寧にナ・ナルに戻され、一週間で意識を取り戻した。
その後、弱ってしまった足腰のリハビリのために日時を費やしてきたが、この日マクスウェルの訪問を快く受け入れたのである。
「こちらのほうこそ、軽々に敵の策にのって人質になってしまいました。ご迷惑をおかけしたのはこちらです」
リキエは貞節をわきまえた未亡人であり、その対応も常識と丁寧さに終始した。
リキエにとって、罰の紋章を持つマクスウェルは見守るべき存在であり、彼の名を出された以上、動かざるをえなかった、というのが真実であるが、こういうやり方は理解はしても、リノ・エン・クルデスもマクスウェルも好まなかったから、すでに死亡しているとはいえ、動乱の謀主であるラインバッハ二世を許すことは決してできなかった。
「ところで、リタさんの容態はいかがですか」
リキエが銀髪を揺らして話題を変えた。
リタ、この名を持つ少女は、リキエ同様、マクスウェルを釣るエサとしてラインバッハ二世に誘拐されていたのである。
十一歳の小柄な少女は、リキエと同じくリノの命令でオベルで丁寧な看護を受けているが、二ヶ月たった今でも意識を取り戻すことなく、眠り続けている。
「まだ意識は戻りません……。そもそもなぜ罰の紋章に無関係のリタが誘拐されていたのか、それも不明のままです」
申し訳なさそうに、マクスウェルは頭を下げる。
このリタの誘拐は、前回の動乱における最大の謎の一つだった。
誘拐された他の人間は、リキエ、ジュエル、フレアと、いずれもマクスウェルか、彼の持つ罰の紋章に関わりの深い者たちであった。
この中で、リタだけが罰の紋章とは無関係なのだ。
リタは、マクスウェルが呪われたこの紋章を持つきっかけとなった二年前の群島解放戦争において、ミツバやラインホルトと同じく、最初期からマクスウェルたち群島解放軍に加わり、年少者たちの中ではもっとも戦力として活躍した少女である。
彼女の功績はそれだけではない。リタは独自のルールを考案して新しいゲームを製作する天才でもあり、特に鯨の骨から作られる「牌」を使った役作りゲーム「リタポン」は、現在は群島の枠を超え、旧クールーク領全域やガイエン公国でも遊ばれるほど広まっている。
これだけでも、リタは歴史に名を残す資格があるだろう。
マクスウェルも当然、リタポンに大いに興じたが、なかなか剣や紋章と同じようにはいかず、連敗記録を日々伸ばしている。
そう、前回の動乱から二ヶ月がたっても、解決しなければならぬことは山のようにあったのだ。
このナ・ナルでも死者の埋葬がほぼ終わり、今後のことについてようやく目を向けられる有様だった。
誰かの言葉を借りれば、
「恋と戦争ほど、終わらせるのが難しいものはない」
ということになるのだが、当事者たちは、足を止めて自己韜晦している暇もなかった。
特に、戦中に勃興したばかりの「オベリア・インティファーダ」を束ねるマクスウェルは、
「体が二つ欲しい。それが不可能なら、一日を四十時間にしてくれ」
と漏らすほどの忙しさだった。
例えば、マクスウェルが会わなければならぬ人間の数もその一例である。
動乱後、正式に群島諸国連合に加盟した「オベリア・インティファーダ」を一勢力と見なして、使者を派遣してくる勢力が増えていたのである。
マクスウェルの親友であるフィンガーフート公爵スノウが宰相を務めるガイエン公国などは、それこそガイエンの内情と群島諸国の内情を交換しようという意志が正確に見えていたし、旧クールーク勢の中では、先の動乱でマクスウェルの元で戦死したヘルムートの父親コルトンも、連絡を密にしようという意志が現れている。
もっとも、コルトンの場合は、スノウよりも政治色が濃い。コルトンはここ数年の動乱を経て「軍師」の存在を強く意識した一人である。有名な軍師であるエレノア・シルバーバーグの協力を仰いで、優秀な部下を選んで軍師の教育を与えたこともある。
コルトン自身も、元は生粋の軍人だが、三つの街を治める勢力の長として政治家の一面を持ったことで、この老年の男は新しい自分に目覚めざるを得なくなっている。そこで、それこそ強力な職能集団でもある「オベリア・インティファーダ」との協力関係を築いておくことで、自分の変化に自信をつけようというのであった。
