クォ・ヴァディス 105

17-7

 同日の晩、マクスウェルは、オベルに陣取るラインバッハ二世の真似をしたわけではないが、幾つかの問題を抱えて眉間を指で押さえた。
 この日、マクスウェルの護衛の一人であるポーラが朝から体調を崩し、自室に引きこもっていた。ベッドに横になったまま笑顔でマクスウェルに「心配はない」と繰り返したが、その笑顔の弱々しさが、逆に心配させる。
 また、このポーラの元にジーンと幼ビッキーが長い時間をかけて見舞っていたのも気になった。ひょっとしたら、ポーラは何か自分に隠し事をしているのではないか。この時点ではまだ「いやな予感」にすぎなかったが、マクスウェルの予感は当たっていた。
 ポーラが自ら望んで宿した八房の眷族紋章の一つ「五鬼の紋章」が、ポーラの中で活発に動き出していたのである。
 これまでも、宿主に対して過去の幻を見せることはあったが、それはポーラでも耐えられる程度のものだった。だが、その「幻」がこの日、急に質量供にこれまでとは比べ物にならないほどの速度でポーラの思考を支配したのである。
 数々の戦場を渡り歩いてきた経験のあるポーラであるが、人殺しの経験は多くはない。そのポーラに、ひどく鮮明で、ひどく残虐な幻が、大量に見せ付けられた。ポーラがそれに耐えられず、ついに今朝倒れてしまったのである。
 ポーラはなんとか意識を保っていたが、見舞いに訪れたタルやケネス、フレアやミレイにも多くを語らず、紋章の専門家であるジーンに理由を話すと、ゆっくりと眠りについたのだった。

「むしろ覚醒が遅すぎた、といえるかもしれないわね」

「じゃろうな、ポーラは良く耐えたものじゃ。
 この戦闘に他の眷属が関わっていないとも思えぬ。
 この戦い、近いうちに大きく動くぞ」

 ポーラの部屋から帰る途中、ジーンと幼ビッキーが物騒な話をしている。
 そしてちょうどそのとき、マクスウェルの窓ガラスがコンコンと叩かれた。
 マクスウェルの周りの人間で、このような出入りの仕方をする人間はいない。
 マクスウェルが急いで窓を開けると、一羽の鳩が入ってきて、マクスウェルの仕事机のわきに泊まった。ナセル鳥だ。脚に手紙がくくりつけてあることを思えば、ガイエンのアンリからかもしれない。
 そうして、手紙を解き、それを読み込み、マクスウェルはますます難しい顔をした。
 しばらく難しい顔をしてから、マクスウェルは自分の部屋にアグネスを呼んだ。彼女の表情にも疲労の色が濃い。
 オベルにひきこもって出てこないラインバッハ二世とグレアム・クレイをなんとか引き釣り出そうと、躍起になって策を練り続けている。リノ・エン・クルデスがラインバッハ二世にあてた恫喝の手紙も、もとはアグネスの案である。
 もっとも、その恫喝も、グレアム・クレイに見透かされてしまったわけだが……。

「アグネス、参りました」

 それでもすっきりと背筋を伸ばして表情を引き締めたのは、自分は英雄の軍師である、という意識が徐々に芽生えているのかもしれない。
 マクスウェルは、アグネスを見ると、いきなりこんなことを言った。

「アグネス、ここでの会話は絶対に誰にも口外しないと約束できるか?」

 マクスウェルの表情が真剣そのものなので、思わずアグネスの口元に力が入る。
 どのような話なのかは分からないが、マクスウェルがそこまで言うということはただ事ではないのだろう。
 自分は軍師として信頼されているからこその、この言い様なのかもしれない。
 少しおっかなびっくりしながらも、アグネスは頷いた。
 それを見て、マクスウェルはアグネスを自分のテーブルの側まで呼び寄せて、小声でとんでもないことを言った。

「アグネス、俺はこの戦、一度引揚げるべきだと思う」

「……なんですって?」

 アグネスの声に、驚嘆と、呆れと、少しの怒りと、様々な成分が混じった。
 ここへきて、戦から引揚げる?
 なんのために自分やターニャが策を考え続けているのか。
 なんのために、連合海軍が死者を出すほど苛烈な訓練を重ねてきたのか。
 まったく意味がなくなってしまうではないか。

