やっとのことで強敵を退けた七人は、しばらく休息をとった。
 特にトロイは優れた剣士であり紋章術士とは言えど、さすがにシメオンやジーンなどの超一流の紋章術士と比べると、一段劣る。何よりも本職は剣士なのである。
 その間、ミツバは、東の壁に描かれた巨大な女性の顔をに興味深々だった。
「ねえ、導師。これってなに? まるで生きている見たいで気持ち悪いんだけど」
 シメオンは壁面に近づき、じっと観察する。その間にも、壁面の眼球はシメオンを興味深く見ている。
 そして、シメオンは驚愕の一言を発した。
「これは、【八房の紋章】じゃな」
「え゛?」
ミツバはさすがに驚きがが隠せない。
「いや、紋章って言ったら、球体の形をしてるんじゃないの? 人間の顔をした紋章なんて初めて聞いたよ」
シメオンは、いくらか体力が戻ったのか、顔色も元に戻っている。
「【八房の紋章】は遠い遠い昔、【罰の紋章】とともに、【夜の紋章】をたぶらかして【太陽の紋章】との絆を断ち切らせた。
 それ以来、【八房の紋章】は【罰の紋章】の傷跡としてこの姿を保っているのだ。
 本来なら、八つの眷族紋章で外の世界を観察しているのだが、その眷族紋章が失われた今、【罰の紋章】から外の様子を見出すしかない。
 その結果、【八房】が絶望するか、希望を持つか、誰にもわからん」
「……もしも、【八房】が外の世界に絶望したらどうなるの?」
「限りなく滅亡にちかくなるじゃろうな。こう見えて、真の紋章ゆえにな」
「【罰の紋章】の暴走振りを見てたら、随分、分の悪い賭けだね」
「そなたとて【夜の紋章】を持っているではないか。期待しておるぞ」
「そんなこと言われたって、【夜】と【八房】って、あんまり関係ないんじゃないの?」
「そんなことはない。実際に【夜】よ【太陽】の絆を断ち切ったのをは【夜】だ。
 実際に【罰】が【夜】をそそのかしてから、【八房】はこの世の人間世界をじっくりと観察している。
 あながち無関係とはいえぬ」
「また【罰】か……。マクスウェル様って、本当についてないよね」
「【罰】は、マクスウェルのことをそうとう気に入っている。
 これから【罰】がマクスウェルをどうするつもりなのか、私にも分からぬ」
だが、とシメオンは言った。
「【八房】と【罰】は表裏一体だ。上手くいけば、マクスウェルも無事に助かる」
「そうであって欲しいけどね」
 突然、階段のうほうから声がしたので、全員の視線がそちらに向いていた。
 そこにマクスウェルの姿があった。
 もともと右肩を負傷していたが、なにがあったのか左肩も負傷を負っている。何かで刺された後のようだ。
「マクスウェル!」
 ポーラが大声で近づき、その傷を注意深く観察する。
 そして、自分の袖を破ると、マクスウェルの左肩と手の甲にしっかりと巻きつけた。
「アレほど無理をしてダメだと……」
ポーラの声は半分涙声となって、周囲に響いた。
「心配をかけてすまない。ただ、そのお蔭でグレアム・クレイを追いつめることができた。
 あの怪我なら、しばらく表には出てこないだろう」
「それはあなたも同じです!」
ポーラが真剣な表情でマクスウェルを見つめた。
「右肩も左腕も使いものにならないのに、表に出られるわけがないでしょう」
「……ごめん」
ポーラに謝っておいてから、マクスウェルは、巨大な女性の紋章を見上げた。
「次は、これか」
 その巨大な女性の顔は、ぎょろりとマクスウェルを見下ろした。マクスウェルも、剣呑な表情で見上げている。
 マクスウェルは、その表情に見覚えがあった。
 群島解放戦争で最後の最後に罰の紋章による一撃をエルイール要塞に加えたさい、自分の意識下に現れた女性だ。
 リノ・エン・クルデスは言っていた。自分の奥さんだ、と。
「間違いない、オベル王妃だ」
「なに?」
トロイが驚き、ジーンがため息をついた。
「しかし、オベル王妃は罰の紋章を使って行方不明になられたと聞いた。
 なぜ、ここに王妃がおられる?」
ジーンが肩をすくめる。
「それだけ、強烈に罰の紋章を待ち焦がれていたのよ。
 これはあくまで八房の心象が表面上に現れているだけ。
 罰を焦がれる気持ちが、もっとも罰の後悔の強い部分を形度って現れている。
 それが、すなわち【
今度は、クロデキルドが肩で息をしながら問う。
「その【
「【罰の紋章】の後悔、そして、【八房の紋章】の後悔。
 その最大にして中心のもの」
「ジーンさんの言い回しは、難しくてよく分かんない」
ミツバがため息をつくと、夜の紋章が言った。
「つまり、罰と八房が二人して「しなければよかった」と思っている最大の後悔だ」
「その後悔が、罰の紋章をオベル王妃に継承させたことだということか」
 わずかに、マクスウェルの左腕が光る。
 グレアム・クレイによって貫かれてしまったが、まだ紋章の意志は死んでいないようだ。
 もちろん、紋章が破壊されればその余波で国が一つ滅ぶだろうが。
 マクスウェルが、罰の紋章を起動させる。その左半身に、赤と黒のまだらの文様が浮き上がった。
 すると、八房の紋章――オベル王妃の瞳が金色に光る。そして、つねに怒りに満ちていた口が開いた。
「一人で来い、と言っているらしい」
マクスウェルが苦笑する。
「一人でいくのか? なにが起こるか分からぬぞ」
「だが、行かなきゃ行けないことは分かってる。
 大丈夫、無事に帰ってくるさ」
マクスウェルは、周囲の人物を見渡した。
「ポーラ、ミツバ、ジーンさん、シメオンさん、クロデキルド、トロイ提督、そしてキカさん。
 これまで本当にありがとう。きっと無事に帰ってくるよ。