かつては敵対していた身ではあるが、マクスウェルもクールーク第二艦隊を率いたコルトンを軍人として一目置いていたから、教えを請う機会を無駄にはしたくなかった。
こうして、「オベリア・インティファーダ」をとりまく状況は一変した。
前述の通り、集団の代表としてマクスウェルは「国王」と呼ばれるたびに、しつこいくらいにこれを否定したが、自分がリーダーとして見られているという自覚は新たにして、その責任の大きさに辟易した。
オベル国王リノ・エン・クルデスの庇護の下でのんびりと過ごしていた時期とは、なにもかも違うのだ。
マクスウェルはリキエの家を後にした。
ボディガードとして、エルフのポーラ、元貴族のシュトルテハイム・ラインバッハ三世が彼の背後にぴったりとくっついて、剣呑な表情で視線を交わした。
先の動乱から二ヶ月。マクスウェルなどは「もう二ヶ月」と思っていたが、ポーラやラインバッハなど、彼を護る立場の者にとっては「まだ二ヶ月」なのだ。
確かに、島長アクセルの決断と忍びのアカギの活躍によって、ナ・ナルで騒動を起こした「独立派」は駆逐されたかもしれない。しかし、それはあくまで「その時の独立派」のはなしである。
実際に、この年の三月にはマクスウェル自身が無人島で、オベル王女フレアがオベルで襲撃されているのだ。
もちろんそれにはカラクリがあったわけだが、自分たちの知らない「敵対勢力」が、突如マクスウェルを襲撃する、といった可能性を完全に排除できない以上、彼らとしては、緊張感を高めておかないといけないのだった。
ナ・ナルの大地が荒れている。もともと、自然環境の厳しい島だけあって、島民の独立感情がより強くなっていったという歴史的背景がある。エルフ族との小競り合いもそれに加わって、ナ・ナルの歴史には少なからず血で描かれたページが存在する。
現在の島長であるアクセルと、エルフ族の若き長老であるセルマが正式に和解した事で、今後はそのようなページは減ってくるであろう。人間とエルフの両方の事情を知るポーラとしては、そう祈るしかない。
「ポーラ、ラインバッハさん。アクセルの家によって挨拶して帰ろう。
なに、ビッキーが居てくれるおかげで、行くのも帰るのも一瞬だ。
本当に、ビッキーさまさまだな。頭が上がらないよ」
冗談めかして、マクスウェルが言った。この笑顔を二度と曇らせることはしたくない。
ポーラのそれは、かつての学友としての心配の範疇を超えた心境だったかもしれない。
すっと、ラインバッハが手をかざした。
彼の衣装は、動乱前も後も変わることなく、相変わらず英雄伝説の絵本からそのまま浮き出たような、時代がかった派手な貴族服であり、金の縦ロールの長髪をなびかせている。
彼は、自分の父親が先の動乱の謀主であったこともあって、かつての領地であったミドルポートの領有権もラインバッハ家の財産も全て放棄してしまい、自分が継承するはずだった財産はすべてマクスウェルに預けた。
そして、「自分は罪人である」として、依然とは比べ物にならぬほど地味な生活を送るようになった……のは、あくまで本人の言であり、他人にはその衣装の趣味のどこが地味になったのか、さっぱりわからなかった。
「友よ、雨になりそうです。噂を信じるわけではありませんが、早めに切上げたほうがいいかもしれません」
ラインバッハの言に、マクスウェルはいい顔をしなかった。無論、彼はラインバッハのいう「噂」を知っている。
それはこのような噂であった。
「雨の夜、行方不明の友人が夢に出ると、身近な誰かが死ぬ」
誰が言い出したのか、どこから出たのかも分からない、出所不明のあくまで「噂」である。
だが、この秋、群島地方は例年より雨が多く、またここ数年の多難もあって、そのような良くない噂が出てくる下地のようなものはあるのは確かだった。
だが、マクスウェルはこの噂を信じるわけにはいかなかった。群島解放戦争でも、先のラインバッハ動乱でも、多くの友人が戦死、あるいは行方不明になっているからである。
その鏡が一閃すると、マクスウェルたち三人の姿は、一瞬にしてナ・ナルから消えた。
一瞬の酩酊感のあと、三人が目を開くと、彼らの前に見慣れた顔が現れた。黒髪を綺麗に背中に流し、無邪気な笑顔で彼らを迎えた。
「マクスウェル君、おかえりー。二人もお疲れ様ー」