「これについて、君の意見を聞きた……」

「反対です。これ以上の表現が許されるなら「大反対」です。
 どうしていまになって、戦から引揚げるんですか?
 急に弱気の虫でも出たんですか?
 そもそも、今さらリノ・エン・クルデス陛下やカタリナ騎士団長を納得させられるとでもお思いですか」

 マクスウェルのテーブルを殴らんばかりの勢いで、アグネスがまくしたてた。
 しばらく口を出せないほどの勢いでアグネスがまくしたてた。マクスウェルは苦笑するしかない。
 まくしたてまくって少しは落ち着いたのか、アグネスが黙ったので、マクスウェルはやっと口を開いた。

「大事な話がある。ガイエンのオリゾンテに、エレノアが現われたらしい」

「エレノア様が!?」

 前に出ようとするアグネスを抑え、マクスウェルは話を続けた。

「エレノアによれば、ヤンセンにかわってラインバッハ二世一派の艦隊の指揮を執るオルグレンは慎重な男で、少々の挑発にはのってはこないだろうと。
 また、当然クレイもこちらの策を読んでいるだろうから、余計に慎重になるだろう……ということだ」

「エレノア様が……」

「このままここで持久戦を続けても構わないが、そうなると本拠地のあるラインバッハ二世や俺たちはいいが、本拠地の遠い連合海軍に何ヶ月、場合によっては年単位でここで居候してもらわなければならない事態になる。
 この無人島は大きな島とはいえ、連合海軍を何年も食わせる物資があるわけじゃない」

「だから、いったん引揚げてもらう、と?」

 こくん、とマクスウェルは頷いた。

「オベリア・インティファーダの今後の基本戦略としては、ラズリルにある連合海軍の目として、オベルを監視すること、少しでも動きがあればすぐさま戦闘に入れるように伝達する」

 マクスウェルの言葉を聴いても、やはり納得しきれないのだろう。
 アグネスが膝の上で拳を振るわせた。

「やはり……やはり私は反対です。
 いまここで手を引いてしまっては、何のために無人島を占拠したのか、何のために連合海軍と合同演習を繰り返してきたのか。
 次の……この戦のためじゃないですか」

 アグネスの言葉が震えている。

「やっぱり、エレノア様はすごいです。群島から遠く離れているのに、状況を正確に分析しています。
 きっと、エレノア様の仰ることは全て正しいのでしょう。間違いはないのだと思います。
 でも! じゃあここで戦いをするために苦労している私たちはなんなんですか!?
 エレノア様はまるでボードゲームの駒のように私たちも、ラインバッハ二世も、クレイでさえも動きを読める。でも、実際に命をかけて戦うのは私たちなんですよ!
 私たちは道具じゃない! 駒じゃない! 命ある一人ひとりの人間なんです。
 マクスウェル様は、遠くから傍観している人間と、その場で知力の限りを尽くす人間と、どちらを信頼されるんですか!?」

 アグネスが涙声でマクスウェルにつっかかる。
 自分はこれまで、この戦いのために全知全能をかたむけてきた。
 たとえそれがエレノアの指令が下地にあったとはいえ、産まれて初めて軍師として活躍してきたのだ。
 マクスウェルも、そのことは認めてくれていると思っていた。
 それが、遠くから傍観している人間の一言で、全てがストップさせられる。
 アグネスとしては、自分のこれまでの全知全能が、全否定された瞬間でもあったのだ。
 悔しいというよりも、情けないという思いが強かった。

「アグネス……」

 アグネスの勢いをマクスウェルがなだめようとした瞬間。
 部屋の外で大きな音がたった。まるで巨大な爬虫類の鳴声のような音と、大勢の人間の怒声が響き渡ったのである。

17-8

 なにごとかとマクスウェルとアグネスが外に出た。
 今まさに、驚くべき瞬間が展開されていた。見るのも恐ろしい、巨大なドラゴンのスケルトンが大きく翼を広げ、周囲の【オベリア・インティファーダ】のメンバーを威嚇している。
 生命力を失ってもその迫力はさすがにドラゴン族であり、刀を抜く者、槍をしごく者など、いざというときのためにここを決戦にしてもこの邪悪なモンスターを塵に変える覚悟だったに違いない。
 実際、ドラゴンは天空に向けて骨のきしむような妙な鳴声をあげ、大きく翼を広げると、そのまま丸まって落ち着いてしまった。
 戦意はない、といういことだろうか? だが、次の瞬間、これをドラゴンの背中の上から傍観していた者の暢気な声が、あたりに響いた。

