さて、オベルにあるラインバッハ二世は、平静とは言いづらい毎日を送っている。
というのも、リノ・エン・クルデスら連合海軍が、エックス商会の商船を大量に拿捕しはじめたからだ。
政治的には北方との関係を絶ち、南のファレナ女王国との関係を強化しているとはいえ、商売となるとまた話は別である。
ラインバッハ二世は、群島の商売競争でチープー商会に敗れ去ったエックス商会を買い取り、自分の名が表に出ぬように、商会を隠れ蓑に戦地の商売を独占している。
勘のいい商人たちは、エックス商会の後ろにいるのがラインバッハ二世だと感づいているが、全ての人間がその真相に到達できるわけでもなく、実際に、現在オベル王国において商売で一人勝ちしているのはエックス商会であって、群島のその他の地域の売り上げと比較すると、実はチープー商会ともいい勝負をしていた。
エックス商会の商売の基本はひたすら市場の研究に拠る。どこで高く売れる物資がどこで安く売っているかを徹底的に研究し、大量に購入し、大量に売りさばく。
こうしていくことで、オベルで大量に仕入れた物品を、他国で安く大量に売ることができるのだ。
ラインバッハ二世は、占領地であるオベルの商人に対し、強行的な政略に出たりはしなかった。出した布告は二つだけだ。
1、誰に対しても不当な理由で不買行為を行わないこと。2、不当な理由で商品の価格を吊り上げないこと。
もっとも、この「誰」というのがエックス商会でことであるのは、誰の目から見ても明らかだった。
さて、こうして、エックス商会を隠れ蓑に、群島各地、ガイエン公国、そしてファレナ地方で莫大な利益をあげているはずのラインバッハ二世は、ここ二日ほど、目元に皺を寄せて眠れぬ日々を送っている。
七月七日、リノ・エン・クルデスの名で、オベル王国に対し手紙が来たのだ。
オベル連合海軍はセツの新国王戴冠を認めず、ラインバッハ二世は不当に監禁しているセツのほか人質を無条件解放するように、と恫喝して居るが、ここまではいつものことだ。
問題はここからだった。連合海軍は、対抗措置としてエックス商会の商船を拿捕し、その商売活動を禁止した、というのである。そして七月七日現在、その数は二十七隻に及んでいるという。
そして、エックス商会の商船を解放したいのであれば、すぐにでも決戦して雌雄を決するべし、とあった。
ラインバッハ二世の資金源は、最大のものはエックス商会である。これが敵方に禁止され貿易が途絶えてしまうと、彼の財布はいつかは空になってしまうだろう。
実際のところ、艦隊の維持も、遺跡の発掘も、莫大な資金がかかる。それを事実上ラインバッハ二世が個人でまかなっているのだから、なくなるのもあっという間だろう。
もちろん、エックス商会の商船は二十七隻で全てではないから、彼は数日で破産することはないが、心配事がなくならないのは確かだった。
ラインバッハ二世は、軍事担当のグレアム・クレイにこのことを相談してみた。
自分のオフィスにクレイを呼び寄せ、意見を聞いてみる。
クレイも自分の仕事があり、暇ではないところを呼び出されたのだが、それに対しては文句は言わなかった。
「クレイ殿、リノ・エン・クルデスは早く決戦して雌雄を決しようと言っている。
ここは我々も、艦隊を出して早いうちに後顧の憂いを取り除いてしまえばよいのではないか。
いまならまだ、拿捕された商船は微々たる数だが、これが増えてくると後々、我々が苦しくなる」
汗をかき切羽詰ったラインバッハ二世の顔を見て、静かにグレアム・クレイはハンカチを差し出した。
ラインバッハ二世は良くも悪くも人よりも将来が見えてしまうため、最悪の状況を予想しているのだろう。
クレイは、いつもの薄ら笑いを表情に浮かべたまま言った。
「商会の船を拿捕したいのなら、拿捕させてやればよいではないですか」
「なに?」
思わず身を乗り出すラインバッハ二世をなだめておいて、クレイは言う。
「これまでに拿捕された商会の船は、全体から見て四分の一。
なるほど、商売規模が小さくはなりますが、ご領主様がこれまでにためこまれた資金はすぐには尽きません。