その独特の間延びした声に迎えられると、マクスウェルはいつも安心するのだった。
奇跡の鏡の守護者、先年からたびたびマクスウェルの危機を救ってきた特殊能力者、ビッキーである。
ビッキーは紋章術の専門家らしく、長いローブを着ている。
それはこの時代の群島で扱われる文様ではなく、ラインバッハとは違う意味で、ビッキーの正体不明感を強くしていた。
現在、オベリア・インティファーダが本拠地とするこの島には、名前が存在しない。
マクスウェルが、この島を本拠地とするのを事件が解決するまでと決めたため、島にあえて名前をつけなかったのだ。
それは、現在も続いている。それはつまり、マクスウェル一派が、まだ「事件は終わっていない」と見ているからに他ならない。
だから、この島は現在も便宜上「無人島」と呼ばれていた。恐らく、過去に地図に載ったどんな無人島よりも、多くの人間が住んでいるであろう。
しかも、ネイ島のネコボルトの伝統を受継ぐ、奇妙で愛らしい猫型の住居が並ぶ無人島である。初めてこの島を訪れて、マクスウェルの罰の紋章と、この住居群とのギャップに驚かないものは少数であった。あの無表情で有名な海賊のキカでさえ、この島を訪れた際に微笑を漏らした。
「お前も変った趣味をしているな、マクスウェル」
キカのこの第一声に、どのような表情を返したものか、マクスウェルは迷った。
少なくとも、彼がネコボルトの住居を選んだのは経済的な理由からであって、美観的な趣味で選んだわけではなかったからである。
さて、島に帰ってきたからと言って、マクスウェルに時間的な余裕があるわけではない。
それを代表する一人が、彼の執務室に待っていた。
小柄なその女性は、その若さを表すように活発な空気を全身に満たしていた。
かつてのエレノア・シルバーバーグの一番弟子であり、現在はマクスウェルの軍師を勤めるアグネスである。
「おかえりなさい、マクスウェルさん。なにか情報はありましたか?」
テーブルをたたかんばかりの勢いで、アグネスはマクスウェルに問う。マクスウェルは顔面を隠していたフードをあげると、首を振った。
「いや、いつもどおりだ。リキエさんの容態は安定しているが、【彼】の情報はなにもない」
「そうですか……」
アグネスは元気なくうなだれた。つられるように、ポーラとラインバッハの表情も沈む。
【彼】。マクスウェルがオベリア・インティファーダを解散させず、事件を終わっていないと見なしている理由がそれであった。
「【彼】はどんなことがあろうと探さなくてはなりません。
そして、どんなことがあっても、どんな手段を用いても必ず倒さなくてはなりません。
でない限り、【彼】は必ず再びこの群島に騒動をもたらすでしょう」
アグネスは拳を握り締めて言った。その声が、わずかに震えている。
「そして、そのたびに多くの哀しみが生まれる。
私はもう、そんなのは十分です。ジュエルさんの例も、ユウ先生の例も、トリスタンさんの例も、ヘルムート提督の例も!
私は絶対に忘れませんし、絶対に許しません」
それは、その場にいる四人の共通の認識だった。
アグネスが出した名は、ある意味、オベリア・インティファーダ最大のタブーだった。
ジュエルはラズリルでの訓練校以来の、トリスタンとユウ医師は群島解放戦争からのマクスウェルの知己であり、ジュエルはマクスウェルの命の恩人でもあるのだ。
そして、先のラインバッハ動乱においてその命を失ったのだ。ヘルムートはアグネスのすぐ目前で壮絶な戦死を遂げ、ジュエルにいたっては、いくつかの偶然が作用したとはいえ、マクスウェル自身がその命を奪ってしまった。
それはアグネスとマクスウェルの心に突き刺さる楔であり、同時に、その原因となったひとりの男への激しい憎悪へと繋がるのだった。
マクスウェルが、つぶやいた。
「心配ない、アグネス。俺はヤツを必ず追いつめる。世界のどこであろうと追いつめて、そして……」
ぼうっと。マクスウェルの顔面の左半分を支配する文様が、赤と黒の光をわずかに放った。
思わずポーラが息を呑むのと同時に、マクスウェルは強烈な殺意をこぼした。
「……必ず、殺す」
ぎゅっと、マクスウェルが右手を握り締める。その場に存在しないはずの何かの絶命の悲鳴が、ラインバッハには聞こえるようであった。
(初:17.02.01)