 ヘルムートさんは残念だった。もし俺に何かあった場合は、トロイ提督を中心にオベリア・インティファーダを頼む。
 本当はクロデキルドに頼みたかったけど、帰るべき場所があるらしいから」
マクスウェルが微笑んで言うと、なぜか照れたようにクロデキルドが首筋をかいた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「マクスウェル、どうぞご無事で」
「君らしくない。もっと堂々と帰還を宣言したまえ」
クロデキルドのいいように、マクスウェルは苦笑した。
「それじゃあ、【必ず】帰ってくるよ」
 マクスウェルは、巨大な女性の顔の前に立つと、左手を差し出すと、その巨大な口の中に差し入れた。
 不思議なことに、マクスウェルが手を差し込むと、巨大な顔面は、それを歓迎するかのように口を大きく開けたのだ。
 マクスウェルもさすがに恐怖を感じているのか、そこからしばらく動きが止まったが、意を決してその中に入り込んでいった。
 トロイもキカもポーラも、それを見送るしかなかった。
 巨大な口に中は、さらに広大な空間だった。赤や黒、紫の霧のかかった広大な空間。円形の空間は、どこかで見たことのある空間にそっくりだった。
 そう、罰の紋章の記憶の空間にそっくりなのだ。マクスウェルは、ジーンに渡されたペンダントを握り締めた。
 イルヤ島から持ち帰ったトン単位の紋章のかけらを精錬したペンダントである。
 そして、それは始まった。
 空間の景色が変わったのだ。それまで赤と黒の霧がかかっていた空間の景色が、次々と景色を映し出すようになった。
 それも、ただの景色ではない。これまで【罰】が、そしておそらく【八房】を宿してきた者たちよる凄惨な殺人現場の景色だった。
 何十、何百、何千と、次々と再現されていく映像の連続。
 マクスウェルは、何度も吐気に襲われながらも目を離すことはなかった。
 自分が持っている【罰の紋章】の記憶から目を離すことはできなかったのだ。
 マクスウェルはただ無言で、凄惨な殺人現場の風景を見続けた。
 それは三時間ばかり続いただろうか。無論、体感時間である。本当にそれだけ立ったのかは分からない。
 情景は悲惨だった。無常にも身体ごと砕け散るもの、剣でバラバラにされるもの、そして空中に墨となって溶けきるもの。ありとあらゆる死に様がマクスウェルの目前で再現された。
 それでも、マクスウェルは目を閉じない。このうちいくつかは、自分が犯してしまった罪だからである。
「目を閉じないのですね、マクスウェル」
 どこからか声がした。女性の声だ。恐らく、八房の紋章の声だろう。
 罰の紋章の声とは対照的だった。
「自分の罪だからね。目は離さないさ」
「強いのですね」
「罰の紋章の悪趣味ぶりに散々悩まされた。すでに慣れている」
そこへ、目前に女性が現われた。美しい容姿をしているが、頭には円形の角が、手足の先が羊の手足になっている。キリルと行動をともにしていたはずのヨーンだった。
「ここは、八房の世界。現世と今世とを結ぶ彼岸の世界……」
「こちらの言葉を話せたんですね、ヨーン」
「私は異世界の産まれです。こちらの言葉なら話すことができます」
「異世界の言葉……」
 マクスウェルはふと疑問に当たった。ここは紋章の世界のはずだ。
 だが、ヨーンは異世界の言葉と言った。どういうことだ。
「どういうことです? 異世界と紋章の世界とは同じということですか」
ヨーンはしばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。
「剣と盾の涙より数千年、剣は涙を生み出し、盾は異世界を生み出した。
 それは似て批なるもの。剣は泣いて泣いて立ち直り、盾はこの世界で剣を待っている。
 よって、剣と盾が落ち合う事は二度とない。ぶつかり合うこともない」
「……【罰】が「剣と盾の真意を見た」と言ったのはそういうことだったのか。
 では、【罰】が【八房】を「姉上」と呼んだのはどういうことなのです?」
「文字通りの意味です。【夜】と【太陽】は表裏一体のように、【罰】と【八房】は表裏一体。
 もっとも、この頃【罰】は【罰】とはよばれていませんでしたが」
「【夜】をそそのかして【太陽】との絆を切らせた件ですね」
「そうです。アレ以来、この紋章は【罰】の名を冠し、許しと償いを司るようになりました」
(随分と皮肉な【許し】と【償い】だ)
「では質問の本質です。【罰】と【八房】は、俺になにをさせたくてここに呼んだのですか」
「こちらに来なさい、マクスウェル。あなたは【罰】の試練に充分に耐えました。
 これ以上の試練は、あなたにとって重大な苦痛となります。
 こちらの世界に来て、【罰】の代理となり、人間を見守る立場となるのです」
「……つまり、俺に神になれと?」
「そうではありません。真の紋章と同一化し、人間を永遠に見守れというのです」
「それを人間世界では「神となる」というのです。
 失礼ですがお断りします。俺には直接見守らなければならない仲間がいる。
【罰の紋章】は持っておきます。しかし、俺は人間世界で永遠に【罰】とともに隠れ住むつもりです」
「……そうですか。【八房】の意志、受け取ってもらえないのですね」
「俺の名はマクスウェル、人間・マクスウェルです」
「では少々強引ですが、こちらのいうことを聞いていただきます」
それは、神が人間を見下す瞬間に他ならなかった。
(初:16.10.05)
(改:16.10.18)
(改:16.10.24)