それに、彼らが拿捕できる商会の船は、群島地方で商売にあたっているものに限られます。いくら彼らでも、ファレナ地方にまで足を伸ばして、そこで商会の船を拿捕するわけにはまいりますまい」
「う、うむ……」
大きな腹と金髪の縦ロールの髪を揺らし、いくらか落ち着いたのか、ラインバッハ二世はクレイの話をおとなしく聞いている。
「それに、最も金のかかるのはなんといっても戦闘です。
リノ・エン・クルデスが早期決戦を考えているのも、彼等の資金が底なしではないからに他なりません。
また、彼らは軍をラズリルから遠く離れた無人島に駐留させていると情報を得ております。艦隊維持費、人件費、食費、諸経費、等々、馬鹿にならぬ資金が飛んでいくはずです。拿捕した船員の食費もかかりましょう。
そこで、こちらは我慢するのです。一時的に商売規模が小さくなろうとも、無駄な金銭は一切出さぬことです。どのような挑発にも乗らず、軍を動かさず、篭城をきめこむのです」
「ふむ……」
すっかり落ち着きを取り戻したラインバッハ二世は、グレアム・クレイの言葉の裏に、看過しきれぬ内容を感じ取っている。
「気のせいかな、クレイ殿。
私には、君がこの機に乗じて「金銭を用いずに」一気に事件を進めてみせる、とい言っているように聞こえる」
「ほう」
そこは、クレイは素直に敬意をあらわして一礼した。
「どうやら、落ち着きを取り戻されたようですな」
ふふん、と長い髪を風になびかせて、ラインバッハ二世は笑ったが、それも一瞬のことだった。
「金銭は使わぬ、艦隊は動かさぬ。さて、どうするおつもりかな?」
「ご領主殿、捕らえてある【姫】のうち、使える者は何人いますか」
「それは今すぐに動かせる、という意味かな?」
「はい」
「すぐに使えるのは一人だな。
残りの二人は、紋章との関係を熟成させるためにいまだ時間が必要だ。
気楽にすぐにすぐ使えると思っていたわけではないが……。
それで、その【姫】をどうしようというのだね」
クレイは薄い笑いを顔に張りつけたまま、指でテーブルをタップしている。
そして少し考えるような仕草をした。
「リノ・エン・クルデスの要求の大なるものの一つは、人質の返還です。
ならば、その人質、彼らが拿捕してあるエックス商会の商船と交換ということで、返還してみてはいかがです?」
ラインバッハ二世にとって、切り札の一つである人質。これを、クレイは返還しろ、という。
本来なら政治的な道具の一つがなくなってしまうこともあり、迷うべきことではあるが、ラインバッハ二世はそうはしなかった。
「ふむ、ここらでひとつ、
だが、監視役が必要であろう。リノ・エン・クルデスが強引な手段に出ないとも限らぬ」
「それは考えてあります。あの女性魔術師に頼みましょう。
ケイトがガイエンから帰国していない以上、彼女以上に腕の立つ者はいません」
「マキシンか……」
長身の女魔術師の姿を思い出して、ラインバッハ二世は目元を厳しくした。
確かに腕は立つ。だが、自分の目的のために勝手に動く傾向のあるこの魔術師を、ラインバッハ二世は信頼しきれずにいる。
現にいまも、彼が集めている「八房の紋章」の眷属の紋章を勝手にトラヴィスから奪い、勝手に自分に宿してしまった。
確かにそれで強力な戦力の一人になりえたことは違いないが、ラインバッハ二世がマキシンに期待しているのは、眷族の紋章を持って帰ってくることであって、使いこなして見せることではないのだ。
「あの女も、いつかは眷属紋章のかわりに、なにか別のもを与えて放り出すのが得策かも知れんな。
いつまでも眷属紋章を独占されては、こちらの目的に支障が出る」
ふふ、とクレイが笑う。
「力を持つ、ということも大変ですな。
ロジェからの報告では、マキシンは眷属の紋章を完全に使いこなし、恐るべき魔術を連発して敵を追いつめたそうです。
そこまで紋章術の秘めた力を知ったマキシンが、果たして別のもので納得して退散いたしますかな」
今度はラインバッハ二世が両手を広げて苦笑した。
「なんなら、自分以上の相手を戦わせてやってもよい。