「おや、過去ここのメンバーは、私と見れば血の気が多くて襲い掛かってきたもんだが、今日は様子見かい?」

 マクスウェルが、そして何人かのメンバーがその声に気づいた。その視線の先に見えるは、銀髪の紋章術士である。
 最初に激発したのは、やはりこの女に最も因縁のあるエルフのリシリアだった。

「やい、悪者! こりもせずに、今度は何をしにきた!
 今度はマクスウェルの誘拐にでもきたのか!」

これには、マキシンが高笑いして答えた。

「マクスウェルの誘拐か。悪い案じゃないし、罰の紋章の力はぜひとも手に入れたいが、お誘いして、お断りされて、罰の紋章で塵に変えられちゃ、意味がないからネェ」

 カラカラと、この女魔術師はドラゴンの上で笑っている。
 周囲の喧騒においていかれかけたトラヴィスが、マキシンの力の源を看破する。
 あれは間違いなく、自分がオベル遺跡で身に宿した、大量のスケルトンを使役することのできる紋章に違いない。
 自分はオベル遺跡で数千のスケルトンを操ったが、マキシンは、スケルトンを駆って空中戦・魔法戦に特化した道を選んだのだろうか。

 シメオンが、歯軋りをせんがごとき勢いで叫ぶ。

「マキシン! そなたよくもそこまで何度も力を乗り換えては、莫大な魔力を己のために使うつもりか!
 答えよ! 貴様の紋章術士としてのゴールはどこにあるのか!」

「愚問だね。紋章術士ならば、最終目標は無論、最強無敵の自分自身になることだ。
 最強の仲間たちに担ぎ上げられた空想の「最強」とやらに興味はない。
 私はただ、自分への福祉のためにここにいる!」

 そこまで叫んだことが、周囲の戦意を煽ってしまったことに気づいてしまったのか、マキシンは、どっかと腰をおろした。
 その視線の先に、目的の男を見出したのだ。

 マクスウェルだった。

「いよう、マクスウェル」

 これまでの戦歴を考えれば、場違いなほど明るい声で、マキシンはマクスウェルに語りかける。

「使者の護衛がドラゴンの上で寝そべっていては、無作法だな」

 などと勝手なことを言いつつ、自分はドラゴンの背中から着地した。やはり風を調節して居るのだろう、ふわりと地面に降り立つ。
 そしてその瞬間、わずかな力を感じ取って、目元に力をためるとマキシンは周囲を睥睨した。
 そして、一人の少女に目を留めた。

(なるほど、今「第五」の眷属を持っているのはあのエルフか。
 近いうちに、取り返させてもらおうかね)

 フフ、と小さく笑ったマキシンに、怪しみながらもマクスウェルが問う。

「今夜の来訪は何事だ。多対一で戦うことでもないようだし、用件を聞こう」

 さすがに、マクスウェルの声は凛としていて、周囲の喧騒をいくらかは押さえるのに役立ったようだが、マキシンの余裕の笑みを消すことはできなかった。
 マキシンは不思議な行動をとった。深呼吸をすると、大きく自分の黒いマントを羽ばたかせたのである。
 一瞬、何事か起こったか誰にもわからなかったが、時間が一秒たつごとに、その理解は一秒ました。
 マキシンが羽ばたかせたマントの供に、全身黒いフードに包み込まれた「人間」が、ぼうっと浮き出たのである。闇から浮き出た、そうとしか表現できぬような出現の仕方だった。

 使者は一言も喋らない。ただ、ぼうっと突っ立っているだけである。

「こいつがラインバッハ二世の使者だとさ。どこで会うかは任せるが、手早く済ませてくれ」

 余裕を持ってそう叫びつつ、マキシンは再びドラゴンスケルトンにのりこみ、足元の人間たちを睥睨している。
 マクスウェルは、鷹揚にも自室に使者を招いた。無論、一対一というわけではない。ポーラ、ラインバッハ、アカギ、ミズキ、タル、ヘルムート、ジーン、幼ビッキー、クロデキルド、シメオンというオールスターメンバーが、その会談を見守ることになっている。

 果たして、この会談にどんな意味があるのか、マクスウェルは悪い予感しかもてないている。

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(初:16.09.20)