オベルでの変事は、ケイトを通じて八月の初めには無人島のマクスウェルの元にもたらされた。マクスウェルにもっとも衝撃を与えたのは、やはりフレア王女の新オベル艦隊指令就任だった。
フレア王女は、この発表がなされてから一度も戦艦に乗っていない、それどころか人前に現われていないにもかかわらず、最もオベル王国を震撼させている人物である。
セツがオベル王家を裏切り、そのオベル王家のフレアがセツの下につくという歪んだ人間関係は、一般人ですらこの事件の闇に鬱陶しさを感じざるを得ない。
今度こそ無人島南海での決着を考えていたマクスウェルは、事件の解決の難しさを天を仰いで空の向こうにいる何かに無言の文句を言わざるを得なかった。
「それにしても、フレア様と戦うのか……?」
これまで考えたこともない巨大な不安が、マクスウェルの胸を通り抜ける。
これまでどんなときでも、フレアは味方だった。
群島解放戦争で罰の紋章をオベルに持って帰ったときも、フレアだけは罰の紋章ではなくマクスウェルの体調を気遣った。リノ・エン・クルデスとの関係が悪化したときも、フレアは親身になってマクスウェルの味方をしてくれた。
そのフレア王女と戦わなくてはならないのだろうか。頭では分かっていても、感性では納得できない自分がいる。
戦わなくてはならないことは分かっている。こうまで事態が複雑になってた現在、もはや連合海軍と新オベル海軍との決着は避けられない。
恐らく、リノ・エン・クルデスが様々な策を弄してフレアの艦隊指揮官就任を妨害するに違いないが、それはすべて無駄に終わるだろう。
時の流れの中には、そういう一瞬があるのである。マクスウェルは様々な体験から、そういう「機微」について敏感になっていた。リノ・エン・クルデスの策は無駄に終わり、無人島沖で親子対決が実現するだろう。これは、なかば事実としてマクスウェルに受け入れられていた。
リノ・エン・クルデス対フレアの艦隊決戦!
なんという魅力ある響きだろうか。立場的にそれが許されないマクスウェルでさえ、その戦慄の響きの前に身震いせざるを得ぬ。
数々の武勲を立てたリノ・エン・クルデスの娘に、軍事的センスがないとは思えない。そして、フレアはリノ・エン・クルデスの秘蔵っ子とも言える存在である。その艦隊指揮の最初が、まさか父親戦になるとは!
無責任な軍事アナリストさえ、話の最初に絶句し、最後に絶句するだろう。関係者いわく「絶対に実現不可能なカード」が、皮肉にも敵の策謀として実現してしまうのだから、戦争というのは愚にもつかぬ存在なのだ。
ただの命の奪い合いだというのに、そこに魅力を感じてしまう一面が、確かにあるのだ。
(救われないな……)
マクスウェルはやりきれない気分で頭をかいたが、少なくともケイト・レポートに対する何らかの対策は立てておかねばならない。
マクスウェルは、クロデキルドが例の「魔法の暗号」を解いてくれたことで、なかば事件は解決したと思い込んでいた。力押しに攻め寄せて人質を開放すれば事件は終わると思っていたのだ。
ところが、その人質の一人が部屋を飛び出して艦隊の指揮を執るという。
マクスウェルは、オベル侵入戦でフレアと戦ったというポーラの意見を聞いた。
「わたしがオベル遺跡の入り口でフレア様に襲われたとき、こちらの言葉にフレア様は徹底して無反応でした。
詳細は伏せますが、あることで私たちは最近、かなり仲良くなっていたのです。その私の言葉が通じないということは、魔法か何かで強力に洗脳されていたと思われます」
では、その「魔法かなにか」とはなにか。マクスウェルは専門家であるジーン、シメオン、幼ビッキーの意見を聞いた。
「八房の紋章の眷族紋章ね。
正式なやり方で体内に宿すならともかく、イレギュラーなやり方で体内に埋め込まれた紋章は、通常よりも強烈な反作用を身体にもたらすの。