ケイトとかいったか、あの忍びならば、マキシンと互角に戦うことができるだろう。
戦闘狂の戦闘狂たる由縁を果たさしてやろうというのだから、これ以上の好意はないと思うがね」
結局のところ、ラインバッハ二世にとってもっとも信頼すべきは、金銭になびいて、しかもそれなりの力の持ち主、ということなのだろう。
契約書こそが彼の唯一のバイブルであったし、契約書にされたサインこそ、彼の最も信頼する文言であったのだから。
グレアム・クレイも、エレノア・シルバーバーグの弟子だけあってか、連合海軍についた二人の兄弟弟子と同じ読みをしていた。
つまり
最初は、相手の思惑にのるかたちでそこまで出て行き、正面から戦って、途中で逆転の策を弄するのも面白かろうと思っていた。
だが、連合海軍にはマクスウェルがいる可能性が高い。今度、罰の紋章を使われると、いくらオベル島が罰の紋章をはじく天然の盾だといっても、その裏側で戦うのだから全く盾の意味を成さない。
決して互いを尊敬しているわけではないが、ラインバッハ二世もグレアム・クレイも、兵士や戦艦が、いくらでも自然に湧き出る無限の資源だとは思っていなかった。その一点において、二人の考えは一致している。
それなのに、わざわざ相手の思惑に乗って出て行って、罰の紋章で全滅させられては、意味がない。世の中の物笑いの種になるだけであろう。
司令官をヤンセンからオルグレンに変更したことは、今回は成功しそうだった。リノ・エン・クルデスが挑発的な手紙を送ってくるのも、自分たちがここにいる限り、手の出しようがないからである。
だが、グレアム・クレイもこのままこの戦闘のチャンスをやり過ごすつもりはない。
相手が動けないならば、自分から動いてみればよい。戦闘は、すでに
では、その話題にされたマキシンはどこのいたのかというと、オベル王宮の裏庭にいた。
時間は昼間だが、誰もマキシンに近づこうとはしない。
いや、マキシンがベッド代わりに寝そべっているものに近づこうとはしなかった。
それは、巨大な翼竜の姿をしていた。翼を広げれば十二〜十三メートルはあろうか。
だが、それは普通のドラゴンではなかった。肉も内臓も削げ落ち、骨しか残っていなかった。ドラゴンスケルトン、という一種のアンデッドであった。
ドラゴンスケルトンは、まるでマキシンのペットであるかのように、おとなしく彼女の元で翼を休め、暴れる様子もない。
マキシンはその背中に寝そべり、午睡を楽しんでいるようである。
これが、マキシンがトラヴィスから奪った紋章の力だった。
トラヴィスは紋章の力とダンジョンに蓄積された魔力で数千のアンデッドを操って見せたが、マキシンはそこまでする気はない。
マキシンがほしがったのは、力の小さな数千ではなく、強力な力を持った一つであった。
できれば本物のドラゴンというものを操ってみたかったが、この紋章ではアンデッドしか操れないようなので、そこは妥協した。
そこで、ダンジョンの魔力を借りることなく自分の魔力の半分程度を使って呼び出せるものは何かと試したところ、このドラゴンスケルトンが該当したのである。
(ラインバッハ二世は、海に巨大なペットを飼うことを好むというが、こうしていればその気持ちもわからんこともないな)
強力なモンスターを我が手足のように使うのも、魔術師の究極の目標の一つだ。
それを考えれば、最高レベルの召喚術士であったウォーロックが、異世界から巨大樹を召喚したことは、世界中の魔術師を驚愕させ、その余波は今でも続いている。
その魔力の限界の推定、邪な破壊樹を召喚したことの是非、様々な事柄が、議論の元となった。
もっとも、マキシンはそんな議論には興味はない。彼女はただ、自分のために力がほしかった。
(もうちょっと待ってなよ、リシリア、ミツバ、ジーン。
あんたたちは、焼き殺して、叩き壊して、すりつぶして、跡形もなくミンチにしてやる。
あと少し、あと少しだ……)
ねそべったまま右手を空に突き上げると、マキシンはそれをぎゅっと握り締めた。
ここには存在しないなにかが、絶命したような感触がした。
(初:16.09.20)