自意識の剥奪もその効果の一つよ。これはどの紋章でも起こりえる。実際に、物理的な手段で身体に紋章を宿したガイエンの公爵は、二人とも異能の能力を持ってしまったと聞いているわ」
「じゃあ、八房の眷族紋章で洗脳されたフレアさんを元に戻すことはできるのか?」
「夜の紋章なら、あるいは、可能じゃ」
シメオンが言う。
「酷だと思うが、ジュエルの時を思い出せ。
二つの眷族紋章を埋め込まれたジュエルを我に返したのは、夜の紋章の【因果】だ。
夜と太陽の絆を自ら切り裂いた【因果】が、【八房】と眷族、もしくは【罰】と眷族との絆を断ち切れば、眷族紋章の洗脳を打ち破ることもできよう」
「だが、夜の紋章は海を切り裂いたほどのパワーがある。ジュエルのときはたまたま空間を切り裂いたが、ミツバのパワーがフレアさんやリキエさんに当たったら、最悪の場合が起きかねないぞ」
マクスウェルの真剣な瞳に貫かれても、シメオンは両腕を広げて嘆息してみるしかない。
「その点は、ミツバを信じるしかない。前回は【絆】のある空間を上手く切り裂けた。次も上手くいくと信じるしかない。紋章術の研究家としては禁忌の言葉じゃがな」
(………………………)
マクスウェルが気難しく何かを考えたところで、自室にビッキーが入ってきた。
「マクスウェル君、一休みして紅茶にしようよ。ラインバッハさんの浣腸祝いで、エチエンヌさんがおいしい紅茶を淹れてくれたんだ」
「それを言うなら完治祝いではないかの?」
ビッキーはシメオンの訂正にもまるでひるまない。
「難しい顔してても、なにも解決しないよ? おいしいのも食べて、おいしいもの飲んで、健康的に生きましょう!」
言うだけ言って、ビッキーはマクスウェルの手をとると、そのまま部屋を飛び出してしまった。置き去りにされたシメオン、ジーンらは苦笑するしかない。
「やれやれ、彼女はいつも正しいな。不健康な面をここに並べていても、何も解決しないのは確かだ。ここはお言葉に甘えて、健康的な思考に入れ替えるとしよう」
どちらにしろ、フレアのニュースはミズキによって、光の速さでリノ・エン・クルデスにも知れるだろう。そのとき、リノがどのような反応を示すか、マクスウェルには自信がなかった。
怒りの権化、というのはこういう動きをするものだろうか。
ミズキからニュースを知らされた瞬間から、リノ・エン・クルデスは室内を無秩序に動き回り、怒りを込めた腕を振り上げては無作為に振り下ろす。
時折部下を呼んで槍と剣で剣武を演じてみたが、まるで物足りない。マクスウェルとフレア、トリスタンがいない今、彼の相手を務めることができるのはもはやミレイのみであったが、ミレイの専門は剣術と紋章術の複合戦闘であって、剣に限ればリノ・エン・クルデスの腕力にかかっては木っ端微塵になってしまうであろう。
マクスウェルが負傷し、フレアが誘拐され、トリスタンが永遠に失われてしまってから、ミレイはオベルを守る柱石であり、文字通りリノ・エン・クルデスの右腕であった。この世から失われてならぬ至宝となったのである。そんな彼女を失うわけにもいかず、リノ・エン・クルデスは悶々とした時間を過ごしていた。
「マクスウェル提督は、遺跡の謎を解くためにも、早期の艦隊決戦を望んでいるが、そのためには洗脳されたフレア王女と対決しなければならん。
これほど気の乗らない戦闘は初めてだ」
フレアの笑顔を知っているオルネラは、心底憂鬱そうな顔をした。こんなとき、気を使わぬ発言が多い弟のバスクの鷹揚さが、話を進めるのに役に立つ。
「オベル王よ、そも、フレア王女の指揮官としての能力はいかほどなのです」
彼でなければ、リノ・エン・クルデスの一喝で気死してしまいそうな質問だが、リノ・エン・クルデスはぎょろりとバスクを睨みつけながら答える。
「俺の娘には、艦隊戦のいろはを一から教えてある。できるだけ犠牲を出さない戦い方をだ。
マクスウェルほど自由自在ではないが、粘りのある戦いをするタイプだな」
リノ・エン・クルデスの話しようから、ケネスはフレアの戦法を、犠牲を出さずに時間一杯粘って、相手の疲労したところを一気に襲い掛かるタイプと見た。
長期決戦をしたくないところでこの相手は、最悪の組み合わせと言えなくもない。
「しかし、まだ答えが出たわけじゃありませんわ。
フレア王女が相手とならぬように、色々と仕掛けていきましょう。
例えば、艦隊戦をするぞと見せかけておいて、先にマクスウェルたちに侵入してもらうとか……」
「なるほど、前回の作戦を前後逆に行うわけだな。
これは意表をつけるかも知れぬ」
カタリナが言うと、リノ・エン・クルデスは興味深そうにリーダーを見る。
だが、その答えは意外なところから響いた。
会議室の扉が無作法に明けられたかと思うと、これまた無作法に酒焼けした声が響いたのだ。
「そんなにうまくいくかねえ?」
「お師匠様!」
ついターニャが叫んだ。エレノア・シルバーバーグである。
国境地帯とガイエンでの仕事を終え、ラズリルを訪れたのであった。
「どういうことだ、エレノア」
この軍師は突然現われたりするので、今さらリノ・エン・クルデスは驚かない。
ただ、軍師の言い方に引っかかりを感じた。この軍師は、戦略はともかく、戦術は攻撃に傾いたので、今回も短期の艦隊決戦を挑むのではないかと思われた。
ターニャが、師の側に走り拠る。
「まず、ラインバッハ二世がなぜフレア王女を艦隊指揮官に任命したか、そこから考えなきゃならないね。
それは、「捕らえてある人質をまとめて救出されちゃかなわない」からさ。
そこで、一人はその存在を公開し、あえて海に「追いやる」ことで、三人同時に救出される愚を犯すのを防ぐためだ。
だが、そこからわかることもある」
「それは?」
「人質の洗脳が、三人同じ方法で解けるってことさ。
だから、ラインバッハ二世は三人をバラバラに置くことで、それを防ごうとした。
おそらくリキエに軍人としての能力があれば、リキエに指揮官を任せただろうね。
たまたまフレア王女に軍人としての才能があり、たまたまそちらのほうが民衆に対してインパクトがあった。それだけの話さ」
「…………………」
「だから、オベリア・インティファーダがオベル島に侵入することはかまわない。
だが、そのときフレア王女は地上にはいないだろう。
どちらにしろ、艦隊戦は行わなければならないというシナリオなのさ」
リノ・エン・クルデスは顎の下で手を組み、人差し指をタップさせる。
この軍師はさすがであった。ずっと海外にいたにもかかわらず、情報を総てつかみ、総合的に租借している。
いったい、どのような人生を送ればこのようなことが可能なのか、リノ・エン・クルデスといえど自信はない。
「では、前回と同じ作戦でなければならないのですか?
敵艦隊をひきつけ、その間にオベリア・インティファーダが浸入する?」
「いや、それでは地下の人質の洗脳が解けても、フレア王女の洗脳が解けない。
もしくはその逆もありえる。どちらにしろ、鍵を握るのはマクスウェルということだが……」
ミレイとケネスが言い合いながら、自己の考えに没頭する中、オルネラが言った。
「ならば、こういう方法はどうだ。まず艦隊戦で相手に一撃を与えておき、フレア王女を捕らえておく。
そして、マクスウェル提督らが地下に到達するときに、彼女も連れて行くのだ。
これなら三人同時に洗脳が解ける可能性が高い」
「だが、失敗すればフレア、リキエ、リタの三人を同時に相手にせねばならぬ。
どちらにしろ、その作戦に賭けるしかないか……」
オルネラとリノ・エン・クルデスのやり取りと聞き、エレノアはニヤリと笑った。
(初:16.10.04)